あなたがいるから
誰もが見惚れる美しい人。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花──
という後の都々逸にも繋がる七七七五音の阿呆みたいな名節があるが、当然、私はこれが大嫌いだった。
元々は漢方薬に用いられる生薬として、それぞれの花の用法を示した言葉である。
芍薬は苛立ちに──
牡丹は於血に──
百合は心身症にそれぞれ効くという。
座れば牡丹──
私に「於血」を治す役割は荷が重い。
というか、単なる道具として使われるのが気に食わない。
ならば最初から、人間の雌個体に、花の名前など付けるなとさえ思う。
そもそも、於血って何なんだ?
閑話休題──
この何の変哲もない都会の監獄に流れる淀んだ瘴気を彼女は──愛子は一瞬で吹き飛ばしてしまった。
音田が横でそっと呟いた。
「ほらお出ましだ! まあある意味、一番突出して変なのはやっぱ、あの子なんだけどねー」
平均身長ながらスラリと伸びた脚と、凹凸のハッキリとした彫刻のような輪郭。
その流麗な四肢の線は優雅に空を切る。
端整に巻かれたミディアムロングの髪と、左側に備えられたサイドテール。
校則どおりに膝丈に固定されたスカートが微かに揺れる。
そして──
まるで宝石のようなそれぞれのパーツが、それぞれ完璧な調和の元に顔の上に浮かんでいる。
その微笑みは幸福をもたらし……
慟哭でさえ、また新たな幸福への扉を開く。
残す足跡に、百花繚乱が咲き誇る。
この都会の牢獄が、絢爛豪華なパーティー会場、または荘厳な大聖堂に変わる。
あの子が肩で風を切って歩く度に、世界は生まれ変わる。
誰もが息を飲む。
誰もが目を奪われる。
絵に書いたような美少女、そしてお嬢様─
奇跡のスーパーモデル、私と違って"合法的''に''重役出勤''を許された女。
坂口愛子が、私の元へとゆっくりとやってくる。
「''ぼ''っちゃん! もう! 何回言ったら分かんだよ!」
脳が振動に揺れる。
耳の鼓膜が衝撃に包まれた。
右の頬に鈍痛が走った。
私は、愛子に強烈なビンタを喰らわされた。
そして、止まっていた時間は再び動き出した。
◆◇◆◇
廊下を通り過ぎる何人かの男子生徒たちが、私たちを見て耳打ちをし──
また何人かの女子生徒たちが、秘密の猥談にしては声量の大きな会話を交わし合い──
そしてまた何人かの教師たちが、今朝の生活指導役のように再び苦虫を噛み潰した。
別に何も気にしてはいない。
色即是空。
全ては流転の上にある。
昼休み。
いつものように愛子と並んで屋上へと向かっていると、自分の容姿が如何に平々凡々かつ量産的、そして標準のものであるかを実感させられる。
ここまで特に言及してこなかったが、私の外観というものはどこからどこを取っても''普通''そのものである。
勿論外見についてなど気にしたことはない。気にしたことはないのだが、それでも偶に、私は本当にこの人の隣にいて良い存在なのだろうかという気分になる時もある。
いや、その機会が一度でもある時点で、私はきっとこの外見について少しは囚われているのだ。
「あのさ……あれ使ってる? 前あげたタングルティーザー」
愛子がパッチリとした形の良い目で私に問いかける。その下側にある小さな涙袋はどこか儚げな表情を湛えている。
簡易な化粧が一番映える。
誰もが羨む美貌がそこにあった。
私は未だに微かにジンジンと痛む右頬を擦りながら答えた。
十中八九、この肩の辺りまで伸びっぱなしになったボサボサの髪のことを言っているのだろう。
勿論、不衛生ではない。
しかし今の私に求められるものは、紛れもないその''プラス・アルファ''なのであった。
「ごめん……あまり使ってない。てか、そもそもあんま念入りに櫛を通す習慣がないかも。風呂入る前とかに……」
「そう……でも香水は馬鹿みたいに振りかけてるよね。ちょっと使い過ぎ。あんなもん、ちょっとでいいんだよ。ちょっとで」
愛子はまた毅然と前を向く。
