800m/3000m
「On your marks……Set……」
“ビーーーーーーーーーーーー!!!”
けたたましい電子音が地方の小さな会場に響き渡る。同時に、この瞬間を待ちに待った選手たちが一斉に駆け出す。400mトラック7周半、合計3000mの一周目、ここで先頭集団から外れたならば、残りの周回でのびのびと走る権利を失い、自分の前を遮る他の選手に煩わされ続けることとなる。誰よりも一歩先へ、自分がペースの主権を握るため、最初の200mをほとんど全力で駆ける。
色とりどりのユニフォームを尻目に、肩甲骨から推進力をもらいつつ、太ももをできるだけ高く上げ、母指球でゴムトラックを押し込む。鼻から二回空気を吸い込んでは口から二回空気を噴き出し、エネルギー源の交換作業を急ぐ。それから、インナーマッスルを意識しながら体勢を整え、体への負担を減らす。
『00:29.7?』
200m通過した時点でのタイムを横目に見やり、「イカれてる」そう心の中で呟く。序盤の主導権を握るためとはいえ、800mや1500mならまだしも、こんなペースが続くわけもなく、肩や太ももに負担を感じながら、徐々にペースを落ちつかせる。無理した甲斐あって当然に自分は先頭に躍り出ているが、同じような考えなし達がすぐ後ろにつけており、必要のない焦りや苛立ちが脳のリソースを侵食する。
そうこうしていたら二度目のカーブは一瞬で、一周目最後の直線の先、周回の終わりへと目を向けて、雑念を振り払うように足の回転数を上げる。すでに呼吸は激しくなり、自分の馬鹿さ加減にうんざりする気持ちが浮かんでは振り払うという無駄を繰り返す。
『01:08.??』
「速すぎる……」実体験に基づく直感から、己の無謀を悟る。と同時に、会場全体へ古臭い音質のアナウンスが抑揚なく響き、己の聡明を肯定する。
「先頭は400メートルを1分8秒で通過。只今のペースで参りますと、8分代前半でのゴールとなり、日本中学記録に近い記録となります。現在の先頭は北中学の田中くん。続いて第一中学の原くん、続いてー」
地方の大会とは思えないほどの豪華な実況を聞き流しながら、「中学記録」という音にドキリとする。自分が特別になれるのではないかという淡い厨二病に罹るのはいつものことだが、次いで、己の限界も知っているために、無計画や無責任を厳しく指されている想像が働き、気道が少し絞まる。
分かっている。あぁ分かっているさ。自分が日本記録なんてものには到達できない愚物だって。
分かっている。あぁ分かっているさ。自分は努力しているフリがうまいだけの偽物だって。
分かっている。あぁ分かっているけどさ、夢が儚いことを証明するしか、今はできないんだ。
「ファイトー!!!」「頑張れー!!」「中野先輩ふぁいとーーーーーー!!!」「いいぞー!!そのペース!!!!」「前から離れるなよー!!」「田中をペースメーカーについていけーー!!!!」
心のポエムを搔き消すように、トラックの外、至る所から皆が好き好きに声を張り上げる。誰がどの声であるかなどは自分の所属する学校の顧問以外ほとんど聞き分けられないというのに、また、一定のペースを継続する長距離走で劇的な場面など起こりえないというのに、応援された人の力になると、誰もが信じて疑わない。ついでに、自分を利用するかのような指示も耳にしてしまい、違和感に似た不満を覚えながらペースを探る。
鋭く息を吹き、カーブに体を傾けながら、次の直線、さらにその先へ目を向ける。少しずつ落ちていくペースを自覚しつつも、騙し騙し歩幅を広げるように意識する。自分のすぐ後ろをぴったりつけて嫌でも意識に介入してくる、呼吸音が馬鹿でかい第一の原から逃げるように、足の指先まで力を籠めながら。
『02:23.8?』
「三周目に入っても先頭は変わらず北中学の田中君。続いて第一中学の原君。少し離れてー」
* * *
