囚人番号No.9、門倉牡丹
最寄り駅でいえばA駅。
C線沿いにあるS高等学校。
とあるひとりの有名人が在籍していることを除けば、何の変哲もない普通科。
可もなく不可もない偏差値と治安。
そして近年、幾分か水面下で揺らぎつつある''社会的評価''。
町の外観に溶け込んだ都市型のビル校舎。
その無機質な数棟の建物と小さめの運動場は、これまたあのボロアパート群と何も変わらないように思えた。
いつもと変わらない平穏な風景。
7月の1週目。
もうすぐで夏休みだった。
夏服の群れ。私もスカートを折って少しだけ短くした。
殆どの生徒が通学路として利用する高架下を、我が校の生徒たちが疾走している。
学校指定のローファーやスニーカーが勢いよくアスファルトの地面を蹴飛ばす音。
頭上遥か高くを爆走する列車の振動。
K駅とA駅の間、天井が低くて狭くっ苦しい空間で、男女の白いシャツが、慌ただしい都会の喧騒と湿度の高い風の中に揺れ動く。
そして、この小さな体制の末端に従事している生徒指導の先生が叫んでいる。
声を張り上げているが、その実、何の熱も籠もっていない。
それはあくまで日頃の業務として、いつもどおりにこなされているだけの所作だ。
「おーい! 歩くな! 走れ!」
時刻は午前8時23分。
朝のホームルームまであと7分だった。
私は襟元を掴みながらゆっくりと歩いた。
7月の蒸気に浮かれて少しだけ汗ばんだ肌に風を送りながら、今朝も公僕の制服がよく似合うその生徒指導役に一瞥をくれる。
氷の微笑を、くれてやる。
その男は遠くから私を一目見ると、苦虫を噛み潰したような顔をし、額から大量の汗をかき始めた。
暫しの間、灰色の地面へと目線を落とし沈黙している。
私はスマホで音楽を聴きながら──そしてガムをクチャクチャと噛みながら、ゆっくりと彼の目の前を横切っては高架下を抜けて校舎へと向かった。
私が通り過ぎた後、そいつは他の生徒たちへ向けて激を飛ばすのを再開した。
全てはこの監獄を快適に過ごすための知恵である。
途中でトイレに寄った後、52分頃には自分が普段収容されている2-C組の教室へと到着した。
「あーら門倉さん。今朝も華麗に重役出勤でいいご身分ね」
周囲の生徒からの異物を観察するかのような冷やな視線が突き刺さる中、私はイヤホンを外しながら窓際に鎮座ましましていた自分の独房へと腰を降ろした。
「おはようございます、荒川先生。まあ、一応重役のようなものですから。私は」
荒川先生は先の尖った耳の上に茶色がかった髪をかきあげながら、如何にも元ヤン、元ギャルじみた少しだけ幼さの残る顔をしかめた。
その小柄な体躯はまさに、最終形態のフリーザのような威圧感を放っている。
「あら? あなたがこの学校の、何の重役だっていうの?」
私は荒川先生の元へとゆっくりと歩み寄り、スマホの中に眠っていた一枚の画像を見せた。
それを見上げていた先生の顔は瞬く間に青くなり、一瞬、腕を振り上げて私の手から端末を奪い取ろうとする素振りを見せたが、その前に私はそれを胸ポケットへと素早くしまった。
「私はこの学園の生徒として勉学に努める合間、常に教員の方々の日頃の生活態度について、法の許す範囲で監視の目を光らせています。''重役''という言葉には責任の重い役目、役職という意味があります。過去に''あのような不祥事''を引き起こした当校の教員たちが以後二度と似たような事件を起こさないように、こうして一生徒の立場から内部監査を行っているという意味に於いては、私はこの学園の重役であると言えると思います。そして万が一、学園をあの時のような渾沌の渦に再び叩き落とすようなことがあれば、直ちに都の教育委員会へと不穏因子を報告する義務があると思っています」
荒川先生はその鋭角な耳を真っ赤に染めたまま、ギリギリと奥歯を噛み締めながら私を凝視していた。
「しかし今のところ、そのような不届き者は見つかっておりません。これも教員の皆様の日頃のご厚誼の賜物であります。それでは荒川先生……1限の授業を再開しましょう。確かに私は数十分ほど遅れてここへと参りましたが、それを咎めていては元も子もない。このような些事に拘泥していては、時間を更に無駄にしてしまうという陥穽に嵌ったも同然です。それでは、授業の再開を願います。失礼致します」
ゆっくりと一礼。
微笑み、席に戻り、頬杖をついて窓を見た。
小さな都市型の校庭では、恐らくジャージ姿の1年生たちがレクリエーション体育の演目を行っている。
