第13話
丘を登りながら、イザベラは落ち込んでいる自分を奮い立たせようと散歩を楽しむ愛犬を見つめ、何かを思いついたように立ち止まった。
「そうだわ。アナ、マリーを持っててくれる?あと帽子も」
「はい」
主人の突拍子も無い行動にはすでに慣れきっている侍女がマリーのリードを受け取った。
帽子は持てないので、イザベラがひょいと侍女の頭に被せる。
そしてラウの前にいそいそと移動して、背中を見せてしゃがみこんだ。
「久しぶりにおんぶしましょう、ラウ」
「ワフン」
心得た、とばかりに小さく鳴いて、ラウはイザベラの肩に前足をかけた。その黒いもふもふの足先は、靴下を履いたように少しだけ白い。
後ろ足を両手で持ちやすいように調整し、イザベラはふんっと気合を入れて30キロ近い巨体を持ち上げた。胸のフッサフサの毛並みが、イザベラの背中に当たる。
ラウは顔はシェパード犬に似ているが、耳は半立ち耳で、首回りはコリーのような白茶っぽいふわふわの襟巻きがある。
「ラウ、行くわよ!」
「ワフ!」
小柄なイザベラの背中に、キリッとした顔の大型犬が慣れたようにしっかりおぶわれている。いつものことなので従兄弟も侍女もしらっとした顔で後ろをゆっくりついて行く。
なだらかな斜面をよいしょ、よいしょと駆けていくと、あっという間に丘の上が見えてくる。
「よし、もうすぐゴールよ!」
目を輝かせて、ゴールに足を踏み出した。
丘の上が見えた瞬間、イザベラの視界に人影が映る。
「…………おかえり」
不気味な仮面を被った、黒髪の男が片手を上げた。
その肩はよく見ると、小刻みに震えている。
「………………………おはようございます、クラウス様」
「ワウ!」
長い沈黙の後、何食わぬ顔で犬を地面に下ろすと、イザベラは真顔で一礼した。
「おはよう。……起きたらあなたたちが散歩に向かったと聞いて、迎えにきてみたんだけど……ゴホン、その、悪かったね」
「いいえ、こちらこそお待たせして申し訳ございません」
いつもより素っ気なく答えたイザベラに、王子の肩がさらに震える。顔が隠されていて見えないが、確実に笑っている。
イザベラは不測の事態が起こると、鉄壁の真顔になるため勘違いされやすいが、現在彼女の内心は荒れ狂っている。
そこまで仲が良くない人に、はっちゃけている自分を見られるのは滅茶苦茶恥ずかしいものだ。特にイザベラのような普段、詐欺レベルのよそ行きの顔を持っているシャイな人間にとっては、地中深く埋まりたくなるほどに。
「お嬢様、犬たちに餌をやっておきますので、どうぞいってらっしゃいませ」
そっと侍女にラウのリードを取られ、帽子も頭に返される。ハロルドはひらひらと手を振っていた。
「ふ…朝食を食べたら、僕も少しだけあなたの犬を見てもいい?」
「はあ………どうぞ……」
笑いがなかなか止まらないクラウスと、羞恥心で真顔を極めたイザベラが、のろのろと屋敷の中へ入っていった。
朝食を食べた後はなぜか犬と会いたいと言い出したクラウスに見守られながら、ボール遊びを行った。(もちろんクラウスはあの仮面付きだ)何度かクラウスもボールを投げてみたりして、なかなか楽しそうにしていた。油断するとくしゃみが出ていたが。
犬アレルギーではあるが、犬が嫌いな訳ではない、というクラウスにイザベラは少々同情した。もし自分が彼の立場であればこの世が地獄に思える。
そして昼食後、クラウスは仮面からあの例の色付き眼鏡に装備を変え、護衛を付けてイザベラと2人で町へ繰り出した。侍女と従兄弟は薄情にも付いて来てはくれなかった…。
「のどかな町だね」
「ええ、そうですね…」
馬車を使うほどの距離ではないため、2人並んで歩いている。
そよそよと気持ちの良い風が髪を揺らした。なびく黒髪を片手で梳く顔に、琥珀色のどでかい丸眼鏡が付いている。
相変わらず違和感はすごいがあの呪いの仮面に比べたら、この色付き眼鏡の方が何百倍もマシなものに感じられた。
そんなことを考えながら丘を下りソフォラの町の中に入ると、可愛らしい小さな家々が両側に並んでいる道に出る。
