もう一人の私
私は画家を生業としている。正直に言うが、ほとんど苦労らしい苦労をしなかった。私にとって絵を描くことは、何ら苦にならないことであるし、苦になったこともなかった。芸大にも難なく受かったし、その後の評価も悪くなかった。幸なことに、画家としての評価をされるまでにも、他と比べればはるかに容易であったといえる。天から才能と幸運を与えられていた。
私は今、暗闇とも明るいとも言えぬ所にいる。此処がどこなのかは分からない。何をしているでもないし何もしていないとも感じない。ただ、浮遊しているような、時間のない時が過ぎていく。
イーシスはあれから様々な本を読んだ。歴史を始め、地理、経済、文学、政治、そのほか面白い物から良くわからない物、あらゆるものを読んだ。実際のところ、内容がよくわかっていない物も多々あった。それにしても、とんでもないほど多様な本があったものである。この世界では誰も彼もが、本を書いているのだろうか?『オイディプス王』や『ハムレット』、ウェルギリウスなどを読んだときには、故郷で読んだものを思わせる物があり、少しの懐かしさと新鮮さが入り混じったような感じがした。彼が最も気に入った本は、絵本の『るるるるる』だった。全く、なんという本だろうか!こんなに単純化された表現が成立しているなんて!五味太郎の名は、きっと死んでも忘れないだろう。そんなことを考え、もう、すでに一度死んでいるのにと思って、少し可笑しい気持ちになった。
数日が立って、いつものように図書館に向かおうという時だった。机に置いてある、長方形の角を丸くしたような形の黒い物が、音と共に光った。「こんにちは。絵の調子はどうですか?・・・」驚いて、体が硬直するように萎縮した。いや、何のことはない。あれは「スマートフォン」というやつだ。何かやたら、ごちゃごちゃした「写真」やらくだらない事が書いてある本に書いてあった例のあれだ。確か、手紙をやり取りできる道具だ。物珍しさもあって手に取ってみようと思ったのだが、もし人が出てきたりなんかしたらどうする?触らぬ神にたたりなしだ、とにかく暫く放っておこう。そういって、自らの臆病に蓋をした。ああ、なんと情けない事か。死んで、自分には何の由来もない別の世界に来てまで克服されないのだ。
今日は図書館へ行くのはやめにしよう。以前読んだ本では、此処の近くには海があるらしい。イーシスの故郷は内陸にあり、海を見たことが無かった。もしかしたら、手紙の送り主に出会ってしまうかもしれない。そんな恐怖から逃避するためか、急に思い立ったのだった。
この世界には電車があったから、あっという間だった。馬だったら朝に出ても日が昇ったのじゃないか?そんなことを思いながら、10分も掛からずに鎌倉駅へ着いた。此処はとても人が多いな。大船の駅に比べてずいぶんと色々な人がいるもんだ。あの、金髪で大柄の男なんか、レナンドのやつにそっくりだ!それにあれ、やはりここでは黒人は奴隷じゃないらしい。キング牧師やデュボイス、マルコムX、そんなところの話は本に聞いていたから知ってはいたが、彼が知っている黒人は奴隷であったから、とても、奇怪な感じがしたし、少し恐ろしさも感じた。奴隷に生まれ変わったのでなくてよかった。心にそんな感情が湧くのを意識が感じ取った。不思議なものだ、この場に及んで死を恐れているのだろうか。ヘーゲルは死への恐怖と奴隷と主人の関係について述べていた。私は、奴隷に生まれていたら、死を恐れただろうか。どのように生をとらえていただろう。
いろいろと考え込んでいた彼は、海についたときもそれに気が付かなかった。そうだ、私は海を見に来たのだ。心地よい音と共に目の前に青い景色が広がる。それは見聞にたがわず、大きく、広く、全てを包むような柔らかさを感じた。イーシスはしばらく座って、打ち寄せる波や、気ままに闊歩する鴉や、見事に狩りをする鳶、波の上を歩く人々などを見ていた。
「おい」急に、強い口調で呼ぶ声がした。特に気に留めなかったがまた声がする。「おい」こんなに大きな声が聞こえないなんて鈍感だな、などと考えていたが、どうにもしつこい様だったので声のする方に目を向けようとした時に、ふと、どこから声がしているのかということに注意が向かった。なんという事だろう。どこからも聞こえない。声に向きがないではないか!どういうことなのか、分からぬままあたふたしていると、再び声が聞こえた。「おい、ここだよ、お前の中にいるのだ。」声がそういった。私の中?「そうだとも、私はここにいる。」その声は私に呼応した。
「おまえは誰だ?」イーシスは声に問いかけた。「私は私だよ、お前が私の体を奪ったのだ。」声はそう叫んだ。ああ、そうか、この体には持ち主がいたのだ。イーシスはそのような気はしていた。「そうか、あなたがこの体の持ち主か。」イーシスは語りかけた。「おまえは誰なのだ、なぜそこにいる。私の体を奪ってしまってなんだというのだ!」声は憤りと混乱に荒い口調で話した。「私は、いや、私も実のところなぜ此処にいるのかは分かりません。しかし、私の身に起きたことを話すことはできます。」イーシスは落ち着けるような口調で言った。声はその柔らかい語り口に少し落ち着きと冷静さを取り戻した「分かった、話してくれ。」と声は言った。「では、」イーシスは自分の名と身の上に起こった事を語った。「なるほど、それが本当ならば実に奇怪なことだ。」と声は言った。
「私の名は幸一という。」帰りの道中、声はそう語りかけた。