06
「村に戻るのは、五年ぶりね」
「これから行くミツカイって言う村は、ミオさんの故郷なんですよね」
砂埃を巻上げながら、車は東南へと進んでいた。
アムルイから車を飛ばして一時ほど。青い空の下、草原ばかりが広がる平原は人の気配がまるでなく。胸中でくすぶる不安もあってか、フツは視線を落ちつきなく泳がせていた。
「もう何も……誰も残ってはいないわよ」
「え?」
「チルドの襲撃を受け、浸食域となった土地は凍える。……人はおろか、動植物でさえその中で生きるのは難しい環境になってしまうの。
だから……もう、何も残ってはいないの」
徐々に殺風景になってゆく視界にミオはため息をこぼし、隣に座るフツに顔を向ける。
「それよりも、何でアンタまでついてくるわけよ!」
「え、だって」
尖った声を投げつけられ、フツはびくりと震えて不機嫌であることを隠そうともしていないミオに向き直り……苦し紛れに唇を持ち上げて答えた。
「ウイラムさんが、ついてこいって……」
睨まれ。
恐怖心に駆られるフツは助けを求めて、運転席に座るウイラムに怯えた視線を持ってゆく。
「――みゃあ」
その視線に答えたのは悪路に跳ねる車輪を、しっかりと握ったハンドルで巧みにさばいているウイラムではなく、助手席に置かれている布に包まれた長細い物体……赤い棺のそばで丸くなっているシヅだった。
「責めるなミオ」
その鳴き声を代弁するように、ウイラムが渋々と言った様子で口を開く。
「でも、師匠」
「特務班に籍を置いている以上、いつまでも檻の中で飼っているわけにもゆくまい。遅かれ早かれ、知らなければならないことだ」
「そう……ですけど。だからって何も今じゃなくても」
煮え切らないミオの表情に、フツはぽんと手を打った。
「大丈夫――とは言い切れませんけど、一応の戦闘訓練はしているから何とかなりますよ、きっと」
「わかってないのよ」
凛鉄鋼を抱え込むようにして腕を組んだミオは、頬にかかる髪を吐息で揺らした。
「遠足に行くわけじゃない。下手をすれば、死ぬことだってあるのよ?」
怒鳴るのではなく言い聞かせるように、ミオは幼ない顔に大人びた真剣さをのせてフツに言う。
「……ミオさん」
時折、年齢にそぐわない大人びた雰囲気をにじませることに違和感を抱いていたフツだが、事実を知ればなんてことはない。それが、本来の姿なのだ。
「わかっている……つもりですよ、そのことは。
今でもほら、僕笑っているように見えますけど怖くて引きつっているんです」
苦笑を浮かべ、乾いた笑い声は宣言通りにかすれて……震えていた。
「でも、でもですね。
僕だって、一応は男ですから……ね。ミオさんが行くって言うのに一人町でまっているなんて格好悪いじゃないですか」
「馬鹿フツ」
肩を竦め、ミオは視線を前方へと向けた。
「格好つけるほどの力だってないくせに、言うことだけは立派なんだから」
頬を撫でる風が冷たく刺さるようになってきている。もう少し走れば平原の先に廃墟となった村の全景が見えてくるだろう。
「何を言っても聞かないバカならもう何もいう気も無いわ。でも、これだけは言っておくからね。
無茶はしないのよ、フツ」
「ミオさん」
「アナタを守るのは、監督役である私。余計な手間はかけさせないでってことよ」
やれやれとため息をつきながら言うその姿は、まるで駄々をこねる子供にしかたなく折れた親といった感じだ。
「はい! がんばりま――」
笑おうと緩めた口元を、フツは強張らせる。
「フツ?」
「――この感じ」
