第1話
愛らしい少女が柔らかく跳ねる栗毛をなびかせて、学園の廊下を駆ける。その白い頬は隠しきれない嬉しさで赤く上気し、息を弾ませて中庭にいる青年に声をかけた。
「クラウス様!」
「っわ、…驚いたな。君か、ルーナ」
振り向いた顔は甘く微笑んでいて、王家の証である金色の瞳がとろりと蜂蜜のように反射する。クラウス・アルフォード。このアルメリア王国の第一王子たる青年は、優雅な仕草で少女の方へ向き直った。
「どうしたんだい?」
「えっと…その、クラウス様のお姿が見えたので、嬉しくてつい…」
えへへ、と照れ笑いを零して、少女は青年を見上げた。
「君は面白いな…」
青年はきょとんとしたあと、軽く吹き出した。額を隠す深い漆黒の髪が、笑い声と共に揺れる。傍についていた従者も呆れたような仕方なさそうな顔で肩を竦めている。一国の王子であるクラウスに、いくら学園とはいえ用もなく声をかける者など滅多にいない。あらゆることに規格外の少女に対し、驚きと物珍しさと、興味を覚えていた。
少女はボウマン男爵家の一人娘で、つい最近まで庶民として過ごしていた。幼い頃人攫いに遭い、運良く道中で逃げ出せたものの帰り道も分からず、孤児として田舎町で育ったという。13歳になる頃、今から約2年前に偶然見つかり、ボウマン夫婦と感動の再会を果たした。それからというもの、マナーのレッスンやら教養やらを教え込まされたらしいが、どうにも付け焼き刃の感覚が拭えず、普通の令嬢とは一風変わったところがある。
「聞いて下さい、今日は朝からついてるんです!朝起きて寮の窓から空を見上げたら、大きな虹がかかってたんですよ。こ〜んなにおっきな!クラウス様も見ました?」
「虹?いや…残念だが見ていない。」
「ええ!あんなにキレイだったのに……。クラウス様、駄目ですよ!ちゃんと毎朝お空を見ないと、もったいないですよ!」
「…確かに。君の話を聞いてると僕は今朝とてつもなく、もったいないことをしたような気になってきたよ」
全身全霊で感情を伝えてくる少女に、クラウスは思わず笑った。彼女は何でも無いようなことを、素晴らしい宝物であるかのように話す。
「あっ!そうでした!あの、そういえば今日のお昼休みに、お菓子を作って来たんです。よかったらクラウス様、貰って頂けませんか?」
少女は笑ったり、怒ったり、ころころと表情を変え、突然思い出したようにいそいそとポシェットを探り、ラッピングされたクッキーを取り出しておもむろに差し出した。少しの間の後、クラウスは微笑んでそれを受け取る。
「ありがとう」
「はしたないこと」
温かな空間を切り裂くような、冷たく尖った声が降った。びくりとルーナの身体が強ばる。
2人のいる中庭に面した廊下に、厳かなブロンドを翻し、ゆったりと扇を口元に翳して現れた少女は、恐ろしく真っ赤な瞳を爛々と光らせてルーナを見ていた。
「ごきげんよう、殿下、ルーナ様」
「ああ」
「ご、ごきげんよう、イザベラ様」
凍り付いた空気の中、場違いにも親しみのある挨拶が交わされる。クラウスはため息をついてさり気なくルーナを背中に庇った。背丈のある彼にすっぽり隠れる小柄な少女は、少し震えていた。
その気遣いに苛立ちを隠さず、イザベラは扇を音を立てて閉じた。
「ねえ貴女…どういうおつもりなのかしら?」
「イザベラ様…?あの、どういうって…?私、クッキーを焼いたので…ただ、クラウス様にそれをお渡ししただけですが…」
おそるおそるルーナがそう言うと、イザベラは王子の手にあるそれに視線を動かした。
つり上がった目尻をピクリと震わせ、蔑むように吐息を零す。
「どうして?」
「え?」
尋ねられた問いに少女は首を傾げた。
イザベラは理解力の無い子どもに言い聞かせるよう、いやにゆっくりとした口調で再度丁寧に問い直した。
「どうして、あなたが、殿下に、手作りのクッキーを、差し上げたの?」
「…?それは、クラウス様に食べてほしかったからです!」
「殿下に召し上がって頂きたかった、というのが正当な理由になり得るというのかしら。あなたは、殿下の何なのですか?そもそも貴族の令嬢として、厨房に立つなんてありえないとは思いませんの?コックも災難ですわね」
