第42話
ホールの中央に近づくにつれ、緊張のせいか視界が鮮明になっていく。見知った生徒たちの興味深そうな顔、あまり関わりのない生徒たちもこちらに注目して、それを意識した瞬間、耳が、目が、五感全てが研ぎ澄まされたような感覚がイザベラの背筋を伝った。
繋いだ手が燃えるような熱を持っている。
繊細な旋律がピタリと止み、一瞬の静寂の後、───最後のワルツが始まった。
目の前の王子は繊細な手つきでイザベラの腰に手を当て、密着したままゆっくりと踊り出す。
ダンスと言うよりも、まるで静かな湖面に揺蕩う葉のようだ。周りの男女をそっと伺えば、皆お互いのパートナーと見つめ合いながら最後のダンスを楽しんでいた。
「今すぐ帰りたそうな顔してるね」
聞き間違いかと思って、イザベラは真顔でクラウスを見返した。
「当たった?」
吐息を零して、彼はおかしそうに笑う。
「あなたの考えていることが、少しだけ分かるようになってきた気がする」
冗談めいた口調でそう言われて、イザベラの中に妙な反発心が生まれた。
「…そんなの、あなたに分かるわけないわ」
心の中でそう思ったら無意識にそのまま口に出していて、ハタと我に返る。
そろりと見返したクラウスの顔は、笑みを潜めてただじっとこちらを見下ろしていた。
その神聖な金色を直視して、喉の奥が強張る。
「……続けて」
静かな声が落とされて、美しい黄金がゆっくりと細まった。
「わたし、は」
震える喉から絞り出した声には、怯えが滲んでいた。
身体がくるりと緩やかに回転して、シャンデリアの光が目に眩む。
「私は、………あなたが分かりませんわ」
「それは、どう言う意味?」
優しげな声に誘導されるように、イザベラの唇から言葉が滑り出す。
「どうして…あなたがこんなに急に変わってしまったのか、私には不思議で仕方がありません」
雑踏にかき消されそうなほど密やかな声色で、それでもその声を聞き逃さないくらいに2人の距離は近い。
「不思議、かな」
イザベラの背中にあるクラウスの手に、僅かな力が入った。
「ええ。だって、あなたは私になんて興味がないはずですもの」
鋭い棘がびっしりと生えた舌が、イザベラ自身も傷つける。イザベラは空気を求めるように薄く唇を開いた。
「驚いたな、それをあなたが言うのか」
はっと吹き出したクラウスは、おかしげに下を向いてクックと笑う。
何がおかしいのかと怪訝そうな顔をするイザベラに、気を取り直したようにクラウスは咳払いをした。
「そうだね、確かに、あなたは急に感じるのかもしれないが、───実を言うと僕にとってはそうでもない」
「え……?」
意味が分からずクラウスを見上げれば、少し申し訳なさそうにしているその顔と目が合う。
「ごめん。あなたに気付かれてはいけないと、ずっと思っていたから…その必要が無くなった今、……自制が利かなくて」
とろけるような甘い声が間近で囁かれて、イザベラは思わずビクリと身じろいだ。
見上げれば、蜂蜜のように黄金色にトロリと輝く彼の瞳がイザベラだけを見つめている。
けれど、せっかくの美しい瞳が、おぞましい血の色にじわり、じわりと侵食されていた。
それを見ると言葉に出来ない悲しみが一瞬にしてイザベラを襲い、ダンスの最中だと言うのに堪えきれず視線を下ろしてしまう。
けれど、クラウスはイザベラが視線をそらすことを、いつものように許してはくれなかった。
「目をそらさないでくれ」
懇願するような口調でそう囁いて、繋いでいた方の手が解かれた。その手がイザベラの頬を包み、そっと持ち上げる。
クラウスは傷ついたような顔をして、辛そうにイザベラの目を覗き込んでいた。
ふと、イザベラはその時気がついた。
目をそらした後の、クラウスの反応をイザベラは知らない。
「いつも、君は僕の視線から逃げ出すね。そんなに、僕の目が嫌い?」
問いかける声に、イザベラはその赤い瞳を大きく見開いた。
「何を、おっしゃっているの?」
見当違いもいいところだ。そんな美しい瞳を持っていながら、ふざけたことを言うクラウスにイザベラは目尻をつり上げた。
「嫌われているのは私の目の方ですわ、昔から“魔女のようだ”と評判ですから」
昔から、と口に出すと、幼い少女が泣きながらうずくまっている光景がまぶたの裏に現れる。
それをかき消すようにグッと目を閉じた。
「…私のこのおぞましい赤い目が、あなたの美しい瞳に映り込むなんて、……その黄金の神聖さを汚してしまいそうですもの」
皮肉げにそう呟いて、イザベラは悲しげに瞳を揺らした。しかし次の瞬間には気丈な姿で緩やかなクラウスのエスコートに答えて踊る。
コップの水は膨れ上がったまま、今にも壊れそうで、その表面は危うげに光っているだろう。
