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℃9  作者: 濱野 十子
4/6

04

 立ち並ぶ家々のシルエットの先に、太陽の日差しを反射して輝く海面が見える。

 潮が放つ独特のにおいと海鳥と潮騒の音が町を賑わせる喧噪に混じり、二人がたどり着いたのは桟橋がいくつも海に突き出ている大きな港だった。アムルイに住まう人々の生活の糧を担う北港とは別にある旅客船などが停泊する東港で、セセクベツ国領クチャル島の玄関口とも言われている。

「うわぁ、たくさん人がいますね」

「そりゃあそうよ、宿屋や市場が近くにあるんだもの」

 物珍しそうに視線を泳がせるフツに苦笑して、ミオは一つの船を指さした。

「あれが本土からの連絡船、マニベ号よ」

「ミオさんの師匠さんは、あれに乗ってきたんですね」

 連絡船とは言うものの、視界を埋め尽くしてしまうほど大きく白い船体は、豪華客船と言っても遜色はないだろう。フツは初めて見る巨大な建造物に感嘆の吐息を漏らしながら、網膜に焼き付けるように真剣に見つめた。

「ほら、フツ。いつまでも驚いてないで師匠を捜すの。

私と同じコートを着ているはずだから、直ぐに見つかるはずよ」

「目立ちますもんね、そのコート」

「……わるかったわね」

 むすっと頬をふくらませるミオに、フツは苦笑を返した。

 細い体つきを強調するようなぴったりとした黒いインナーと、同じ生地で作られた裾の短いスカートを穿いた質素で華奢な服装の上から、ミオは黒革のコートを羽織っている。

 コートの袖こそ肘まで捲られてはいるものの、強い太陽の日差しの下では暑くはないのかと心配もしてみるが、当の本人は涼しげな表情を崩すことはない。

「まあ、そう思うのも無理はないかもしれないけど」

 嘆息して、ミオは人でにぎわう市場へと足を向ける。

 町の中心にある市場に比べればいくらか規模は小さいが、それでも見劣りしすることはない露店を横目に気にしながら、ミオについて歩いてゆく。

 午前中のうちにすべての便が桟橋に着けるとはいえ、普段から数多くの旅人や商人が忙しなく行き来しているのだが、今日はいつもよりも静かで肩をぶつけることもなく道を行くことができる。人を探すには好都合といえるだろう。

「師匠さんって、どんな人なんですか?」

 後でしかられてしまわないようにとせわしなく視線を動かしながら、フツはミオに尋ねる。

「無口で無表情だけど、優しくて頼りになる人よ。信用できる数少ない人間の一人ね」

「……数少ない?」

 繰り返して、フツは眉をひそめた。

「まあ、支部の人たちはあまり僕たちに話しかけてはくれないですけど、支部長は優しいじゃないですか?」

「それは……まあ、支部長はそうかもしれないけど。世界にはどれだけの人がいると思っているのよ、アナタは?

 支部長みたいに平気な顔して私たちを手元に置くことが出来るような人は、極々まれなのよ……数えきれないほどのニンゲンがいるこの世界でもね」

 淡々と語る口調に、表情は無に近い苦。それは必死に何かを耐えているようにも思えて、フツはかける言葉を見つけることがなく、僅かにうめきながら言葉をのんだ。

「そろそろ、私たちのことをアナタにも教えないといけないのかもね」

「ミオさん?」

「それはともかく、今は人捜しよ」

 沈みかける雰囲気を蹴散らすようにミオは声を張り上げて言って、大股に足を振り上げる。

「はい」

 追いかける小さな背中はピンと伸ばされていて、彼女を頼るしかないフツにはとても心強い……が、緊張が常に張り詰めているようにも感じて少し不安にもなる。

(言ったところで、余計な気遣いだって叩かれるんだろうけど)

