第19話
食卓の席に現れたレオノーラの顔を見て、イザベラは開口一番不思議そうに問いかけた。
「あら、レオノーラ様。昨日はあまり眠れませんでしたの?」
「いえ……何だか夢見が悪くて」
いつも通りのイザベラの顔を見てレオノーラはそろりと視線をそらした。
夜中見た光景が衝撃的すぎてなかなか寝付けなかったレオノーラとは対照的に、イザベラは犬と思う存分触れ合えて元気だ。
少し様子のおかしい同級生を気にせず、朝食に手をつけ始める。
「ああ、そういえば、レオノーラ様」
「は、はい、なんですの?」
「本日、当屋敷にセドリック様がお越しになられます」
ナプキンで口元を拭いながら何でもないことのように言うものだから、はあそうですか、とレオノーラは一瞬普通に頷きそうになった。
「………え、………ええ!?」
みるみるブラウンの目が大きく見開かれて、カチャンと金属音が響いた。レオノーラが驚きのあまりカトラリーを取り落としたのを、眉を潜めて赤い瞳がジッと咎めるように見る。
「あの……イザベラ様、ご冗談ですわよね?」
「いいえ、このような冗談を言っても仕方がないでしょう?連絡によるとかなり早朝に王都を出発されるとのことでしたし、午後になる前に到着されるのではないかしら」
食卓の壁に取り付けられた時計は7時を過ぎたところだ。肝心の叔父と叔母は朗らかに「お友達が多くて良いことだ」と笑っている。
「何故、セドリック様がここに……ま、まさか。イザベラ様とセドリック様は…」
ショックで放心していたレオノーラが、ハッとしたようにイザベラを見た。
「あなたに用事があるそうです」
どうもこのご令嬢は思い込みが激しいところがあると、この2日で学んだイザベラは簡潔に否定した。
「ああ……わざわざ私に会いにここまでいらっしゃるなんて、まさか怒ってらっしゃるのかしら……。もしかして私の方から婚約解消を申し出たのが癇に障ったのでしょうか?」
顔を蒼白にして、わなわなと震える指で自らの頬を多い、レオノーラは悲観的に天を仰いだ。
食卓の席で小劇場が再び幕を開けそうになり、ハロルドが食事の手を止めてしげしげと興味深そうに見入っている。
「……さあ、知りませんわ。とりあえず、セドリック様がお越しになるまでに、レオノーラ様は荷物をまとめておいて下さいませ」
「そんな…どうしてですの!私はこちらで傷心を癒そうと思っておりますのに……」
恨めしそうにそう言われて、イザベラは涼しい顔で肩をすくめた。
「わがままをおっしゃるなら、私、お二人のお話し合いに同席致しませんわよ。そもそも関係ありませんし……」
「私、すぐに荷物をまとめて参りますわ」
早々に席を立ち客間へすっ飛んでいくレオノーラを見送り、疲れたようにイザベラはため息をついた。従兄弟は他人事のように頑張れ、と一言投げかけた。
馬車が到着したのは10時を少し過ぎた頃で、イザベラは使用人たちと玄関で彼を出迎えた。
学園の3年生であるセドリック・ダルトンは、出迎えたイザベラを視界に入れて冷ややかに目を細めた。絹糸のような短い銀色の髪に、濃い緑の瞳、精悍な顔立ちながらその表情は無表情でイザベラに形式的に紳士の礼をとる。
「本日はこちらからの急な申し出だったにも関わらず、訪問の許可を頂き感謝いたします」
「とんでもございません、あなたが最近では一番まともな対応でした」
「は…?」
訳の分からないイザベラの返答に、男は困惑気味に顔を傾ける。
「いえ、こちらの話ですわ。それより、セドリック様。あなたには彼女を早く連れ帰って頂きたいのです」
「…レオノーラは、やはりこちらに」
婚約者の名前が出て、初めてその無表情にほんの少し変化が宿る。
