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第18話


昼食を食べた後、家庭教師の授業の間は流石にレオノーラも遠慮して客間で過ごすことにしたが、あまりにも暇なので午前中の刺繍の続きをしていた。

一人でいると切ない気持ちがよみがえってきて涙が出そうになった。

だがイザベラの言っていた通りその思いを込めて刺繍の続きをひと針ひと針ゆっくり縫っていくと、自分の気持ちが糸を伝って生地の中に縫い込まれて行くような気がした。

チクチク、チクチク、と全てを忘れるように没頭して、気がつくと刺繍は完成し時間がかなり経っていた。

イザベラのダンスレッスンが終わり家庭教師が帰る頃、使用人がレオノーラを呼びにきた。

そのまま書斎に案内されると、少ししてイザベラも同じようにやってきた。

「お待たせしてしまって申し訳ないですわ、レオノーラ様。何もないところですから、退屈でしょう」

退屈なら帰ってもいいよ、と言外に滲ませながらイザベラが赤い瞳を細める。しかし意外にもレオノーラは首を振って否定した。

「とんでもございませんわ!先ほどもイザベラ様にご教示頂いたおかげで、とても有意義な時間を過ごせましたの。見てください」


そう言って笑顔で差し出されたのは────

白い布地に施された小さな()()()()()()()……の刺繍だ。


暗い灰色から明るい白色まで巧みに使い、細部の明暗や顔の彫り、銀髪のひと筋ひと筋まで繊細なまでに本物そっくりに表現されている。

正にリアル。

リアル過ぎてむしろ気味が悪い。しかもなんか目が合ってる気がする。

「セドリック様への身も千切れるような切ない想いを込めながら、縫いましたの……なんだか少し心が軽くなった気がしますわ」

そう言ってレオノーラは気の強そうな眉を下げ、照れたように頬を染めた。

イザベラは逡巡して、無難な言葉を探す。

「そう……その、お上手ですわね」

「本当ですか?嬉しいですわ、イザベラ様にお褒め頂けるなんて…!時間の都合上、瞳の部分は省略して緑系統のみで仕上げてしまったのですが、セドリック様の瞳は深い緑色に、光の加減で青みがかって見えたり、よく見ると瞳孔の周りの虹彩は黄に近い茶色混じりでとても美しいのです…その辺りを省略してしまったのは反省ですわ」

「そう……」

今後何の役にも立たないであろう非常にいらない情報を覚えてしまったイザベラは静かに相槌を打つ。

何も見ずに今日の短時間でこの変態的なまでの仕上がり、レオノーラのセドリックへの深い愛が恐ろしいくらいに伝わってきてイザベラはそっと目をそらした。

「では、本を読みましょうか」

触らぬ神に祟りなし、君子危うきに近寄らずという気持ちで話題を変える。

さて、読書をしようという段階になって、本を選ぶ際に後ろからレオノーラの声がぼそりと聞こえてきた。

「イザベラ様のことですもの、さぞ素晴らしいご本をお読みになられるんでしょうね…」

「……どうかしらね」

ひくり、とイザベラのこめかみが痙攣する。

なんだそれは、前振りと言う名のプレッシャーか?

妙な重圧を背にして書庫の奥へと消えていくイザベラを、輝いたブラウンの瞳が見つめている。

時間をかけて選んだのか、イザベラが本棚の奥の方からようやく戻ってきた。その手に持っている本を見て、レオノーラは声を上げた。

「ああ!それはプラム・フィリップスの『天と地』ですわね…!」

「ええ」

「…しかもライラック語ですの?文学を翻訳無しで読むなんて流石イザベラ様ですわ……!!」

「……」

「私も頑張れば読めないこともないですが…頭を使うのでつい翻訳済みの著書を手に取ってしまいますの」

「…レオノーラ様、少し静かになさって。あなたも何か選んでご覧になってはいかが?」

「は、はい」

ピシャリ、と叱られてレオノーラは口をつぐみ、そろそろと自分の好みの恋愛小説を探して席についた。

冷ややかな赤い瞳が厚みのある本の文字列を追っている。豊かな金髪を耳にかけ、美しい姿勢で隣国の文学小説を読み耽る姿は、切り取った絵画の一場面のように様になっている。

だが、隣国であるライラック語の書体で『天と地』と書かれた古めかしいブックカバーの下は、同じくライラック語で『名探偵カルロと犬の事件簿』という題名が隠されている。

ちょっと抜けた名探偵とその相棒である賢いラブラドールレトリバーが難事件を解決していくミステリー小説で、イザベラの愛読書だった。数日前に隣国にて最新刊が発売され、翻訳されたものが発売されるまで待てず早々に取り寄せてもらっていたのだ。