私は少しだけ、背筋を伸ばす。
また、通り過ぎる生徒たちの中から囃し立てるような声がした。
私は声の向く方向を睨みつけたが、愛子はそれに気付いたのか少しだけ吹き出しながら呟いた。
「いいんだよ、気にしないで。好きなだけ言わせておけばいい。''原因''はあったとしても、''元凶''ではないからね、うちらは」
''原因''はあっても、''元凶''ではない──
良い言葉だな、と私は思った。
少しだけ錆び付いた重い扉を押し開けて、やっとのことで都内S区の西側方面が展望出来る屋上へと辿り着いた。
高く高く備え付けられた柵に背を預けると、愛子は両の掌をパチンと叩き合わせては、深々と腰を曲げて頭の旋毛をこちらへと向けた。
「今朝はぶってごめんなさい!」
私はたじろぎながらも答える。
「そんな……いいよ別に。まあ多分、私も悪いんだし」
「はい! ''ぼ''っちゃんが100%悪いです! 早くその、''ずっと隠していること''を言ってください!」
長い脚から頭頂部にかけての綺麗な直角姿勢を維持しつつ、愛子は糾弾の手を緩めなかった。
問題定義。
ここでもし私が……
「はい! 実はずっと前から、非合法の死体清掃のアルバイトをやっています! それも1現場50000円という高いんだか安いんだかよく分からない微妙な額で! あと……最近、世界中を賑わしているあの''穴''は、実はこの国にも開いております!」
と正直に答えた場合、この目の前にいる病的に世話焼きの絶世の美女は一体どうなるのだろうか?
…………
考えたくもなかった。
「いやー、あのさ……作家志望の振りしときながらさ。また都内の監視カメラとかハックしてさ、教師の弱み集めとかに奔走しちゃったよ。この前の金曜とかさ、親と喧嘩した後に……」
愛子は尚も直角姿勢を維持しつつ、追及の声を地面に反射させてはこちらの元へと届けた。
「はい! それはいつもの! ''半分は本当で半分は嘘''戦法ですね門倉さん! 私、もう同じ轍は踏みません! この学校はまだ世間にはそれほど公表されておりませんが、裏側では教員による体罰だの賄賂だの性犯罪だの脱税だので謂わば汚職事件のデパートのようなどうしようもない学校なのは事実ですが! それらの闇を暴く革命戦士という役割はどちらかといえば隠れ蓑であり! 当方、貴殿は何か別の顔を隠し持っている気がするのであります! はい!」
私は全身から汗が吹き出すのを感じながら、愛子の背中を擦った。
「ごめん! ごめん! 取り敢えず顔上げようか? 腰痛めるよ。それと音田みたいなキモい喋り方辞めて。ね?」
愛子はサイドテールを勢いよくブン回しながら直角姿勢を戻し、私の顔を凝視した。
距離が、近い。
思わず顔をそむけると、私は両頬を今度は両手で鷲掴みにされた。
そのままビヨンビヨンとつねられ、こねくり回される……
「……ちょっと太った?」
この人に真っ直ぐに見つめられると、いつもはスラスラ湧き出てくるはずの言葉が詰まってしまう。
まるで排水溝に髪の毛やゴミが絡まっているかのように。
「……分かんない。計ってないから。てかもう、鏡自体あんま見てない気がする」
「見なさい。そしてイギリスが産んだ世紀の大発明、タングルティーザーでもっと髪を梳かしなさい。素材はいいんだから、''ぼ''っちゃんは」
「……はい」
「あとどう、最近、書けてる?」
「……全然書けてないです。てかもう、睡眠自体あんま取れてないです。たまに眠れても何か変な夢ばかり見て、身体が全然休まらなくて……」
「……どんな夢?」
「……なんか、ずっと宇宙空間に浮かんでて、遠く向こうからキラキラした光がやってきて、''門倉牡丹、あなたを他の世界に、ここではないどこかへ連れて行きましょう……いや、ちょっと待って! こっちも色々と準備いるから……もうちょいかかるんで、はい。時期が来たら、こっちから連絡するんで。はい、よろしくお願いしまーす!''って、私に呼びかけてくんの……」
