第38話
軽快な演奏が遠ざかるように止み、2人の手が自然に離れていく。1曲目のダンスが終わり、イザベラは優雅に腰を折った。細やかな黒の刺繍が入った赤地の裾がふわりと翻る。
次の音楽が流れる前に、踊る相手を探さなければと赤い目が左右を彷徨う。けれどその前に再び温かい手がイザベラの指を絡め取って、クイと軽く引っ張った。
「え?」
何かと思ってそちらを見れば、クラウスがその黄金を細めて目配せする。
「テラスへ行こう」
囁くような声色に反応できずにいるイザベラの手を引いて、生徒たちの間をすり抜けて行く。
その間にも曲は緩やかに奏でられ、楽しそうにパートナーと踊る生徒たちがイザベラの視界をくるくると回って、時折目が合って興味深そうな顔をする者もいれば、相手に夢中で全くこちらに気づかない者もいる。
ズンズンと進んで行くクラウスに従ってホールを横断すると、濃紺の厳かなカーテンに隠されたテラスの入り口に辿り着く。校舎に隣接する方とは逆側の端に巨大な締め切られた窓があり、その前に王子の従者が佇んでいた。
「ヴィンス、悪いが少しの間だけ見ていてくれ」
従者は慇懃に礼をしてカーテンをめくり、その窓を人ひとり分入れる程度の幅に開いて、うやうやしくテラスへと促した。
その眼前に広がる幻想的な夜空と、テラスの外の美しい庭園に一瞬目を奪われる。
手を引かれて戸惑いながらそこに足を踏み入れると、涼しい夜風がイザベラの頬を撫でた。
背後で静かに窓が閉められて、同じタイミングでその手が離れる。
振り返るとホールの中のカーテンは締め切られ、もう奥の様子は何も伺えない。
「ごめん、強引に連れてきて」
テラスと庭園を区切る、彫刻の施された石の手すりに腕をかけて、クラウスは申し訳なさそうな顔を見せた。
辺りは静かで誰もおらず、ホールの音楽が微かに漏れて聞こえてくる。イザベラはため息をついて、かかとの高い黒い革靴で石畳を鳴らした。
「…どういうつもりか分かりませんけれど、いくら学園内とは言えこんな誰もいない場所、危険だとはお思いになりませんの?絶対に賊が潜んでいない保証はないのですから……」
目をつり上げて苦言を呈すると、クラウスは金の瞳を丸くして瞬きした。
「危険って……僕の方が?」
イザベラの言葉を繰り返して、口元を手で抑えて堪えきれずに喉を鳴らす。笑われるいわれがなくてイザベラはムッと顔を眉を寄せた。
「私は本気で申し上げておりますのに……」
「いや、すまない。まさか僕の方の心配をされるとはね。あなたが身の危険を感じていないことに僕は喜ぶべきなのかな……」
そう言いながらも、クラウスは残念そうに肩をすくめた。
「心配しなくても、あちこちに警備兵がいる。残念だけど今だって全部その辺りから監視されてるさ」
まるで常に見られていることが当然のように、その顔は眉ひとつ動かさず長い指で庭の方を差した。つられて指差す方を見ても、星に照らされた木々や花々があるのみで表立って人影は見えない。
「でもまあ、小声の会話なら聞こえないだろう」
声を潜めて、クラウスは庭の向こうを一瞥した。
優秀な兵士達によって警護されることに慣れきったその様子に、イザベラは口ごもる。
「……出過ぎたことを申し上げましたわ」
「いいんだ。あなたの疑問は最もだ」
頷いてクラウスは口の端を上げた。
夜風が彼の黒髪をもてあそび、短い髪がサラサラと横に流れる。
「ところで、突然どうなされたの?こんなところにわざわざ来て…」
「……何か、怒ってるだろう?」
黄金の瞳がイザベラの心を覗き込んだ。不意を突かれてドキリとする。
「え…」
イザベラの唇から、短い音が漏れた。その吐息が震える。
「私、怒ってなど……」
「エヴァンズの領地でも言ったと思うけれど、僕はもっとあなたのことが知りたい。……だから、我慢しないで言いたいことを言ってくれないか」
真摯な目がイザベラを射抜くように見つめていた。
逸らすこともできず、呆然とその美しい色を眺めながら、震える唇が無意識に動く。
「…………どうして、あなたは、…ルーナ様をきちんと突き放さなかったのですか?」
ポロリ、と胸の中につかえていた疑問がこぼれ落ちた。
一度、音にしてしまえばもう、なかったことには出来ない。
「ルーナ嬢のことか…」
クラウスは柔和な顔立ちに疲れを宿しながら、周囲を見渡した。
誰もいないことを確認して、そっと答える。
「例えば…僕が彼女を突き放したら、それはある種の特別扱いになってしまう。もちろん悪い意味でのね。それこそ、王太子に突き放された令嬢として学園内で手酷く噂され続けるだろう。それに、彼女は少しだけ……妹に似ているから、あまり邪険にもしづらくて」
するするとその薄い唇から出てくる言葉にイザベラは眉を寄せた。
嘘をつくときは本音を少し織り交ぜると信憑性が増すという。美しい笑みを湛えながら、困ったようにそう言うクラウスが、完全に本当のことを言っているようにはイザベラにはあまり思えなかった。
「本当にそうかしら」
その時、つくん、とイザベラの舌に棘が生えた。
「私には、真似できませんわ。私は、期待に答えられないのなら、最初から夢を見せたりしません」
少女は泣いていた。自分の理想と、生きていく世界での理想との乖離に、心のうちで悩み苦しんで、優しかった王子様にもついに背を向けられて。
自業自得と言えばそうだが、そんな風に割り切れるような人間であれば、こうやってクラウスをなじったりしない。




