第35話
鏡に映る自分の姿は、何度見ても好きになれない。
そっと、閉じた瞼を開くと、目の前で恐ろしい赤い瞳が爛々と輝いている。
ハーフアップにサイドを編み込んだ波打つブロンド、薄く白粉をはたいた顔に、引き結ばれた赤い唇、ひりりとつりあがった気の強そうな目尻に、金のまつ毛に縁取られた、ドロリと血のように真っ赤な瞳が二つ。
赤を基調としたドレスを身に纏い、踵の高い黒の革靴を履いて、全ての支度が終わった。
後は、寮から校舎へと馬車に乗って会場に向かうだけだ、そこでいつものように婚約者が待っているのだろう。
王子の金色の眼差しが脳裏によぎり、イザベラの心臓がドクリと脈打つ、だが───その瞬間ルーナの泣き顔に変わる。
イザベラは思わず手に持ったハンカチをぎゅ、と握りしめた。視線を落とすと、広げたそのハンカチの上で駆け回る、愛らしい犬たちがいる。
黒い犬、茶色い犬、白い犬、大きな顔にピンと立つふわふわの耳。パタンと閉じたさらさらの耳。
頭から鼻先にかけての緩急あるラインを、そっと指でなぞると、パカっと音がする。
大きな口が開いた音だ。
長い舌がだらりと右横から垂れ下がり、気持ちよさそうに目を細めて荒い息を繰り返す。
はぁ〜、なんて大きな音が聞こえたら、今ため息ついたの誰?とついつい問いかけてみる。
すると後方からクシュッと小さなくしゃみが聞こえてきて、振り向くと素知らぬ顔をした黒い犬が笑っている。
ラウ、今くしゃみしたでしょ?と尋ねれば、首を傾げてはっはっはと呼吸したかと思えば今度はプ〜ッとお尻から音が出る。
そうなるともう可笑しくってたまらない。
「ふふ」
「……お嬢様?」
急に笑い出したイザベラを、不審そうな顔で侍女が見ている。
これまで、こうやって乗り越えてきた。イザベラにとって、いつだって犬は心の安らぎで、何もかもを包み込んで癒してくれる。
投げ出したくなる時も、逃げ出したくなる時も、いつだって彼らは力をくれた。
「なんでもないのよ、行きましょうか」
にっこり微笑んだつもりの顔は、これから向かう先のことを思って強張り始めている。
それでも、その足が歩みを止めずにいられるのは、いつも心の中で力をくれる彼らの存在がいるから。
侍女はそんなイザベラを不安げに見つめるだけで、何も言わなかった。
校舎に隣接するパーティーホールの玄関に到着すると、既にかなりの生徒たちが集まっていて口々に挨拶をして通り過ぎる。婚約者のいる者たちは、ホールの中にはまだ入らず、相手の到着を友人と話しながら待っており、皆どこか休暇明けの気分が抜け切らず、高揚している様子だった。
イザベラが挨拶をすると、多くの生徒たちがしゃっきりと背筋を伸ばして頭を下げる、それ自体はいつものことだが、今日は何故か妙に興味津々な視線があちこちからイザベラに向かって飛んできているような気がした。
いつもイザベラの不興を買わぬよう触らぬ神に祟りなしという者や、気に入られようと機嫌取りをしようとする者が多いというのに、どうも様子が違う。
自意識過剰と言えばそれまでかもしれないが、落ち着かない気分のままイザベラは四つの太い柱で支えられたホールの玄関のそばに辿り着いた。
既に灯された燭台が柱や窓のそばの至る所に幻想的に配置され、辺りを照らしている。
パーティーは19時からだ。夏が終わり日が少しずつ短くなって、もう空には星が見えている。
夜に浮かぶ美しい校舎を見上げて、ほっと一息ついたとき、
───不意に後ろから指先を柔らかく絡め取られてイザベラは心臓が飛び出るかと思った。
強張った顔のまま反射的に振り返れば、眼前で夜に溶けるような黒髪がさらりと揺れる。
「やあ、こんばんは」
振り向けばすぐそばにクラウスの姿があり、出かかった悲鳴が喉の奥で詰まる。
夜闇の中で星のように輝く金色が、イザベラを見下ろしていた。
熱を帯びたその神聖な瞳が柔らかく伏せられる。
「ごきげんよう、クラウス様……」
サッと頭を下げようとして、捕らわれたままの指先をどうしたものかとイザベラは困惑気味に動きを止めた。
その気の強い眼差しでちらりとクラウスを見上げると、視線を向けられた方はハッとしてばつが悪そうにその手を離す。
「ああ、すまない」
白い手袋を嵌めた大きな手はすぐにすり抜けて行ったが、イザベラの細い指先にまだ微かに感触が宿っている。
離れたその手は行き場を失い、握りしめられた手袋に細かい皺がよっていた。
イザベラは仕切り直すように淑女の礼を取って、その顔を見上げた。
黒を基調としたスラリとした紳士服姿、金の釦、胸元のポケットには赤いチーフがアクセントに入っていて、いつもの軍服風の礼装とは違う、その珍しい装いを目にして僅かに瞠目する。
クラウスは口元はいつもの美しい微笑を湛えてこちらを見下ろしていたが、沈黙の末に急に視線を逸らして片手で自らの目元を覆った。
「どうなされましたの…?」
「いや……ちょっと自分の感情に追いつけてなくて、なんだろうね。我ながら単純過ぎて呆れてる」
下向き加減に横を向いて、クラウスは唸り声のような溜息をこぼした。
ゆっくりとその手を外して、こちらに向き直った顔は平常通りだったが、どこか眩しげに目を細めて微笑む。
「イザベラ、そのドレス今までで一番、似合ってるよ」
何度も聞き慣れた賛辞だというのに、違うのは眼差しの熱量か。
その心からの言葉に、思わず息を飲む。
「ありがとう、ございます」
眩しいほどに輝くその瞳を見ていられなくて、つい不自然に視線を逸らした。
だから、その美しい顔が、───切なげに歪められてもイザベラは気づかない。
コップの水が溢れそうで、でもまだ何とかとどまっている。
いつもなら、“あなたの見立てがいいから”とか、“あなたこそ素敵ですわ”とか、気の利いた言葉を返していたはずなのに、全てにおいて余裕が無くてただ礼を述べることしかできない。
「じゃあ、行こうか」
穏やかな声とともにそっと腕を差し出される。
頷いてイザベラはその腕に手を置いた。




