第20話
目の前で繰り広げられる光景を傍観しながら、イザベラは侍女が用意した紅茶に手を伸ばす。
先ほどのセドリックの告白で、いけ好かないと思っていた彼に対して初めて親近感を抱いた。緊張で顔の表情筋が強張る、というのは良くわかる。
緊張を紛らわしているのか、照れを誤魔化しているのか、セドリックが自身の頭をぐしゃぐしゃと引っ掻き回すものだから、美しい銀髪はあっちこっちに跳ねまくっている。
こんなみっともない姿を学園の生徒たちが見れば、誰もが信じられないと驚くだろう。実際、婚約者であるレオノーラでさえ立ち尽くしている。
「……レオノーラ、私の態度があなたを不安にさせてしまったのだろう、悪かった。その、もし他に言いたいことがあるなら、何でも言ってくれ」
一周回って吹っ切れたのか、セドリックは目の前で当惑している婚約者に落ち着いて話しかけた。
深い緑の瞳が、優しい光を湛えて放心しているレオノーラの顔を覗き込む。ハッと我に返ったレオノーラは、想い人の慣れないその優しげな表情を直視出来なくて、両手で顔を覆った。
もはや混乱の境地だ。何がどうなってこうなったのか、レオノーラは涙腺が滲む今の感情が何なのか上手く言えない。混線した思考回路で、思い出したことが口からこぼれ落ちた。
「で、すが……セドリック様は、私に銀の刺繍のドレスも緑を基調としたドレスも贈ってくださらないではありませんか…いつもオレンジとか黄色とかばかりで……だから、私はいつも…」
両手で顔を覆って、くぐもった涙まじりの声がセドリックの耳に届く。
彼はぐぅ、と呻いて、パンと強く自分の額を叩いた。
「私だって貴方に私の色のドレスを着てほしいと思っているさ…!だが……たかが学園のパーティーでそんなものを贈りつけたら、束縛心の強い男だと思われて嫌われるんじゃないかと……思っていた」
「そ、んなの……だって、私、マデリン様が羨ましくて…」
「マデリン様?……ああ…いや…アルベルトは、そういうことをしてもあまり重く感じさせない性格だから、私が贈るのとは印象が全然違うだろう…」
侯爵令息のアルベルトは、人懐っこく愛嬌のある性格の男だ。誰とでも分け隔てなく仲良く出来る明るい性格ゆえに周囲の人に好かれやすく、婚約者であるマデリンはやきもきとしているが、パーティーがある度に自分の瞳の色のドレスをプレゼントされているあたり彼女の杞憂にすぎない。
ぶちぶちと文句を垂れながらも、婚約者に愛されている証しを持っているマデリンのことが、レオノーラはいつもいつも羨ましくて仕方がなかった。
セドリックは嗚咽を堪えながら涙を零す少女の顔を覆う、その白い指をそっと掴んでゆっくりと下ろした。涙に濡れた輝く瞳が、外気に晒される。
「……君の瞳はブラウンだが、光の加減でオレンジがかって見えたり、よく見ると虹彩の部分はもっと明るくて……あー……その、綺麗だから、いつもそういう色を選んで贈るようにしていたんだ」
イザベラはその言葉を聞いて、生ぬるい視線を向けた。その脳裏にレオノーラ作の刺繍作品(力作)が思い浮かぶ。
「すまない、本当の私はこんな格好悪くて、デリカシーのないダメな男なんだ。君の前では良いように見せていたくて、……それが裏目に出て君を傷つけてしまうなんて思ってもみなかった」
婚約者の手を胸のあたりでぎゅう、と握りしめて、セドリックは懇願するように彼女を見つめた。
「だが…私の婚約者は君以外考えられないんだ。どうか、考え直してくれないだろうか」
「セドリック様……」
いつの間にかレオノーラの涙は別の意味を持ち、ハラハラと溢れて行く。
「頼むから、こんなところに一人で行かないでくれ」
緑の瞳に映る、少女がふわりと微笑んだ。
「セドリック様……!…私、……こんなことなら、もっと早く素直に言えば良かった、私もあなた以外の婚約者なんて、考えられませんわ…」
「レオノーラ…」
心底安堵したようにセドリックは表情を緩めた。握りしめていた手を離し、涙に濡れる少女の頬をそっと指で拭う。
見つめ合うともうお互いしか映らない、酷く幸せな気持ちで寄り添い合う2人の世界に、唐突に大きな拍手の音が割り込んだ。
慌てたように振り向くと、大きなため息を吐きながらパチパチと手を叩くイザベラの姿が目に入る。
「結局、痴話喧嘩でしたのね。迷惑なこと」
冷めた顔でツン、と吐き捨てるイザベラを見て、レオノーラがゲホゲホと咳をした。
急に咳き込み出した婚約者を、セドリックが心配そうに覗き込む。
「レオノーラ?」
「ゲホゲホ、いえ、何でもありませんのよ、何でも」
犬の足裏を嗅いでうっとりしてるイザベラの姿を思い出して笑いそうになるのを誤魔化しているとは説明できず、レオノーラは曖昧な表情で首を振る。
セドリックは忌々しそうにイザベラを見て、目を細めた。
「そんなところでこれ見よがしに見物しなくとも……趣味が悪い」
