第九話 誓い
ヤマトは、戦場から戻ってもなお眠りの浅い日々を過ごしていた。
魔王ノヴァとの密談。その言葉の一つ一つが、今も脳裏を離れない。
だが、それ以上に彼の胸を塞いでいたのは──この世界そのものだった。
何かが、最初から狂っていたのではないか。
腐敗した上層部。
ただ命令に従い続ける兵士たち。
そして、戦火に翻弄される市井の人々。
人族に、未来はあるのか?
腐っていない場所は、残されているのか?
◆ ◆ ◆
「この世界の民の暮らしを、この目で見たい。
戦の届かぬ場所でも、何が起きているのかを」
ある日、ヤマトは形ばかりの上官にそう申し出た。
相手の表情に、警戒の色が浮かぶ。
「……勇者殿、それは些か軽率では? 今のあなたは、ただの兵ではないのですぞ」
当然だ。ヤマトは今や軍内でも“扱いの難しい存在”とされていた。
魔王と交戦し、生還を果たした彼は、その後、不穏な言動を続けていると噂されていた。
それでも、彼の申し出を真正面から拒む者はいなかった。
「護衛はつけてください。……単独行動は、許可できません」
「私に護衛が必要かは疑問だが……構わない。
民と、同じ目線で見たいだけだ」
こうして、護衛という名の監視を連れ、ヤマトの“視察”が始まった。
◆ ◆ ◆
兵に囲まれながら、ヤマトは各地の農村や避難民の集まる集落を訪れた。
干ばつと戦の影響で荒れ果てた畑。
痩せた家畜、干上がった井戸。
それでも、人々は生きようとしていた。
ある村で、老いた農夫が膝をついて土に指を差し込み、呟いた。
「勇者さま……少し、この老いぼれの話を聞いてくだされ……」
ヤマトは立ち止まり、目線を合わせてしゃがむ。
「戦の前は、見た目こそ違えど、魔族ともそれなりにやれておったんです。
それなのに……関係のない者を呼び、戦を始め、家族を奪って……
それでも、まだ……」
「……すまない」
その謝罪に、老人は首を横に振る。
「ならば、せめて知ってくだされ……この大地で、誰が死に、誰が生きておるのかを」
別の集落では、若い母親が赤子を抱いていた。
壊れかけた納屋に暮らし、日に一度の粥だけで命をつないでいる。
「この子には……剣も魔法も教えたくないんです。
土の匂いと、パンの焼ける香りだけを、知っててほしい」
その言葉が、深く胸に残った。
瓦礫を積み直す男。
剥がれた壁に花を描く少女。
壊れた鐘を直す神父。
誰もが戦わずに、ただ日常を取り戻そうとしていた。
──それだけで、奇跡のようだった。
ヤマトの中で、何かが静かに溶けていく。
この世界は、絶望だけではできていない。
ならば、自分は──
◆ ◆ ◆
丘の上に、風に晒された石造りの建物が見えた。
視察ルートには入っていない。だが、なぜか目を引かれる。
「あれは?」
「……ああ、あれは昔の教会跡かと。今は使われておらず、浮浪者などが住み着いているかもしれません。勇者様が訪れるような場所では──」
案内役の声が、妙に早口だった。何かをごまかすように。
「行ってみよう」
「ですが──!」
ヤマトは言葉を遮り、一人歩き出した。
そこは、今、小さな孤児院として使われていた。
中には数十人の子どもたちがいて、机に向かって読み書きの練習をしていた。
割れた窓、傷んだ黒板。それでも、笑い声が響いていた。
──ここにも、戦争に奪われた者たちがいる。
そこへ、明るい声が響いた。
「ごめんなさいっ! 誰か来るって聞いてなくて……あ、えっと、お客様ですか?」
振り向くと、若い女性が立っていた。
綺麗な黒髪は肩甲骨のあたりで揺れ、二重でぱっちりしているが少しタレ目で通った鼻筋。
人懐こく話しかけてくるその仕草にどこか懐かしさを覚える。
──似ている。涼華に。
ヤマトは一瞬、言葉を失い、唇を噛んだ。
「私はこの施設で、子どもたちに読み書きを教えたり、ご飯を作ったりしてます。
あの……あなた、どこかで……」
女性は不思議そうに首を傾げ、上目遣いで見上げてきた。
それが自然すぎて、かえってあざとく、愛らしかった。
子どもたちが彼女にじゃれつく。彼女は、全員の名前を呼び、優しくあやした。
「ここには、この戦争で家族を失った子たちが多いんです。
でも、“生きることを諦めてほしくない”。
せめて、戦わずに生きる方法もあるんだって、知ってほしくて……」
──涼華と、同じことを言うのか。
ヤマトは胸が締めつけられた。
彼女もまた、読み書きを教え、子どもたちの未来を信じていた。
「……名は?」
「わ、私ですか? リリーと申します」
──また、守れなかったのか。
ヤマトは高台の風に目を細めた。
どこか、南スーダンの灼熱の大地を思い出させる風景だった。
「……やはり別人、か。だが、決めた。
この戦争を、終わらせる。必ず、すぐに」
「えっ?」
「いや、独り言だ」
リリーは小さく首を傾げてから、ふっと笑った。
「私、この場所が好きなんです。
空が広くて、風が気持ちよくて……
嫌なこともあるけど、なんか、世界ってまだ捨てたもんじゃないなって」
その笑顔が、眩しかった。
──この存在は、絶対に知られてはならない。
リリーは、ヤマトのアキレス腱だ。
彼女の存在が知られれば、誰かが必ず狙うだろう。
涼華のように、また──失いたくはなかった。
◆ ◆ ◆
彼は、心に深く誓った。
人族の全てが腐ってはいなかった。根の部分はまだ生きている。
力なき者たちが、それでも力強く生きている。
ならば、この手にある力で、彼らを守らねばならない。
魔王と手を組んででも、この世界に平和をもたらす。
それが、自分に残された最後の戦いなのだ。
──かつて、涼華と語った“争いのない国”。
誰もが字を学び、笑って暮らせる国。
その約束を果たすために。
新たな国を創るのだ。