03
アムルイの治安はどちらかといえば良い方だ。
とはいえ、それは他の都市に比べてということであって、のりのきいた服を着て丸腰で裏通りを歩いていればガラの悪い男に追いかけられることくらいはあるだろう。
「あの……ぼくに何の用でしょうか?」
空には燦々とした太陽が昇っていても、建物に囲まれた袋小路は薄暗く。白いコートの袖をまくってさらしている肌に鳥肌を立てるくらいには冷えている。
「わざわざ言わなくたってわかるだろぉ?」
小さな山をあちらこちらにくっつけた、まるで張りぼてのような筋肉質の体を折り曲げて、似合いもしない笑みを浮かべた男は少年を見下ろした。
「もしかして……お、お金ですか?」
すっかり引けてしまっている腰を背後の壁にこすりつけ、ようやっと絞り出した声は笑いたくなるほどに震えている。年相応にスラリと伸びた背中も猫のように丸まっていれば、なめられても仕方ないといえば、そうなのかも知れない。
「ちゃんとわかっているじゃねぇか」
男は何度か大きく頷くと、手招きをするように差し出した右手をひらひらと動かしてみせる。
「あいにくですが、ぼく……手持ちが全くなくて、その」
逃げる場所もなく、少しでも恐怖から逃れようと後ろ向きに壁にへばり付く姿はなおさら滑稽ではあるが、男の顔からは笑みが消えた。
「さんざん逃げ回っておいてそれか、小僧!」
「ひいっ!」
叩き付けられる怒声に、少年は頭を抱えてしゃがみ込む。
「い、いや、だって。
怖い顔したお兄さんに声をかけられたら、全力で逃げるのが筋ってもんでしょう?」
「うるせぇ! 生娘でもねぇくせにびくびくしやがってぇ!」
「うひいっ!」
縮こまる少年につばを飛ばして鼻息を荒くしながら歩み寄っていった男は、質素ではあるが手触りのよい生地でつくられたコートの胸倉を乱暴につかんで、恐怖に縮こまっている細い体を軽々と持ち上げてしまった。
「その制服、エリュシオン協会のものだろうが! あいつらが、何にも持ってない訳はねえんだよっ! 護衛だかなんだか知らねぇが、クソ高い金をふんだくっているんだってな!」
「そ、それは町を守るにあたって、ちゃんとした取り決めの元に定められた金額だって聞きましたよ! それに、協会にお金はあっても僕に同じようにあるとは限らないじゃないですか。
……ってか、持ってないんですって、本当なんです! なんか僕、金銭感覚がずれているらしくて一人で買い物禁止令っていう愉快な指令が出てるんです! 逆立ちしたって何にも出てきませんよ!
だからいい加減に離してくださいよ! くるしい! 死ぬ!」
「べらべらとうるせぇんだよ、小僧っ!」
「たす、たすけっ」
のど元を締め付けられているために、浅くなる呼吸に恐怖し、少年は必死になって地面から浮いた足をばたばたと動かすが、つま先が男の胸板を叩いた所で力がゆるむわけもなく。
ならばと、強靱な腕を引っ掻いて抵抗を示した。それも、微々たるものではあったが。
「――油断しすぎよ、フツ!」
「え?」
突如、割って入ってくる高い……少女の声。
聞き知ったその声にフツと呼ばれた少年は怯えきった両眼で空を仰いだ。
何かが、落ちてくる。
――そう思った瞬間。
「ぎゃっ!」
つぶれた蛙を連想させるような悲鳴とともに胸倉をつかむ腕が弛緩して、拘束から逃れる。
「げほっ……けほっ、けは?」
前のめりに倒れ込む男と一緒に地面に落下したフツは嘔吐くように数度咳き込みながら、強烈な視線を感じてそのまま硬直した。
「あ、あの……」
「愉快な指令で悪かったわね」
ほこりっぽい地面に両腕をつき、顔は上げずに伏せたまま、おそらくは険しすぎる表情で仁王立ちになっているだろうその人の機嫌を伺う。
「ご、ごめんなさい?」
「離れないでと言ったでしょう」
「ううっ、いや……だって……そのぉ」
「顔を上げて」
抑揚のない口調は、わざとそうしているのだろう。平静さを装っているのが、不機嫌であるということを主張しているようでもありとにかく恐ろしいが、だからといって無視することなどできるはずもなく、恐る恐るといった体で顔を持ち上げた。
紫色の瞳と、少女の青い瞳が交差する。
「……あの?」
「後でみっちり戦闘訓練をしてあげる。もちろん、お説教もよ。
覚悟しておくのね!」
「戦闘訓練って……地獄の町内走り込み十周ですか! ご、ごめんなさいミオさん! 謝りますからせめてお説教だけで勘弁してください! 筋肉痛で死んでしまいますよっ!」
