ほのぼの上杉家小咄2 「ふたりの約束」
ほのぼのとしています。カッコイイ殿と直江さんはいませんので、ご注意ください。
「この愚か者! なぜものの道理がわからぬのかッ!」
そう言い放った瞬間、きつく唇を引き結んでいた樋口与六は大きな目をさらに見開いて、怯えたように俺を見上げてきた。
すぐにその目が潤んでいく。
こらえようと唇を噛んだのも一瞬で、和尚に打擲された腕を押さえてうつむき、嗚咽を殺しながら泣き出してしまった。
――あぁ、母上。
あなたは俺にこんな子供をどうしろというのだ……。
刹那、五歳も年下――まだ齢、五つでしかない与六を俺に任せた母上を恨みながら、俺は思わず薄曇りの空を仰いだ。
「申し、わけ、ござい……ん」
必死になって謝罪を紡ぐ与六のあごから、ぽたぽたと涙が落ちていく。
痛む腕を抱え込み、泣き続ける与六が段々と哀れになってきて、ため息を振り切った俺は与六の脇に手を押し込んで抱き上げた。
そのまま雲洞庵の濡れ縁に腰掛けさせる。
「腕が痛むのか」
「……、」
はいともうんともつかない返事を漏らし、与六がうなずく。腕を掴んで藍色の着物をめくり上げると、細い腕に赤い筋がいくつも走っていた。
撫でてやっても痛そうで、俺は着物をそっと元に戻した。
「与六、お主は源左衛門たちにからかわれたのだ。……お主が幼くて、怖いもの知らずだからな」
全祝和尚も、与六がけしかけられて地蔵に供えてあった大福を盗ったことを知っているだろうに、容赦なく打ち据えてくれたものだ。――もちろん、盗み自体は誉められたことではないが。
「事をなす前に、考えろ。やってはならんことはあるんだ」
言いながら懐から取り出した手ぬぐいで頬を拭ってやると、与六はどうにか嗚咽を飲み込んで、俺をまっすぐに見つめてきた。
「なんで、源左衛門はそんなことを……?」
「……からかった理由か?」
今度は大きく、与六はあごを引く。
俺はもう一度手ぬぐいで濡れた顔を拭ってやった。
「面白いから、だろうな」
「……からかうことが、面白いんですか? おれをからかうことが?」
さっぱり意味が分からないという風に、与六が首を傾げる。
俺は不意をつかれて五歳の与六を見た。
まあ、……確かに、人をからかって面白いというのは、俺自身にもわかりづらい思いだった。少なくとも俺は、そういった遊びは嫌いだった。
「俺にもわからん」
無造作に手ぬぐいを懐に押し込めたとき、かさりと紙の音がした。懐を覗き込んで、思い出す。先ほど、母上が来たときに分けてくださったものだった。
「与六、お主に頼みがある」
俺は与六の手をつかみ、紙に包まれたそれを押しつけた。
「これをお主の弟の与七に届けてくれ。与七に届けられたら、お主も食べていいぞ」
「うわぁ!」
与六は紙に包まれた色鮮やかな干菓子を見て目を輝かせた。にっこりと笑い、紙の包みを大切そうに両手で包み込む。腕の痛みなどすっかり忘れたように大声で「はい!」と答えた。
勢いよく濡れ縁から飛び降り走り出そうとして、慌てて振り返る。結い上げた黒髪が背中でぴょんっと跳ねた。
「あの、今から、ですか?」
「かまわん。行け」
「はい、行ってきます!」
今度こそ解き放たれた馬のように、与六は走り出した。あっと言う間に雲洞庵の広い庭を横切り、姿が見えなくなる。――泣いた子も、干菓子ひとつでころりと笑うのか。
ほっとして腕を組み、何となく濡れ縁に寄りかかった。
「喜平次どのは与六の扱いがうまいですな」
いつから見ていたのだろう?
