第2話
イザベラ・エヴァンズを、この学園で知らぬ者はいない。
エヴァンズ公爵家と言えば、この貴族社会で最も強い権力、地位を誇る血筋である。
古くから王家を支えてきたエヴァンスの先人達は、常に王族と共にあり、最上位の爵位を持ち得ながら王族の側近や宰相、大臣、国政に携わる官僚として活躍し続けた。
エヴァンズは今もなお大木のようにその大きな枝を四方に伸ばし、あらゆる人脈をその手中に収めている。
そのエヴァンズの一人娘が、この学園に華々しく咲いていた。
溶けるような深い金色の髪を腰まで伸ばし、ツンと佇む姿。
青ざめるほどに白い頬、通る鼻筋、形の良い唇、そして何よりも目を引く赤の瞳。
先祖返り、とも言われるそれは曾祖父から受け継いだ色で、その目に畏怖する者も少なくはない。
浮世離れしたその美しさに、周囲の者達はまるで絵物語の魔女のようだと声を潜めて呟いた。
イザベラは令嬢の鑑としてマナー、教養、勉学とあらゆることにかけて優秀であり、学園の模範生徒として君臨していた。
この学園では秀でた子息令嬢をノウブル・フラワーとして名誉の称号を与え、生徒の手本として扱う制度があり、その中でもイザベラはただ一人ノウブル・ローズと呼ばれている。
貴族としての秩序を重んじる彼女は、上に立つ者として無作法者を高貴な薔薇のように赤い瞳で冷ややかに見咎める。
それは冷徹に、鋭い刃物のように。
令嬢子息の親達は、決して彼女にだけは粗相のないように、と口を酸っぱくして忠告する。
皆、彼女を誉め称え、気を遣い、あわよくば気に入られようと画策する。
「なんてことでしょう…イザベラ様はお優しすぎますわ!」
取り巻きの中でも最も身分の高い少女レオノーラが、声を上げた。
彼女も模範生徒の一人である。艶やかな黒髪を結い上げた少女は、まるでこの世の不幸を一身に背負ったかのように、それはもう悲しげに。
同調するように周囲の少女達も首を上下に振る。
「どうしてあの方はああも恥知らずなのです?」
「ええ、本当に」
中庭での出来事の後、当初の予定通りサロンが開かれていた。
令嬢達の前には使用人が淹れた香り高い紅茶の入った真白いカップが置かれている。
大きな白いテーブルを囲み、口々に囀り合い、一人の少女を貶める。
渦中の中心で、イザベラは小さくため息を吐いた。
その途端、静寂が訪れる。
「…当の殿下がああおっしゃること、一臣下である私達には、これ以上は出過ぎた真似でしょう」
紅玉のような瞳が周囲を見渡すと、少女達は怯んだ様子で口を噤んだ。その中でもやはり、息を巻いて発言するのは筆頭の少女。
「お言葉ですが、イザベラ様。まだまだ彼女にはきっちりとお伝えしなければならないことは山積みですわ。第一が、何故あの方は殿下の御名をお呼びしているのですか?婚約者であるイザベラ様でさえ敬称をお付けなさっているというのに」
「それも殿下がお許しになられていること、私の知るところではありませんわ」
眉ひとつ動かさず冷たくそう言い切ると、空気がざわめき立った。視界の端で、一人のご令嬢がそろりと慎ましく手をあげる。彼女の方に頷いて、イザベラは発言を促した。
「実は先日、兄からのお手紙で知ったことなのですが…隣国のライラック王国の第二王子様とその婚約者様が、婚約破棄なさったのです」
「まあ、あのアドニス様とクララ様が?」
隣国に留学する兄を持つ少女ジュリアの発言に、サロン全体がどよめいた。
「その理由なのですが…アドニス様が、その国の子爵令嬢と恋に落ちて、その勢いのままクララ様に婚約破棄を突きつけたとか…。皆様のご存知の通り、お二方はご結婚も秒読みとまで言われておりましたので、突然の婚約破棄にクララ様の醜聞が広まってしまい、今更良い縁談も見つからず…田舎の領地へ引っ込むことになったそうです」