「ええ、一昨日から滞在されてますの。正直あなた方のいざこざに巻き込まれて、迷惑しております」
「それは、…申し訳ない。ところで、彼女に余計なことを吹き込んではいないでしょうね?」
「余計なこととは?」
黒い上着の襟を撫で付けながら、侮蔑の籠もった緑の瞳がイザベラを見下ろした。
「あなたの領地でのお遊びについて、ですよ」
「お遊び……何のお話ですの?」
「はあ、わかりました。話す気がないのなら、彼女に直接聞きます。彼女はどこです?」
深い緑の目を剣呑に細めて、男はふいと冷たく顔を背けた。
いつも彼はイザベラに対して敵意を向けて、必要以上に関わり合いになることを避けている。
「レオノーラ様は客間にお通ししておりますわ。あなたもどうぞ、そちらへご案内いたします」
淑女として内心の苛立ちを表面に出すことなく、イザベラはゆったりと優雅な所作で歩き出した。
ピリピリと張り詰めたような空気の中、ようやく辿り着いた客間ではレオノーラが今朝の狼狽っぷりが嘘のように冷ややかな顔つきで窓辺に手をついていた。
高く結い上げた黒髪が顔の皮を引っ張り、彼女の目尻を更にきつく見せている。
「お久しぶりですわ。セドリック様」
「レオノーラ」
怒気のこもった声色で名を呼ばれ、心臓が飛び出そうになるのを落ち着かせながら、レオノーラは息を吸った。
「あの手紙は何のつもりだ?」
静かな部屋の中、セドリックの背後で扉が閉まる音がやけに大きく聞こえた。
ツカツカと革靴を荒く鳴らし、すぐ目の前まで近づいた婚約者の鋭い視線がレオノーラを見下ろしている。その緑の瞳を間近で直視するのが嫌で、短く息を吐いて窓の外に視線をやった。
「何のつもりも、手紙に書いてある通りですが。セドリック様は、ルーナ様がお好きのようですので、私は淑女として潔く身を引こうとしたまでですわ」
「何を馬鹿なことを言っている?しかもこんなところに来て……どれだけ私が」
「どれだけ私が好きなんだって?随分と自惚れた発言ですわね!ですがその通りですわ、私はあなたを想うからこそ、あなたを解放することに決めたのです」
「いや……、レオノーラ話を」
何かをセドリックが言っているが、今のレオノーラには彼の言葉など何も聞こえないし聞きたくもなかった。
途中で話を遮って、感情が高ぶるままに話していると感極まって泣いてしまいそうになる。そんな無様な姿はとてもじゃないが見せたくなくて、レオノーラはできるだけ冷静さを意識しながら一度つばを飲み込んだ。
「いえ、いいのです。あのクラウス王太子殿下まで夢中になられるくらいなのですもの、ルーナ様はとても魅力のある方なのでしょう。セドリック様がルーナ様にお気持ちを寄せられるのは、当然ですわ」
レオノーラが一息にそう言い切ると、セドリックは不可解そうな顔で頑なな婚約者を見下ろした。
「クラウス殿下……?」
一体何を吹き込んだんだ、と言いたげにセドリックがジロリとイザベラの方を睨む。
イザベラは既に椅子にゆったりと腰掛けて観賞する体勢に入っており、身に覚えのない非難の目を向けられて肩をすくめた。
苦虫を噛み潰したような顔で歯噛みして、男は心底困ったように前髪をかき上げて唸る。
「あー……何やら誤解しているようだが、私はルーナ嬢に懸想してなどいない」
「気を遣って頂かなくても良いんですのよ。セドリック様は私といる時より、彼女といる時の方が楽しそうですわ」
「そんなことはない」
ちっとも信用ならないとレオノーラはそっぽを向いた。
「君が思っているようなものではない、ただ……」
「ただ?」
いいあぐねるように閉口するセドリックを、すかさずレオノーラは追求した。
「殿下を含め、私たちにとってルーナ嬢は貴重な存在だから」
その言葉を聞いて、レオノーラはガンと頭を殴られたような衝撃を受けた。