いぶかしがるミオに答えず、フツは前方に広がる閑散とした景色を緊張のにじむ厳しい目で睨み付けた。
うっすらと鳥肌が立つのは、この冷たい風のせいだけではない。
「シャドウです! シャドウがこの先にいます」
「師匠。私、先に行きます」
「すでに侵食域に入っている。気をつけろ」
「了解です!」
助手席の背に片足をのせ、それを踏み代替わりに蹴り上げたミオの小さな体が宙を舞い、
少しのぶれも無く草地に着地する。
「フツ! 師匠の邪魔にならないようにしっかりやりなさい!」
「はいっ!」
ミオは少し乾いた地面を蹴り上げ――走り出す。しっかりと前を見据えるその瞳は鮮やかな緑へと変化していた。
「すごい――速い」
体が引っ張られるような速さで走る車を追い越してゆくその姿は、まるで空を滑空する鷹のようだ。
七色に光る牙を手に持ち、彼女は大地を駆け抜けてゆく。
「フツ、戦闘の準備をしておけ。
大体の敵はミオが片付けるが、それでも取りこぼしはある。お前はそれの処理だ」
「は、はい! あ、シヅさん」
腰に巻いた鞄を漁るフツの手元を、助手席から移動してきたシヅが覗き込む。
「みゃあ」
「……?」
そして、フツの手をどけて鞄の中に頭を突っ込んだシヅが咥えて取り出したのは、複雑な図形が描かれた紙束だった。
「これを?」
「……フツ」
「――っ!」
視界の隅で太陽とは違う輝きが翻る。それはミオの持つ凛鉄鋼の放つ光、つまりは戦闘が始まったということだ。
ウイラムは走っていったミオを追いかけるべく車の速度をさらに上げた。フツは座席から振り落とされてしまわないようにと足を踏ん張り、手に持った札を握り締める。
「使い方は……わかっているな」
「はい!」
気の遠くなるような長い世界の歴史の中で、もっとも長く頂点に君臨していた種族……有冠人種。神の眷属とも呼ばれた背中に翼を持つ彼等は、文字や図形によって自然の力を操る符術と言われる術を用う事に長け、人は彼等よりその不思議な力を学んだ。
フツが取り出した紙束は符術札といわれるもので、扱いの難しい符術を初心者でも扱えるように開発されたもので、力を発動させる図形が紙に転写してあるものだ。
「い、いま――助けますから、ミオさん!」
フツは取り出した符術札を握りしめ、嫌と言うほどに教え込まれた解放のための文句を脳裏に思い浮かべる。
「わ……われ、わぁ――」
「落ち着け」
「は、はい」
緊張で裏返る声に赤面しつつ、ゆっくりと息をつき。気合いを入れるべくミオが放つ輝きを見つめた。
一人で戦う彼女の役に立ちたい。その決意を胸に刻み、フツは言葉を紡ぐ。
「我は汝の徒なり、汝は我の徒なり。刻まれし盟約を紡ぎし我が吐息を聞きどけ、その力をこの手に授けん」
握り締めた符に向かって、念じるように言葉をつむぐ。
(……ミオさん!)
砂塵を巻き上げながら、うなるように草原を駆け抜ける車は、人知をこえた速度で走り去っていったミオへとようやっと追いつく。
「消えなさい!」
高い声が響き、七色の刃が翻った。
彼女が切り伏せるのは、たくさんのうごめく固まり……それは、影。
人の姿をかたどったものや獣、そしてたとえようの無い姿を持ったものなどさまざまなものが、砂糖に群がる蟻のようにミオに襲い掛かってゆく。
切りつけるというよりはむしろ、跳ね飛ばすような勢いで翻る刀と小柄な体。フツはそれを見つめながら、車から身を乗り出すようにして符術札を戦場へと放った。
「冥府に落ちることなく、彷徨う哀れな存在を導きたまえ!
