第9話
カタコト、と音を立てながら、窓の外の景色がどんどん過ぎ去っていく。
アナベルの店を出て、噴水広場に戻るとすぐさま一行は再び目的地に向かって出発した。
あれから、クラウスは何処と無くぼうっとしているような表情で窓の外を見つめたまま、ほとんど口を開かない。イザベラも自らの大の犬好きであるその片鱗をちらりと暴露されてしまい、どのような顔をして良いか分からず、とりあえず普通の顔をして黙り込んでいる。
どのくらい時間が過ぎただろうか、ぼそり、とクラウスが口を開いた。
「……ポトフ」
「はい?」
「ポトフ、美味しかったよ。連れて行ってくれてありがとう」
馬車の中、向かい合うその距離は必然と近くなる。
穏やかな金色の瞳が、イザベラを見つめていた。
窓から差し込む光が、きらきらと反射して………その中に、禍々しい赤がシミのようにポツリと映る。
「……いえ、殿下のお口に合ったのなら、よかったですわ」
反射的に目をそらして、イザベラは頷いた。
「クラウス」
「え?」
「あなたが嫌でなければ…殿下じゃなくて名前で呼んでほしい」
男の懇願するようなその声色に、当惑する。
「は……わ、わかりました。その…クラウス様のお口にあったのなら、よかったですわ」
目の前の王子が何を考えてるのかわからなくて、内心ドギマギしながらイザベラはもごもごと呟いた。それを聞いて、クラウスは満足そうに目を細めた。
「そうだな…僕の知らない味だった。すごく素朴で、何というか…温かみがあった」
「それがあのお店の売りですのよ。彼女のお店のコンセプトは家庭料理ですから」
「……それに、僕の知らないあなたもいた」
何を言えば良いのか分からなくなり、イザベラは口を閉じた。
「ところで、あなたの家の犬のことなんだが」
空気を読んだのかクラウスがすぐに別の話題を持ち出したので、イザベラは安心したように小首をかしげた。
「ええ、何でしょう」
「屋敷のどの辺りで飼っているんだい。屋敷の門に入って、すぐ見えるところにいたりする?」
「どの辺り……そうですね、昼間は門の中…庭で放し飼いにしております。基本的に犬舎に入って休むようには躾けているのですが」
屋敷の中を思い返しながら、イザベラがそう言うと、深いため息が返ってきた。こめかみあたりに指を置いて、その顔色は何処と無く青い。
「…やはりそうか。ああ、ありがとう。それが少し気になってね」
「は、はあ」
ウンウン、と何度か頷いて彼は窓枠に肘をかけた。風を切って木々が通り過ぎる、小さく町が遠くに見えた。
「そう言えば…で…クラウス様は、こちらにいつまでご滞在されるご予定なのですか?」
今更思い出したかのように、その横顔にイザベラは問いかけた。
「あなたは僕に早く帰ってほしいの?」
クラウスはちらり、と目だけで振り返って、口元に意地の悪い笑みを浮かべた。
「い、いえ、別にそう言うわけでは……!」
口元に手を当てて、イザベラはせわしなく視線を彷徨わせた。
狼狽する彼女の姿を見て、クラウスは吐息交じりに笑った。
「……ごめん、意地悪を言ったね」
「…本当ですわ」
ツン、と決まり悪そうにイザベラは窓の方を向いた。
「何だろう、こっちに来てからあなたは、その…まるで別人みたいだから。つい、さ」
苦笑しながらクラウスは言葉を選ぶように言った。
「別人、ですか?」
「いつものあなたなら、“ええ、どうぞご勝手に?”とか、“是非お帰りになっては?”言いそうな気がして」
イザベラの真似のつもりか、クラウスは少し高い目の声を出しておどけたように言った。
その言い草に驚いて、イザベラは目を釣り上げて首を振る。
「わ、わ、私そんな不敬なこと申し上げませんわ!」
「そうだね、全部僕の勝手なイメージだった」
彼は自嘲気味に唇を歪ませて、目を伏せた。
「安心してくれ、明日の夕方には出るつもりだよ。公務もあるしね」
「あら、そうですか」
内心あからさまにホッとしつつ、無機質にイザベラは頷く。こう言うときこそ、表情筋が鈍くて助かった。
「そろそろ着きそうですわね、ソフォラの町が見えてきました」
長い旅にも終わりが見えて来た、赤い目を細めてイザベラは額に手をかざした。
「へえ、さっきの町に比べると小さく見えるな…」
「とてものんびりした町ですわよ。この町の丘に屋敷がありますの」
小さな家々が密集する町の端に、ぽこんと小高い丘が飛び出ている。そこに大きな屋敷が建っているのが、はっきりと見えて来た。
実際に屋敷が近づくのが見えると、イザベラの心はそわそわと浮き足立った。そんな彼女とは対照的に、屋敷に近くにつれクラウスは無言になっていった。