陸上長距離を始めたのは中学に入ってから。身長157㎝で体重58㎏の小太りだった自分は、小学校からの友人が陸上部に所属するというので流されて体験入部してみることに。小学校時代、体重の増加と反比例して50m走の記録が落ちていった苦い記憶から、また、友達と少し違ったことをしたいという厨二病から、長距離を体験。すると以外にも、同級生がゼーハーと息を切らして必死に走っている中、自分は自由に走り回れる自由さが楽しくて仕方なく、微塵も疲労を感じることなく走り続けることができた。いや、正確には疲労やしんどさといった試練を乗り越える自分が、いつか見た漫画の主人公やヒーローたちのようで特別感に満ちており、疲労を意識していなかっただけかもしれない。
そのまま入部を決め、先輩方に教えてもらいながら練習メニューをこなす日々。たまたま一緒に走ったある日の体験入部生よりも体力があったとはいえ、実際に入部を決めた同級生たちは自分など比べるべくもなく皆シャープな体で力強く、体力もあった。自分は一番遅いグループに配置され、それでも新しい仲間や先輩と一緒に懸命に過ごした。
入部後初の土曜日練習、学校のグラウンドで一周200mほどの小さなトラックを用いて1500mの計測が行われた。自分は遅いグループで走り、見事下から数えたほうが早い記録、6分47秒を獲得した。ちなみに周回遅れだった。速い記録を得た同級生は顧問からの覚えもよく、反対に、自分は認識すらしてもらえていなかった。(二か月後の練習グループ再編の際、顧問から「君、誰や?居ったっけ?よう知らんから一番下のグループに行って」と言われて発覚)
それからしばらく経って、先輩方と有望な一年生数人は記録会と呼ばれる大会に出ると聞いたが、当然、自分が選ばれることもなく、学校でお留守番練習となった。別に、自分や自分の仲の良かった人らとは全く関わりのないところで行われたものだから、特に気にすることもなかった。
しかし、夏が近づいて、普段大会に行かないメンバーも応援要員として、実際は雑用や会場の見学、さらには雑用係の仕事を後輩に伝授するといった機会などあったが、とにかく、初めて会場に至った時、その時間の退屈さ加減にうんざりした。ほとんどの時間を友達や先輩の応援に費やし、至る所で「ファイトー!!!」と声を上げるだけの存在となっていたのだから。正直、大半が興味も知識もない競技だったから、なおさらだった。
昼休憩の際、お弁当の蓋を開けると、母親が初めての遠征用にちょっと豪華に、朝から早起きして唐揚げを作って入れてくれていたことを知り、うれしくもあった反面、午前中の自分の価値と照らし合わせて、何とも言えない無力感を味わった。応援すら熱を入れてできない自分が、楽しむ努力を怠った自分が、きっと、おいしく食べられない自分が、母親の愛情を受け取る資格があるのだろうかと。結局、残すこともできないので、泣きそうに絞まった食道に無理やり詰め込んで、胸を詰まらせながら食べきった。
さらに時間が過ぎて夏本番。市の中学校で競い合う大会が開かれた。もちろん自分は応援要員だ。その日は自分の仲の良かった同級生や良くしてくれていた先輩達も出場していたので、自分が声を張れば、その分きっと力になってくれると信じるかのように、前回の反省を生かして少しは熱の籠った応援ができていたように思う。
そして、大会も終盤に差し掛かる中、一年生長距離の部の出場選手らがぽつぽつとテントへ返ってきていたのだが、未だに帰ってきていない者が一人。今日も市内でトップの成績を残した大会常連の大船だ。
「お前ら大会にも出られへんのやから、大船探すくらいやってこい。もう帰る準備しなあかんからな」
無駄に攻撃的な顧問からの指令に、腹が立つながらも事実ではあるため、仕方なく暇な一年生数人で捜索に当たる。なんとなく、アップ(良い記録を出すために体を温める準備運動)の場所にいるんじゃないかと思いつき、今日見た先輩の走り方を真似しながら、急いで探しに行った。
