第15話
茂みの中からピョコリと顔をのぞかせた光沢のあるキノコのカサを彷彿とさせる。
それは目をこらすと不規則な網目状のざらついた溝のような小さなデコボコがある。
真ん中には一本くっきりとした筋が通っており、その両サイドに丸い穴が一つずつ空いている。
穴の横の部分は、外側に向かって不思議な切れ目が入っている。一定のリズムでその切れ目が膨らんで開いたり、閉じたりを繰り返していた。
眼前にある大きなそれを、労わるようにそっと指でなぞると、しっとりとした湿り気を帯びている。
好奇心を抑えられず、穴の横の切れ目をちらりと軽くめくってみた。
その瞬間、ぶふっという音とともに指がびちょっと謎の水気にぬれる。
それでもめげずにもう一度まるっこいそれに手を近づけて、今度はギュム、とつまんでみた。
ぷに、ぷに、ぷに、と軽くつまんで、その先端にちゅ、とキスをする。
その瞬間。ブシュッ!と勢いよく顔にヨダレが飛んだ。
「お嬢様、顔がえらいことになっておりますが」
「………んん?」
令嬢としてあるまじき顔で、うっとりと愛犬の鼻をつまんでいたイザベラはヨダレまみれの顔と手をそのままに侍女を振り返った。
好き勝手に鼻をいじくりまわされていた犬はぶしゅっ、とくしゃみだかなんだかよく分からない音を立てて水気を飛ばしている。
「分かってるわ、鼻はデリケートだものね……このくらいにしておくわ」
「そんな話してませんが…?」
庭先でティータイムを過ごしながら、犬を構い倒す主人に侍女はたいして減っていないお茶のお代わりを少しだけ注ぎ足した。ティータイムはもはやおまけで、ほぼ犬を構うための時間だ。
「でも可愛いのよ、見て、この鼻。……やばいわ」
「……どのあたりがやばいのか私めにはさっぱり」
おお、お…と酷く感動したような声を出して、イザベラはゴールデンレトリバーのマリーの顎の下をそっと支えた。手を差し出されたマリーは当然のようにイザベラの手の上に顎を置いて体重をかけている。
「きっと…この世のどんな素晴らしい芸術家も、この鼻に勝る形は生み出せないでしょうね…みんな違ってみんな良い…」
何を言ってるのか分からないが、いつものことなので侍女は無言を貫いた。
「何なのかしら、これは……鼻、鼻よね。そうね」
「……大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃない……かわいすぎて……」
これでもか、というほど鼻先に顔を近づけて至近距離でその大きな丸い鼻を凝視している令嬢を、侍女は残念そうに見つめた。そんなに近づいたら鼻のドアップ以外、何も見えないだろう。
「この鼻の穴の横にある切れ込みが好き………すごくめくりたい……かわいい……」
はあ、とアンニュイなため息をついてイザベラは目を伏せた。ただ鼻を触るのを我慢しているだけである。
王子様が帰ってから、イザベラは絶好調で犬ライフを満喫している。それは生き生きと、気心の知れた同郷の者たちしかいないこの場所で全力で犬と触れ合った。
しかし、ふとした時に、自室の花瓶に生けられたダリアの花に意識が行く自分がいて、そんな時は首を振って我に帰る。
そんなイザベラを知ってか知らずか、目の前に花が差し出される。
「これを、あなただと思って過ごすよ……」
くすんだ金髪の少年が雑草の花を持ってイザベラの前でドヤ顔を披露する。
一部始終みんながいる前で行われたものだから、度々生温かい視線を向けられるのだ。
「…………ラウ、シャルロット、行きなさい!」
「わふ!」
「わぁ!やめろやめろ、ちょ、悪かったって、ベラごめん」
一番若い6歳と7歳の犬がイザベラの指示で従兄弟に向かって突進する。
