第21話
レオノーラが何度も何度も礼を述べるものだから、イザベラは居心地が悪くなって手土産を持たせて丁重にお帰り願った。幸せそうに微笑むレオノーラと、薄気味悪いほどに丁寧なセドリックを見送った後は、一気に屋敷が静けさに包まれ、イザベラの肩にドッと疲れがのしかかる。
庭先に出て犬舎を覗くと、犬たちは芝生の上で各々気持ち良さそうにだらっと日向ぼっこをしており、イザベラを見ると嬉しそうに駆け寄ったり、または安心したように耳と鼻をヒクヒクと動かして寝そべったまま尻尾をブンブンと振った。
今日は午後からレッスンも入っていない、邪魔するクラスメイトもいない、自由を手に入れたイザベラは犬舎のそばの芝生の上に腰を下ろした。
シャルロットとラウが一直線に走ってきて、イザベラの白い頬をベロンベロンと嬉しそうに舐める。
「ふふ、わかったわ。わかったから、ラウ、シャルロット、ありがとう」
なだめるようにイザベラが2匹の頭を撫でれば、鼻息を鳴らしてイザベラの両脇にドッスンと音を立てて丸くなる。
続いてアドルフとダニエルが近寄り、イザベラの足元で再びだらりと長い身体を伸ばして寝そべった。
そして最後にのっそりのっそりとマリーがやってきて、おっとりとした動作でイザベラの背中の少し後ろに腰をおろした。振り向けば優しい黒い瞳がイザベラをちらりと見ている。
「……あら、マリー。もしかして枕になってくれるのかしら、それじゃあ失礼するわね」
ぽすん、とあまり体重をかけ過ぎないように気をつけて寝転べば、イザベラの金の髪がクリーム色の毛並みと混ざる。伏せの状態で寝ていたマリーが、ゴロンと寝返りを売って、横向きに寝そべった。とくん、とくん、と少し早い心臓の音がイザベラの耳に子守唄のように届いてくる。
足元と両腕が暖かい、イザベラも寝返りを打ってラウの方に身体を向けた。大きな身体の下に腕を滑り込ませて、黒い毛並みをぎゅうと抱き寄せると何の抵抗もなく腕の中に収まる温かい生き物に、愛おしさが募る。口元の長い髭を触ったり、少し白っぽい顎の下を撫でると、くう、とも、きゅう、ともつかない気持ち良さそうな鳴き声がして、無意識に口元が綻んだ。そろり、と半立ち耳の付け根に触れると、ぴくぴくぴくと敏感に揺れる。大きくなって毛並みがしっかりとしてきたが、不思議と耳だけは子犬の頃から変わらず柔らかいふわふわの毛の感触をモミモミと揉んで堪能する。グリグリと頭に顔を寄せてぎゅうぎゅうと抱きしめると、大きな黒い毛むくじゃらの体がぴーんと伸び上がった。
その途端、ぽすりとイザベラの首元に温かくて硬い、それでもってふんふんと息遣いの荒いシャルロットの顎が乗っかる。背中を向けられて寂しくなったのか、甘えるように鼻先を乗せてくる犬にくすくすと笑って「ごめんね、さみしかった?」とイザベラが問えば、まるで人間の言葉が分かるかのようにフンッと鼻を鳴らして水気を飛ばした。
足元のアドルフとダニエルも、じわじわと横着にも身体をにじり寄らせて段々と上の方に伸び上がってきている。
頭の下ではマリーがスピスピといびきを立てて本格的に寝入り始めていた。
くああ、とラウが横に裂けた口を開いて大きなあくびをした。顔を上げて覗き込めば、健康的なしっかりとした白い歯と、びろびろと弛んだ黒色の唇がよく見える。
寝返りを打って、イザベラは再び仰向けに寝転がった。ふあ、と犬のあくびが移って口元を隠す。
青い空が真上に広がっている、犬たちの眠気に誘われてゆるりと赤い目を閉じた。
────お嬢様は殿下のことを愛していらっしゃる、それが全てでしょう
耳元で侍女の声がよみがえって、イザベラは眉を寄せた。目を閉じたまま両脇の犬を無言で抱き寄せる。他の令嬢たちに婚約者のことを愛しているか、って聞かれたら、そう答えるしかないじゃない。
────ベラは、殿下のこと嫌いなの?