愛子は私をギュッと抱きしめた。
全身が温かい気持ちで満たされる。
このままずっとこうしていたい。
「可哀想に。疲れすぎでしょ。まあいいや。積もる話は他所でしますか! お腹減ったでしょ? さあ! 午後はフケるぞフケるぞー! この牢獄からの、束の間の大脱出だ! ''我々は自由の刑に処されている''!」
「……うん! それ、何?」
「え? 何が?」
「''我々は自由の刑に処されている''! って」
「ああ、サルトルよサルトル」
「おおー! 凄い」
「まあ、読んだことないけど。こないだ''哲学者の名言集bot''で流れてきたんだよ」
「格好いいじゃん。''我々は自由の刑に処されている''」
「よし! 格好いいか! じゃあ走れー!」
「おー!」
照り返す陽射しの中を走り出した愛子の背中を、追いていかれないように必死に追いかける。
私がまだ、辛うじてこの世界に留まっていられる唯一の理由は、君だけだった。
あなたがいるから、私は今日もこの腐り切った世界を生きていけるのだ。
坂口愛子──
私の恋人。
◆◇◆◇
「まあ結局さ、''ぼ''っちゃんって社会病質者な訳じゃん」
「……やだな。それは」
「何が?」
「どうせなら、サイコパスがいい。それか、クズとか」
「はー! 分かってないな! ''クズ''とか"サイコパス''なんてのは、今やしみったれた自己憐憫に塗れた、悪い意味でナルシスティック感マシマシの、自己を卑下しているようで実は内心それを個性のひとつとして勘違いしたまま他人にマウントを取って勝ち誇っているという、れっきとした地雷ワードなんだよ! 別に、ロックでもパンクでも何でもないからね。それを標榜すんの」
「……うーん。そうかなー」
黒のニット帽を深く被り、大きめなマスクをしっかりと装着した愛子はそう言って人懐っこい笑顔を見せた。
最早かえって目立つ怪しい風体をしているが、それでも私にはその向こう側にある本当の笑顔を見通すことが出来たのだった。
私は目の前の特大ハンバーガーセット──ポテトLサイズ、コーラゼロLサイズを思う存分がっついた。
愛子はホットコーヒーとアップルパイに交互に小さく口を付けながら、窓際の席から道行く人々を眺めながら続けた。
「うーん。まあ、確かにさ。去年のうちの学校の不祥事祭りはエグかったけど。笑っちゃうぐらい! いや、全然笑っちゃいけないんだけど! それをわざわざ調べ上げて、脅しの道具にしちゃうのはもう、壊れちゃってるよ」
「脅しじゃないよ。威嚇だよ」
「一緒だよ」
「一緒かー」
愛子はクスクス笑いながら続けた。
「まあ、それを面白がってるあたしも同類なんだけど!」
そしてもうひとつ、優しい顔をしてみせる。
「……それに、今まであたしを助けてきてくれたのも、事実だから」
私は右手で鷲掴みにしたポテトの大きな束を口元に運び、豪快な勢いでストローから黒い炭酸水を吸い上げる。
そして紙コップを、テーブルに叩きつけながら笑った。
「そうだ! みんなキ◯ガイなんだ!」
「相変わらず極端だな。でも、そうだそうだ! あたしらはこの、ぶっ壊れた世界の被害者なんだー! あたしも最近、仕事ダルくてしょーがねー!」
その他一通りくだらない談笑を交わした後、私たちはやや混雑した店内で食後の余韻に浸っていた。
「はー。大人って何なんだろうねマジで」
「……まあひとつ言えるのは、最近の''ぼ''っちゃんはちょっと肩に力入れすぎなんじゃないかな。もうちょっと楽に考えてみてよ、うん」
楽に考えてみる──か。
正直なところ、今の自分には中々難しいかもしれなかった。
「何ていうかね、''ぼ''っちゃんはどんな鋳型にもはまらず──ほら、社会ってのはどこの国でも、すぐに個人をジャンル分けして、鋳型に押し込もうとしてくるから──この世の中の、なんていうか''未確定な領域''に平然と留まっていられるっていう、そういう才能があると思うんだよ」
「……''未確定な領域''?」
