第29話
「ベラ!見ててね!」
昼下がりに威勢のよい声が広い中庭に響き渡り、周りの大人たちは微笑ましそうに見守っていた。
少女は発育途中の華奢な腕をブンブンと振り回して、思いっきりボールを投げた。
「リオーン、取ってきてー!」
その声に小さな茶色いトイプードルが短い尻尾をピコンと直角に立てて、飛んで行ったボールをちょこまかと追いかけていく。小型犬ゆえに歩幅が小さく、ちょこちょこちょこと可愛らしい足を素早く動かして懸命に走っていた。
「がんばれ!」
「がんばれ!」
幼い声援を受けて、短い尻尾がふりふりと横に振れた。
芝生の上に落ちたボールを小さな口でくわえて、まるでウサギのようにぴょこぴょこ跳ねながら、全身全霊で嬉しさを表現して少女たちの方に走ってくる。ふわふわの長い垂れ耳が走る振動でひらひら舞い上がって、まるで本当にウサギのようだ。
勢いよく少女たちの元にたどり着いたトイプードルに、ワッと大げさなほど歓声を上げてその小さな頭を撫でまくった。
「すごい!すごい!リオンすごい!」
「すっごくうれしそう!ほんとピグマリオンすごいよ!」
興奮してまくし立てる少女たちにボールを渡したトイプードルは、前足をかがめて伸びをしながら尻尾をふりふり高速で振った。こんなにも褒められて嬉しいのだろう、犬もキャン、と興奮のままどうだ!とばかりに吠えて右や左に飛び跳ねて喜びを表現している。
昨日までのあの、ものぐさっぷりが嘘のようだ。
「はい、これがんばったごほうびね」
褒められた後にもらえるご褒美は格別なのか、目の前に差し出された干し肉に喜びのままかぶり付く。
嬉しそうに愛犬が干し肉を食べる様子を、子供達もにこにこ笑って見守った。
「素晴らしいわ、昨日とはまるで別人ですわね」
2人と1匹が仲良く転がり合う姿を静かに見守っていたイザベラは、感慨深い思いで手の平を打ち鳴らした。
のっそりと仕方なさそうにボールを取りに行っていた事務的な様子はもう見えない、飼い主である子供2人にまるで英雄のように褒め称えられてご満悦なピグマリオンに目頭が熱くなる思いだ。
「でしょ!ベラのおかげよ!」
「ベラはなんでそんな犬のことがよくわかるんですか?すごいや!」
いつの間にかすっかり懐かれて両方の子供に愛称で呼ばれ、こそばゆい気持ちと喋りすぎてしまったという反省の気持ちの両方に挟まれてイザベラはほほ、と苦笑いをこぼした。
「すごいじゃないか」
するとその時、突然斜め後ろの方から拍手が聞こえてきて、3人は一斉に振り返る。
従者を引き連れた正装姿の王太子が、大きな手を叩いて微笑んでいた。
前触れなく現れたクラウスに双子は喜びの歓声を上げ、イザベラは驚いて固まった。
「あー!お兄さまおかえりなさい!」
「兄上おかえりなさい!」
「ああ、シェリー、キース、ただいま」
つまずきながら駆け出して嬉しそうに双子が纏わりつく、その頭を撫でるクラウスは兄の顔をしていて、妹は頬を赤くして自慢するように手を挙げた。
「あのねあのね!聞いて!リオンね、ボール遊び大好きになったの!」
「さっき向こうから見てたよ。すごいじゃないか、ピグマリオン」
名前を呼ばれた犬も自分のことだと分かっているのかふりふりと尻尾を振って返事をしている。クラウスの元へと駆けてきそうになって弟がひょいと抱き上げた。
「イザベラ、ただいま」
「……クラウス様、お帰りなさいませ」
黄金の瞳がイザベラの方を向いて、柔らかく細まった。この間から急にこんな表情を向けられるようになって、イザベラは新しい緊張を覚えながら礼をした。
ぎこちなく挨拶し合う兄とその婚約者に、少女が無邪気にじゃれつく。
「あのね、ベラがリオンのボール遊びのやり方教えてくれたの!」
「へえ、そうなんだ。僕が留守にしている間に随分と仲良くなったんだね?」
拗ねたような口調のクラウスに気づかず、少女は大きく頷いて兄の腕にしがみついた。
「うん、ずっと遊んでくれて楽しいの!あ、でもベラわたしのことシェリーって呼んでくれないのよ」
「兄上、ぼくは止めようとおもったんだけど……」
「まーたいい子ぶってる、お兄さま、キースもいっしょに楽しんでたんだから」