今度は少年の声が、イザベラの心を揺るがせた。
好きとか嫌いとか、そういう問題じゃないでしょう。貴族にとって結婚は義務で、けれどそもそもこの婚約は最初から間違いなのだから。
────イザベラ様は私が思っていたより、殿下に無関心ではないらしい
煩わしい声に、唇を噛み締めた。
あの男は一体、何が言いたいのだろう。一体、何を言わせたいのか。
セドリックが言っていた言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。ルーナに送ったドレスはクラウス個人が贈ったものではなかった。だから、……だから?
────────もっとあなたのことが知りたい、もっとあなたに僕のことを知ってほしい
熱の籠った黄金色がまぶたの裏に焼き付いている。
とても美しい人だ、紳士的で何でもできる完璧な人。それしか知らなかったはずなのに。
穏やかで、兄弟を大事に思っていて、犬アレルギーで、実はセンスが最悪で、でも自分ではそれに気づいていない少し残念な人だと知った。
お茶会の誤解から婚約者になって、はじめは婚約者になったことさえ気づいていなくて、だけど学園に入ってからは少し話す機会は出来ても、いつも底が見えなくてどこか他人行儀で、きっと嫌われていると思っていた。
そもそも結果的に騙して婚約者になってしまった相手のところに嫁ぐなんて、後ろめたいし、苦しい。
犬が好きで、領地が好きで、いっそ穏便にこの婚約が立ち消えになって領地に引っ込んだ方がお互い幸せだと思った。
イザベラの軽率な言葉が発端でこんなことになってしまったのだから、彼に好きな令嬢がいるのなら、自分が悪者になることで罪滅ぼしになると思った。
あの神々しい黄金の瞳を見るたび、罪悪感がイザベラの胸を巣食うのだ。このおぞましい赤色が、あのきれいな目に映り込むたびに。
ベロン、と頬に生温かい濡れた感触がしてイザベラは目を開けた。
横を向けば、山吹色の瞳が穏やかにイザベラを見つめている。日の光を浴びきらきらと輝く瞳が、優しい光を宿してイザベラの赤い瞳を映し出す。
犬は人の目の色なんて気にしない。怖がったりしないし、驚いたりもしない。本当の自分を見てくれる。だから安心して見つめ返すことができる。
ゆるりと安堵を浮かべて、イザベラはまどろみの中に溶けていった。
寝こけていたのが発見され、日焼けしたらどうするんですか?と真顔の侍女に説教を喰らうことも知らず、5匹と1人はわちゃわちゃと引っつきあって、幸せそうに眠り込んだ。
平穏が長く続かないものだと、誰が決めたのだろう。
「お嬢様、クラウス王太子殿下よりお手紙が届きました」
差し出された手紙の裏は、王家の紋章の封蝋で几帳面に閉じられていた。
犬たちの前にその手紙を差し出してみたが、ヤギではないので誰も食べようとしない。仕方がないので開封してみれば、要約すると「遅くなって申し訳ない、イザベラが良ければ、1週間後に王宮へ遊びにきてほしい」という内容が書かれていた。
ずっと領地で犬と戯れるイザベラに体裁よく断れるような用事はない、仮病という手に思い至ったが、ハロルドが呆れた顔をする。
「見舞いと称して、ここに来るかもしれないよ?」
「まさか、ご公務もあるのに」
「朝から出発すれば日帰りで帰れるし、婚約者が病気で伏せってるなら顔だけでも見に行かないとっていうのはありえるよね」
「いや、そんな」
「一国の王太子を仮病で来させていいの?」
何故かこの従兄弟は王子に肩入れをしがちだ。二の句が継げなくなったイザベラに、彼は微笑んだ。
「そんなに嫌なら、嘘つかずにやんわり行きたくないって断れば?」
いとも簡単にそう言うハロルドに、イザベラは口をひん曲げた。
「そんな簡単に言って、一国の王太子の誘いを理由なく断れるわけないでしょう」
「そうかな?あの王子様だったら断っても怒ったりしないと思うけど」
「そう言う問題じゃなくて……」
「なんていうか……ベラは言い訳を探しすぎだよ」
黙り込んでしまったイザベラに、ハロルドは苦笑する。
休暇が終わるまで残り10日、イザベラは淑女の仮面をかぶり直してペン先にインクを浸した。