グラウンドの薄い白線の上を、ボールがゆっくりと移動してゆく……
「いやー! 暑くなってきたねー! ''ぼ''っちゃん! 久しぶりー! いくら男女のあんたでも、体力的に耐えらんないんじゃない? 毎日過酷な勤労、勤労の間に勉学でも最優秀、おまけにほぼ全教員の弱みを網羅して堂々と脅迫! いやー今日も痺れますなー。あんたは''憂鬱な月曜日''なんてパンピー概念は持ち合わせちゃいないもんね! ほんと変わってるわ! あっヤバっ。''男女''って表現はよくないって愛ちゃんにこないだ言われたんだった! そうそう愛ちゃん! こないだ雑誌に出てたんだけどさ、いや、あの、なんか紙の雑誌なんか別に今時手に取って読まないんだけどさ! ついついコンビニで見っけて手に取っちゃったね! 表紙の端っこの方にちっちゃく載ってたからさ! いやはや、やっぱキマッてますわ。かっけーっすわ! こう、流行りの、コンサバティブっつーんですか? オーセンティックなっていうか! いや! ''ぼ''っちゃんとは正に正反対な響きだね! 保守的! 真正だってさ! あはははははははは!」
1限が終わるやいなや、後ろの席から音田がけしかけてくる。
耳を劈く高音と早口。とめどない川のように淀みなく、明朗快活に流れる。
音田は目を細めながら笑い続けている。
茶色がかったロングパーマを左右にブンブンと揺らすと、まるでそれが装填作業であったかのように、再びマシンガンの掃射を再開した。
''ぼ''っちゃん──
''ぼ''の字に強烈な破裂音の重心を乗せながら。
「……………………!」
「……………………!」
「……………………!」
「……………………!」
私はそれに無理矢理に割って入った。
「まずね! 訂正しないといけないのは、脅迫はしてない。威嚇してるだけ。冷戦における抑止力の基本」
私はスマホを弄りながら、例の手撮りの画像を探り当てる。
「あと、その雑誌のは既にチェックしてる」
「あっ! ''ぼ''っちゃん! 愛ちゃんは仕事を選びに選び抜いた結果、純粋なスナップ仕事は何故かデジタル配信のない紙媒体にしかその姿を現さないと言われている、若手モデル界の''イリオモテヤマネコ''としてその筋では有名なのに、そんな堂々と公然の場で、デジタル万引きの告解を──」
「ちゃうわ。ちゃんと買ってる! どんだけ家計が追い込まれようが、これだけは全部チェックしてる。そんでスマホに入れてる」
「ええ……キモ」
「うっさいわ。何で不快の念についてはたった一言で済ませるんだよ」
「……あの、門倉さん。おはようございます。ノート見せてください」
気付くと阿部がスマホを片手に、下からヒョコっと出現した。
''出現''という言葉を使ったのは的を射た表現でしかなく、阿部はまさしくモグラのように地中から急にその姿を現したのだった。
「……おはよう。ごめん、取ってない。次の英語のでしょ? 先週あんま来てなかったし。うん」
すると阿部は、その短く刈り上げられたツーブロックの上に垂れたサイドの髪をかきあげながら言った。
「あれ? そうでしたっけ、そうでしたか。音田さんは……当然取ってないですよね。では、他当たってみます。それでは」
阿部は続けて、束の間の休み時間に談笑中の他の生徒たちの間に──男女構わず、下からヒョッコリと顔を出して回るのだった。
「おい! なんだその態度は。いい加減、学校でのあたしと愛ちゃん以外の人間との、まともな交流を覚えなさい」
「いや……だってさ。なんかあの子、変じゃん」
「おめー程じゃねーよ」
「……いや、その。まあ客観的にみて、私もある程度は変な人間だって自覚もあるけど、あの子はまだベクトルが違うというか……」
「何? 人それぞれの変さには優劣があるとでも言うのか? 自分の''変さ''は阿部ちゃんの''変さ''よりももっと高尚で、ロックでパンクでアヴァンギャルドで、優位な''変さ''だとでも言うのか?」
「いや……別に優劣の話とかそんなんじゃなくて、なんかハッキリ言うと、''他者との距離感''がおかしいじゃん。ほら、あんな恥も外聞もなく、何の関係性もない人に、あんなん出来るなんて……」
「何で? 別にそれで''他者との距離感''がおかしいとはならんでしょ。目的の遂行のためには手段を選ばない、どちらかといえばマキャベリストなんだと思うけど」
「……というか皆勤の癖に、端からその選択肢に入ってないお前は何なんだよ」
すると教室中を右往左往する阿部を脇目に──
夢の女が、教室に入ってくるのを私は見た。