すぐ後ろで障子が開き、全祝和尚が顔を見せる。
俺はさりげなく濡れ縁から離れ、少し乱れた襟をきちんと直した。手ぬぐいを奥まで押し入れる。
「そんなことはありません」
「謙遜なさらなくても結構ですとも。与六はまるで兄のように、喜平次どのを慕っておりますよ」
「とんでもない」
恐らく和尚はよい意味で言ったのだろうが、俺はなぜか苛々して両手をきつく握り締めた。
――どうしてなのか、俺は幼い頃から癇癪持ちだった。時々、何かをわめかずにはいられない時がある。
力んだせいで声がぶっきらぼうになった。
「与六は幼すぎて、誰を頼りにしてよいのかわからないだけだ。俺を慕っているわけではない」
「喜平次どの、あなたさまには君主の才がおありだ。それがおわかりになりませんか」
この俺に?
思ったこともロクに言えず、与六をからかう桐沢源左衛門たちですら従えさせることが出来ないのに?
不意に苛立ちが怒りに変わる。
力を込めて両足を踏みしめ、俺は坂戸城のある坂戸山の方を見上げた。
「俺は父から学ぶことが出来なかった。だから君主の才などわかりません。愚かなる主であれば死ぬだけでしょう」
一瞬、心の中で越後の国主である叔父に切腹を命じられる様を、兵で攻めたてられて討ち死にする様を思い描き、馬鹿らしくなってすぐに掻き消した。
「いずれ、わかることです。俺がこの地に相応しい主であるかどうかは」
愚かな主であるならば死ぬだけだ。
それが、愚か者には相応しい。
「……喜平次どのは誰に教えられずともわかっていらっしゃるのですよ」
肩に力が入っていた。
我が家である坂戸城に、厳しかった父はもう居ない。
それにひどく息苦しくなって息を吐いたとき、背後からどこか感心した声でそう告げられて、俺は訝りながら全祝和尚を振り返った。
まるで論語を教える時のように、和尚は静かに微笑んで続けた。
「喜平次どのはすでに城主でいらっしゃいます。ですが城主であることと、城主になることはまた別なのです。それを間違えてはなりません」
言われていることをすぐには理解できず、俺は和尚の顔をじっと見つめた。
「……別、ですか?」
「学びなされ。あなたさまは、立派な城主になられます」
なんだかからかわれているような気がしたが、和尚は満足げにうなずき、その場から立ち去った。
俺は独り残され、困惑しながら春先の空を見上げた。
――城主であることと、城主になることはまた別なのです。それを間違えてはなりません。
和尚が言いたかったことはなんなのだろう? この俺には本当に、君主の才があるのだろうか……?
だがどんなに考えても、和尚の言った意味はわからなかった。
俺は春先の空を見上げて、なんとなく雲洞庵を取り囲む森の中を歩き始めた。
「との!」
宛もなく歩いていたところ、いきなり何かが背中にぶつかってきて、俺は足を滑らせよろめいた。
振り返ると頬を赤くした与六が腰にしがみつき、嬉しそうに笑っている。それから自分が何をしているのか気付いたのか慌てて離れた。
気恥ずかしげにうつむいてから勢いよく俺を仰ぎ、にこっと笑った。
「与七はものすごく喜んでいました! 久し振りに母上に会えて、おれも嬉しかったです!」
「……そうか」
どんなに厳しく雲洞庵の坊主や桐沢たちが躾ようとしても、与六からは無邪気さが消えることがない。
満面の笑顔に吊られ、ぐしゃぐしゃと頭を撫でてやると、与六はうつむいて自分の着物の裾をつかみ、また俺を見上げてきた。
真面目な顔で両の手を握り締めて、その場に踏ん張る。
「との、おれ、がんばります。とのの家臣ですけど、まだまだふさわしくないです。でも、いつかとのが胸を張って自分の家臣だといえるように、もっと一杯勉強します」
たぶん俺は、ひどい間抜けな面をしていただろう。
与六は必死だった。
着物の裾を手が白くなるほどにきつく握り締めて、あごをあげる。
俺の目をじっと見つめながら続けた。
「だから、あの、……また、教えてください。おれの知らないこととか、ものの道理とか……」
先ほど、俺が叱り付けた言葉を家に帰りながらずっと考えていたのだろう。言葉が途切れがちになるにつれて、耳が赤味を帯びていく。