あまりにも悲惨な結末に、誰もが声を無くした。令嬢達は皆、肩を抱いてぶるりと身体を震わせ合う。
「…もし自分がそうなったらと思うと、ゾッとしますわ」
誰かがぽつりと漏らした声に、誰もが頷く。
「私たち他人事じゃなくてよ、あのルーナ嬢も私たちの婚約者にべたべたとすり寄っているじゃない。恐ろしいわ」
「イザベラ様、何とかして下さいませ」
「……」
「イザベラ様?」
「…ああ、そうね」
どこか上の空で相づちを打つサロンのトップの名を呼べば、彼女は気だるげに閉じた扇を唇に当てた。
「皆さん、そんなに心配なさらないで。ご自身の婚約者様のことを、もっと信じてあげてはいかが?」
「そうおっしゃられましても…私の婚約者も、口を開けばルーナ嬢、ルーナ嬢と。いい加減うんざりします」
呆れたようにため息をつく令嬢マデリンに、周りの少女たちも同調する。
「あら、今朝あなたのお部屋にリボンのかけられた大きな箱が運び込まれて行ったのを拝見いたしましたわ。あれは…ご婚約者様からのプレゼントではなかったのかしら」
イザベラは不思議そうに首を傾げた。
「あれは……ただの婚約者としての義務感からきたものですから」
とは言いながらも、贈り物を思い出してマデリンは頬を染めていた。2日後に終業式のパーティーがとり行われる。パーティーがあると事前にそのためのドレスを男性から女性へ贈るのがこの国の慣習だ。婚約者のいる令嬢たちは自分たちにも心当たりがあるのか、心なしか先ほどより落ち着いた様子で微笑んでいる。
「婚約者に義務は果たしても、その裏でまたあの男爵令嬢に鼻の下を伸ばしているわけですわね」
刺々しい口調でそう言うのは、婚約者からドレスをまだ贈られていない令嬢たちだ。家の状況にもよって、毎回ドレスを新調してくれる相手もいれば、そうでない者ももちろんいる。だからと言って心変わりの根拠にはなり得ないはずだが、余裕のない令嬢たちは眉間にしわを寄せ悔しそうに歯噛みした。
「贈り物さえ贈っておけば、文句を言わないと思ってるのよ。腹立たしい」
「ルーナ様は一体どういうおつもりなのでしょう」
「婚約者のいる殿方にあれほど過度に親しくされるのは非常識ですのに、何よりそれを王族の方が許してしまっている現状では…私たちが何を言っても無駄ですわ」
「彼女は基本的なマナーもまだ危うく、噂になってる通り今朝なんて授業に遅刻したなんて…驚きですわ」
「イザベラ様。どうか彼女の行いを改めさせて頂きたいのです」
「それが私たちの切なる願いですわ!」
一度おさまったかと思いきや、再び彼女たちの不満が膨れ上がる。諦めたような表情で頬に手を当てる者、指を組み、目に涙を溜めて必死に請う者、怒りに目尻をつり上げ口を噤んでいる者、様々な令嬢たちの感情が一気にイザベラへと向かって行く。どうぞ、落ち着かれて、皆さん。少し疲れたようにイザベラはテーブルの上のカップに指をかける。
優雅に琥珀色の紅茶を啜るイザベラに、筆頭の令嬢レオノーラがやはり声を上げた。
「イザベラ様!イザベラ様は殿下を愛していらっしゃるのでしょう!!」
イザベラはゆっくりとカップから口を離し、ソーサーにそれはそれは慎重な仕草で置いた。
「ええ、もちろんよ」
矢継ぎ早に声が飛んだ。
「イザベラ様は殿下のどこを愛していらっしゃるのですか?」
そばかすの付いた可愛らしい頬を赤く上気させて、別の少女が問う。
イザベラは赤い瞳を宙に向け、考えるように人差し指を顎に当てた。
「そうね…あの方の、甘やかな黄金色の瞳は優しく慈悲深くて…あの艶のある黒髪も夜の色を映したようで美しいと思うわ。いつでも物腰柔らかく、それでいてどこまでも真っすぐなところが、とても素敵だと私は思うの」
