第36話
エスコートされて入り口に向かうと会場に入った瞬間ブワッと熱気を浴びて、先ほどまでの比ではない喧騒が、一気に押し寄せてくる。
奏でられる厳かな音楽、天に吊り下がるシャンデリア、大きな広間にレースのクロスがかけられたいくつもの丸テーブル、そこに並ぶ芸術的な料理の品々に、煌びやかなドレスの群れ。
王太子とその婚約者の入場を、近くの生徒たちが拍手をして出迎えた。
その全てが学園の始まりを実感させて、改めて遠い次の休暇にイザベラの心が沈む。
3日前に会ったはずの犬がもう恋しくて、けれどすぐに心の中に住む犬たちがイザベラをワフンワフンと慰め始める。
イザベラは表情を崩さないまま、空想の中でフリフリと振られる大きくてふさふさのダニエルの白い尻尾に頬ずりした。
とは言え、そんな風に現実逃避をしても逃げきれないほどに、隣から届く熱い視線がじくじくとずっとイザベラの肌を焼き続けている。
「あの後、あなたが帰ってから双子がぐずって大変だったよ」
「まあ、そうでしたの」
会場の中をある程度歩くと、人が少ないテーブルの前でクラウスは立ち止まった。それに続いてイザベラも足を止めて、相槌を打つ。
「あの2人、あなたのことを随分と気に入っていたからね」
「光栄ですわ」
ざわざわとホール全体に響く喧騒を聞きながら、幼い子供達の屈託のない笑顔を思い返してイザベラは頷いた。
「是非また来て欲しい、2人も喜ぶから」
「ええ、また是非」
「じゃあ次の休暇のいつにしようか」
その言葉に思わずきょとんとクラウスを見上げた。その顔は至って普通の顔をしていて、さも当たり前のようにイザベラの返答を待っている。
人のことを言える立場ではないが、休暇が終わったばかりだというのにもう次の休暇の話をするクラウスに戸惑いが隠せない。
「……そうですわね、ですがクラウス様のご予定もおありでしょうし…今すぐ日程を決めるのは難しいのではありません?」
「いや?そんなことないよ。むしろ早めに決めておいた方が後々公務の日程も組みやすいから」
にこ、と微笑むクラウスを見つめ、イザベラは逡巡の末に口を開いた。
「細かい予定は侍女に管理させているので、今すぐにはお答えできませんが…」
「そうか、わかった。じゃあまた近いうちに決めようか」
「え、ええ」
イザベラは淑女としての教育も一通り終わっているし、社交界デビューは学園を卒業した後の話だ。
だから学園にいる間の休暇はほぼ犬と自由に過ごしたい一択のイザベラに、果たして細かいスケジュールというものがあるのかは謎だが、クラウスは納得したように頷いた。
「ねえ、聞きました?ボウマン家のご令嬢……」
その時、不意に後方のテーブルの前に固まっている令嬢たちの声がイザベラの耳に届いて、その知っている名前に思わず意識がそちらへ向いた。
「知ってますわ、お母様から聞いたけれど……」
「え、あの噂本当なの……」
「私、支援制度なんて聞いたことありませんでしたわ……」
「当たり前でしょ、普通の貴族なら縁がない話だもの……」
「流石よねぇ……」
くすくすと笑い声が慎ましやかに少女たちに伝染する。
「彼女どこにいるのかしら……」
「今日はまだ来てないみたいですわね……」
「もう来ないかも……」
「まあ、本当ですの……」
「だってどんな顔して来るのよ……」
その声に潜む微かな優越感、嘲り、好奇。言葉の端々に見え隠れする様々な感情に何とも言えない苦い思いがこみ上げる。
呆然としたようにトボトボと帰っていった少女の後ろ姿がよみがえる。おそらく相当なショックを受けていたから、ルーナが今夜ここに来ないということもあり得るだろう。
「イザベラ?」
不思議そうに呼びかける声がする、見上げれば心配そうにこちらを見る王子の姿がある。
その顔を見て無意識に、イザベラの口からするりと冷ややかな声がこぼれた。
「……ルーナ様の姿が、見えませんわね」
「うん?…ああ、そうかな」
困ったようにクラウスが笑う。
その興味のなさそうな返答に、昼間見た少女の泣き顔がイザベラを惑わせる。
「…いつもあれだけ目立つ子がいないと、不思議ですわ。クラウス様は彼女と親しいのではありませんか、彼女がいない理由をご存知なのではないですか?」
あれ程までに親しくするなと注意していた口が、妙なことを言っている。
そう自覚しているのに、コップに水がみるみるうちに膨れ上がっていくのを止めることができない。
彼は冷静な瞳でイザベラを観察するように眺めて、やがてゆっくりと首を振った。
「さあ……親しいというのは語弊があると思うが、今朝、姿を見かけたから学園には来ているはずだ。そのうち来るんじゃないかな」
