第39話
その秀眉が一瞬ひくりと動いて、誤魔化すように彼は微笑んだ。
「随分と、彼女に肩入れするんだね」
意外そうな響きを持って呟かれたその言葉から、何ら罪の意識は感じ取れない。イザベラは諦めたように細く息を吐いた。
「…クラウス様に冷たくされた、と今朝彼女が私の部屋ににいらっしゃったので」
「あなたの部屋に?……すごいな」
思ってもみなかったルーナの行動を聞いて、クラウスは呆気に取られたように薄く口を開いた。
「ええ、とてもショックを受けたご様子でしたわ」
クラウスは難しい顔をして何事かを考えるように顎に手を当てた。
「冷たくした覚えはないが……、そうだね」
憂いを帯びたその顔がイザベラを見て、困ったように目を伏せる。
「僕が、彼女を遠ざけなかった理由は確かにあるよ。その理由を話しても構わないけれど……」
そう言った後、何度か口を動かしかけて、悩むようにその口を閉ざした。
やけに歯切れが悪い様子で黙り込んだまま、クラウスは暫く伏し目がちに考え込んでいたが、やがて決心がついたのか頷いてイザベラに向き直った。
「あなたには既に少しだけ詳細を話しているし、いいかな」
「詳細…?」
僅かな葛藤がその瞳に宿ったまま、それを振り払うように首を振って、少し乱れた髪の隙間から挑むような視線がイザベラを見つめる。
「こっちに来て、そこじゃ遠すぎる」
甘い声が誘うようにイザベラを手招きする。自分から動くのではなく人を呼びつけるあたり傲慢さが垣間見えるが、王太子にとってはそれが当然のことで、対するイザベラも言われた通りに彼の元まで歩み寄る。
ダンスの時くらいしか意図的に近くに寄った記憶もあまり無く、手すりの側に立つクラウスの前に一歩分の距離を空けて足を止めた。これがいつもの距離だ、イザベラがキツイ目つきでその端正な顔を見上げると穏やかな顔がにこりと微笑む。
「ああ……まだ遠いな」
そう言うや否や、クラウスはイザベラの手を掴んでグイッと力強く引っ張った。
急なことに対応できず、イザベラはたたらを踏んで無抵抗のままポスンとその腕の中に収まる。
「……!?」
驚き過ぎて声も出せず固まるイザベラに、くつくつと楽しそうな笑い声と振動が直に伝わってくる。
淑女が異性の腕に抱かれるなどはしたない。混乱した頭でそう思った瞬間、いやこれは婚約者同士だから別に構わないのだろうか、と冷静な意見が湧き出る。そもそも何故こんな状況になっているのか。大きな犬を両手いっぱいに抱えることはあっても、自分がその立場になることなど、この歳になるとほとんどない。
「突然何をなさいます、の……」
ようやく感情の波が少し収まり抗議の意を唱えようとバッと勢いよく顔を上げれば、こちらを見つめる美しい黄金の瞳があった。
混乱する姿をずっと眺めていたのだろうか、穏やかな瞳が静かにこちらを見下ろしていて、そこに慈しむような温もりが混じっていることにイザベラは動揺を覚え、カッと頬に朱が走る。
「───この間、誘拐事件について話したろう?」
「え、…ええ……」
抑え気味の声が鼓膜を揺らす、軽く離れようとする仕草を見せたイザベラを優しげな腕がなだめるように、けれど有無を言わせない強さで引き寄せた。
クラウスの少し早い心臓の音や、体温までも感じる距離に声が震える。イザベラは目を白黒させて、口を開閉した。取り繕うことさえ出来ないイザベラに、冷静な声が落とされる。
「彼女は、僕にとってあの誘拐事件の重要な参考人だったんだ」
「さ、参考人……、ええ、ええ、そうでしょうね」
当然の事実を告げられて、イザベラは頷きながらなんとか平静を装った。
「ああ、彼女はこの事件の被害者であり、解決の鍵を握る重要な手がかりだった。けれど……2年前に彼女が発見されてから父親であるボウマン男爵は彼女を可愛がるあまり、辛い記憶を思い出させたくは無いと事件について頑なに娘の聴取を拒んでいた」
そこまで言って、一度クラウスは大きく息を吸った。その呼吸音さえ聞こえる距離に、目眩がする。