もちろんカバーの方の本も嗜みとして読んだことはある、どちらも内容はライラック語で書かれている、嘘ではない。

あんな前振りを寄越してくるレオノーラの目の前で素直にこの本を堂々と読めるのであれば、シャイを拗らせてなどいまい。


1時間ほど読書の時間を過ごし、二人は場所を移動して今度は庭先に出て犬たちと対面していた。

「犬の運動ですの?」

不思議そうな顔のレオノーラが、ボールを持つイザベラを見ている。

「ええ、躾の一環ですわ。ほら、シャルロット、取ってきなさい…………そう、いい子ね」

ポーンと投げたボールを素早く走ってボーダーコリーが嬉しそうに口でキャッチした。すぐさまイザベラの元へ飛んできて、頭を撫でられて尻尾を振っている。

「まあ、賢い犬ですわね」

「ええ、そうでしょう?」

「……ですが、わざわざイザベラ様がなさる必要がありますの?こんなこと使用人にさせれば良いのでは……」

いまいち腑に落ちないと言いたげにレオノーラは形の良い眉を寄せた。

「レオノーラ様、甘いですわ」

大きな大きな溜息をついて、イザベラは呆れたように額を押さえた。

「犬の躾というのは、飼い主が行わなくてはなりませんの。それが犬を飼うということの義務ですのよ。使用人に全てを任せてしまっては、使用人の犬になってしまうでしょう」

ギラリと赤い瞳に鋭く射抜かれて、レオノーラは体を震わせた。

「…そう、言われてみれば……そこまで考えていらっしゃるなんて…流石ですわ!!イザベラ様!」

レオノーラは感動したように両手を組んで、ほうと感嘆の息を吐いた。

その様子を一部始終、侍女のアナが珍しく微笑みながら見守っていた。振り返ってイザベラがその表情を見ていたなら、「あ、その顔知ってる」と思ったことだろうが、残念ながら彼女もレオノーラも振り返ることなく犬と戯れて時間が過ぎていった。


晩餐の席でテーブルをみんなで囲んでいると、一番奥に座った叔父が朗らかな表情でレオノーラに話しかけた。

「レオノーラ嬢、今日は1日ゆっくりできたかね」

「ええ、お陰様です。何より……イザベラ様は素晴らしいですわ!いえ、学園でご一緒させて頂いている時からわかっていたことですが、今日一日ずっとお側にいさせて頂き、改めて実感いたしました。学園の模範生徒(ノウブル・ローズ)たるイザベラ様はやはり淑女の鑑ですわ…!」

椅子に腰掛けたままピンと背筋を伸ばし、ハキハキとした口調でレオノーラは心の底からイザベラを褒め称えた。

「ありがとうございます、レオノーラ様」

「ぶっほ、ゲホゲホ」

澄ました涼しい表情で、イザベラが礼を述べる。

一連の会話にこみ上げてくる笑いを我慢してハロルドが咳き込んだ、イザベラは冷ややかな目で彼をちらりと見咎める。

「ハロルド、あなた…マナーが酷いわ。家庭教師(ガヴァネス)に報告しておきますわね」

「え、待って。マリア先生怖いからやめてよ、ごめんって!」

慌てたようにハロルドが弁解するがイザベラはツンと知らぬふりで食事を進めている。その様子を周りは苦笑いで見守り、レオノーラだけがよく分かってない顔で首を傾げていた。

和やかな晩餐の後、イザベラは自室へ戻る途中に侍女に呼び止められる。

「イザベラ様、お手紙が届いております」

侍女からこっそりと耳打ちされ、何となく嫌な予感がした。

「一応聞くけれど、どなたから?」

差出人の名前を聞いてやはりと思いながら、イザベラはげんなりした顔を見せた。


レオノーラは客間の窓を開け、夜風に吹かれながら目を閉じていた。

イザベラ様のあの噂は、()()だったのね。

ようやくそのことを受け入れられ、静かな夜の気配に紛れながら少女の心の中は確信に満ちていた。

学園でのイザベラ・エヴァンズは冷ややかな血のように赤い瞳で無作法者を見咎める正しき理想の模範生徒(ノウブル・ローズ)であり、淑女の鑑と呼ばれている。

けれどその誇り高い呼び声の裏では、知る人ぞ知る、とある噂があった。

エヴァンズの領地に、“犬”を飼っている、と。

無理やり権力を使って王子の婚約者の座を勝ち取ったものの、約5年の婚約期間中ずっと二人の関係が冷え切ったものだとは周知の事実だった。

そして学園に入学してからというもの、イザベラは長期休暇の度に毎回領地へ帰ってしまうため、もしかして領地に秘密の恋人がいるのではないか、という根も葉もない噂が流れ始めたのもごくごく自然な流れだった。

