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℃9  作者: 濱野 十子
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05

「老人達のご様子はいかがでしたか?」

 深紅に染められたドレスの上から黒いコートを羽織った女は、押して歩く銀色の車いすに座る男にぽつりと言った。

 様々な種類の薔薇が咲き誇る広い庭園は、それこそ花の蜜を煮立てたような濃厚で甘い匂いに満たされている。

 ……しかし。

 吐息をつくような美しい景色であるにも関わらず、それを愛でる人の姿は女と車いすに座る男の他にはおらず。日が照っているというのに、吹き抜ける風はどことなく凍てついているようにも感じられた。

――相も変わらず、のんきなモノだ。甲羅に閉じこもった亀のように外に出ようとはせず、すべてを他人任せだ。己の身から出た錆であるのにねぇ――

 緩やかなカーブが続く道をゆっくりと進んでいってたどり着いたのは、周りに広がる薔薇園を見渡せるように設置されている、白い四本の柱で支えられた丸い屋根の東屋だった。

 吹き上げる風に乗って広がる花びらと芳香が、女の豊かに波打った髪をくすぐる。

――まあ……僕だって同じようなモノではあるけれど、自覚があるぶん老人達よりは遙かにましだと思いたいかな――

 車いすに座る男は笑った。とはいえ、それは脳裏に直接響く“声”にだけ当てはまるもので、風に吹かれる白髪がくすぐる表情はどこか虚ろであり、病的にこけた頬は笑みの形を取ってはおらず、言葉を紡ぐはずの唇すらもうごかない。

 男の声には音がなかった。

 息をするのも困難な体故に、肉声で喋ることも苦痛を強いられる。特別な場でない限り、彼が本来の言葉で語ることはなく、いまにも閉じてしまいそうな重たげな緑色の両眼は東屋から見下ろせる景色にぼんやりと向けられているだけでなにも見えてはいなかった。

「お聞きしたいことがあります、クエトサーグ」

――なんだい、ネロ?――

 女は長いまつげに飾られた琥珀の瞳を男へと向けた。

「棺は、あれは私たちにとっての救世主なのですか? それとも……」

――その答えは、老人達も切望していることなのだろうが、彼等の知らない結果を僕が知るはずもない。

 だが、これだけは断言できるよ――

 身体の自由を奪われた代りに、精神を渡り歩く力を得た男……クエトサーグ。

 接触帰還者によって構成された特務班を指揮するその男は確信を持ったような強い口調で語る。

――時が動く……いや、動かされるのかな――

「……時、ですか」

 幾億ともしれない花びらがざわめく。

 ネロは何かに誘われるように、視線をクエトサーグから再び薔薇園へと向けた。

 老人達の寝屋として用意されていた現世と隔離された空間は、彼らが別の場所へと逃れていったとたんにその鉄壁の効力を失ってしまったようだ。

「早速、現れましたね」

 細身の体から発せられる尖った気配とは相反するような、ぼんやりとした琥珀の瞳が美しい景色の中を泳ぐ。

――老人達は逃げることに関しては足が速い。残念なことに、君たちは少しばかり結界を破るのが遅かったようだ。

 手間取ったのは、情報がたりなかったからかな? 随分と苦労したみたいだが、ぜーんぶ無駄に終わってしまったね。同じ機会は二度とはないよ――

「さあ」

 揶揄する声を響かせるクエトサーグを守るべく、ドレスの裾を翻しネロが前に立つ。

「出てきなさい。姿を得た、姿亡き者達よ」

 静かに……だが、逆らいがたい強さを持った高い声が庭園の中に響き。それに呼応するように、エリュシオン協会規定の白い制服を身につけた、男女合わせて十人ほどの人影は真っ赤に染まった花びらを盛大に散らして二人の前に現れた。