 ため息をつき、フツは腑に落ちない苦い表情のまま視線をミオからそらした。

 ……と。

「あ、ミオさん!」

「なに? 見つけたの?」

 足を止めて振り返るミオに、フツは市場の一角……果物がたくさん置かれているそこを指さした。

「猫がいますよ、猫!」

「――フツ!」

 怒声とともに、凛鉄鋼が空を切り……嬉々として視線を泳がせているフツの脳天へと振り下ろされる。

「ぐぅ!」

 かみしめた奥歯が火石のように擦れ、視界の隅が一瞬白くそまる。

「な、何するんですか!」

「はしゃがないでよ、みっともない」

「そ、それだけで?」

 手加減されてはいるとはいえ、痛いものは痛い。一度目は言葉を飲み込んだものの、さすがに二度三度と重なれば、フツも抗議せずにはいられなかった。

「これ以上、ショックで記憶が吹っ飛んだらどうしてくれるんです!」

 打たれた後頭部を手で押さえ、涙にしゃがれた声をはり上げる。

「逆に記憶が戻るかもね」

「戻りませんよ! なんど喰らったって、痛いだけですって!」

 半泣きに訴えたところで、素知らぬ顔で視線をそらされてしまう。その表情にはいっぺんたりとも悪びれた様子はみられない。

「まったくもぅ……あれ?」

 くすぶるように鈍く痛む後頭部をさすっていたフツは、見つけた白い猫が長い尾を振って歩いて行く先に立っている人影を見つける。

「ミオさん、もしかしてあの人?」

 後ろ姿ではあるものの、日差しの強いこの陽気のなかでただ一人、黒いコートを身につけているとなれば疑うよしもない。

「師匠だわ、間違いないわね!

 師匠! ウイラム師匠!」

 声を張り上げ、ミオは手を振りながら男へと走り寄ってゆく。

「……久方ぶりだな、ミオ」

 ミオがたどり着くより先に振り返った全身黒ずくめの男……ウイラムは、再会を喜ぶにしては調子の低い声で応えた。

 黒い髪を短く整え、うなじでまとめた一房を肩に流す精悍な顔は、声と同様に表情と呼べるようなものを探すにはあまりにも淡泊で、腰にぶら下げている使い込まれた剣も合わせて近寄りがたい雰囲気を感じさせる。

「ええ、本当に!」

 しかし、それがウイラムという人物であることを知っているミオは気にもかけず、久しぶりの再会を素直に喜び微笑んでいた。

「……ぁ、ミオさん」

 一人蚊帳の外と言った面持ちで黙って見ていたフツは、初めて見るミオの表情に驚いた。

「なに、どうしたの?」

「あ、いや……何でもないです」

 苦笑して、安堵にも似た感情を飲み下し、フツはウイラムと対面した。

「海から棺と一緒に引き上げられたと言う少年だな、話には聞いている」

「はい。フツと言います」

 光の差さない黒い瞳でじっと見つめられれば、緊張するのは致し方ないだろう。ぴしっと背筋を伸ばして敬礼さえしてみせるフツに、ミオの苦笑がかけられる。

「緊張しすぎよ、馬鹿フツ」

「だ、だって……ミオさんと同じ特務班の人にあうのは初めてじゃないですか。だから僕、緊張しちゃって。

あ、その猫、ウイラムさんの猫なんですか?」

「シヅと言う」

 足下にすり寄る猫を抱き上げて肩に乗せたウイラムは、もう一言低い声で付け加えた。

「……妻だ」

「へぇ……えっ?」

 勢いで頷いたフツだが、何気なく返ってきたおかしな返答に、再度確かめるように視線をウイラムに合わせる。

「妻だ」

 その視線にウイラムは同じことを繰り返し、顔をしかめるフツを無視して優しい手つきで肩の上で器用に座るシヅを撫でる。

 そうすると、彼女は気持ちよさそうに細い目をさらに細めてごろごろと喉を鳴らした。その様子は紛うことなく猫そのもので、フツは更に混乱するが答えてくれる声はない。

「出迎えご苦労だったなミオ……そして、フツ。このまま、支部への案内も頼む」

「了解です、師匠」

 緩やかな潮風が、市場の賑わいを町へと押し流すように強く吹き抜ける。

 気まぐれに触れてくるその風に乱された髪を手櫛で軽く整え、ミオは視線を町へと向けた。

 その視線の先……緩やかに隆起するアムルイの町のほぼ中心部、町の全景を眺めるようにして白い建物が一つ建っているのが目にはいる。

 エリュシオン協会、アムルイ支部の建物だ。


 ◇◆◇◆


 赤い屋根が続く町並みから相反するように、その建物は白を基調とした色でまとめられている。

 統一されたその様式は美しいとはいえ、どこか窮屈であり。混ざりけのない白……純白を信念の象徴とする彼らの考えも、あまり好きではないとミオはフツに漏らしたことがある。