「うん。普通の人だったら、そんなとこいたら直ぐにでも気が狂ってしまうとか、直ぐにスベり落ちちゃう場所みたいなさ──別に狂人って訳じゃないよ? そういう、なんか、''未確定な領域''」
私は、背筋に雷が落ちた思いがした。
それは正しく──
あの''夢幻荘''のことであったからだ。
愛子は全く以て、恐ろしい子だ。
私の浅薄さなんていつでもお見通し。
きっと私の吐いてるこの嘘だって、その内すぐに見破られてしまうだろう。
いや、もしかしたら、実は既にもう──
ふと愛子の胸元を見やると、アップルパイから零れ出たパイの切れ端が、少しだけリボンに付着していた。
全く、他人の世話ばかり焼く癖に、本人にも意外とこういう抜けているところがある。
私はテーブルの端っこに置いてあった紙ナプキンを手に取って、そのリボンを掴んでは右肩にあらん限りの力を込めて、ゆっくりと除去した。
「あっ! ごめん」
まずはカラカラに乾いた紙が、この世の穢れを払い落としてゆく……
そして、離れた場所に置いてあった手指用のアルコール噴射機から極少量を新たな紙ナプキンに取り、急いで席に戻ってはその汚れを完全に拭き取った。
「はい、応急処置。不安なら家に帰ってから、ぬるま湯と中性洗剤ね」
愛子は少しだけ悔しそうにはにかんだ。
「こういうのは前まであたしの役割だったのに」
「だからさ、そういうステレオタイプが駄目だって言ってたんじゃないの? 別に男役はこう、女役はこうって話じゃないんだからさ。そもそも、そんな''役''なんてのは私たちの間に、必要ないんだよ」
「うん……そうだね」
「それとね! こっちも何から何まで施しを受けるつもりは毛頭ありませんので!」
私たちは笑った。
こういう''普通''の時間が、いつまでも続いてほしいと思った。
◆◇◆◇
少しだけ薄暗くなった帰り道。
少しだけ肌寒くなった住宅街を、私たちはゆっくりと歩いていた。
どこからかクビキリギスの鳴き声がする。
心地よい夜風が、私たちのいる場所へと吹いてくる。
「はー! ごちそうさま! 毎度毎度ありがてーですな! はい」
「まあ、こちとら忖度の達人ですので。そっちが''LLセット''を頼んだ時点でお察ししましたよ、はい」
「忖度? 良くないですなー」
「じゃあ''斟酌''で」
「''より神妙に慮りました''、じゃないのよ」
そして、私たちは歩き続けた。
疲労から、口数も自然と少なくなっていった。
半袖から覗く、美しく細い二の腕。その先にある小さな手を横目で見た。
本当は握りたかった。強く、何よりも強く。全身でその片方にしがみつきたかった。
私は愛子と、本当は人前で、街中で手を繋ぎたかった。何事もないかのように。何事もなかったかのように。
それでも、中々勇気が出なかった。二人でいるときは何だって出来るのに。私たちの間では、人前に出たときは仲睦まじい友人同士のように振る舞うルールがいつの間にか出来上がっていた。
そして少しだけ静まり返った町の外れまで差しかかった時、愛子が沈黙を破ってゆっくりと口を開いた。
「あの……さ。おじさんのことなんだけど……」
「うん……何?」
愛子は薄暗がりの中で、私の少しだけ前を歩きながら続けた。
「あの……うちの親、政府の仕事してんじゃん? それで……いや、まだ分かんないんだけど。もしかしたらあの……''穴''の件で、手がかりがあるかもしれなくて……」
愛子は私を振り返った。
その表情は暗がりの中でぼやけていた。
私が二の句を継げないでいると──
どこからか屈強な腕が伸びてきて、愛子と私は突然、羽交い締めにされた。
口を塞がれたまま──
お互いの目を、見つめながら──
声にならない絶叫を上げながら私たちは、いつの間にか後方に現れていた二台の黒い高級車に、それぞれ詰め込まれていった。
悲しい女の話をしよう。
生活苦から死体清掃の闇バイトをしていたら、気付けば異世界で処刑されそうになってしまった少女の話だ。
名は門倉牡丹という。
まあ、私のことなのだけれど。