「な、な、な、……なんてこと…ルーナ様が特別な存在だなんて……!うう、わかりました。そこまでおっしゃるならやはり身を引きます、ええ、ええ、わかっていたことですから」
「いや、だからそうじゃない、最後まで聞いてくれ」
身を引くと決めたはずなのに、いざはっきりとセドリックの口からルーナへの想いを聞いてしまうと、やはりショックを隠せなかった。ボロボロとブラウンの瞳が涙に濡れ、狼狽えた男は自身の銀髪を掻きむしった。
「ああもう!!レオノーラ!!」
大きな声で名前を呼ばれ、自分の世界に沈み込んでいたレオノーラは濡れたまつげを瞬かせた。無感動な婚約者が、こんな風になりふり構わず叫ぶ様子を見るのは初めてだった。
「頼むから最後まで話を聞いてくれ」
緑の瞳が懇願の念を宿して、レオノーラを真っ直ぐに見つめていた。その真剣な表情に、思わず口をつぐむ。
「言い訳に聞こえるかもしれないが……私の父は宰相だろう、そんな父を幼い頃から見ていた私は、いつか父のように国を背負って立つような人間になりたいと思ってきた」
「そんなこと、存じ上げております。私、ずっとおそばで見てきましたもの」
話を遮らない程度に、レオノーラはぼそぼそと弱々しく呟いた。
「国にとって、最高の権力を持つのは王族だ、ついで貴族。だが、人口の割合的には、圧倒的にその他の平民が占める。つまり平民がいなければ国というものは成り立たない。そのくせ、我々は日常的に平民たちと気安く接する機会はほぼない。……ルーナ嬢は貴族だが、8年近く平民として過ごしてきた特異な女性だ。彼女は悪くいえば貴族らしくないが……その代わりに私たちの知らない視点、つまり平民たちの視点から物事を見ることができる。だから、学園にいるうちに彼女から市井の生活を書物や知識ではない、経験者の視点から色々と聞いたり、相談に乗ってもらっていたんだ。生まれてこのかたずっと貴族として育ってきた私が知らないことを彼女は多く知っているから、なかなか興味深くてついつい君の前でも彼女の話題を出してしまった。……すまない、悪気はなかったが、君の気持ちをもっと考えるべきだった」
酷く反省した様子でセドリックは目を伏せ、グッと唇を引き結んだ。その珍しい表情をぽかんと見上げて、レオノーラは困惑気味に眉を下げた。
「ですが、……私には関係ないのでしょう?」
「それは、……すまない、言葉が足りなかった。ただ、こんな事情を話しても君にはつまらないだろうと……何より、平民であった過去のあるルーナ嬢を利用しているとも言える私を、君は軽蔑するかもしれないと思って、あまり言いたくなかった」
落ち着きなく自分の首や耳に手をやって、セドリックは苦々しく口元を歪めた。
しかしレオノーラはくすぶる疑念が消えず、信じられないとばかりに首を振る。
「ですが、私といると、いつも怒ったような顔をして……私のことが嫌いだからでは」
「違う!ただ君の前では……」
そこまで言って、あーとまた意味のない言葉を呟いて、観念したように大きなため息をついた。
「緊張するんだ、君が私には勿体無いほど素敵な女性だから」
大きな片手で目元を覆って、何かと葛藤しながらズルズルと手を移動させてで前髪を上げていく。
「私はあまり感情が顔に出にくいようで、意識すると余計に……それに、君はいつも毅然としていて美しいから、あまりヘラヘラするのは良くないと気を引き締めていたんだが……」
徐々にしりすぼみになっていくセドリックを、呆然とレオノーラは見つめることしかできない。
「……ごめん、言い訳ばかりだ」
呆気にとられたように見つめる、その透き通るブラウンの瞳に気が付いて、セドリックは自嘲気味に眉を下げた。