最後まで言わせるのがなぜか忍びなくて、俺は与六の頭をがしがしと乱暴に撫でた。肩を竦めた与六が嬉しそうな声を上げて身動いだ。――まったく、お前はまだ俺の半分しか生きていないというのに。
「では、与六」
俺は思わずひざを折って、与六の顔をのぞき込んだ。
「ならば俺も、お主にふさわしい立派な主になろう。これはふたりの約束だ。いいな」
「はい!」
与六が勢い込んでうなずく。
今まで見た中で、一番の笑顔だった。
俺は急に気恥ずかしくなって、与六の肩をつかんで反対を向かせた。
背中を強く押す。
「全祝和尚に謝ってくるんだ。何が悪いのか、きちんと教えてくれるだろう」
少し怖じ気付いたが、与六は覚悟を決めてうなずき、ゆっくりと歩き出した。その背中は強張っていたが足取りはしっかりしている。
全祝和尚も与六がけしかけられたことはわかっているはずだ。
次は打擲などせず、諭してくれるだろう。
与六の姿が消えるまで見送り、俺は杉の木の間をふらりと歩き出そうとして、その足が自然と止まる。
――でも、いつかとのが胸を張って自分の家臣だといえるように、もっと一杯勉強します。
精一杯の想いが籠もった与六の声がよみがえり、俺はようやく、和尚の言わんとしていたことに気が付いた。
すでに俺は坂戸城の城主であり、この上田庄の領主だったが、それは父が早くに亡くなってしまったからに過ぎない。戦で城を得たのではなく、父から認められて譲られたのでもない――俺の実力ではなかった。
……なるほど。
和尚はこれが言いたかったのか。
俺は腕を組み、与六が向かった雲洞庵に目を向けた。
すでに城主である俺だが、実際には城主たるための力などない。こうして禅寺で学んでいる今は家老たちが俺の留守を守っていた。
城主にふさわしい力を身につけない限り、城主であろうとも城主になることは出来ない……。
――俺は、厳しく強かった、あの父のようになりたかった。愚かではない立派な城主に。
その想いが、全祝和尚には「城主であること、城主になること」の差がわかっているように思わせたのだろう。
ものの道理に通じた全祝和尚に似つかわしくない、そして俺にとってはとんでもない誤解だったが、いつものことだった。
俺は常に言葉が足りない。
そのせいでいくつも誤解を受けたが、それを説明する言葉すら吐くことが出来なかった。
――こんな俺が城主にふさわしいはずがない……。
なろうと努力はしている。
だが実っている気配は、全くなかった。
俺は苛々しながら、春先の、冬を雪の下で過ごした落ち葉を蹴散らしながら木々の間を歩き出した。
何気なく見上げた先に、どうやら使いから戻ってきたらしい桐沢源左衛門の姿を見つけて、俺は足を止めた。向こうもこちらを見て立ち止まり、一瞬悩むように山門を見やってから、歩き寄ってくる。
「どうかなさいましたか、殿」
なんでもない、と答えかけて、口を噤む。
俺はじっと源左衛門を見つめた。
「なぜ、お主は与六をからかうのだ」
「!」
それまでどことなく取り澄ましていた源左衛門の顔色が変わった。怯えたように目を伏せるなり明らかに恐縮しきって身を縮ませる。
違う、俺は叱るつもりはない……。
そうは思ったがうまく言葉にならず、不機嫌そうに黙るしかなかった。その間にも源左衛門は真っ青な顔で足元を見つめて、身を震わせ始めた。
今まで俺は家中の誰かを手打ちにしたことはなかったが、気性の猛々しかった父にはいくつかそういった話があった。それを思い出しているのかはわからなかったが、源左衛門は目に見えて怯えきってしまった。
俺は落ち着かなく唇を湿らせ、二度ほど咳払いして、どうにか口を開いた。
「確かに与六は、幼いが、お主らがからかうのは、幼いからなのか?」
「いいえ!」
弾かれたように源左衛門が顔を上げた。勢い込んで説明しようとしたが口が空回りして、一度は口を閉じる。
それから一転して顔を真っ赤に染め、一気にまくしたてた。
「殿が、殿が与六ばっかりひいきにするからです! おれたちは殿の家臣ですが殿が何をお考えになってるのかまったくわからぬのです! それのなのに与六は殿に気に入られているのをいいことに、殿に平気で話しかけていますっ 殿から言葉をもらえます! 俺たちが気に入らないのはそのことです!」