(綺麗な景色、綺麗すぎる景色……)

 分らなくもないと、フツは思う。

 黒ずくめの彼女がそうであるように、混成することを嫌う純白から拒絶されているような気分をフツも感じているからだろう。

 たとえそれが錯覚であったとしても、あまりいい気になれないのは事実だ。

「ここが、エリュシオン協会アムルイ支部です」

 立派な正門を背にして立ち、ミオはウイラムを迎え入れるように片手を広げた。

 その仕草に促されるように、シヅを肩に乗せたままのウイラムが先頭に立ち、フツ……そしてミオといった順で敷地内に入る。

「あいかわらず、立派な建物ですよね。庁舎よりも大きいんじゃないんですか?」

「たしかに、支部にしては大きいけど……ウエカルパにある本部は、これの三倍の大きさはあるわよ」

「そんなに大きいんですか? あれですね、絵本で見たお城みたいだったりするんですか? わぁ……見てみたいなぁ」

「そのうち、見れるわよ」

 子供のようにはしゃぐフツに肩をすくめてみせるミオは、新緑が鮮やかな木々が並ぶ並木道を進む。

 海のそばとはまた違って、綺麗に管理された花々に囲まれたこの施設は公園と言っても差し支えのない豊かな自然を有している……が、そんな施設ではないことは周囲を行き交う人々の格好を見ればすぐに分るだろう。

 男女ともにフツが着ているものと同じ白い制服を着込んでいるのはいいとして、腰に巻いた幅の広いベルトには、いくつもの小袋と飾り物ではない剣がぶら下がっていて、どこか物々しいたたずまいをしているからだ。

