02
見上げる空は青く、晴れ渡っている。いわゆる快晴というやつだ。
潮騒の音に彩られた港町アムルイに注ぐ日差しは、緩やかに隆起した土地の上に立つ赤い屋根の家々を庇護するように輝き、多くの人でにぎわう町を見下ろすように群れをなす海鳥は、高い鳴き声をあげて空を滑空してゆく。
その、のんびりとした景色をかき回すように、小さな体に覆い被さるような黒いコートをなびかせ、己の背丈ほどもある長刀を背負った少女が石畳を蹴り上げて海へと向かって走っていた。
「一体、何だっていうのよ!」
肩で切りそろえた黒髪の一房を手で払い、小さく舌打ちをしながらも走り続ける。
春もなかば。夏の気配を感じさせる少し暖かい風に潮の苦い味がまじり、沢山の漁船が停泊する港へとたどりついた少女は、目の前にある人だかりに向かって声を上げた。
「……そこを退いて!」
太陽は中天にあり、魚の陸揚げはとうに終わっているはずの時刻なのだが、港にはゴム製の前掛けをつけた水夫達が輪になって何かを取り囲んでいる。
「退いてって言っているのにっ!」
駈けてくる少女に水夫達は何事かと顔を向けるが、大人顔負けの足の速さにあっけにとられているのか、動く者はいなかった。
仕方なく、少女は背負っていた長刀を手元に引き寄せると、黒塗りの美しい鞘の先を地面へと勢いをつけてたたき込み、それを軸にして空高く飛び上がった。
「……っ!」
小さな体はまるで鳥のようにくるりと空中で翻り、曲芸のようなその動きに歓声を上げる野次馬達の頭上を軽々と跳び越え、着地する。
「……随分と派手な登場ですね、ミオ」
「まあね」
まばらな拍手に軽く頬を染め、少女……ミオは声をかけてきた女に大きな青い瞳を向けた。
「もっと早い登場なら、なお良かったのですけど」
「ちょっとその、寝不足だったから」
微笑みながらもしっかりと釘を刺してくる、美しい金髪を結い上げた美女を見上げて、ミオは唇を尖らせた。
「寝不足……ですか」
細身のスーツを体に巻き付けるようにして着こなし、すらりとした長身の持ち主は、幼いミオの仕草に口紅の似合うふくよかな唇を持ち上げて言った。
「一晩中必死にベランダでぶら下がっていても、身長は伸びませんよ」
「あ、アガサ支部長! 見ていたんですか!」
「ふふふ。夜のヒミツ訓練もほどほどにしておきなさいね」
「……ひっ、ヒミツ訓練なんて!」
真っ赤に顔を染め、ミオはからかうようなアガサの視線から逃れようとうつむいた。
「それよりも、支部長。用件は――」
落ち着きなく動かした視線の隅に、なにか赤いモノが映り込む。不審に思ったミオは言葉を中断してそれに顔を向け……形の良い眉をひそめた。
「――棺?」
「あなたもそう思うのね」
海水にぬれた網の中、棺……宝石箱のような美しい細工が施された赤い箱がそこにあった。
「何なんですか、これは?」
ミオの声に警戒の色が混じる。周囲を囲む見物人達も、よくよく見れば楽しむというよりはいぶかしむといった表情をしている。
「今朝、底引き網漁で採った魚と一緒に水揚げされたらしいわ」
「海の……底から?」
持ち上げられるミオの視線に、アガサは頷いて続けた。
「そうよ。
海藻や苔がからみついてはいるものの、棺自体には汚れも……傷の一つもない。奇妙でしょう?」
「そうね、確かに」
アガサがそうするようにミオも棺を見下ろし、細い腰に両手をあてて唸った。
「私を呼んだ訳が分ったわ。
周りの野次馬を下がらせて。私が蓋を開けてみる」
「ミオ……」
「そのための私。でしょう?」
何か言いたげなアガサに肩をすくめ、棺の側にしゃがみ込んだミオはぴったりと閉じている蓋にむかって手を伸ばす。
……不思議な感触だった。
日差しの下に放置されていたにしては、ひんやりとした温度を保つ表面。少し濡れているそれは石のように堅くもあり、木のように柔らかくもあり……はっきりと材質を断定することが出来ない奇妙な質感をしている。
「……不思議」
まるでこの世のものではないようだと――そう感じた瞬間、ピンと伸ばされた背筋に悪寒が走る。