屋敷の門の前に着いた瞬間、その門が左右にゆっくりと開いた。鉄錆びた門がギイギイと鈍い音を立てて、完全に開ききると馬車がその中へ招かれるように入って行く。
屋敷の玄関の近くまで進むと、馬が一ついなないて、やがて引っ張られるような感覚の後静かに馬車が停止した。
少しの間の後、従者が馬車の扉を開いて到着の報告を行った。
「すまないが、先に降りてもらっても構わないか?僕は少し準備があるから。ヴィンス、彼女を頼む」
「え?ええ…構いませんが」
「イザベラ様、失礼いたします」
王子の従者にエスコートされながら、イザベラは馬車を慎重に降りた。
「イザベラ、お帰りなさい」
「叔父様、叔母様、ただいま戻りましたわ」
玄関の方からイザベラの叔父と義叔母がゆったりと近寄って来て、彼女をにこやかに出迎えた。
その後ろで兵士たちが屋敷の警備の配置に着き始める。
「彼らは王国の兵士たちかね?殿下が一緒だと聞いたが…」
「ええ、護衛の方々です。クラウス様はまだ中にいらっしゃいます」
そう言った直後に、カタ、と馬車を降りる靴音が後ろから聞こえた。
「これはこれは、クラウス王太子殿下、はるばるこんな辺鄙な領地にお越しいた…だ……」
叔父が不自然に言葉を途切らせたため、不思議に思って振り向くと、
───妙な仮面をつけた黒髪の男が立っていた。
木製らしきそれは、申し訳程度に目と、鼻と、口のようなものが彫り込まれているが、ものすごく不気味な様相をしている。おそらく、呪いの仮面だ。
イザベラは既視感を覚えながら、その姿を無言で見つめた。
(……………………えっ、………誰?)
おそらくその時、その場にいる全員の気持ちが一つになっていた。
叔父と叔母と使用人たちが、この仮面について触れて良いのか悪いのか判断できず、怪訝な顔でクラウスを見つめている。おそらくこれが王太子なんだろうな、と薄々は理解していたが、何これこわ………とこちらから声をかける勇気が出ない。と言うか声をかけたくない。
沈黙する一同に、仮面の男は優雅に歩み寄った。
真っ直ぐに歩いている、と言うことは一応あの仮面、前が見えてるんだ……とイザベラは妙な感慨を抱く。
「そんなに固くならないでください、本日はこちらから無理を言ってお伺いした身です。この格好を見ればお分かりかと思いますが、お忍びで参りました。どうぞ普通の客人として扱っていただければと思います」
「は、はあ…………左様でございますか」
見ても分からないんですが、と言う顔をして叔父は引きつった笑顔を浮かべた。
シネラリアの町で既にこの王子のセンスの片鱗を見せられていたイザベラは、とりあえず仮面の存在を無視することに決めた。
イザベラにはそんなことより、大事なことがあったのだ。
「あの、叔父様、犬たちは…?いつもならすぐ寄って来ますのに…」
そわそわと金の髪をいじりながら、イザベラはあたりを見回した。
「あ、ああ…それがハロルドが…ちょっと、犬の散歩に行ったきり帰って来ていなくてな…。殿下、申し訳ありません。息子にも後で帰って来たら挨拶をさせますので…」
「犬の散歩、それはそれは……」
かなり嬉しそうに仮面が喋った。が、そう上手くは転ばない。
「ベラ!お帰りー!」
門の前で使用人達と5匹の犬を引き連れた少年が、こちらに手を振っていた。
「あら、ハル?」
少年が飛び跳ねるようにして、こちらに駆けて来る。少しくすんだダークブロンドがさらさらとリズムに乗って揺れる、緑色の瞳が生き生きと輝いていた。
その少年を追い越すように、5匹の犬がイザベラに向かって全力疾走で向かって来た。
ぶおん、ぶおんと大きくゴージャスなふさふさの尻尾を横に振って、ひゃうう!!!わうう!!!と悲鳴のような声を上げながら一心不乱にイザベラへと突進して来る。
イザベラは駆けて来る犬を、穏やかな顔でただ、見つめていた。
むしろ両手を広げて、聖母像のように薄っすら微笑んでいる。
おそらく時間にして、5秒もない。スローモーションのような時がすぎる。
ドオオンとものすごい勢いで5匹がイザベラに体当たりして、その身体がよろめいた。
「ッ!!…イザベラっ!」
後ろから焦ったような声が聞こえて、倒れる寸前に誰かに支えられた。
だが、そんなこと今のイザベラにとってはどうでもいいことだった。
きゅうううううん、きゃううううんと子犬のような声を漏らして5匹の犬がイザベラの周りをせわしなく動き回る。
クンクンクンクンと鼻をヒクつかせて、ベロンベロンと大きな舌でイザベラの顔や手を舐めまくるから、そこら中がヨダレでべっちょべちょになっている。帽子など既にどこかへ飛んで行ってしまった。
ああ………
ああああ………ぅ……
ひょあああああかわいいいいいいいいいいぃぃぃ…………………!!!!!