アルメリア王国、第一王子たるクラウス・アルフォードは、イザベラ達よりも1つ年上の17歳の青年であり、イザベラの婚約者だ。頭脳も優秀だが剣技にも長けており、それでいて自らを驕らない。いつも柔和な表情を絶やさず、いつでも誰にも分け隔てなく紳士的に振る舞う素晴らしい王子だ。流れるような黒髪をうなじあたりで切り揃え、前髪は目にかからない程度にいつも下ろしているが、優雅に微笑む姿は既に成熟した大人にも見え、けれど声を上げて笑うときは少年のように幼い印象になる。その意外性にクラクラとした魅力を感じる者も多い。
何より、あのアルフォード王家に代々受け継がれた金色の瞳は、神々しいほどに美しく、まるで天からの使者のようだと国民たちの間でも謳われていた。
それは貴族の間でも同じで、その美しい金の瞳を一目見たい、一瞬でも良いからその目に映りたいと皆願ってやまない。
だが、いくら学園の中とはいえ、王族の顔を正面から不躾に眺めるような勇気ある行動をそう簡単にできることではなく、それが許されるのは近しい者たちに限られる。
友人、側近、婚約者。そんな立場においそれとなれるはずもない。…だからこそ、皆あの男爵令嬢を嫌悪する。
「そういえばイザベラ様は…殿下に初めてお会いされたときに熱烈に愛を告白なさったのですものね…」
2人の出会いは、王妃様主催のお茶会。実質のところお見合いのようなそれに集められたのは、年の近しい令嬢達。その場でイザベラは熱烈に愛を語り、婚約者の座に就いたと評判だった。
「……殿下は、イザベラ様のどこがお好きなのでしょう」
ぽつり、と零れた。
その言葉に孕んだ羨望と、憧憬と、───少しの嘲りが、サロンの温度を下げた。
レオノーラは、思わず自分の口をついて出たそれにサッと顔を青ざめた。
しかし意外にもイザベラは悠然と口元に笑みを浮かべていた。
「それは皆さん。どうぞ、殿下に直接お尋ね下さいな」
細められたその蠱惑的な赤い瞳が、この場にいる令嬢達全員を見下していた。
そんなこと、出来るはずも無いだろうが、と。
怯えたように少女たちは口を噤んだ。
最も権力を持つ公爵家に逆らっては生きてはいけない。そう教育されてきた令嬢たちは、失言を飲み込んだ。
第1王子と公爵令嬢の婚約は、強制力によるものと周知の事実だった。
イザベラの一方的な粘着質な愛によって、公爵家の強大な権力が動き、この婚約は齎されたものだと。
誰もがそう思いながら、誰もが王子はイザベラを愛していないのだと思いながら───それを飲み込み、お似合いだと媚びて媚びて媚びる。
魔女のごとき不吉で禍々しい瞳を持つイザベラと、天使のごとき神聖で美しい瞳を持つクラウス王子が、酷く不釣り合いだと心の底では思いながら。
イザベラは手招きで専属の侍女を呼び寄せた。赤毛の髪を白い帽子の中に押し込んだ侍女は、速やかに主人の元へ近寄る。
風を切って扇を開き、そっと侍女に耳打ちをすると、イザベラはついと視線を少女たちに向けた。
「さ、皆さん。そろそろお開きのお時間ですわ。3日後には長期休暇に入りますし、どうぞ邪魔の入らない場所で婚約者様と愛を確かめ合って下さいな」
和やかな雰囲気を取り戻し、令嬢達は安堵した表情でさえずり始める。
「あら、もうそんな時間ですか?」
「早いですわ」
いつの間にか夕暮れの橙が窓から少女達を照らしていた。
各々が侍女を呼び寄せ帰り支度をする中、誰かが問いかける。
「イザベラ様は長期休暇はどこに滞在なさるの?」
「私は実家の領地へ帰りますの」
その言葉に令嬢たちは残念そうに、声を上げた。
「まあ、今回もですか?たまにはこちらに留まって下さいな」
「王都から離れてしまわれるなんて、寂しいわ」
「ふふ、まだ終業式のパーティーがありますわよ。寂しがるには早いのではなくて?」
「本当ですわね」
「皆さんのドレス姿を見られるのが楽しみですわ」
コロコロと鈴の音を転がすような笑い声と共に、少女たちの虚飾に塗れた小さなサロンは閉じられた。