第14話
注意
※犬の死についての表現が多大にあります※
犬種は言及してませんが、苦手な方はお気をつけください。
イザベラと犬のヒストリーのため、恋愛パートではないので、読まなくてもそこまで支障はないと思います。
茶色の短い髪をガシガシと掻きながら、落ち着かなく扉の前を行ったり来たりしている男の姿があった。男は懐中時計を何度も確認しては、不安そうな顔でじっと扉を見つめた。
その時、広い屋敷に、大きな産声が上がった。
男の顔は見る見る喜色に満ちていき、その両手が天に向かって合わせられる。
ルーカス・エヴァンズの生きた宝石、美しい愛娘がこの世に産み落ちた素晴らしい日だった。
玉のような白い肌、母親譲りの深い金髪、そして屋敷に飾られた肖像画の曽祖父にそっくりなルビーのような赤い瞳。父親であるルーカスを目にして、赤ん坊は天使のように顔をくしゃくしゃにして笑った。
赤ん坊はイザベラ、と名付けられた。
お嬢様は天使のように愛らしいと屋敷の者たちは大層喜び、ルーカスも我が子の一挙一動を見ているだけであっという間に時が過ぎ去ってしまうことに驚き幸せそうに嘆いていた。
そう、幸せであればあるほど時が経つのは早いのだ。
ルーカスは国の外務大臣を務めており、数日は補佐官を代理に立てていたが、いつまでもそういう訳にはいかない。
だからと言って生まれたばかりの娘とその母親を、この忙しない仕事環境に付き合わせるのも気が進まなかった。
母親であるオーレリアは産後疲れもあり、暫くは安静にさせたいという気持ちもある。領地の屋敷には弟夫婦もいることだ、領地はのどかで落ち着いたところであるし、王都にいるよりは気を休めて子育てが出来るだろう。
何より、ルーカス自身が王都をあまり好いておらず、自国を愛しているからこそ今の仕事に就いているが、本来は領地に引っ込んで暮らす方がよっぽど性に合っていた。
「王都は煌びやかな張りぼてを被っただけの、魑魅魍魎が潜む恐ろしい場所だ」
深刻そうにそう告げる夫の顔を困ったように見つめながら、オーレリアは腕に抱いた我が子を一定のリズムで揺らす。
「そんなところにイザベラを置いておきたくはない。出来ることなら、イザベラには政略や思惑に利用されない、ここでずっと伸び伸びと育ってほしい」
「そうねぇ…ずっとは難しいと思うけど。それに私が寂しいわ、あなたに会えないなんて」
頬に手を当てて眉を下げる妻に、堅物男の顔が固まる。ごほん、と咳払いを零して誤魔化すように目を閉じながら額をさすった。
「その…私も出来るだけ帰ってこれるように善処する」
「この子も寂しがるわ、きっと」
ねぇ、と柔らかい笑顔で話しかけられた赤ん坊は、不思議そうに大きな赤い目をクリクリと見開いている。
「そうだね、……ああ、そうだ」
「どうしたの?」
「私が帰れないときも寂しくないよう、犬を飼うのはどうだろう」
「まあ、犬…」
名案を思いついたとばかりにルーカスは生き生きとその青い瞳を輝かせた。
「ああ、私も幼い頃犬を飼っていたのさ。犬は子供の情操教育にも良いし、寂しい時、楽しい時、いつも寄り添ってくれる優しい友人だ。丁度この間、確か…シネラリアに良い獣医がいると知り合いから聞いた、早速相談してみよう」
「あらあら、あなたったら……」
そこに冷静沈着な外務大臣の姿は見えず、ただ愛しい愛娘を思い奔走する一人の父親の姿があった。
妻はのんびりとした様子で夫を見つめ、仕方がないとばかりに我が子に微笑みかけた。
突然我が家にやってきた、小さな小さなふわふわの生き物を初めて見て、赤ん坊は不思議そうに首を傾げた。
あぶ、ば、と意味不明の言葉をつぶやいて、柔らかい手がその前足を掴む。茶色いふさふさの生き物は、イヤイヤとむずがってコロンとお腹を見せた。それを見て、大きな赤い目をきょとんと丸くする。
コロコロとその生き物は転がってパッと立ち上がると、ブルブルッと勢いよく体を震わせた。そして赤ん坊の前までにじり寄って、そのまろい頬をペロリとこれまた小さなピンクの舌で舐めた。
最初はびっくりしていた赤ん坊だが、次第にキャッキャと声をあげて機嫌よく笑い出す。
それが、イザベラと最初の犬との出会いだ。
イザベラはのどかな領地で周りの大人に見守られながら、子犬と一緒にすくすくと成長した。人間に比べ犬は成長速度がとても早い。キャスと名付けられた子犬は、いつの間にかイザベラよりも何倍も大きな立派な大型犬に成長していた。
どこへ行くにもキャスと一緒で、町へ散歩に繰り出しては領民の子供たちと遊んだりした。
毎日が楽しくて、綺麗な金の髪が滅茶苦茶になるのも構わずに子供らしく笑顔で駆け回った。
そんな時間がずっと続くと疑いもしなかった。
だが、その優しかった日々はなんの前触れもなく脆くも崩れ去った。
最初の頃は大きな背中に乗って庭を駆けて遊んでいたが、少しそれが厳しくなってきたイザベラが6歳になったばかりの頃。
キャスが突然、ぱったりと眠ったまま動かなくなった。
最初は寝ているものだとばかり思ってそっとしていたイザベラだったが、いつまでたっても起きないキャスが不思議に思えて、その体を揺すった。
その体は驚くほど冷たくて、イザベラの心臓がばくばく音を立て始めた。