「あ、お嬢様だ!お帰りなさい!」
栗毛の三つ編みの少女が、ひょこりと一つの家の扉から顔を覗かせた。その声につられたのか、隣の家の扉からも年配の女性が顔を出す。
「あら、お嬢様。お帰りなさい」
町人たちがすれ違うたびにイザベラに声をかけた。幼い頃から暮らしているだけあって、領主の娘は顔が知られている。クラウスはその様子を興味深そうに眺めながら、イザベラについて行く。
「お嬢様!今朝、すごく綺麗なダリアの花が咲いたんです、ほら、お嬢様にぴったり。どうぞ、差し上げます」
後ろで長いブルネットの髪を二つに縛った花屋の少女が、満面の笑みでダリアの花束を差し出した。イザベラは少し困ったように眉を下げたが、口元を緩ませて受け取った。
「ありがとう、嬉しいわ」
見事な大輪の赤い花を見つめて、イザベラは目を細めた。
エヴァンズの領民は、基本的にエヴァンズ家を慕っている。無理のない統治が安定して続けられているため、住みやすいと評判が良い。
「あーお嬢様だ!」
時計屋の息子が作業室の窓からイザベラに手を振っていた。
「あら、ティボルト。今日は1人でお店番なの?」
「兄貴がデートだって浮かれてさ、押し付けられたんだ」
「すごいじゃない、もう一人前ってことね」
「あー…まあ。ある程度は。でも出来ないって思ったら一旦預かって兄貴に見てもらうから」
母親と兄の3人で暮らしている赤毛の少年は、イザベラに褒められて照れたように鼻をこすった。だがその後ろで妙な丸眼鏡がじっと見ているのに気づいて、一瞬ビクッとする。
ティボルトはちらりとイザベラの顔を見て、後ろの大道芸人について尋ねようか迷ったが、結局やめた。
「どうかしたの?」
「え、いや……お嬢様の髪ってほんとにきれいだなって」
「あら、ありがとう」
陽の光に照らされて輝くブロンドを嬉しそうにイザベラがかき上げた。
「そうだ、お嬢様。その髪、ちょっとだけくれない?」
「…どうして?」
妙案を思いついたような顔をして、少年が手を叩いた。イザベラは怪訝そうに首をかしげる。
「いや、あんまり濃い金色だからさ、溶かして固めたら金塊になるんじゃないかと思ってさ!」
「…呆れた。焼けて縮れて終いよ」
やれやれと呆れたようにため息をついたイザベラに、窓から身を乗り出して少年がニッと笑う。
「この際、アドルフの毛でも良いよ」
「まあ!なんてことを!」
ライト・ゴールドの毛並みを持つ、ゴールデンレトリバーのアドルフに矛先がうつってイザベラは顔をしかめた。
「お嬢様って変わってるなあ、自分の髪の毛より犬の毛の方が大事なの?」
「当たり前でしょう。アドルフはねえ、年齢と健康に気を使った食事制限と運動、そして毎日の正しいブラッシングによってあの美しい毛並みを維持しているのよ。それをあろうことか切れですって…!」
だんだんとヒートアップして来たイザベラに、少年は怪訝そうな顔をした。
「それを言うならお嬢様だってメイドさんに毎日きれいに手入れしてもらって、美味しいご飯食べてるんじゃ」
「大型犬は人間やトイプードルみたいに切らなくてはいけない無駄なところはほぼないの!換毛のシーズンになってから出直していらっしゃい!」
「抜け毛ならくれるってこと…?ありがとう…?」
ティボルトと別れを告げ、イザベラたちは領民に度々話しかけられながら町を通り抜けて行った。店を紹介したり、小さな川に架けられた橋を渡ったり、できることは色々したつもりだが、まあ小さい町だから、あっという間に回り切ってしまった。
「申し訳ありません、クラウス様…その、あまりご紹介できるものが無くて…」
「いや、十分だよ。ありがとう。そろそろ僕も帰らなければならないし、屋敷に戻ろうか」
クラウスは終始静かで、イザベラばかり町人と話していたから、本当に楽しめたのかは甚だ疑問だった。
すぐに丘が見えて来て、2人で登る。先ほどまでワイワイと町人たちが勝手に喋っていたものだから、突然一気に静かになったように感じられてイザベラは落ち着かない気分になった。