イザベラは心の中で淑女にあるまじき奇声をあげ、悶絶していた。
目の前で曇りなき大きな目をキラキラ輝かせて、5匹が全員口を開けて嬉しそうに尻尾を振り続けている。
106日ぶりの感動の再会だ。
震える手でゴールデンレトリバー、マリーとアドルフの頭にそっと触れる。ハッハッハと荒い息をつきながら2匹が目を細めて気持ちよさそうにイザベラの手に頭を擦り付ける。
そうするとホワイトスイスシェパードのダニエルがイザベラの脇の下に鼻先をフゴフゴ突っ込んで、そこから無理やりグリグリと顔を出した。イザベラの腕に挟まれてドヤ顔で舌を出すダニエルの顎の下を、よしよしよしよしと撫でてやる。その近くでバタ、と突然行き倒れるボーダーコリー。ゴロンゴロンとお腹を見せてあざといポーズでシャルロットが早く撫でて?撫でて?とくり、くり身をよじっている。
イザベラはああ、と手で顔を覆った。
「ヒェ………無理…………………可愛すぎてしんどい………」
ぽすん、とイザベラの肩に何かが乗った。
丁度良い重みに振り向くと、鼻先をイザベラの肩に乗っけて、ご機嫌に笑っている犬、黒い毛並みの少しシェパードにも似ていて…でも少し違う、雑種のラウがいた。
「ああ………ラウ……!!」
「ワンっ!」
ぱあ、と顔をほころばせて、イザベラが嬉しそうに微笑む。
「ふ、ぶえッッ………クションンンンンッ!!!!!!……ふぐ……」
───突然、耳元で思いっきりどデカイくしゃみが炸裂した。
目が覚めたようにイザベラがハッとして振り返ると、自分を抱きかかえるように支えて尻餅を付いているクラウスが目に入る。
「えっ」
イザベラは目を剥いて仰天した。
王太子殿下を下敷きにしている!?
いつの間にこんなことになってるのか、さっぱり記憶が抜け落ちている。
クラウスの不気味な仮面は地面に落ちて、その素顔があらわになっていた。彼は片手で自分の顔の下を覆い、金の瞳をむず痒そうに瞬かせている。
指の隙間から見えるその顔はアレルギー反応からだろうか?
何故か、赤く上気していた。
「グッ、ふぐしゅん、へっ、へぐしゅん、ふっ、ふっ………くしッ」
立て続けにくしゃみをするクラウスと、慌てるイザベラの上に、影が落ちる。
「ベラ、大丈夫?後ろの人も……」
イザベラの従兄弟のハロルドが心配そうにハンカチを差し出した。イザベラはそれを受け取って、クラウスの顔に押し付ける。
「クラウス様は先に屋敷の方へ…」
「ワン!!!!」
嬉々として黒い毛並みの犬が吠える。イザベラは流石に冷静に立ち上がり、クラウスの身体を支えて叔父の方に向かう。
「ああ、わかった。クラウス殿下、大丈夫ですか…?」
「ワウ!ワンワン!」
嬉しそうに尻尾を振って、犬が吠える。
「ちょっと、ラウ、少し静かにしなさい!」
イザベラが雑種のラウに向かってそう言うと、王子が痒そうな目でじっとその犬を見つめた。
「…そうか。君も───ラウなんだね」
鼻をグシュグシュ言わせながら、彼は目を細めた。
「ワン!」
返事をするように、また犬が声を上げた。
その言葉に、イザベラは足を止める。
叔父に連れられて屋敷へと入っていくクラウスの後ろ姿を見つめて、イザベラはその場に立ちすくんだ。その顔色は、少し青ざめている。
「ベラ?俺たちも中に入ろうよ」
「……ええ、そうね」
そう言いながらも、イザベラはその場にしゃがみこんで、ぎゅっと犬たちを抱きしめた。
力強い抱擁に、若干苦しそうな顔をしながらも、犬たちはお利口にじっとしている。
いつもそうだ、犬はイザベラの嫌な気持ちを全部吸い取ってくれる。何も言わずに、ただ側にいてくれる。
「さあ、行きましょうか」
そう言って立ち上がったその顔は、既にいつも通りのイザベラに戻っていた。
多分、勘の良い方は既に気づいていましたよね…笑