……爆符!」
風にあおられ散ってゆく数十枚の札。それらは淡い輝きを伴って、影に埋め尽くされた戦場の上空を輪になってかける。
そして――
「え……わあっ!」
まばゆい光が……それこそ太陽よりも強い光が一瞬でこの場を白く埋め尽くし、あまりのその強さに驚いたフツはバランスを崩してひっくり返り、頭をしたたかに打ち付けてしまう。
「使いすぎだ」
ウイラムはあくまで冷静につぶやき、光の中に立ちすくむミオへと車を近づける。
「限度ってものを考えなさいよ、この馬鹿フツ!」
悲鳴にも似た怒声が響き、凛鉄鋼の黒い鞘が頭を抱えながら起き上がったフツめがけて飛んでくる。
「あっ、いたっ! 痛いですよ、ミオさん!」
意思を持たない亡者、最下級チルド……またはシャドウと呼ばれるそれは符術札の放った光に焼かれて一瞬で塵となってきえたのだが、不必要な力はその場にいたミオにも影響を及ぼしてしまったようだ。
「私だって痛かったわよ! みなさい、やけどしちゃったじゃない!」
そういって、ミオは車に追走しながらコートから出ている二の腕を差し出した。滑らかな白い肌に、わずかではあるが赤い痕が浮かんでいる。
「そ、それくらいで……」
「それくらいとは何よ! 顔じゃなかったからまだいいものの、アナタ、女の子の肌に傷をつけたのよ!」
「……す、すみません」
これ以上下手に刺激すれば、鞘ではなく得物が投げつけられるかもしれないと、フツは頭を擦るほどにひれ伏す。
「まったく、もっとよく状況を見て使いなさいよ。符術札だってタダじゃないんだから」
そう毒ついて、ミオは視線を前に向けた。
どこまでも続くような広い平原の真ん中に、緩やかな隆起……そして、家々の影が目に留まる。
「もしかして、あれが?」
口をつぐみ、わずかにその雰囲気を硬くするミオの様子を見て、フツは生唾を飲みながら村を……ミツカイを見つめた。近づくにつれ気温はぐっと下がり、吐く息は氷となって落ちてきそうなほどに白く煙っている。
「……帰って、来たのね」
囁くような……呻くようなミオの痛々しい声音が耳に入り、フツは唇を噛んだ。深い傷を孕んだ声だった。
(ミオさんの……故郷。浸食域指定区域ミツカイ)
「入るぞ」
「はいっ!」
ウイラムの声と同時に車は門をくぐり、少しばかりそのまま進んで速度を落とし停車した。
「ここが、ミツカイ?」
「……そうよ。五年前とまったく変わってないわね」
車と同じ速度で走っていたにもかかわらず、息を切らすことなく平然としているミオは静かな家並みを見回して言った。その大きな目は緑ではなく、澄んだ青色に戻っている。
「ほら、鞘を返して」
「あっ……はい」
催促され、握りしめたままの鞘をミオに返したフツは車を降り、霜で白く縁取られた景色を見回して……表情を濁した。
ここにある光景のすべては五年前の姿のままで存在しているのだろう。青い空の中にある灰白色の景色からは、時間から完全に隔離されているようなしっくりしない違和感を覚える。
「フツ」
呆然と突っ立っているフツを呼んだウイラムは、持ち運びしやすいように革帯が着けられている例の棺を助手席からもちあげ、差し出す。
「……え?」
町から持ち出すのを反対するアガサを押しのけて、ウイラムが持ってきたものだった。
「その、僕が持つんですか?」
「元はお前の持ち物だろう。それに、これはクエトサーグの命だ」
自分が入っていた棺だけに、その大きさはかなりのものがある。助手席からよく落ちてしまわなかったなとのんきに思いながら、仕方なく受け取る。
「クエトサーグ。たしか、特務班の班長さんですよね? 本土にある本部にいらっしゃるという?
あれ、軽いですねこれ。意外だ」
それなりの重さを覚悟していたフツは、かさばりはするものの想像していたものよりも遙かに軽いことに面食らいつつ、素直に棺を背負った。
「何故ですか?」
ミオは不満顔になって、ウイラムに尋ねる。
得体の知れないものを側に置いておきたくはないという気持ち。そして、何より自分のあずかり知らぬ所で他者の思惑のまま動かされるような感覚が嫌だったのだ。
仕方のないことだとはしても。
「詳しいことは、聞かされていない。
アレからの指令は、こちらの有無を言わせぬほど、常に急で唐突だ」
「ど、どんな人なんですか?」
何があっても平然としていた表情が、僅かではあるが苦渋の色を浮かべるのを見て取ったフツは、目を見開いて驚いた。
「……くえない奴だ」
短くため息をついて答えたウイラムは視線をミツカイへと向ける。
「チルドの気配はどうだ?」
「あ、は……はい! ちょっとまってください」
問われ、フツは目を閉じた。
凍えた風が肌の上を滑り……無人の町を駆け抜ける音が耳に響く。
(……)
聴覚視覚……そういったものには関係なく、いわば直感的なものでチルドの気配を捉えるため、目を閉じる行動には特に深い意味などないが、そうすることによって体の奥深くに眠る感覚が呼び起こされるような気分になり、意識が鮮明になってゆくのだ。
(この町のどこかにいる? 何処にいる?)