「こちらとしても彼女は被害者だから無理強いは出来なくて、あまり強引な手を打てば周囲から大きな反感を買う恐れもあった。だから……彼女がこの学園に入学して、ようやくチャンスが訪れた。彼女が入学してから僕が直接、事件の手がかりを聞いていたんだ。……雑談交じりにね」
───クラウス様はいつも私の話を優しく聞いてくださいました。
───特に誘拐された時の話は何度も何度もお話して、大変だったねって優しく言ってくださって
嬉しそうな少女の遠い声が、イザベラに囁きかける。
「犯人が捕まった以上、特段話す理由も無くなってしまった。ただそれだけの話なんだが……」
大きなため息が落ちて、静かになる。ホールの方から楽しげな笑い声と、リズムの良い音楽が微かに聞こえてきた。
世界から2人だけが取り残されてしまったのだろうか、まるでこのテラスだけが別世界に切り離されてしまったかのような不確かな感覚に足元がふらつく。
「……平民視点の気持ちを知りたかったのでは?」
震えそうになる声を叱咤して、イザベラが静かにそう尋ねれば不思議そうな声が返る。
「え?……ああ、セドリックか。あいつ」
友人の名を呟くと、クラウスは短く息を吐いて笑った。
「彼は知っての通り父親が宰相で、まあ幼い頃から王都の外をほとんど出たことない箱入りだからね。まだ僕みたいに仕事で外に出ることも無いし机にかじりついているから……物珍しかったんだろう、彼以外も幼い頃から王都に住んでいる男子生徒は多いから」
物珍しいで済むものだろうか、イザベラのわだかまりに答えるようにクラウスは目を細める。
「あなたの言うことを否定はしないさ。そうだね……僕は知らず知らずのうちにルーナ嬢に夢を見せてしまったのかもしれない」
背後の眩い星々と、輝く半月が辺りを照らしていた。
口の端を上げて微笑む顔は、切なさを帯びて夜の闇に佇む。
「だけど僕は、こういう人間だから。───正しいあなたは僕を軽蔑するかな」
とっとっとッと、と早い鼓動がイザベラの心を揺らす。包み込むあたたかさに、早い心臓の音、優しい声、目を閉じると領地の犬たちがイザベラを見つめている。そうだ、犬の鼓動は人間より少しだけ早い、例えばこんな風に。全然関係ないことがイザベラの頭をよぎる。
何も答えないイザベラに、クラウスは自嘲気味に顔を歪め、自分に言い聞かせるようにボソリと小声で何事かを零した。
───王族たる者、国にとって有益になることならば、己の心を殺してでも成し遂げなければならない
微かに聞こえたその言葉の端々に、既視感を覚える。似たような台詞を、どこかで聞いたことがあるような気がした。
おぼろげな記憶の奥で、幼い少年の横顔がクラウスと重なり、再び霧のように消えてしまう。
「なのに、何故僕はあなたに……こんな」
眉間を寄せて、苦しそうに呟いた。
「クラウス様?」
思わず声をかけると、金色の瞳が苦しそうにこちらを見た。
「それでも僕は、ずっとあなたを───……手放せなかった」
大きな手がイザベラの髪をそっとかき上げ、懺悔するような悲痛な声で、クラウスは半ば絞り出すように声を発した。
「例え、あなたが他の誰かを、」
そこで、言葉は途切れる。
いつも穏やかに微笑む顔が、荒々しい感情をその瞳に宿し、苦しげにイザベラを見下ろしていた。
「クラウス、様」
微かに聞こえてくる美しい音色が、軽やかなその旋律が、滑らかに駆け上がっていく。
するりと柔らかな拘束が解けて、目の前の彼は紳士的に微笑んでこちらに手を差し伸べた
「……この次、終わりのワルツが始まる。…よければもう一曲、僕と踊ってくれないか?」
そう告げたクラウスの顔は、以前と同じように美しく穏やかな笑顔だというのに、もう完全に以前とは違っていて。その苛烈な感情が宿る黄金に、イザベラは息を飲んだ。
重わずぎゅっと目を瞑ると愛する犬が嬉しそうにこちらを見て尻尾を振っている。
変わることは、恐ろしい。
けれど、ずっと同じままではいられない。ついにその時が来てしまったことを悟った。
イザベラが想像していたような展開とは、まるっきり外れて運命が回り始めている。
そこに不快な感情は無い、けれど胸に巣食う罪悪感は消えないまま、苦しい気持ちを隠してイザベラは優雅にその手を取った。