「源左衛門……」
今度もまた、俺は呆気にとられた顔をしていただろう。家臣の前でとんでもない間抜け面を曝していることに気付いてあごに手を当て、半端に腕を組んだ。
「だから与六をからかったのか……?」
与六は人見知りもしなければ、物怖じもしない。だからこそ城主である俺に平気で話しかけてくるのだ。無口な俺に笑いかけてくるのだ。時に無遠慮に甘えてくるのだ。
どうやらそれが、源左衛門たちには俺が与六を気に入っているように見えてしまっていたらしい……。
どう誤解を解くべきか考え込んだが、もとより俺に要領よく説明出来できるようなことではなかった。
息を詰め、顔を赤くしてこちらを見つめる源左衛門をしばし見やったのちに、俺は顔を背けた。
「……俺は、言葉がうまくない」
そして器用でもない。
幼子をうまく扱う才もない。
自分を言い表すことも出来ない。
「お主たちに何かを言われても、言の葉でうまく答えてやることが出来ぬ。しかし、だからといって、どうでもいいと思っているわけではない」
改めて源左衛門を見直し、どうすればこの思いが伝わるのだろうともどかしく思いながら、たどたどしく続けた。
「お主らが話しかけても答えられぬかも知れんが、聞くことは出来る。だから何でも言うがいい。俺は、聞いている」
聞くことしか出来ないが、聞いていればいずれ源左衛門たちをわかってやることが出来るようになるかも知れない。――いや、わかってやらねばならない。俺は彼らの主君だ。
「源左衛門、……わかったか?」
きちんと見つめていたはずなのに、源左衛門がいきなり泣き出して、俺はぎょっとした。
「わか、わかり、ました……」
つっかりながら答えて、源左衛門は深々と頭を下げるなり背中を向けて走り出した。飛ぶように木々の間を駆け抜け、雲洞庵の門をくぐる。かと思えばそこでくるりとこちらを振り返り、また深々と一礼した。
すぐにその姿が見えなくなる。
まさか、泣き出すとは思わなかった……。
唖然とした俺はまた林の中を歩き出しながら、不意に顔を赤らめてしまった。
――この愚か者! なぜものの道理がわからぬのかッ!
いやいや、わかるはずがない。
与六はまだ五つなのだ。
わかりません、と与六が勢いよく答えなかったのは、与六の忠誠心か気遣いか、……まったく。
俺は自分に呆れ返りながら腕を組み、気が済むまで林の中を歩き回ってから、雲洞庵に戻った。足についた落ち葉を払って寺に上がると、待ち構えていたように桐沢源左衛門が出てきた。
源左衛門の後ろには俺と共に学んでいる泉沢又五郎の姿たちの姿もある。
俺が黙って見やると、又五郎の後ろからひょいっと与六が顔を見せた。にこっと笑いながら勢いよく走ってくる。
「お帰りなさい、との!」
ぶつかりそうな勢いで近くまでやってきて、ぴょこんと頭を下げる。
「……あぁ」
「お帰りなさいませ」
頭を撫でながら軽くうなずきかけると、後ろからゆっくりやってきた源左衛門が軽く頭を下げて、控えめに微笑んだ。
雲洞庵で共に学んで何ヶ月にもなるが、始めて見る笑顔だった。
思わずぶっきらぼうにうなずくも、源左衛門は大して気にした風もなく、「殿、お願いがあるのですが……」と切り出す。
「是非、我らの論語の暗誦を聞いていただけますか」
そこで俺は、源左衛門が緊張して身体を強張らせていることに気がついた。
書物を持つ手も震えている。
――俺も、似たような気分だった。
袖に手を入れながらまたうなずいて、俺は無言のまま歩き出そうとしたが、それではあまりにも素っ気ないことに思い当たって源左衛門を振り返った。
「聞こう。……聞かせてもらおう」
源左衛門はほっとしたように、今度は満面の笑みを浮かべた。
なぜか与六が嬉しそうに跳ねる。
「おれもやらせてください!」
「あぁ、わかった、ではお主からだ」
大声を上げた与六の頭を源左衛門が撫でる。
俺は笑った顔をなんとなく見られたくなくて、早足で奥の部屋に向かった。
終わり
時代劇だと「おれ」に違和感を感じるも、「わし」に直せない……。
まあ、いいか。
似非戦国時代小咄万歳!