「あら、私だって居たくて居たわけでありませんわ。レオノーラ様にどうしても同席してほしいと頼まれたからこそここにいるのです。……まあ、部屋に入った瞬間レオノーラ様以外見えなくなってしまったセドリック様に申し上げても仕方ありませんわね」
「な……」
ピキ、とセドリックの顔が固まる。
レオノーラはまあ、と声を上げて頬に両手を当てた。
「……!そうだ、レオノーラ……何かおかしなことを教えられたりしていないか?怖い目には遭わなかったか?」
何かを思い出したようにセドリックは不安そうな顔でレオノーラに向き直った。対する婚約者は一つ瞬きをして、くすりと微笑む。
「ええ、大丈夫です。私、本当はあなたに対して腹いせに、男遊びの一つや二つしてやろうと思ってイザベラ様の元へ押しかけたのですが」
「何だと…!?」
驚愕するセドリックに、堪えきれずレオノーラが口を押さえる。
「イザベラ様が飼っている犬の噂……ご存知ですよね?」
「……あ、ああ、殿下が気の毒でならない」
淑女と謳われる裏で、漂うその噂に、少々潔癖のきらいがあるセドリックはイザベラのことを毛嫌いしていた。彼はクラウスの友人でもあるからこそ、余計に。
そんなセドリックだからこそ元婚約者となる女が、イザベラのように愛人を囲うようになれば良い意趣返しになるだろうと、レオノーラは感情に任せてここへ押しかけたのだ。
レオノーラはおかしそうにふふ、と声を上げた。
「ですが、それが勘違いだったのです」
「勘違い……?」
何が?という顔で固まるセドリックに、レオノーラはつり上がった目を輝かせて頷いた。
「犬というのは、本物の正真正銘の犬なのです」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔だ。セドリックは言われたことを頭の中で咀嚼して、咀嚼して、咀嚼して、理解できずに聞き返す。
「………男ではなく?」
「ええ、5匹の大型犬です。来るとき見かけませんでした?」
「……ああ、確かに何か居たような気は…」
「イザベラ様は、その、大の犬好きのようですの。あの噂は、どうやら事実無根のようですわ」
「………………別の意味で殿下が気の毒になってきた」
眉間に深いシワを刻み、セドリックは呆れたように力なく首を振った。
「あなた方、いい加減にしてくださる?コソコソ耳打ちなんてして、イチャつくなら帰ってやっていただけません?」
再度、居ないもの扱いされて流石に腹を据えかねたイザベラの叱責が飛ぶ。
セドリックは可哀想なものを見るような目で、彼女を振り返った。
「何ですの、その目は……」
いつも感じの悪い男の、珍しい類の視線に思わずイザベラもたじろぐ。
「いや、おそらくだが…どうやら私はあなたのことを誤解していたようだ。今までの非礼を何と詫びれば良いか…」
「……急に何ですの」
頭を抱え始めたセドリックに、イザベラは怪訝そうにしている。
「念のため聞いておきたいんだが、…もしやあなたも、殿下がルーナ嬢に懸想しているなどと思っているわけでは……?」
バサバサの頭をした男が、顔を上げて恐る恐るイザベラに問いかけた。
「さあ、少なくともドレスを贈る仲なのでしょうから、私からは何も」
つまらなそうな顔でイザベラは首を傾げた。
セドリックは無言で額を押さえ、ズルズルと前髪を上げていく。
「……罪滅ぼしになるか分からないが、一つだけ言わせてもらう」
「罪滅ぼし?」
訳がわからない、という表情でこちらを見つめるイザベラに、セドリックは苦々しく頷いた。
「ルーナ嬢についてだが…あまり知られてない上に、あなたのような身分の者には縁のない話だからご存知ないと思うが。アイリス王立学園には特定の生徒に対してちょっとした支援制度がある。あー……言い方は悪いが、貧乏貴族の令息令嬢に対して、在学中はある程度援助を行うことになっている。つまり、別に殿下個人からルーナ嬢にドレスを贈った訳ではない……ということを知っておいて頂きたい」
突然何を言い出すのか、その初めて聞く事実にイザベラは少しだけ顔色を変えた。何を言うべきか逡巡するように視線を彷徨わせるイザベラの脳裏に、クラウスの瞳の色がちらつく。
「…それでも、殿下はルーナ様に、お揃いのお色のドレスをお贈りになられたわ。それに…」
白いドレスに、金の刺繍がキラキラと輝く。輝く少女の栗毛が楽しそうに揺れる。
ッフ、と吹き出すような音がして、過去に飛んでいたイザベラの意識が部屋に戻る。レオノーラの肩を抱く男は、珍しく眉を下げて微笑んでいた。
「失礼。どうやら取越苦労だったようだから、少し安心して」
同意を求めるようにレオノーラに視線をやって、セドリックは肩をすくめた。
「イザベラ様は私が思っていたより、殿下に無関心ではないらしい」
そう言われて、イザベラは息を飲んだ。
「……訳の分からないことを、おっしゃらないで。仲直りが終わったなら、さっさとお帰りになって下さいな」
顔を背けて、イザベラは扉を指し示した。
窓から差し込む光は強くなって、もう昼になっている。お騒がせな恋人同士のせいで、すっかり時間を無駄にしてしまった。