もう限界が来ていることを感じて、イザベラは早くこのワルツが終わることを切に願った。
早く、部屋に戻って、クローゼットを開けて、心の余裕を取り戻さなければ自分が保てない。
ただでさえ既に言うつもりも無かったことをぽとぽとと零してしまっているのに。
「あなたの、目?」
まるで思ってもみなかったと言うような顔をして、クラウスは目を瞬いた。
「なんだ、僕の目が嫌いなんじゃないのか」
吐息と共に吐き出されたその声には、どこか安堵が宿っている。
「僕はあなたのその瞳を、美しいと思うが……ああでも家族全員にセンスが悪いって言われてる僕が言っても説得力ないかな」
自虐的にそう言って、クラウスは笑った。
皆が怖がるこの赤い瞳に対して信じがたいことを告げられて、イザベラはポカンとしながらその顔を見返した。
その視線を受けて、クラウスは秘密を打ち明けるようにこっそりと囁く。
「実は、僕は幼い頃からずっと自分の目が嫌いだったんだ」
目を伏せて、憂いを帯びたその表情が、イザベラの記憶の蓋をカタリと押し上げる。
「みんな僕を神聖だとか、なんだか崇高なもののように例えて褒めてくれるけど、そう言われるたびどこか冷めて行く自分がいた」
悲しげなクラウスの顔が、幼い少年の横顔と重なる。
「でも……あなたと出会ってからは、そうは思わなくなったよ」
そう言うとクラウスは微かに目を細めて眩しそうにイザベラを見つめた。
「あなたは知らないだろうが、こうやってパーティーがある度、何食わぬ顔であなたを象徴する赤一色のドレスを贈りながら……本当は心の中でずっと優越感を感じてた」
そこまで告げて、クラウスは困惑するイザベラの髪を一房掬い上げると、そっと口元に寄せた。
「君の髪は、僕の色だ」
燃えるような独占欲の宿る眼差しが、イザベラを捕らえた。
甘露を煮詰めたような深いブロンドが、クラウスの手の中で光を受けて輝きながら一筋はらりと落ちる。
その言葉の意味を理解した瞬間、血液が沸騰するような感覚が全身を駆け巡り、イザベラの中で何かがパチンとはじけた。
「あ……」
最後の一滴を注がれ、必死に保っていたコップの水が勢いよくこぼれ出すことを、もう止めることができない。
───君の髪、僕の目とおんなじだね。
美しい少年の横顔が眼前で微笑み、少年の声が、言葉がよみがえる。
───けれど僕のより、君の方がずっと天使みたいで、きれいだと思うよ。
そうだ
あの庭園で蹲っていたイザベラに、誰かがそう言った。
大好きな犬を失って、悲しみに暮れていたイザベラを導いてくれた。
その記憶を思い出すと、急に喉が熱くなり鼻の奥がツンと痛み始めた。
目の前の少し大人びた少年の顔にひびが入る。
パリンと硝子が砕け散るような空耳とともに少年の姿が割れると、……その面影を残したクラウスの姿が現れた。
瞬間、───当時の辛い感情と一緒に封印されていた、あの優しい記憶が一気に溢れ出す。
みんなに否定され、化け物と罵られて、怖がられた、感受性豊かな幼く激しい感情と、その悲しみを包み込んでくれた優しい記憶が、あらゆる感情が心の中を一気に駆け巡って、胸が苦しい。
視界がじわじわと不鮮明になり、クラウスの顔がよく見えなくなる。
ドクンドクンと動機が激しくなって、黒い革靴が動きを止めた。
「イザベラ……泣いているの?」
心配そうな彼の声が降って来て、何も言えずにただ、首を振る。
このままではいけないとイザベラは内心酷く焦っていた。
ここは領地じゃない、大好きな犬もいない。模範生徒として、由緒ある名家の令嬢として、ふさわしい言動をしなければ。
けれど、舌が張り付いたように動かない。
嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えながら、イザベラは立ち止まり俯いた。
決壊してしまえば、もう後は堰を切ったように溢れ出すだけだ。元にはもう戻らない。
イザベラは懸命に深呼吸を繰り返して、平静を保とうとしたが失敗する。
「……ごめ、んなさい、私っ…外の空気を吸ってきますわ。……どう、ぞ…先にお帰りになってください」
つっかえながら、けれど何とかそう言い切ることができた。
緩んだ拘束から抜け出して、返事も聞かずに背を向ける。
「イザベラ!」
後ろでクラウスが呼んでいるのは聞こえていたが、振り返らずにダンスをしている生徒たちの隙間を縫って、人混みの中に紛れ込んだ。
出来るだけ優雅にホールを歩きながら、扉の外に辿り着いた瞬間、外面がボロボロと剥がれ落ちる。
誰もいない場所を求めて、イザベラは夜の校舎を逃げるように駆けて行った。




