晴れ男と雨女
何となく気まずくて、香織はずきずきと痛む足をずっと眺めていた。
「痛くねえの?」
いとも簡単に沈黙を破ったケン。
「……痛い、です」
素直に言った瞬間、ひょいと持ち上げられた。
「わお。軽いねー。これじゃお姫様抱っこ余裕だわ」
にこやかに言って、そのまま前進する。
「え、ちょ、あの、え?」
明らかに意味不明の展開についていけない香織。
確かに痛い。確かに痛いけど……。
「いいです、歩きます、自分で歩けます!!」
恥ずかしすぎてばたばたと暴れる。
それもそうだろう。今香織はお姫様抱っこされ中なのだから。
「はい、到着」
そう言って、ためらいもなしに目の前の家のドアを開けて入っていく。
香織はまだ降ろされていない。
「あ、知ってると思うけど、ここ俺の家ね。
氷くらいあると思うし、あ、あった!」
お姫様抱っこしながら氷やシップを探すケン。
「あの、降ろしてください、ちょっと!
ほんと、降ろしてください!」
またばたばたし出したので、ケンが顔をしかめる。
「はいはい、静かに静かにー」
そう言ってにこにこ笑うケンは、赤ちゃんをあやすような人の顔だった。
最終的に香織が降ろしてもらえたのはそれから五分ほどしてからだった。
「よーし。これで足首と膝は大丈夫だ」
助けてもらった上に、怪我の手当てまでしてもらって。
香織は頭が上がらない。
「ほんと、ありがとうございました。
何てお礼を言ったらいいか……」
「ん? ああ、いいんだって、別にさ。
実は俺、遊園地行きたくなかったからさ。
逆にお礼言うよ、マジでありがと」
ニコッと笑う。が、香織はなんだか複雑な気持ちだった。
「……でも……。何かお礼しないと、気が済みません」
そう言うと、フッと香織に近づき、不敵に笑うケン。
「じゃあ、何かお礼してもらおうかな。
せっかく二人きりなわけだし」
「ち、ちょっと……顔、近いです」
何が何だか分からない香織。
ケンは、ははっと軽快に笑うと顔を遠ざける。
「まだまだ子供だよなー。
いくつだっけ? 15?」
そんなに若く見えますか? ちょっと頭にくる。
「17です……。一応高二なんですけど」
「やっぱ子供だ。そういう『子供』じゃねーんだよ。
17でも子供は子供」
「なんですか、子供、子供って。
そう言う……あな、たは」
なんて呼べばいいのか分からなくて、戸惑った。
それに気づいたみたいで、ケンはまた笑った。
「『ケン』でいいよ別に。
それと、俺はもう大人だな。いろんなことしてるもん」
香織は首をひねった。
「いろんなことって?」
聞くと、ケンは呆れたように深い深いため息をついた。
そして、また笑う。
この人、よく笑うなあ。何気なく、香織は思う。
「こんなこととか。お前、したことねーだろ」
キスされた。あっけなく。ロマンチックに目を閉じる暇もなく。
そのまま、普通に時間は流れた。
「ん……したことない」
冷静に答えた自分に驚いた。
「だろ? その辺が子供なんだよ、お前。
ぽかんとした顔してさ」
はっとした。この男はいったい何をしているんだ。
変態だ。ものすごい変態を香りは相手にしていたのだ。
……最悪だ。怒りがふつふつと湧き上がる。
何、にこやかに「だろ?」とか言ってるの?
「……あた、しの……」
「ファーストキス、だった?」
「ばかっ! 万年変態! くそ野郎! ぼけ! カス! くたばれこの野郎!」
……今日Tシャツを持っていったことをかなり後悔した。
別に明日でも良かったのだ。
なんとなく今日もって行ったほうがいいかな、なんて思っただけなのだ。
あー…。ほんとに最悪だ。
悔しい。こんな変態とファーストキスだなんて。
香織は唇をかみ締めて下を向いていた。必死にこぼれそうな涙をこらえた。
でも、すでに目は潤んでいた。
「……も……やだ」
「え?」
「『え?』じゃねーよ、ばかっ!
あんたはそういうこといっぱいやってるんでしょ。
あたしはね、ほんとに初めてだったんだよ。ホント最悪。
今日は怪我の消毒どうもありがとうございました。
そしてさようなら。この変態! くそばかっ!」
吐き捨てて、まだ痛む右足を引っ張って乱暴に玄関を出た。
一人になった健は、今までついたことのないようなものすごく深いため息をついた。
「くっそ……」
別に、始めはただ単に可愛い子だなーと思っただけだった。
ちょっと遊んでやろうと思っていただけなんだけれど。
でも、転んで、強がって、まじで子供みたいなそいつは
ただただ純粋で、俺にはない純粋を持っていて。
つい、やってしまった。
成人にもなって、馬鹿なことをした。
なにか、胸の奥のその奥が。
痛い。針で刺されているようだ。
……まさか。まさかな。
そう思っても、痛さは増していくばかりで。
がらんとしたリビングのソファーで、健は一人ニコッと笑った。