そう言って、ポケットの懐中時計を取り出して時刻を確認すると、クラウスは身支度を整えるように襟元を軽く払った。
「そろそろ時間だ。……挨拶に行かないと」
「ええ、……ええ、いってらっしゃいませ」
「…すぐに戻ってくるから」
そう言って名残惜し気にクラウスは立ち去り、人並みを掻き分けて壇上の方へ消えていく。
背筋の伸びた品のあるその後ろ姿が遠ざかり、イザベラは少しだけ息を吐いた。
コップに入れ過ぎて膨れ上がった水は、ぷっくりと表面を光らせて今にも溢れ出しそうで。気を取り直そうと、深呼吸を繰り返す。
冷静になってホールを見回しても、やはりルーナの姿は見えない。
代わりに見知った生徒が目に入って、彼らも丁度こちらに気が付いたようで近づいて来た。
「イザベラ様、ごきげんよう」
「イザベラ様、こんばんは」
紳士と淑女が揃って礼をする、イザベラもそれに倣うように挨拶を返した。
「レオノーラ様、セドリック様、ごきげんよう」
真っ直ぐな黒髪を一つに結い上げ、深い緑のドレスを纏うレオノーラは幸せそうに婚約者に寄り添い微笑む。
銀髪を撫で付けたセドリックもまた黒い礼服の襟にオレンジガーネットの小さなブローチを付けて、慈しむような緑の瞳で婚約者を見つめている。
「まあ……イザベラ様のドレス、なんて素敵なのでしょう!」
「殿下もあからさまだな」
目を輝かせて頬を押さえるレオノーラとは対照的に、セドリックはイザベラの装いを見て苦笑した。
形式的に礼を返して、イザベラも同じように賛辞を送る。
「レオノーラ様も、素敵なお色のドレスですわね」
「あ、ありがとうございます……」
ちらりと婚約者の方を見つめて、レオノーラは勝気そうな顔を緩ませる。
セドリックは頬を染めて嬉しそうに微笑むレオノーラをむず痒そうに見下ろした。
利き手で頭を搔いて照れを誤魔化そうとするも、髪をセットしてあることを思い出して寸前でピキリと動きを止める。
婚約者の一連の間抜けな動作に気づかず、レオノーラはつり目がちなブラウンの瞳を悪戯っぽく輝かせて、イザベラに小声で話しかけた。
「イザベラ様、皆さんの様子はどうでした?」
「……?……どうって?」
質問の意図が分からず問い返すと、レオノーラはふっと口元をつり上げた。
「ふふ、実は私、この休暇中、イザベラ様のご恩に報いるためにセドリック様と協力して頑張りましたの」
「まあ……そうでしたの」
胸を張っているが、正直何の話かイザベラにはよく分からない。
「もう一息ですわ、後はクラウス殿下にかかっていますの」
そう言って、レオノーラは息を吸い込んだ。
「私、本当にイザベラ様には感謝してますの。本当に、本当ですのよ」
そう熱弁して、イザベラの手を取って両手で祈るように握りしめる。
「イザベラ様に、幸せになってほしいのです」
心の底から、イザベラを案じている様子でブラウンの瞳が恐れもなく、この赤い瞳を真っ直ぐに覗き込む。
計算も、媚びも、嫌悪も、畏怖も無く、ただイザベラの幸福を願うその必死な顔つきに、心がジワリ温かくなる。
「……ありがとう」
ふ、と思わず少し笑みがこぼれた。
みるみるうちに、目の前のブラウンの瞳が見開かれる。
「み、見ました!?セドリック様!?あ、ダメですわ、やっぱり見ないでください!」
「落ち着けレオノーラ」
急に取り乱して手に持っていた扇子を開いて婚約者の顔を隠したレオノーラに、宥めるようにセドリックがその肩を抱く。
「で、で、……ですが、こんな素敵な笑顔見たらセドリック様のことだから一瞬でクラっと……ああ、なんてこと」
「いや、人を何だと思ってるんだ……信用ないな」
「信用はそんなすぐに回復しませんわよ……」
以前より婚約者相手に自分の気持ちをズバズバ言えるようになったレオノーラは、いじけたように答える。
ぐ、と息を飲んで、セドリックは決まり悪そうに口を開いた。
「正直なところ、“ああ……これが例の……”という感想しか抱かなかった、だから、安心してくれないか」
「ですが…」
「私にとっては……!」
そこで不自然に言葉を途切らせて、セドリックは往生際悪く言葉にならない音を口から出す。
レオノーラはじっと婚約者を目を逸らさずに見上げていた。観念したようにセドリックが唾を飲み込む。
「あー……ゴホン、その、…私にとってはレオノーラの笑顔が…一番、素敵だから」
徐々にセドリックの耳が紅潮していく、レオノーラは感激したように頬に手を当てた。
「セドリック様……」
何やら誰も入れない2人だけの世界に旅立ってしまった恋人たちに、1人取り残されたイザベラは辟易して半眼でその様子を眺めていた。