「スレイヴ……侵食されてしまいましたか」

 彼らはできの悪い案山子のように、不安定に揺れながら花園の中で立ちすくんでいた。

 その姿には、不気味なほどに生気を感じることができない。

「持ちこたえられませんでしたね」

――たいして期待もしてはいなかったが……哀れなことだ。臆病な老人どもの身代わりとなって果てるなんてね――

「残念です」

 吐く息が白く煙ってゆく。

 空は青く晴れ渡り、日差しはなおも強い。それなのに、視界を埋めるほどの薔薇の柔らかな花びらに霜が一瞬にして降り、深紅の花園はあっという間に白く侵食されていった。

 柔らかな花びらを砕く甲高いが洪水となって響き、静かな空間を揺さぶり広がってゆく。

 低温下現象と呼ばれる現象だ。

 チルドと呼ばれるその存在、またはその眷属が力を行使する空間は、皆一様に気温が低下する怪現象が起きることが確認されている。

「おいでなさい。隠れていたところでアナタの運命が変わることはないのです」

 ネロは歌うようにそう言って、肘まである黒手袋に包まれた細い両手を広げる。

 優雅で美しいその仕草はまるでこれから歌を紡ぐ姫のようであり、戦いを前にした人間がするようなものではなかった。

――チルドによって汚された魂を癒せるのは、永遠の死のみ。

 たのんだよ、ネロ――

「はい。クエトサーグ」

 その手には武器といえるようなものは何一つ無く、あまりにも無防備な格好であるのにもかかわらず、彼女の表情には恐怖や焦りといったものはなにひとつとしてない。

 ただ無感情に、瞳に映る世界を見据えているだけだった。

「……エリュシオンの女か……」

 スレイヴ化した職員のうちの一人、黒い髪を持つ男がくぐもった声で言葉を紡ぐ。

「ええ、左様です。アナタが彼らを侵食したチルドですね」

 雪のように、灰のように散らされてゆく花びらが、青く晴れ渡る空へと上る。

 ネロはまた一歩、牙をむくそれらに向かってヒールを打ち鳴らした。

「私はエリュシオン協会特務班第二位、ネロ。貴方たち……チルドを滅ぼすために存在する、狭間の世界を歩むものです」

 歌うように言って、ゆっくりと両手を広げる。

「さあ、来なさい」

 それが、戦いの合図となった。

「滅びるのはお前の方だ、女ァ! そんな細腕で何が出来るというのだ!」

 吼えるのと同時に、その髪と目が鮮やかな緑に染まる。それはスレイヴと呼ばれる、人としての誇りを奪われた操り人形の親。そして形の無い意思の集合体であるシャドウをすべる存在であるチルドがもつ大きな特徴だ。

「死ぬがいい!」

 男の影が長く伸び……盛り上がりながら大きな牙を持った獣へと転じてゆく。

「この世界は我らに支配される運命にある!」

 影から生まれた獣を先頭として、スレイヴ化した職員達が一斉にネロへと飛びかかってゆく。

 浸食の影響で知性が失われてはいても、人を遙かに凌ぐ力を得たスレイヴは獣だ。

 それらを相手に無手の女が一人。どう見ても、多勢に無勢すぎた。

 だが、ネロは両手を広げたまま動かない。

「……愚かです」

 呟き。そして見開かれた瞳が琥珀から緑色へと変化する。

――そう、君は愚かだ。ネロの視界の中で力を使うとはね――

 車いすにもたれかかったまま、クエトサーグは嘲るように声で笑う。

「なっ」

 勝手に流れ込んでくる声に、訝かしむ余裕はなかった。

「な、なんだとっ!」

 細く柔らかい女の手足を食いちぎらんと襲いかかる影に対抗するように、四方八方……敵意をむき出しにする異質な存在へと、ネロの足下にある影が一気に伸びてゆくのだ。

「――っ!」

 曇ったうめきが、散らされる薔薇園の中に落ちる。

「そんな……ばかな……これは、俺の力!」

 驚愕に見開かれた両眼は、己の腹を深々と貫く漆黒の槍に注がれていた。

「ここで……滅びる……のか……」

 怯えきった表情を見せるチルドは、突き刺さる槍を引き抜こうと腕を持ち上げるも、それは影に触れるよりも先に灰燼となって砕けて散ってゆく。

「ひぃ……!」

「それがアナタに約束された運命なのです」

 消えた腕に次いでひび割れてゆく男の体は、花びらと一緒に風にさらわれ消えてゆく。それに続き、槍をうがたれたスレイヴもその存在の痕跡を残すことなく宿主の肉体ごと消えていった。

「完了です」

――ご苦労様、ネロ――

 緑に変化した両眼が琥珀に戻ると同時に、凶器と化した影もまた彼女の足下へと戻り、薔薇園には静寂が再び訪れる。

――殉職者達に祈りを捧げよう。君たちは、不幸だったと――

 ゆっくりと、緩慢な動きでクエトサーグは顔を持ち上げる。

 その虚ろな視線の先には、横たわる幾人もの人間達の姿が……砕けて散ってゆく生命がのろしとなって空へと登って逝く光景が広がっていた。

「こうも簡単に侵入されてしまうとは……結界の効力が弱くなっているのでしょうか?」

――さぁてね。奴等も本腰を上げてきたと言うことじゃないかな――

 灰と花びらが舞いあがる空は、何もかもを飲み込むように虚ろに美しく。まるで、これから起こるだろう事象を示唆しているようでもあり、クエトサーグは遙か遠くで広がる海原の更に先にある島へと意識を巡らせた。

――永い時は人を何にでも作り替えてしまう。

 憎しみは恐怖へ、怒りは絶望へと塗り替えられ……いつかは戦う力すらも奪われ手しまう時が、くるのかもしれない――

 光を取り込まない眼球を風にさらし、クエトサーグは続ける。

――だからこそ、その前に世界は動かなければならないんだよ。いつか、動けなくなってしまう前にね――

 優しくない風は冷たく、皮膚だけでなく肉の内側……心臓までをもつかむように鋭い。



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