「――っ!」
はねるように素早く立ち上がり、長刀を構えるミオ。
「どうしたの?」
「蓋が……」
野次馬たちを下がらせていたアガサに振り返らずにそう言って、間合いをとるようにじりじりと後退する。
「勝手に開く? 下がっていて、支部長!」
深く軋む音が響き、数々の視線に晒されながら棺の蓋がゆっくりとスライドしてゆく。
「こんな町中で凛鉄鋼を抜くことになるなんて……」
長刀……凛鉄鋼を握りしめ、いつでも動けるように神経を尖らせながら棺を睨み付ける。周囲は事態を伺うような重苦しい沈黙に満たされ、棺がたてる音以外はミオの浅い呼吸と潮騒の音が響くばかりだった。
緊張に、誰もがその身を固くしている。
「――ぅ」
「人間?」
僅かな隙間からか細いうめき声とともに、美しく繊細な紋様が浮かび上がる青白い手が這い出てくる。
人のようでもあったが、ミオはその体の緊張を緩めることはなかった。いや、むしろ警戒心を高めてゆく。それがたとえ人であったとしても、棺は海中から引き上げられたのだ。出てくるものがただの人間であるはずがない。
「……誰? 名を、名乗りなさい」
突き出した両手で棺の縁をつかみ、ゆっくりと体を起こしたのは、大人へと変わりつつある年頃の一人の少年。
「……」
刺々しいミオの言い回しに、少年は白に近い灰色の……光に透ければ銀色に見える不思議な色合いの髪の奥にある瞳をゆっくりと動かす。
紫水晶の、神秘的で引き込まれてしまいそうな美しさをもつぼんやりとした瞳が、怪訝そうな表情を作るミオへと向けられた。
「……レ……ッタ」
薄い唇が、たどたどしく動く。
「――レッタ?」
聞き取りにくい言葉の断片を無意識に繰り返すミオは、向けられる視線に射すくめられたようにピクリともうごかず、ただ少年を見つめていた。
「な、なによ……」
「リンスレッタ」
呼びかけられ、ミオは向けられている視線が虚ろなだけではないことに気づいて、焦った。
儚く美しく、そして微笑んでいるようにも見えるその視線は、ミオを通して何を見つめているのだろうか。
「……リンスレッタ? 誰のことよ?」
聞き覚えはない。
もちろんそれは彼女の名前ではないし、甘い声音でささやかれるような間柄であるはずもない。
だが、ミオの問いかけに少年は答えることなく、たるんだ糸でつり上げられる人形のようにふらりと立ち上がり、棺から一歩……外へと踏み出す。
「ヴァリシーサ・リンスレッタ・ルーフィン」
それは砕けるガラスのように透明で、響く鈴の音のように美しい声。
「私たちの愛おしい人よ」
「――っ」
ささやき。
少年はシーツのように薄い布で作られたローブから覗く裸足をたどたどしく動かして、呆然としたまま動けないでいるミオへと、痣が引くようにじわりと紋様が消えつつある両腕を伸ばした。
反応らしい反応が出来なかったのは、きっとその行動に悪意を感じなかったからだろう。
「ミオ!」
逃げろとアガサが声を上げるが、気づいた時にはすでに儚い見た目と相反する力強い手に肩をつかまれていて動けなかった。
「ちょっ、いきなり何を――ンっ!」
うろたえるミオを無視して、少年は愁いをおびた美貌の顔をゆっくりと近づけた。
少し冷えた互いの体温が、唇を介して交差する。
「――は」
ふれあう柔らかい感触にミオは大きな瞳を更に開き、震えた。羞恥なのか怒りなのか……おそらくはその両方が混じっているのであろう感情に、だらりと垂らした両腕をふるわせる。
――そして。
「離しなさいよ!」
叫び、肩をつかむ手をふりほどいたミオは憤る感情に促されるまま、少年の顎へめがけて凛鉄鋼の鍔をたたき込んだ。
「――ぐふっ」
加減のないその一撃をまともにくらった少年は、悲鳴にも苦悶にもならない声をあげて仰向けに倒れ、半開きのままの棺をひっくり返して地面に転がり――動かなくなった。
「ちょっと、やり過ぎじゃないかしら」
「……」
青く晴れ渡る海辺の町、アムルイ。
「これぐらいやられて当然よ」
白目をむいてひっくり返った少年を見下ろして、ミオは唇をぬぐいながら苦い口調で言った。