自分が何処までも広がってゆくような奇妙な感じを覚えながら、フツは闇の中に問いかける。
――ここだ――
「えっ!」
返事を返してくる奇妙な声にフツは慌てて瞼を持ち上げ、怯えの見えるその目で凍えた町を見回す。
「フツ! どうしたの?」
あまりにも不自然な行動に驚き、凛鉄鋼を構えて周囲を警戒するミオには答えず。フツは脂汗をこめかみに浮かべ、誰もいない……何もいない空間を凝視した。
「……今の、声」
「声?
フツ、アナタ何を言って――」
「ミオ」
「!」
呼ばれ、促されるまま振り向いたミオは路地の向こうから走ってくる男と、それを追いかける無数の人影を見て表情を強張らせた。
「――た、助けてくれぇ! だれか!」
「生きているのね。まだ!」
凛鉄鋼を鞘から解き放ったミオについでウイラムもまた抜剣し、構える。
「スレイヴ……!」
フツは素早く戦闘態勢に入る二人の後ろで硬直していた。
チルドに侵食され、意思を失った人間。フツは、これほどまでにおぞましいものなのかと戦いていた。
それはまさしく、亡者の群れだった。
関節が外れた顎を大きく開き、水の中をもがくように腕を突き出して走るスレイヴ達の濁った瞳は、何処を見ているのか定かではない。
「侵食……されてしまったんですね」
それが人であった時の名残のように、エリュシオン協会の制服を着ているスレイヴは必死に逃げる男……同僚であるその男を喰らうためだけにひたすら追い続ける。
「あれはもう、人間じゃないの。理解しなさい、フツ」
戸惑うばかりのフツにそう言い放ったミオは、逃げる男へと向かって駆ける。
感情を消すように細められる両目は鋭い緑色に染まり、虹色の刃をもつ長刀を構えたミオは人知を超える力を発揮させ、群がるスレイヴを次々となぎ払ってゆく。
「ゆくぞ……」
飛び出していったミオの代わりにフツを先導し、ウイラムも走り出す。立ち止まっている猶予は与えられず、嫌悪にも似た不安を抱えたままフツも走り出した。
「た、たすけ……ひぃ!」
男が吐き出す悲鳴は悲痛なものだった。もつれる舌と同じようにその足はもつれ、もはや気力だけで走っているのが見て取れる。限界は……近い。
「同じ……人と人が切りあうなんて」
翻る剣戟。
小さな体で長刀を振り回して容赦なくスレイヴを切り伏せてゆくミオを凝視し、フツはせめぎあう感情の行き場を求めて棺に取り付けられている皮帯を握り締める。
戦っているのは、同じ志を胸の持っていたはずの人間。
目に見える情報の全てが本質とは思わないが、それでも思いは複雑だ。知識としてそれは敵であると分かっているが、実感としての理解が足りない。
その迷いが油断を呼んだ。
「フツ!」
高い声が名を呼ぶ。
何事かと頭を上げて、フツは引きつった悲鳴を上げた。いつの間にそこにいたのか、濁った眼球をくるくると動かすスレイヴの一体が、両手を広げ襲い掛かってくるのだ。
「うわっ!」
戦いなれていない上、護身用に持ってきていた短剣は鞘に収まったままとあれば、まともな反撃もできない。
「距離を保て。不用意に前に出れば……死ぬぞ」
「ウイラムさん!」
人とは思えないほど鋭く伸びた爪に切り裂かれる寸前、間に割って入ったウイラムが刀を翻しスレイヴを切り伏せる。
耳障りな悲鳴をこぼし、両手首の鋭い切断面からどろりとした血を流したスレイヴは瓦礫だらけの通りにうずくまった。
「……眠れ」
ウイラムはそれに追い討ちを掛けるべく、刀を振り上げ……容赦なく振り下ろした。
「――ひっ!」
肉を裂き、骨を絶つ鈍い音。
フツは動かなくなったそれを凝視したまま、悲鳴ともいえないような引きつった声を絞り出していた。