「何処で油をうっていたのかしら?」

「あっ……」

 飽きもせず視線を動かしているフツに、女の高い声がかけられる。

「アガサ支部長さん、どうしたんですか?」

「帰りがあんまりにも遅いから、心配になって……ね」

 にっこりと笑い、スーツがよく似合う女は高いヒールを打ち鳴らしてウイラムの前に立ち、右手を額に添えて敬礼する。

「ご到着お待ちしておりましたわ、対チルド組織エリュシオン協会アムルイ支部長のアガサ・コールです」

「特務班第三位ウイラム、到着した」

 同じようにウイラムも敬礼を返し儀礼的な挨拶を交わし終えると、アガサはその表情を僅かにゆるめてミオに苦笑を浮かべる。

「何をやっていたのかしらね?」

「フツが悪いのよ。勝手にふらふら歩いていって、勝手に小悪党にからまれるんだもの」

 どうにも責められているように思えたミオは、口を尖らせてそっぽを向く。

「あ、いや。その……ごめんなさいです」

 居辛そうに身を縮こませて、フツは機嫌を伺うようにおずおずとウイラムに視線を動かした。

「構わん。それよりも……」

 それを一瞥ではね除け、ウイラムはアガサに目配せをした。

「連絡は本部からいただいておりますわ。箱を……いえ、棺の受け取りに来られたのですものね」

 彼女は分ったと頷き返して長身を素早く反転させると、そのままヒールの音を響かせて歩き始める。それに続いて動き出すウイラムにフツは慌てて声をかける。

「棺って……その、僕がはいっていたという?」

「そうだ。

そしてミオ。お前とフツには、本部へ戻るよう命が出ている」

「えっ……でも、私はまだ……」

 唐突にくだされる命令に、ミオは明らかに動揺しながら追いすがるように大きな背中に手を伸ばしかける。

「クエトサーグの勅命だ」

「……はい」

 それを振り払うようにウイラムは言い、先行するアガサを追って支部へと入ってゆく。

「あの、ミオさん。どうしたんですか? そんなに……その、怖い顔をして……」

 支部に保管されている棺のことよりも、拳を握りしめて立ちすくむミオが気がかりで、殴られるのを覚悟してフツは声をかける。

「怖い顔で悪かったわね」

 ふざけるように苦笑混じりでそう言って、ミオはため息を一つついた。

「勅命じゃあ、仕方ない……か」

 気遣うフツに、余計なお世話だという怒声はなく。

 深く……ゆっくりと息をつき、ミオは己の感情に折り合いをつけるべく言葉を紡ぐ……いや、絞り出した。

「もう少し、もう少しだけ……ここに止まりたかったんだけどね」

「もう少し?」

 感情を飲み込むその姿は酷く気落ちしているようにも見え、フツは表情を濁す。そんな姿は彼女には似合わないと思った。

「ここには、何があるんですか?」

「……っ」

 だからこそ尋ねてみたものの、口に出してしまってからフツは少しばかり後悔した。

 青い瞳の中にある力強い光が、僅かに陰ったように見えたからだ。

「そ、その。言いたくないことなら……別に……その」

 沈黙がひどく重く感じて、フツは語尾を濁しながら何とか取り繕うと思案する。

 その仕草が外見とは不釣り合いなほどに子供っぽく見え、肩をすくめたミオは僅かに笑って言った。

「変に気にしなくてもいいの。ちゃんと、アナタに話さなきゃいけないことだもの」

「僕に?」

 聞き返すフツに頷いたミオは、支部へと向かって歩き始めた。

「この世界のこと、エリュシオン協会のこと……敵のこと。そして、私のことをアナタは知らないといけないの。

エリュシオン協会特務班第九位としてね」

「特務班? ミオさんと一緒の所にいて良いんですか、僕?」

「居て良いというよりも、居なきゃならない。……いいえ、違うわね」

 自答するように声を低くして、ミオは行き交う人々に視線を向ける。同じ組織の中にいるとはいえ、対をなす色を着込む彼女とそれ以外の者の間には、目に見えない所……根底から何らかの隔たりがあるように距離を感じてしまうのは、けっして気のせいではないだろう。

「ここに居ちゃいけないのよ、アナタも私もね」

 視線を合わそうとしない群像達に嘆息して、ミオは歩調を早める。

「エリュシオン協会が何のためにあるか。それくらいは、支部長から聞いているでしょう?」

「チルド……っていう怪物と戦うんだって聞きました」

 自分の名前と言葉以外は何一つ覚えていないフツは読み書きが出来ない。

 必要な知識を得るには口で教わるしかないのだが、クチャル島全土にある施設を統括しているアムルイ支部には得体の知れない少年にかかりきりになってやれるような人間は少なく、ミオが通常業務の合間を見繕ってあれこれ教えているのが現状では、知らなければない知識の半分も頭には入っていないが、その固有名詞だけは嫌と言うほどに覚え込まされていた。

「小さいものなら何度か一緒に退治しましたよね? もやもやした黒いモノだったり、ネズミの姿をしていたり……」

 答えながら、フツは表情を曇らせた。

「僕たち……人間を食べてしまう、怪物なんですよね」

「大まかに言えば、そうよ。奴等は人間……命あるすべてを糧とし、この世界に存在することを最大の目的としている。いわば、人類の天敵ってことね。

それらを亡ぼす使命を負っているのが、エリュシオン協会なの」

 歩みを止める者は誰一人としておらず、開け放たれたままの扉を足早にくぐると、大理石が敷かれたエントランスが二人を出迎えた。

「……ぁ、ただいま、です」

「必要ないわよ、挨拶なんて」

 一斉に集まる視線にフツは頭をたれ、引き潮のように一斉に反らされてゆく視線にミオは奥歯をかるく噛んだ。

「行くわよ」

 睨み付けるようにそれらを一瞥し、ミオは磨かれた床に傷を残すようにブーツの踵をたたきつけて歩きながら、二階へと続く階段のそばにある扉へと突き進む。

「まってくださいよ、ミオさん」

 追いかけてくるフツを置いて行くような勢いで扉を開けるミオは、無言のまま通路を道なりに進んでゆく。

 いくつかのドアを素通りし、袋小路までたどり着いたところで立ち止まったミオは、不安げな表情のフツを振り返る。

「ここは?」

 エリュシオン協会に籍があるとはいえ、客人のような扱いのフツは施設内の深部まで来たことはなく、その内部構成すらもよくは知らない。

 無知というよりはむしろ無垢といった反応に、ミオは意を決するべく瞼を閉じ、ゆっくりと持ち上げる。

「研究室よ」

「……研究室?」

 鸚鵡のように繰り返し、札がかけられた扉に顔を向ける。

「関係者以外は立ち入り禁止」

 読めないフツに変わってミオは言い、注意書きを無視してノブを回した。

「は、入っちゃっても良いんですか?」

「関係者なら入っても良いってことなのよ」

 肩をすくめてみせたミオは、薄暗い室内へと入ってゆく。フツは置いてゆかれてはたまならいと、慌てて後を追いかけ……驚いた。緑色に輝く光が不気味に狭い室内に揺らめいていたからだ。