「……さ、さいしょは止めようとしてたからウソじゃない」
少女の言う通り途中からすっかり一緒に楽しんでいた少年は、決まり悪そうに兄の後ろに隠れた。大人っぽくなろうと背伸びしても、結局子供だ。
「わかったわかっ……っくしゅんぐしゅ、ハックシッ!……あー…やっぱり仮面を取ってくるべきだったかな」
子供達がはしゃいでクラウスは宥めようとしたが、その途中で顔を覆って大きなくしゃみを続けざまにこぼした。その姿を見て妹がケタケタと笑顔を見せる。トイプードルを抱えた弟はハッとしたように距離を取った。
「兄上、すみません!」
「いや、……ズビ」
「ベラ!ね!お兄さま面白いでしょ!」
「……ほら、酷い妹だろう?」
「そうですわね……とりあえず、こちらをどうぞ」
苦々しく笑うクラウスに、イザベラはハンカチを手渡しながらどちらにも曖昧に頷いた。
申し訳なさそうにそれを受け取って顔を拭くクラウスの横から使用人が手紙を差し出した。
「失礼いたしますクラウス殿下、今朝方ボウマン男爵家よりお手紙が届いておりますが」
「ボウマン男爵家?」
秀眉がピクリと動き、黒髪の下の黄金が細まる。イザベラはその名に学園のルーナ・ボウマン男爵令嬢の姿が頭によぎり、思い出したように居心地の悪さを覚えて手持ち無沙汰に視線を泳がせた。
「おかしいな……釘を刺しておいたはずなんだが」
抑揚のない声がイザベラの耳に届いた。
速やかに中身を取り出し美しい指が乾いた音を立てて便箋を開く。
何の色も宿さない黄金の瞳が表面を流し読むように文字を追って、すぐに何事もなかったかのように使用人に返した。
「処分していい」
「えっ……」
思わず声が出てしまったイザベラを、瞬きひとつしてクラウスが見た。手で口を押さえて失態を恥じながら、声を上げてしまった手前何か言わねばと口を開く。
「差し出がましいようですが……その、お返事はお書きになりませんの?」
「どうせ、明後日から学園が始まるだろう。わざわざ返事を書く必要はないさ」
その顔は穏やかで、慈愛に満ちていて、つまりいつも通りのクラウスだというのに、どこかその黄金の瞳の中に薄っすらと冷ややかな色がちらりと覗いていて、イザベラは困惑を覚えて唾を飲み込んだ。
「ですが…」
そんなイザベラを見て彼はどうすれば良いか困ったように微笑んだ。先程までの冷ややかな色はもう見えない、その美しい黄金色を直視してしまい、イザベラはそろりと目をそらした。
沈黙する2人を見かねたのか、クラウスの腕や背中にしがみつく子供達がまた囀り始める。
「ねえねえお兄さま、わたしたちお願いがあるの」
「お願い?たちってことはキースも?珍しいな……何だい?」
目を輝かせる子供達にしゃがんで目線を合わせて、クラウスが問いかけた。
「あのね、おおがたけんが飼いたいの!!」
見たいから飼いたいに進化してない?イザベラが心の中で突っ込んだ。
袖をぐいぐい引っ張る妹の願いに、意外そうな顔でクラウスは顎に手を当てた。
「大型犬?」
「うん!ベラからおおがたけんのお話たっくさん聞いてね、すごいの!」
「ああ、イザベラは大型犬を飼っているからね、……そうか」
納得したように頷いたクラウスの瞳が、悪戯ぽく輝いてちらりとイザベラを見た。
「そうだね、僕とイザベラが結婚したら、イザベラが連れてきてくれるかもしれないな」
その言葉にワッと湧いたのは子供達だ。イザベラは思ってもなかった返しに仰天して赤い目を見開いた。
「そうなの!?じゃあ早くけっこんして!!!」
「なるほど!!さすが兄上!!」
「どうしようかイザベラ、飛び級するかい?」
騒ぎ出す子供達にまとわりつかれるイザベラを、愉快そうな王子がにこりと眺めている。
「……子供の言うことを真に受けないで下さいませ」
顔を覆いため息をこぼすイザベラに、ねえねえと子供がドレスを引っ張って無邪気な催促をする。犬を持ったまま、子供がはしゃぎまわるから再び犬の毛が舞って、また中庭に大きなくしゃみが連続で響いた。
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