「これが、お前が生きなければならない世界の一端だ……フツ」
「僕の生きる……世界……うわ、ウイラムさん!」
突然持ち上がる視界にフツは面食らう。ウイラムの肩にかつぎあげられたのだ。
「ミオ、一旦この場を離れる」
スレイヴを牽制しながら男を守るミオに目配せをし、ウイラムはそのまま町の中心へと向かって走る。
「……はい!」
ミオはこくりと頷き、怯え竦んでいる男を小脇に抱えてウイラムを追う。
「ひえっ! ちょ、おろしてっ!」
「ひいっ!」
担がれているフツと男は、互いに怯えきった情けない声を上げた。
身体能力が強化されているスレイヴを振り切って走るミオ、そして緑化していないのにもかかわらず、涼しげな表情で先頭を走るウイラムの跳躍は半端なものではなく、残像となって消えてゆく景色に、フツは少しばかりの吐き気を覚えた。
「こ、ここ!」
いくつもの路地を横切り広場を抜け、家屋が並ぶ路地まで来たところでフツは半泣きの声をしぼりだして叫んだ。
「ここで、もう大丈夫です! チルドの気配は限りなくうすいですっ!」
「わかった」
じたばたと暴れるフツを迷惑そうに睨みつつ、ウイラムはその足を止める。
「……はぁ、た、たすかった」
ゆっくりと降ろされ、足の裏に確かな感覚が戻る安堵に気の抜けた息を吐く。視線を動かしてみれば、ミオに担がれていた男も同じように息をついていた。
「アナタ、封印破棄に向かった隊の……生き残りね?」
「え、ええ。
自分はヒュレス・エンハールトといいます」
ヒュレスと名乗った男は、くすんだ金髪の奥からのぞく青い瞳で目の前に立つミオとウイラム。そしてフツを見る。
「……そのコート、特務班ですか?」
「応援に来たのよ。ほかに生存者は? 知っているのなら早く話して。
侵食を受ける前に助けないと」
「ミオさん、そんないっぺんに……」
衝撃から立ち直れていないのか、とりあえずの危険を乗り越えたというのに縮こまったままのヒュレスを攻め立てるように言葉を畳み掛けるミオを見かねて口を挟んだフツだが、逆に鋭く睨まれてそれ以上の言葉をつむぐことはできなかった。
「答えなさい、ここには何がいるのか。
アナタは見たの? アナタの仲間を殺した……奴等を」
緑化したままのミオの瞳が、憎しみにぬれた陰った緑の光を抱いて細められる。それを見たフツは、背筋がぞくりと粟立つのを感じた。言ってしまえば、恐ろしかった。
「ミオ」
いまにも掴み掛かって行きそうな雰囲気さえ滲ませる彼女をとがめるように、ウイラムは強い口調で名を呼び、細い肩をつかむ。
物音のない、そして隙さえない動作は無言の圧力をもってミオに正気を取り戻させる。
「……失わなくてもいい命を、この手で切りたくないのよ」
瞳の色が青に戻り、言葉と一緒に凛鉄鋼を握り締めた。
「チルドの姿は……見ておりません。
すべてが突然で、何も分らないうちに次々と仲間が侵食されていって」
興奮で荒くなった息を整えながら、ヒュレスは視線を下げて言った。やつれて見えるその頬は刻まれた恐怖による深い影が差し込んでいた。
「自分はただ、逃げるのに必死で……」
枯れた喉から血を吐くように、言葉を絞り出す。
恐怖に震える膝では体重を支える事が出来なかったのか、膝をついてうずくまるヒュレスはすっかり怯えきってしまい、ガチガチと歯の根を鳴らしている。
「……」
無理もないと、フツは言葉なく呻いた。
命を預けていた仲間に突然牙を向かれるのだ、それに立ち向かう覚悟は相当のものがいるだろう。
