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第31話


かわいらしい数匹の犬が、イザベラの眼前で元気に走る姿を見せている。舌を出しながら後ろを振り返る茶色い犬、飛ぶように前を見て駆ける白い犬、足をもつれさせながら走る黒い犬、それらを赤い目が順番に追っていった。

「う゛ぅ……」

真四角の白いハンカチを空中で広げて、イザベラは唸りながら眉を寄せていた。

細かいレースのあしらわれたそれは、端の方に元気に駆ける犬の刺繍が施されている。

「うぅーん……」

仰向けに寝転んだ姿勢で両手を天井に突っ張っているから、かざしたハンカチの四角い影がイザベラの顔に落ちている。寝そべるイザベラの周りには5匹の大きなぬいぐるみが見守るように整列していた。

「お嬢様、うるさいですよ」

横でテキパキと荷物の整理を行っている侍女に冷静に突っ込まれて、イザベラは眉間にしわを寄せて凶悪な顔でハンカチを見つめるのを一旦止め、むくりと上体を起こした。

明日からまた学園が始まるため、前日である今日のうちに既に学園の寮へと戻ってきていた。

「……ねえ、アナ」

「何でしょうか」

作業を止めることなく、侍女は簡潔に返事をする。イザベラはハンカチを丁寧に折りたたんでベッドサイドに置くと、腑に落ちない顔をしながら頬を押さえた。

「クラウス様は、何か悪いものでも食べたのかしら?」

「おそらく、毎日毒味のされた健全な食生活をお送りだと思いますが」

「まあ、そうよね」

あっさりとした侍女の回答に、イザベラは想定内だとばかりに頷いた。

「なんと言えばいいのかしら、あの方は私に対してあんな接し方をされるような方ではなかったと思うのよ」

言葉を選ぶようにして、そう言うと侍女は首をかしげた。

「…元々穏やかで紳士的な方ではありませんでしたか?」

「ええ、それはそうなんだけど…なんというか……もっと一線を引いてらしたと思うの。だって……」

そこから先が喉に何かがつかえたように出てこなくなる。言い訳の材料が、もうほとんど無くなってしまっていた。

「おっしゃりたいことは分からなくもありませんが、……王太子殿下は来年にご卒業を控えていらっしゃるのですから、お嬢様との結婚も間近に見えてきて実感が湧かれたのではないでしょうか」

良くも悪くもさっぱりとした侍女は、私情を挟まず第三者の意見を口にする。

「でも、私の一方的な告白で強引に婚約者になってしまったことになってるのよ。私自身に興味なんて無いと思っていたわ。だって、鬱陶しがられても当たり前じゃない、むしろ嫌われてるんじゃないかって思ってたもの。だからこそ、……どうして急にあんなに変わったのか、もうわけがわからないわ」

綺麗に折りたたまれたハンカチに視線をやりながら、学園に入る直前に、王太子の婚約者であることを知らされた日をイザベラは思い返した。

知らされたというか、入学式のパーティーの前日にクラウスからドレスが届けられたのだ。

何故、王太子からドレスが届くのか意味がわからず、困惑して母親に尋ねれば、それはあなたが婚約者だからじゃない、と笑顔で言われた。

仰天、なんてものじゃない。地面が突然消えたような、もはや声も出ない驚きがイザベラの全身を駆け抜けたのを今だに覚えている。

「何でって、イザベラがあのお茶会でクラウス殿下に告白したからでしょう」

穏やかな顔でそう言う母親に、疑問符が頭の中で踊り狂った。

クラウス(犬)に会いたければ、王宮でこの国や他国の歴史や近辺の国の語学、様々な高等な知識を学びなさい、と王妃から仰せ付かって、人質(犬)を取られたイザベラはそれは必死に努力した。1か月に一度は領地に帰る許可を貰いながら、王妃に自分の犬たちへの思いを認めてもらうべく頑張った。

だが、学園の入学を目前にして、その時初めて、今まで王妃から聞いていたクラウス(犬)がクラウス(王太子)であったと判明したのだ。

そんな馬鹿な話が……あった。あってしまった。

まるで喜劇のようだが、当事者であるイザベラにとってはまさに青天の霹靂。

お茶会のお見合いから婚約者に内定しており、知らされていたのは両親のみでこの度学園に入学すると同時に正式に発表されることが決まった。

入学式に壇上で挨拶をするクラウスを見て、こんな人が婚約者だなんてと恐れ多くて頭を抱えそうになった。王妃教育のために王宮へ通っていたときは、ほんの時々廊下ですれ違うくらいなもので、ほとんど話した覚えはない。