黒いふさふさと白黒のふさふさの2匹の巨体の勢いにドワっと尻餅をついて、ベロベロ顔中を舐められるハロルドは笑いながら謝った。
庭で対峙する、ゴールデンレトリバーとイザベラの姿がある。両者真剣な顔をしている。
「お手」
ぽん、ともっちりとした大きな肉球がイザベラの手に乗る。
「おかわり」
ぽむ、と今度は反対の前足を差し出した。
「伏せ」
ばふん、と大きな体が芝生に寝そべる。
「天才?」
ピクピク、とライト・ゴールドのふさふさの耳を動かした。褒められている、と分かるのか舌を出して笑っている。
「いい子、次はこのシェフ特製干し肉をご褒美にあげるわ」
ババっと今までくつろいでいた他の犬たちが起き上がり、5匹全員がイザベラの前にお座りしてビシッと並んだ。
期待に満ちた輝く大きな瞳が、イザベラを見上げている。
「待って、順番ね」
長い毛並みの大きな尻尾が、5匹分すごい勢いで揺れている。
「ルドルフ、お座り」
言われる前から全員兵隊のような素晴らしいお座りの整列を見せている。
イザベラは人差し指を突き出し、少々もったいぶりながら少し間を持たせて、勢い良く犬にその指の照準を合わせた。
「ばん!」
バタバタバタバタバタ
5匹の巨体が真横に倒れる。もはや爽快感さえ感じるほどに、清々しい倒れっぷりだ。
「すごいわ!完璧!天才!かわいい!すごい!」
基本的に犬と対峙する時、イザベラは語彙力を失う。
毎日、というか一日に何百回言われすぎて犬たちもほとんどの褒め言葉を覚えて理解している。特に「かわいい」に対しては敏感で、全然関係ない話で「かわいい」と言うだけで全員が振り返って飛んでくるレベルだ。多分自分の名前以上に覚えている。かわいい=自分のことだと思っている。
至福のときが続き、あっという間に2週間が過ぎた。
今の所まだ王子から連絡はない。おそらく忙しいのだろう。来るとわかっているものが、なかなか来ないと何となく気持ち悪い。
心の片隅にそのことがいつも離れなくて、いっそさっさと来てくれ、とさえ思う。来たら来たで、何と返事をしようか頭を悩ませるというのに。
そんなある日の早朝、イザベラが散歩に行くために自室で支度を整えてもらっていたところ、侍女が何やら一枚の紙切れを手にしてやってきた。
「お嬢様、先触れが届きました」
とうとうクラウスから手紙が届いたのかと、深呼吸していたイザベラはきょとりと目を瞬かせた。
「先触れ……私に?」
「お屋敷宛にもありますが、お嬢様にも別途でございます」
「王都にいる時なら分かるけど、一体誰が……」
「レオノーラ・モーズレイ様です」
学園でイザベラを取り囲む筆頭の令嬢の名前が出てきて、思わずギョッとする。長い黒髪にブラウンの瞳を持つ気の強いご令嬢の姿が脳裏に浮かび、疑問符が飛ぶ。
「レオノーラ様…?一体どうしてまた、と言うかここにいらっしゃるの?」
「はい。今朝方、早馬で届いた先触れによりますと、本日の夕刻にいらっしゃいます」
「え……今日!?」
突然すぎて仰天するあまり飛び上がった。支度をする使用人に窘められ、ハッとして大人しくなる。
「その、早すぎない?だってこちらにも事情があるし、…断れないかしら」
「既に出発された後のようです」
「そうなの……」
イザベラはズキズキと痛む額に手をやった。
どうして最近、こう言うパターンが多いのか。エヴァンズ公爵家って実はたいしたことないのかもしれない、と思いながら、ひとまず夕方の散歩を諦めざるを得ないことに悲しんだ。
何の用かは知らないが、聞かなくてもこれだけは分かる。どうせ、面倒ごとを引っさげてやってくるのだ。
つかの間の自由だった、とイザベラは遠い目をして2週間の日々を儚く思い返した。