「なんですか、この光は?」

 美しい……とは表現しがたい揺らめきは不気味で、フツは扉のそばで立ち止まったまま動くことが出来なかった。

「……ついてきて。下で簡潔に、全部話してあげるから」

「は、はい」

 階段を下りるミオの足音が急き立てるように鼓膜に響き、フツはざわざわと浮き出る鳥肌の感覚に身震いしながら部屋の中央にある階段へと進む。

「――早く!」

「あ、はい」

 パイプをつなげただけのような、妙に頼りない階段をおそるおそる注意して下りたフツは、突き刺さるような強い光に当てられてよろめく。

 壁や床……そして天井までもが、緑の光に染められていた。

「これは、一体?」

 痛みさえ感じる目を瞬きさせて、ゆっくりと部屋の中を見まわす。

 入り口とは違ってそこは大きな部屋になっているようで、巨大な曇り硝子の板を仕切りにして奥と手前とに分けられていた。奥の部屋に何があるのかはよく分らないのだが、部屋を満たす緑色の発光元はどうやら硝子板の向こう側にあるようだ。

 呆然としているフツの視線にミオは無表情を返し、硝子板を背にして立つ。

「チルドに喰われた人間は肉体だけでなく精神までをも支配され、糧となり、奴等の眷属となる。しっているわね?」

「侵食って言うんですよね」

 抑揚のない声は教科書をそのまま読んでいるように淡泊で小さく、フツは聞き漏らすまいと背筋を伸ばして頷いた。

「そうよ。厳密に言えば、その状態をスレイヴと私たちは呼んでいるの」

 ミオはそれを確認して続ける。

「けれど、それだけじゃないわ。奴等に侵食されても、人としての意思を残す存在もいるの。

ごく、まれではあるのだけれどね」

「……ミオさん! その目」

 フツはただ、目の前に立つミオを見つめることしかできなかった。

 空のように青い瞳が一瞬で、部屋を満たすものと同じ――鮮やかな緑に染まったからだった。

「接触帰還者……もしくは、対存在と呼ばれるもの。人であって人ではなく、人でありながら人でなくなってしまった存在が、私。

チルドのように目が緑色に染まり、人でなくなった代償に得た力を使って常に前線に立って戦うことを定められた人間で構成されているのが……特務班なの」

「僕も……変わった人間だから特務班に?」

 海から引き上げられた棺から出てきたという、自分でも信じられないようなその経歴は、それだけで人間外と判断されてしまう要素は十分にあるのだろう。

 しかし、と。フツは胸がつかえるような感覚に顔をしかめた。

 侵食され、たまたま生き残ったという彼女までもが同じ扱いを受けていることに複雑な感情が芽生える。確かに瞳の色は恐ろしいが、だからといって彼女自身が脅威であるというわけではない。フツにとっては、この世界の中で一番信用のおける少女でしかなく、さげすまされる理由を察することなど出来なかった。

 曇る表情を与えられる運命に困惑しているとでもとったのかも知れない。厳しい表情のまま、ミオは静かに頷いた。

「そうね。アレは確かに私も驚いたわ。海底から引き上げた棺から男の子が出てきていきなり……ま、まあ……とにかく」

「いきなり、なんですか?」

 首を傾げて問いかけるが、ミオは咳払いばかりで先を語ろうとはせず。仕切り直すように表情を真剣なものに戻して続けた。

「アナタは瞳こそ緑化しないけど、チルドの気配を感じ取ることが出来るでしょう? だから特務班が引き取ったの。

奴等と――チルドと戦うために」

「戦うんですか、僕も」

 フツは支給品のベルトについている小袋を探った。そこには、符術札と言われている古くから伝わる不可思議な力を持った札が何束か納められている。人の身でチルドと張り合うことが出来る、唯一の力だ。