パーティーで真っ先にエスコートされて、かつてないほど緊張しながらイザベラはその手を取った。

初めて至近距離で見上げたその美しい顔は穏やかで、紳士的で、……けれど、神々しい金の瞳はどこか、無感動にイザベラを見下ろしていて、そこには見えない壁があった。

学園で何度会おうと、それは変わることがなかった。

むしろ日を追うごとに、2人の距離は開いて、空虚な白々しさをまとわせながらお互い義務的に接してきた。

婚約が公に発表されてから、噂ではイザベラの一方的な告白によってこの婚約が成立したことになっており、王太子の態度から見てもそう納得せざるを得なかった。

この先、王太子と仮面夫婦となり、領地の犬たちと離れ離れになって、自分の素を周りの誰にも見せられないまま生きていくのかと思うとイザベラは酷く恐ろしくなった。

しかしイザベラから婚約解消を申し出れば、あのお茶会の告白は何だったんだと馬鹿にしていると思われかねないし、犬の名前と同じだったからなどと言えば3年間も黙っていたのかと言う話だし、何よりあり得ないくらい不敬だろう。

いっそ、不敬罪覚悟で真実を話すか、もしくはあちらから婚約解消を言い出してくれれば良いのにと思っていたが、なかなかそう上手くはいかなかった。

そんな矢先にあの奇想天外な男爵令嬢が現れ、隣国でお手本のような婚約破棄騒動が起こったのだ。

金の刺繍の入った白いドレスを(まと)って、楽しそうに踊る2人を見て、安堵するはずだったのに。

イザベラは吐息が震えて、もどかしい思いに苛まれる自分を見ないふりをした。

そして、あの双子の種明かしを聞いて、呆れながらも少しも残念に思っていない自分が、自分の気持ちが。

「……私、きっと、……自分が一番わからないわ」

クラウスのこともよく分からないけれど、それ以上に自分が分からない。

ただ、この心の中に住む幼い少女のままのイザベラは、何も考えずに犬と戯れていたいと願っている。いつまでも子供のままではいられないのは分かっているのに、イザベラはあの幼い双子たちが羨ましく思えて仕方がなかった。


始業式当日の朝、届けられた大きな箱には高貴な王家の紋章があしらわれている。

恐る恐る開封すれば、中にはやはり赤いドレスが入っていた。

だが以前の全身真っ赤なドレスとは違い、一部アクセントのように黒色の生地が使われている。

腰に編まれた黒いリボンや、裾元に細やかな黒い刺繍が散りばめられていて、更に同梱された踵の高い靴も黒色、留め具は金だ。

「殿下のお髪のお色ですね、お嬢様。」

涼しい顔で侍女がそうはっきりと言葉にするものだから、途端にイザベラは落ち着かない気持ちになってドレスから目をそらした。

「……気のせいじゃないかしら」

必死に窓の外に目を向けるイザベラはいっぱいいっぱいで、侍女はこれ以上は苛めないであげようと生ぬるい目をして口を閉じた。

その時、唐突に部屋の外の方からうるさい足音が響いた。

バタバタ、バタバタとあっちへ走ったりこっちへ戻ってきたり、階段や廊下を駆けずり回っているような激しい音に思わずイザベラは侍女と顔を見合わせる。

「少々お待ちください、見て参ります」

「え、ええ…何かしら一体」

不審に思って侍女が扉を開けて出ていった瞬間、扉の外で大きな声がした。

「………あああっ!!よかったぁぁ!!」

何だか聞き覚えのあるその声に、イザベラは嫌な予感がした。

あんな大声で叫ぶような人、この寮にいただろうか?

嫌な予感から目を背けながら、イザベラは白々しく内心でとぼけてみる。

しばらくして廊下から静かに戻ってきた侍女は、扉の前を塞ぐように立って、いつものクールな顔に珍しくも困惑を滲ませていた。

「アナ、何だったの?」

聞きたくなかったが、そういうわけにもいかずイザベラは侍女に渋々尋ねた。

「それが、…扉の外にルーナ様がお越しになっています」

渋い顔をした侍女がそう言うや否や、コンコンコンコンと待ちきれずに外から扉を叩く音がする。

イザベラは両手で顔を覆いながら大きなため息を吐き、がっくりと俯いた。

「犬に……会いたい………」

サラサラと落ちてきたブロンドの隙間から覗いた赤い目は遠い目をして、初日から早々に領地へと現実逃避に走った。

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