「馬鹿ね、筋肉痛じゃあ死なないわよ」
にこやかなその表情の中にあるはっきりとした怒気に、フツは額を地面に押しつけて泣いた。
「何だ……いきなり」
「へぇ、見ためくらいには頑丈に出来ているのね」
「子供だぁ?」
たんこぶがふくれあがっている脳天をさすりつつ、ゆっくりと巨体を揺らして立ち上がった男は、背後に立つ少女……ミオを振り返って滑稽なほどに眉をひそめた。
「おいおいお嬢ちゃん、過激に遊ぶつもりならちゃんと相手を選ばないとだめだろう?」
にっこりと微笑まれてもむさ苦しい以外のなにものでもない顔に、ミオはやれやれと肩をすくめてためて息をついた。
「そっちこそ、絡むんだったらちゃんと相手を選ばないと痛い目どころか、かかなくてもいい恥をかくわよ」
オーバーサイズの黒いコートの裾を踝でなびかせ、ミオは鞘に収まったままの己の背丈ほどもある凛鉄鋼の先を男へと向ける。
「かわいいお嬢ちゃんよ。さっさとその玩具を引っ込めて、近所のお友達とおままごとでもしているんだな。
……でないと、お母さんが泣くようなめをみるかもしれないぜ?」
「お生憎さまね。
今更になってままごとをするような趣味はもってないし、泣くような親はもういないわ」
すごみをきかせて男はミオを睨み付けるが、小さなその体は震えることはおろか、すくむような素振りもみせず、むしろ男を煽るようにゆっくりとにじり寄って行く。
「甘く見ると痛い目にあうわよ?」
「――なっ!」
馬鹿にしたその表情は、短気な男の神経をぷっつりと切断してしまったようだ。
男は目尻をつり上げ、立ち上る湯気のような怒気を日に焼けた肌からにじませ、太い腕を振り上げた。
まともにあたれば顎の骨を砕きかねない、加減などまったく感じられない一撃を前にしても勝ち誇った笑みを崩すことなく、ミオはその大きな青い瞳で男を睨み付ける。
「み、ミオさん!」
「忠告はしたわよっ」
「なっ! なんだ……とぉっ?」
男は目をむいた。
黒塗りの美しい長刀は戦うには不向きそうな細い腕に巧みに操られ、風を切って振りかぶられる拳を受け流し――がら空きになった胴へと容赦なくたたき込まれる。
「ぐふぅっ……!」
「うわ、痛そう」
鮮やかすぎて、まるで見せ物のような一連の所作を呆然と見つめながら、フツは苦い表情でぽそりと呟いた。
「正当防衛よ。喧嘩を売ってきたのはあっちの方なんだから」
地面にへばりついたまま動かない男に肩をすくめてそう言い切り、ミオはフツへと視線を動かして顎をしゃくる。
「……ほら、早く立ちなさいよ。
こんな所で道草くっている場合じゃないのは、アナタも知っているでしょう?」
「本当にごめんなさい。ちょっとだけ……油断していました」
「慣れてきたとはいえ、保護されてからまだ一ヶ月とちょっとよ。
図体はそれなりに大きくても、記憶喪失っておまけ付きなんだからね。いろんな物事に注意し、つねに用心することを忘れないようにって言っているでしょう?」
「……はい」
頷いて、フツは自分の胸ぐらいの位置にある二つの大きな瞳を見下ろす。
改めてみれば、勝ち気でありながらも大きな瞳がよく似合う、かわいらしい少女だ。
華奢で小さな体を大きめのコートでくるみ、身長と同じくらいの凛鉄鋼という名を持つ長刀を背負っていなければ、のどかな港町のちょっとした名物にもなっていたのかもしれない。いや、そうでなくとも目立つ外見ではあるが。
「なに?」
「い、いいえ。何でもないです……なんでも」
ミオの格好は、どこからどう見ても年頃の少女のするようなものではないが、だからといって不自然というわけでもなく。むしろ、それが当たり前のようにしっくりして見える。
子供らしからぬ、意志の強い視線を持っているからなのかもしれない。
「まあ、いいわ。
とにかく、あとで訓練とお説教だからね」
「そんなぁ。ぼくだって、好きで追いかけられたわけじゃないんですよ。
久しぶりに支部の外に出たから、いろいろ見ていたらいつの間にか裏通りにはいっちゃっただけで……その……あの。
許してくださいよ、ミオさん! 謝りますから!」
「そこの髭男みたいに凛鉄鋼で叩かれたくないなら、無駄口は慎みなさい」
黙っていれば少し変わった兄と妹という組み合わせの二人だが、言葉を交わすとその位置はぐるりと反転してしまう。
つんと鼻を突き出して言うミオに、フツは背筋をただして頷いた。
「はい、ミオさん! 無駄口は慎みますっ!