「戦えるんでしょうか、僕」

 記憶を失う以前はどうだったのか知らないが、今のフツは自分の身を守ることすらやっとの力しかない。気配を探る事が難しいチルドの存在を感じることが出来るとはいえ、前線に立って戦えるような自信はまったくと言って良いほどになかった。

「でなければ殺される……そういった存在なのよ」

「殺されるって、ミオさんや僕が……ですか? そんな!」

 不安げな表情を見せるフツにミオは眉をひそめる。

 有無を言わせずに決められる運命。それを受け入れることが容易ではないのは誰よりも彼女が知っているのだろう。向けられる視線は平然としているが、突き放すような冷たさは感じさせない。だからこそ、取り乱したりすることなく立っていられるのかも知れないと、フツはそう思った。

「奴等と戦える力を持っているからこそ生かされている。

その気はなくとも、私も……アナタも、他人にとっては恐怖の対象の一つでしかないの。チルドと同じようにね」

「……恐怖の、対象?」

 ミオは苦笑を浮かべたまま頷いて、磨りガラスの向こう側を睨み付けた。

「ねえ、フツ。私は何歳に見えるかしら?」

「ミオさんですか?」

 問われ、フツは改めて黒いコートを羽織って、長刀を背負う少女を見た。肩で切りそろえられたつややかな髪と大きな瞳。ブーツで踵をあげていても、小さい体はとても幼い。

「十八」

 答えあぐねいているフツに、ミオは感情が交ざってしまわないようにと短く言い切る。

「十八なのよ」

「……え!」

 驚き、疑うように顔をひそめるフツに、ミオは変わらない口調で続ける。まるで他人事のように、素っ気なく。

「五年前にチルドによって肉体の時間を奪われた私は、十三歳の時のままの姿でここに存在しているの。接触帰還者としてね」

 時折見せる大人びた表情や言動は決して背伸びをしているモノではなく、本来の彼女の姿そのものだったのだ。にわかに信じがたい話ではあるが、それを疑えるほどの知識はフツにはなく……語るミオの口調は冗談を言うようなものではなかった。

「ここには……なにがあるんですか?」

 フツは彼女がじっと見つめている磨りガラスの向こう側に視線を向ける。どんなに目をこらそうとも、奥にあるモノの姿はうっすらとしか見えず、何があるのかはわからないがひどく重要なものであるのだろうとは思った。

「私の……婚約者が眠っているのよ」

 ミオは硝子板からせり出している操作パネルに手を伸ばした。

「中に入るには支部長であるアガサ・コールの許しがいるんだけど、中を見るだけなら私でも自由に出来るの」

「ミオさん、あの。こ、こんやく……しゃって?」

 裏返るフツの声にミオは笑う。

「もと、がつくけどね……親が勝手に決めた事だったけれど、満更でもなかった。

生まれたときから一緒に育って、生きて。当たり前だったそんな日々を永遠に続ける約束だったから」

 ゆっくりと、鮮明になってゆく硝子板。

 彼女が見せようとするものを見逃すことがないよう、フツは唾を飲み込んで目を見開いた。

「……えっ?」

 巨大な水槽がいくつも並ぶ異様なその光景に、フツは目を見開く。

「ミオさん! あの、その……」

 縁まで水を注がれた水槽はどれもが淡く発光し、壁や天井……太いコードが絡みあう床までをも緑色に染め上げている。

 異様なのはそれだけではない。

 やめておけと頭のどこかが警鐘を鳴らすが、それを無視して水槽の中にある何かを注視する。

 ふらふらと漂う影、それらはどれもが人の形を持っているように感じて、全身に鳥肌が立つのを感じたフツは動揺しきった震える声でミオに問う。

「何なんですかっ?」

 振り返るミオの口元は緩く持ち上げられてはいたが、伏せられた目は映り込む緑色の光に悲しく揺らめいていた。 

 その背後に並ぶ水槽のうちの一つ。

 自分と似通った年代の少年が液体の中で漂うのを見つけ、体温が下がるような……恐怖にも似た驚愕に喉が引きつる。

 言葉が出ない。

「私だけ……置いてかれちゃったのね」

 冗談なのか、皮肉なのか……強がりなのか。響く声を、フツはただ聞いていることしか出来なかった。


 ◇◆◇◆

 