腰を直角に曲げて、蛇口から出る水を直接頭にかぶりながら静止する変人、探し人の大船はすぐに見つかった。10秒ほど観察した後に、もう帰るぞと腰を軽く打つ。驚いたように振り向いた大船は、犬のよう頭を振って、生ぬるい水をまき散らす。少しかかっていたがまあ気にするほどでもないと諦める。
「おう、田中。お前もやったら?ちょっとぬるいけど濡らすと気持ちいいで」
「いや、ええわ。今日応援しとっただけやし。そこまで耐えられへんわけでもないし」
ふーん、なんて言いながら、大船は首にかけたタオルを水に濡らし、扇風機のように振り回し始めた。
「ちょ、飛んでるんやけど」
「まあまあ、これ、水に濡らして振ると冷たくなるやつやねん。田中もやってみ」
十二分に振り回されたであろうタオルを受け取ると、確かにひんやりとしている気がしたが、正直、どのタオルでも変わらないであろう程度だった。仕方なく、もう一度水に晒してから、今度はヘリコプターのように頭上で振り回し、お返しといわんばかりに大船に水を飛ばす。
「ちょ、ちょ、倍返しにも程があるやろ。ごめんやんか。うわー!冷てー!」
大船が悪戯に成功したちっちゃい子みたいに笑うものだから、自分も釣られて一緒に笑ってしまい、心にあった毒気も消えて、大船を許すしかなくなってしまった。大船も心情を悟ったのか、ひとしきり楽しんだ後に、「じゃあ、顧問に怒られる前に帰るか」なんて気さくに提案する。断る理由もないので、行きと同じく小走りで帰ろうと少し進んだ時、大船がついてきていないことに気が付く。
「おーい。はよせな怒られちゃうで」
「ごめん!ちょっと待ってくれ!今行く!」
意を決したように表情を暗くした後、大船は少し走って、すぐにまた歩き出した。
「あかん。やっぱ、膝痛いわ。たぶんこれ、先輩もなってたオスグットってやつやわ」
「え、ケガかなんかなん?」
「成長期に起こるやつらしい。ほっといたら自然に治るらしいけど」
初めて聞く言葉に戸惑いながら、どうやら大船はしばらく走れないのだろうということは理解できた。そうとも知らずに走らせようとしたことに申し訳なさを覚えつつ、先ほどの大船の様子を思い出し、気遣うように明るく振る舞うことにした。
「治るんやったらよかったな。でも、はよ復帰せんかったら大会の枠、貰っちゃうで」
「できるもんならやってみ。まあ田中ならすぐいけるんちゃう?」
予想外の追撃に、まさに鳩が豆鉄砲を食ったように呆然と、大船を見つめる。
「まあ、お互い頑張ろうぜ」
くさいことを言った自覚でもあるのか、そそくさと歩き出す大船の横に、急いで並ぶ。大会常連どころか市でも地区でも一目置かれてる大船が、冗談だったとしてもライバルのように扱ってくれたことが嬉しく、これからの練習を頑張ろうと、そして、これからは大船に優しく接しようと密かに決意した。
「ひんやりタオルアターック!!」
この顔面攻撃がなければ、だが。
その日の帰り道、近所の友達の母親が車で一緒に送ってくれることになっていたが、一人で歩いて帰りたい気分だったので、ある程度見知った土地を50分弱かけて帰った。「大会にも出れない」という顧問の言葉と、大船の優しさを思い出しながら、大会上位の人たちの走り方をひたすら真似して進む。腕の振り方はどうだったか、足の着き方、蹴り方、蹴った後の動きはどうだったか。顎の角度、体の傾きや反り方まで、できる限り思い出し、妄想し、試し、何が有効で、自分の走りと何が違うのかを考え続けた。
結局、何が正解かも分からない問題にひたすら頭を悩ませただけで、何かが解決したとは思わないが、それでも、この日を境に、自分の中の陸上との向き合い方が変わったのは確かだった。
帰宅後、自分の勝手な一人歩きは、親の心配と自分の自立への意識がぶつかり、ひと悶着生んだのは必要経費だったとして受け入れよう。