無言のまま帰宅して、すぐに馬車の準備が整えられる。彼が帰れば、ハッピーわんこライフが心置きなく楽しめることだろう。そう思いながらもイザベラはどこかそわそわした気持ちのまま、支度をしているクラウスを庭先で突っ立って見ていた。侍女もぼんやりしている主人を見守りつつ、放っている。
屋敷の全員が総出で見送りを行うことになり、クラウスはにこやかに叔父たちに挨拶を返している。
その黄金色が、不意にイザベラを捉えた。
叔父たちの挨拶が終わり、自分の番が来たのだ。イザベラはすぐさま一礼して、鈍い表情筋を動かして口元に笑みを浮かべた。
「この度は、当領地にお越しいただき、誠にありがとうございました」
「こちらこそ、無理を言ってすまなかった。あなたは嫌だったろう」
「そんな…」
問いかけるという風でもなく、断定の口調で自嘲気味にクラウスは言った。
「ここへ来て分かった。あなたは、ここではよく笑うんだね」
「そう、でしょうか」
どう答えれば良いのか、何を言って欲しいのか、分からないからイザベラはただ、ドレスの裾を握りしめることしかできない。
「僕はずっと、あなたのことが分からなかったんだ。初めてあのお茶会で会った日、眩しい笑顔で僕を好きだと言ってくれた君は幻だったのかと…」
言う、言うのよイザベラ。
今がきっとチャンスだわ。
実は実家でクラウスと言う貴方様と同じ名前の犬を飼ってて、あの時、本当は殿下のことではなくて飼い犬のことを申し上げたのです、と。そう言うのよ。
ぎゅっと目をつぶって、顔をあげた。
「殿…っ」
言いかけた言葉が、寸前で止まる。
目の前で金色の瞳が、切なげに揺れていた。辛そうな色を湛えて、美しいその瞳が揺らぐ。
突然、苦しいくらい胸が痛んだ。
ずっと、この人を裏切っていたのだ。
でも、彼だって同じじゃないか。あの男爵令嬢に名前を呼ばせて、ドレスだってお古とは言え金の刺繍が入ったものを贈って。
でも、それとこれとはまた別の話で、彼を騙していたと言う事実は変わらなくて。
「なんだい?」
「……なんでも、ありませんわ」
イザベラは臆病者だ。
昔から、何にも変わっていない。傷つくのも、傷つけるのも怖いから。
辛くて、悲しいこと、全部全部、箱の中に押し込めて鍵をかけたはずなのに。
もう、無理にだれかに好かれようなんてしないって、誓ったのに。辛い記憶が溢れそうになる。
「もし、あなたが良ければ…なんだが」
クラウスが伺うように、罪悪感に染まる赤い瞳を覗き込む。
「今度また、王宮に遊びに来てくれはしないだろうか。…王妃もあなたと久しぶりに会いたいと言っていたから」
「王妃様が…」
優しげな王妃の微笑みを思い浮かべて、迷うようにイザベラが口を閉ざす。
「…いや、いつまでもかっこ悪い言い方はやめるよ」
細く息を吐いて、クラウスが顔を上げた。何かを決意したようなそんな表情を浮かべて。
「僕がまた、あなたに会いたいんだ。学園が始まるまで会えないのは、正直もう我慢ならない。…もっとあなたのことが知りたい、もっとあなたに僕のことを知ってほしい」
そこまで言い切って、クラウスは唇を噛んだ。
「…もう、遅いだろうか」
苦々しい笑顔だった。イザベラはすぐに答えられなくて、その瞳を呆然と見つめることしかできない。
「また改めて詳細の手紙を送るから、来てくれるかどうかはその時返事をしてほしい」
おそるおそる白い手袋をはめた指が、イザベラの小さな手に触れた。壊れ物を扱うかのような動きで、そっとその甲を撫でた。
そのまま硬直していると、その指はそのまま緩やかに、イザベラの持つダリアの花束へと移動する。
「一輪だけ、もらっても?」
その問いを理解して、イザベラはぎこちなく頷いた。しなやかな指がダリアの茎を抜き取り、愛おしげに胸に当てる。
「これを、あなただと思って過ごすよ……イザベラ」
滑らかな花びらに唇を寄せて、金の瞳が柔らかく細まった。
何も答えられずに突っ立っているイザベラをおいて、クラウスは来た時と同じ馬車に乗り、兵隊を連れて王都へと出発した。
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