「これが海から引き上げられた棺ですわ」

「……確かに」

 台の上で鎮座している棺を見下ろしたウイラムは小さく頷き、出てきたときと同じように手触りの良い布でくるみなおした。

「蓋は開いたか?」

「いいえ。何度か試してはみたのですけど……びくとも。正直に言わせてもらえば、気味の悪い箱ですね」

 視線を僅かに下げ、アガサは小さく頭を振る。

「だからこそ、棺は特務班の方で預からせてもらう。それと……」

「なにか?」

 顎を持ち上げるアガサに、ウイラムは深い漆黒の瞳を向けて言った。

「浸食域からいろいろと運び込んでいるようだな。ミオから報告を受けている」

「スレイヴ化していない住人達のことですね?」

 鋭い刃を想像させるその視線にひるむことなくアガサは頷き、執務机へと移動して椅子に腰をかける。

「仰るように、浸食域指定されたミツカイから研究の対象となるモノを、いくつかアムルイに運び込んではおりますけれど……なにか不都合なことでも?

本部にはちゃんと許可をいただいていますのよ?」

 動揺など一切なく、当然とばかりのアガサの態度にウイラムは軽く息を吐く。

「……危険な行為だ、それは」

「たしかに、そう思われても仕方はありません。けれど、この私がアムルイの住人に危害を与えるような行動をとると思われるのは……あまり面白くはありませんね」

「……」

 無言で返してくるウイラムに嘆息して、アガサは明るい日差しが入り込んでくる窓を椅子に座ったまま振り返る。

「エリュシオン協会付きの施設がある主立った町には、符術による結界が施されていることはご存じでしょう?」

 銀製のピアスを耳元で揺らしながら、眼下に広がる景色を見回す。

「チルドの侵入を阻止するための結界を通って運び込まれていますし、フツくん……チルドの気配を感じることが出来る彼も、危険を察知してはいません。

 それに、戦うべき敵のことを私たちは知らなすぎると……ウイラム様は思いませんか?」

「結界は防壁であって絶対ではないと知っているだろう? その判断はいささか甘いとおもうがな……」

 暖かい光が差し込む広い部屋に、重い吐息が混じる。

「私たち人間がもつ力は、巨像を前にする蟻のように僅かなのですよ。出来ることと言えば震えながら脅威が通り過ぎるのを待つか、見付からないようにと祈ることしかない。私は、あなた方のようにアレと戦う事など出来ないのですよ。

――しかし、それだけしか出来ないなんて、哀れだとは思いませんか?」

 広い町並み。賑やかに彩られた景色。

 元々は小さな島の港町の一つでしかなかったアムルイは、いつ現れるか分らない驚異から逃れるため、結界を……エリュシオン協会を頼りにする人々が集まり、主要都市の一つになるまで大きくなった。

 アガサは一つ大きく息を吸い、拳を握りしめて言った。

「生き残るためには、考え得る限りのすべてのことをなさなければならない。

私は……」

「アガサ支部長、いらっしゃいますか!」

「何事です?」

 乱暴に叩かれる扉と息の乱れた苦しい声に、何かが起こったのを察したアガサは椅子から立ち上がり、入るように声をかける。

「ご、ご報告……いたします」

 入ってきた青年は、落とす間もなかったのか髪や顔……衣服、ほぼ全身を埃と泥で汚していた。

「ミツカイに、チルドがっ……調査隊が、襲われ……つっ」

「しっかりなさい!」

 倒れ込む青年を助け起こすべく駆け寄ったアガサは、かすかに鼻孔をくすぐる血臭に顔を青くさせた。

「こんなこと……なぜ?」

 呟く声は震え、すがるようにウイラムを見上げる。

「……仕方ない」

 視線は虚空に向けられたまま、不機嫌な声がため息のように口から漏れる。

「ウイラム様?」

「車を一台だしてもらおう」

 つい――と細められる瞳は無感情に、ウイラムは座り込む二人を見下ろして言った。

「行くしかあるまい。

奴等と戦い、勝利すること。それが特務班の存在理由であるらしい」

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