誰か勇気ある者が直接イザベラに問いかけたことがある。

イザベラ様は領地に何をしに帰るのか、と。その質問に対してイザベラは魔女のように赤い瞳をスゥと細めて、微笑んだ。

“愛しい犬に会いに帰るのよ”

うっとりと頬をほのかに色付かせて、そう言ったイザベラの言葉をまさかそのまま受け取るだろうか。

イザベラがたかだか犬に会いに田舎の領地まで帰るわけがない、皆そう思った。

噂は尾ひれがついて、いつの間にかイザベラは“領地に愛人(イヌ)を飼っている”というのが知る人ぞ知る暗黙の了解のように広まった。

レオノーラもその噂を知りながら、あれほど王子に愛されていなければ愛人を作っても仕方がないと自分のことと重ね合わせて同情していた。むしろその強かさは羨ましいとさえ思い、自分には到底真似できないと時には腹立たしくも思っていた。


けれど、全てはただの勘違いだった。


今日一日見ていて、イザベラに男の影など一切見られなかった。

実際にイザベラは犬を5匹も飼っていたのだ。

まあ、おそらく犬というのはただの口実で、この穏やかでのどかな田舎の空気でのんびりしたいだけだろう。

王都から離れたここへ来てから、段々とレオノーラも不思議と穏やかな気持ちになっていた。

「そういえば、……あの足の匂いを嗅ぐって言うのは何のことだったのかしら」

ふと目を開けて、少女の呟きがポツリと夜闇に溶けていく。

きっと、イザベラ様のジョークね。意地悪なこと。

からかわれたのだと心の中で一人ごちて、レオノーラはつまらなそうに深く息を吐いた。

途端に、ずしりと胸が重たくなる。

悲しみというものは一人になると思い出したかのように突然レオノーラを襲ってくる。

じわじわと潤んでいく目を堪えるようにギュ、と瞑って、ブンブン首を振った。下ろした黒髪がさらりと風になびく。

「私は、あの人を解放してあげたのよ!」

情けない、涙混じりの声が出た。

見上げた空はレオノーラの心のようにどんよりと曇っている。

私は、あの人を愛しているが故に、身を引くの。そう決めたのよ。

当てつけのように愛人を作ろうなんて、馬鹿な考えだったわ。

こみ上げる涙を時折ぽと、ぽと、と零しながらも、レオノーラは自分自身に必死に言い聞かせた。


───その時、窓の下の方からガサガサと植込みを探るような妙な音がした。


2階の客間の窓から見える、庭に誰かがいる。それに気がついて、レオノーラはぐいと目元を袖で拭って立ち上がった。

恐怖もあったが好奇心を押さえられず、レオノーラはそっと1階に降りて玄関へ向かう。

普段のレオノーラならばこんな無茶なことをしようとも思わないが、もう何もかも忘れたかった。何か非日常が起きて、セドリックのことを忘れられるなら。

ランプの灯りを消して、そっと庭先まで足音を立てぬよう近づいた。


……荒い息が聞こえる。

そろり、そろりと抜き足で対象に近づいていくと、やがて何やらぼそぼそと呻くような声が聞こえてきた。

少女のような甘ったるい声だ。

どこかで聞いたことがある声のように感じた。

その時、空の雲の切れ間から明るい月が現れる───


「ああ……、なんて甘く香ばしい匂い…、フゥゥ、まるで焦がしたてのカラメルのようだわ、は〜」


少女はスゥゥゥと深く息を吸い、満足そうに吐き出した。

月の光に煌々(こうこう)と照らし出されたのは、まぎれもない。

黒い毛並みの雑種の前足にこれでもかと鼻先を近づけて、くんくんくんと熱心に匂いを嗅いでいる……イザベラ(淑女の鑑)だ。

犬は少し困惑して前足を下ろそうとしていたが、イザベラが「もうちょっと!もうちょっとだけ!ね、ラウ!もうちょっとだけ嗅がせて!」と懸命に犬相手に懇願している。

レオノーラはその様子をしばらく遠目から眺めていたが、やがて目を閉じて頷いた。


「───夢、ね」


そう、結論づけた。

「……私は何も見なかったわ。そうよ、レオノーラ。私は何も見なかった」

そう呟きながら踵を返してレオノーラは客間への道のりをたどった。


ついはずみで日課について暴露してしまったものの、やはりレオノーラの前で犬といつものようには振る舞えず、今日一日鬱憤が溜まってしまったイザベラは我慢できずにまた夜中に犬に会いにきていたのだ。

触れ合いが足りなかった分、それを補充するかのように好き放題に犬と愛の触れ合いをしていたが、まさかそれをレオノーラに見られていたとは気づかず、領地の夜は静かに更けていった。

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