「生きているかのか、それともすでに喰われてしまっているのか……それすらも今は分らない……か」
凛鉄鋼は鞘に収めず右手に握り締めたまま、ミオもまた感情の高ぶりに裏返りそうになる声を抑えて訊ねる。
「居場所の見当がつく部隊はいないの?」
「見当……? そう、教会! 教会だ!」
「教会、ですか?」
「はい。襲撃の際、防御のための結界が教会の方で発動したのを目にしたのです。もしかしたら……まだ生存している可能性も」
「本当ですかっ!」
「……役に立っていればいいがな」
「え?」
ウイラムは眉をひそめるフツに僅かな吐息を残し、背中を向ける。
「教会へゆくぞ」
薄い唇はそれ以上開くことはなく、呆然としているフツ達を置いて歩き出してしまった。
「ミオさん?」
どういう事なのかとミオに視線を向けるが、彼女はため息をついて分らないと首を横に振った。
「行くしかないわ。とにかくね」
嘆息し、ミオは町の中心に立つ教会を凍えた景色の中に探す。
人生の節目……子供の誕生や婚姻や別れの儀式を執り行っていたその場所は、記憶の中にあるたくさんの思い出の中でもひときわ強く……濃く鮮やかに残っている。
「……大丈夫ですか? なんだか、とても辛そうにみえますよ、ミオさん」
虚空を睨むミオの表情は険しく。苦痛を必死に耐えているようにも見えたフツは、眉をひそめる。
「大丈夫よ」
仏頂面でミオはその視線をはね除け、ウイラムを追って歩き出す。ミツカイ出身であるミオはともかく、ウイラムは案内を必要とせずに進んでいってしまう。
「ヒュレスさん、辛いでしょうが立ってください」
「ええ」
いまだ蒼白なままのヒュレスを気遣い、フツはなるべく柔らかいと思える声音で言った。こんな状態の人間を連れ歩くなど通常では考えられないが、一人で置いておけば居場所の知れないチルドの侵食を受ける恐れもある。ここは引きずってでも一緒に行動すべきだろう。
「自分なら、大丈夫です。
それよりも……」
「え?」
疲労によって落ち窪んだ眼窩にはまる瞳に凝視され、フツは少しばかり緊張の色を顔に浮かべる。
理由ははっきりと分からないが、肺腑がざらつくような感覚……いわゆるよくない予感というものを覚えたのだ。
「何か?」
ヒュレスの両眼は戸惑うフツの顔を離れ、背負っている布を巻かれたままの棺へと向けられた。
「……いいえ、なんでも」
尋ねると、ヒュレスは首を振り立ち上がってしまい、完全に視線をそらされてしまう。
「さあ、行きましょう。離れるのはよろしくない」
「え、ええ。そう……ですね」
顎を伝うやけに冷たい汗を手の甲でぬぐい、逃げるようにフツは後ずさる。
それを気にするわけでもなく、ヒュレスは先行する二人を追って歩き出していってしまった。
「――さあ、早く行きましょう」
「え、ええ」
促され。
フツは胸中に滲み出す、形容しにくい感情を無理矢理引っ込めて足を動かした。ようやく毛の生えたひよっこのような自分と疲労しきったヒュレスでは、襲われてはひとたまりもないだろう。ミオとウイラムから距離を置くのは、彼の言うとおりあまり得策ではない。
(こんなところで、死ぬわけにはゆかない――っ?)
一瞬、強い思いが通り過ぎ。
痛みを与えるほどに心臓が跳ねるのを感じて、息をのむ。
(何故?)
何のためにそう思うのだろうか……この思いは死に対する恐怖から来るものとは少し違う気がする。
死ぬわけにはゆかないと歯噛みするほどの『何か』自分にはあるのか。
(分からない……でも)
立ち止まっている場合ではない。それだけは確かだろう。
フツは前を行く三つの背中を見つめながら、しっかりと口元を引き結んで歩いた。