何が起こったのか、わからない。けれど、何か異様なことが起こっている。
焦燥にかられるあまり泣き叫びながら母親を呼んで、後のことはまるで早送りのように過ぎていった。
それは突然死で、理由は不明だった。
死というものを知らない6歳のイザベラに、愛犬との突然の別れは、筆舌に尽くし難いほどの悲しみと、喪失を与えた。
周囲の者たちはイザベラを元気付けようと努力したが、時が経てばたつほどより一層塞ぎこんで行く彼女に、みんな手を上にあげた。
見かねた母親が、夫に相談し、イザベラは王都へ移住して新しい環境で気持ちを整えることとなった。
しかし、王都にやって来てもイザベラの気持ちが晴れることはなかった。同じ年の子供達と遊ぶ機会を作っても、王都に住む少しませた子供達は、真っ赤な瞳を持つある種“異形”のイザベラを見て、怖がり、逃げ出した。中には面白がって意地悪で大げさに驚き、逃げてみせる者もいた。それに倣うように、他の子供も逃げ出す。
キャスと一緒に居た頃のイザベラは、いつも楽しそうに明るく笑っていたが、ここに来てからはずっと無表情でそれがより一層、近寄りがたさを助長させていたのだろう。イザベラとて、このままではいけないとわかってはいたから、自分から一歩踏み出そうと試みたこともある。
けれど、そんなイザベラをあざ笑うかのように、子供達は悲鳴を上げて彼女の前から逃げ出した。
それからしばらくして、イザベラは下を向いていた顔を前に向け、何かを決意したように父親に領地に戻りたいと頼んだ。父親についていきたい母親は、頬に手を当てて困っていたが、一人でもいいからどうしても帰りたいと言う娘に両親が根負けした。塞ぎ込んでいた時より不思議と元気そうだから、好きにさせてやりたい気持ちが大きかった。
そしてもう一つ父親にお願いしたことがある。
犬について、もっと勉強したい。もっと知識をつけたい。そうわがままを言って、イザベラはシネラリアに住む獣医の元へ月に一度勉強しに行かせてもらえるようになった。
キャスが死んでしまったのは、何か間違った飼い方をしていたからかもしれない。一緒に居るのが楽しくて、キャスのことを思いやれていなかったのかもしれない。
そんな気持ちから、犬について知識としてもっと深く知って行くことで、自分の気持ちと折り合いをつけようとした。
何より、イザベラはやっぱり犬が大好きだったのだ。
だから、8歳の時にまた犬を飼った。獣医の紹介で、飼えなくなった家の犬や、(獣医であるからと言って)時々獣医の家の前に捨てられていた犬を、何匹か引き取ることに決めた。引き取る際のボーダーラインは3歳で、まだ子供であるイザベラに育ち切った犬は手に負えないと獣医に判断され、そう言う犬は父親に相談して貰い手を全力で探して送り出した。
気づけば4匹も屋敷に犬がいて、すっかり懐いた犬たちにイザベラはようやくまた明るく笑うようになった。生きているときに、精一杯楽しい思い出を作ろう、気持ちにも折り合いがついて、イザベラなりに命についても理解できるようになっていた。(最初は爪を切って血が出ただけで、取り乱して獣医の家に突撃したりもしたが。知識と経験は別物だとまた勉強になった)
そして11歳の時、運命の出会いを果たした。
シネラリアの町に用事があって、そこから帰る道中のことだ。木々が生い茂る道を馬車が走っていた時、小さな声が窓の外を見ていたイザベラの耳に届いた。
それが何故だか分からないが無視できなくて、御者を止めるとイザベラは外に飛び出した。
しとしとと、外は雨が降っていた。今にも消え入りそうな声をたよりに、草木をかき分け……そして、見つけた。
「あ……」
小さな小さな子犬が、母犬に寄り添って泣き続けていた。
母犬はもう既に息絶え、それが分からずに子犬は震えて鳴いている。
ぐっと唇を噛み締め、イザベラは自分の頬を叩いた。
イザベラは急いでシネラリアに再び馬車を走らせ、2匹を獣医の元へとすぐに診せると、やはり母犬は助けられなかったが、衰弱していた子犬は数日でみるみるうちに回復した。
この子犬をどうするべきか、という段階で、イザベラはとても悩んだ。イザベラは最初に飼った犬以外、子犬を飼ったことがない。
はっきり決断できないまま、獣医の元で少しずつ元気になっていく子犬に隙を見て会いにいく日々が続く。というのも、年頃が近づいてイザベラの淑女教育が始まり、家庭教師のレッスンが山のようにあるのだ。
なかなか会いに行けない日が続いて、久々に会えたある日。イザベラが獣医の家に向かうと、小さな黒い子犬は千切れんばかりにその短い尻尾をブンブン振って、喜びに飛び上がった。
それを見て、イザベラの我慢の限界がきた。
「クラウス!ごめんね!私も会いたかったわ!!」
今までずっと頭の中でしか呼ばなかった名前を、ついに呼んでしまった。
「いい名前ね、クラウス」
獣医の妻がクスクス笑っている。ずっと会い続けているうちに浮かんだ名前が、イザベラの中でもうすっかり定着してしまっていた。
子犬を飼うのはとても勇気がいるし、怖いけど、それでも、それ以上に大好きな気持ちが抑えられなくて、黒い小さな雑種犬はとうとうイザベラの家に引き取られることになり、彼女はワンコ溺愛の一途を辿ることになる。