「えっと、私はクラウス様の友達です!あの、お菓子は渡す人の手作りの方が真心がこもって美味しいと思います!でも、…最初は厨房に入らせてもらうまでが大変で…色々あって私、学園のコックさんと仲良しになったんです!」
えっへん、と得意げにルーナは胸を張った。イザベラは未知の生き物を見るようにマジマジと少女を見つめ、ため息をひとつ。赤い唇を歪ませ、今度は王子に視線を向ける。
「殿下、品位の無い女性と付き合えば、貴方様の評判まで落としかねませんわよ」
「面白い子だろう、彼女は。」
くすりと微笑んで、彼はルーナの頭を軽く撫ぜた。少女はひゃあ、と頭の痛くなるような声を上げてわたわたと顔を赤くしている。
「あなたは少し頭が固過ぎるよ、イザベラ。ここは王立学園だ、ここでは身分など関係なく、皆が平等だと言ったはずだろう?」
「クラウス様…」
ルーナはうっとりとした表情でクラウスを見上げた。空を映したような少女の瞳に、敬愛と憧憬、そして密やかな恋の色が入り混じる。
紳士的で柔和な笑みを浮かべた彼に窘められたイザベラは、感情の波を抑えるように一度目を閉じた。
ゆっくりとその瞼が開かれ、その毒々しい赤色が露わになる。冷ややかな表情で、彼女はクラウスを見返した。
「ええ、そうでしたわね。殿下のおっしゃる通りですわ。…ですが、私はこの学園の模範生徒なのです。そして殿下の婚約者としての立場としても、皆に手本を示して行かねばならぬ身。規律無き場所には暗黙の規律が存在するもの。───殿下もあまりお戯れが過ぎませんよう、くれぐれもお心にお留め置き下さいませ」
ゆるりと優雅な一礼をして顔を上げる…刹那、金色の巻き毛の隙間から鋭利な赤い瞳が覗く。
イザベラは取り巻きの令嬢達を従えて踵を返した。
「あっそういえば!」
ルーナの素っ頓狂な声が中庭に大きく響いた。令嬢たちが怪訝そうに振り向く。
「イザベラ様は今朝の虹、ご覧になりましたか!?すっごく大きくて綺麗な虹!」
「虹?」
はしゃぐ少女に、振り返ったイザベラが小首をかしげた。
「はい!イザベラ様も見てないんですね!すごくもったいないですよ!!!今朝、起きたら窓の外にとぉーっても綺麗な虹がかかっていたんですよ!クラウス様も見てないっておっしゃってて、本当にもったいない…!」
イザベラは暫く沈黙して、身振り手振りを大げさに大声で話す少女を3メートル先から見つめた。取り巻きの令嬢達は一様に顔をしかめている。
「…ルーナ様」
「はい!!」
「私達が何故、虹を見ていなかったかお教えしましょうか?」
「えっ?理由があるんですか?」
「あなたが起きてご自分のお部屋から窓の外をご覧になっていた頃、私たちは遅刻せずにちゃんと教室で授業を受けていたからですのよ」
「…………………………あっ」
クスクス嘲るような笑いがあちこちから反響する。横にいる王子までも、堪えきれずに少し笑っている。
先ほどの高揚が一気に引いて、ルーナは気まずそうに縮こまった。
イザベラは目を細め、金の髪をなびかせて踵を返す。そして今度こそ振り返ることなく、笑い声を響かせながら令嬢達と共に校舎の奥へと去っていった。
なんとも言えない沈黙が落ちる。
「ご、ごめんなさい、クラウス様。私の所為で…イザベラ様を怒らせてしまって…和ませようと思ったんですが…」
しゅんと落ち込んだ顔で、ルーナは自身の亜麻色の髪をぎゅっと両手で掴んだ。クラウスは優しげに微笑み、首を振る。
「いや、彼女のことは気にしないでくれ。こちらこそすまなかった。イザベラは令嬢の鑑として育てられて来たからね、融通が利かないんだ」
「……で、でもでも私、いつかイザベラ様とも仲良くなってみせます!」
胸を張ってそう言うルーナを見て、ポツリと彼は呟いた。
「どうかな、僕にも彼女が何を考えてるか分からないのに」
「なんですか?」
少女が聞き取れず聞き返すと、何でも無いと彼は誤摩化すように優しく微笑んだ。
「君のように感情豊かな子の方が、よっぽど分かりやすくて素敵だよ」
その言葉に、ルーナはポッと頬を赤く染めた。