……だから、許してください! せめて訓練だけでもっ!」
「……分った分った」
あまりにも真剣なフツの態度にミオはやれやれと肩をすくめて頷き、表通りへ戻るためにきびすを返す。
「ミオさん。この人どうするんですか?」
「放っておけばいいのよ。時間もあまりないし……こういった小者を捕まえるのは、私たちの仕事じゃないもの」
「まあ、確かに悪者を捕まえるのは保安官さんの仕事ですけど」
横柄な態度に苦笑をこぼし、路地を占領する男を器用にまたいでミオを追いかける。
「えっと、これからどこへ行くんでしたっけ?」
歩幅の関係から直ぐに追いついたフツは、まっすぐに前を向いて歩くミオの横に立ち、長閑な景色にきょろきょろと首を振りながら問う。
「……落ち着く!」
「あいたっ!」
がつん。と鞘に収まったままの凛鉄鋼ですねを叩かれたフツは、たまらずにしゃがみ込んだ。
「そうやって落ち着きがないからはぐれるの!」
「だ、だって。
やっぱり町が珍しくって……つい」
かわいらしい瞳をつり上げるミオの同情を誘うよう、涙のにじむ両眼で見上げるフツだったが、逆に反感を買ってしまったようだ。
「だから! あちこち勝手に歩き回らないでって言っているじゃないの! 監督する方の身にもなりなさいっ!」
「ひっ!」
引きずるような長さのある凛鉄鋼が、肩を支点としてぐるりと回転し、しゃがみ込んだままのフツの脳天に勢いよく叩き込まれる。
「――っぎゃ」
悲鳴という悲鳴もなく。
うめき声を上げただけのフツは、痛みを通り越した衝撃にもんどり打って埃っぽい歩道の上を転がった。
猛烈な痛みに、叫ぶ余裕すらない。
「忠告はしたでしょ?」
頭を抱えて暴れるフツを見下ろし、どうしようもないとミオは首を振る。こんなことで手間取ってはいられないのだ。
「さ、立って。
時間にはあまりこだわらない人だけど、あまり待たせるのは失礼よ」
「ふ……ふぁい。ミオさん」
「そう。素直で従順なのが、今は一番。
おとなしくしているんだったら、これ以上は叩かないであげるわよ」
「本当ですか! やった、優しいですね、ミオさん」
「……そんなにはしゃぐように喜ばないで。私が嫌なやつにみえるじゃない」
むすっと不機嫌そうに言って、ミオは緩やかな坂道をフツとつれたって下ってゆく。
「ねえねえ、ミオさん」
「なに?」
「今日はいつになく機嫌が良さそうですね」
ミオは小走りに、フツは足早に。
早朝のあわただしい時間帯を乗り越えた人々が軒先で長閑な時間を満喫している中を進みながら隣を歩くミオを見下ろしてみれば、彼女は目前に見える海原を見つめて……微笑んでいた。
「師匠が来るのよ」
「師匠? ミオさんのですか?」
「そう。特務班の仲間に会うのは、久しぶりだから……ね」
うれしそうに……しかし、僅かに語尾を濁してミオは視線を前方へと向けた。