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女はそれを我慢できない


牡丹ぼたんー? 牡丹ぼたんちゃんいますー? あたしの可愛い、生意気な牡丹ぼたんちゃんー? もう帰ってきてますかー? 今日は学校ちゃんと行きましたかー?」



 そして控えめな怒号の追撃。

 鳩尾みぞおちから直で立ち昇ってくるような酒気帯びの息が、この姉妹の束の間の団欒へと徐々に侵食してくるのが分かる。

 我が家のドラゴンは、今夜も既に出来上がってしまっている。

 ドタドタと一直線に私の元へと突進を始めたそれは、畳へと勢いよくひざまずき、程よくカールした金色の髪を左右へ勢いよく揺らしながら、私の肩を掴んでは絶叫し始めた。


「……だからさ! 仕事も家事も恵美ちゃんに任せてって言ってるでしょ? あれ、何?」


 ナチュラルメイクの上に浮かんだ顔付きは未だ幼く見える。

 私より20歳年上の、適度にドレスアップしたその''女''──

 恵美子は汗と香水と酒と煙草が混然となった、ドラゴンの灼熱の息を私の顔に向かって吐き続けた。

 

「……何のこと?」


 恵美子は瞬時に目をカッと見開き、口角に微かな泡の粒を噴出させた。そして首元の小さな薔薇のネックレスをカチャカチャと揺らしながら、更なる金切り声で居間の空気を振動させた。



「今朝! キッチンのとこに置いてたお金!」


「……それがどうしたんだよ」


 恵美子は両目にいっぱいの涙を溜めながら震えている。左腕から床へスルリとハンドバッグが落ちた。簡易な化粧品セットと、職場での名刺やカード類が口からこぼれ出る。


「いや……ちょこっとだけどさ、借金の返済の足しにって……前にも出したじゃん」


「いらないんだよ! ここ半年ぐらいずっとそうじゃん! お金は恵美ちゃんが何とかするから! どこで何してるのか知らないけど、余計なことしないで! 牡丹ちゃんはちゃんと毎日学校へ行って! 大学を卒業してちゃんと働くの! 恵美ちゃんと違って頭もいいんだから!」


 恵美子は矢継ぎ早にまくし立てている。

 その酒量からして──

 恐らく第1形態(ヒステリック)から第2形態(アウトレイジ)への変貌メタモルフォーシスは避けられないだろう。


「じゃあ、あれ返してよ。バイト代だからさ」


「……バイトなんかしなくていいから、お願いだから勉強に集中して! 来年は受験生でしょ……ごめん、もうない」


「……使ってんじゃねーかよ」


「大体、何のバイトしてるのよ」

 

「……まあ、パパ活とかじゃないよ」

 


 すると恵美子は一呼吸置いた後、金色の怒髪天を衝きながら、全身の毛穴から破壊光線を周囲に解き放つかのような構えに入った。

 私は危機を察知し、珠妃たまきに向かって呼び掛ける。


「ヤバい、向こうの部屋行ってて! そんでさっさとトイレと歯磨き済ませて、布団に潜り込んで避難すること! 分かった?」


了解イエス・サー!」


 

 恵美子は中腰になりながら前傾姿勢で、腹の底からの絶叫を開始した。



「知ってるわボケ! お前にそんなこと出来る訳ねーだろタコ! 今まで一体何人、てめーや愛子ちゃんに声掛けてきた気に入らない男を病院送りにしてきたんだ少年法に守られた暴力女がコラ! 今まで一体何人、気に入らない教師を他所よそにトバしてきたんだ非行女がカス! その度にあたしが謝りに飛んで行って! 担任からあんたがクラスに来たせいで、最近は向精神薬リーガル・ドラッグが手放せなくて困ってるって電話が掛かってきたこともあんだぞこっちは! お前なんかとっとと巷で話題の''穴''にでもドタマ突っ込んで、異世界にでもいっちまえ! 今、流行りの! 今すぐこの家から出ていけ!」


 何故だか小さい頃から、私は喧嘩で負けたことがなかった。

 どちらかといえば華奢な体格だが、相手がどんな屈強な成人男性だろうが軽々とぶっ飛ばすことが出来たのだ。

 恵美子は憤懣ふんまんに駆られて暴れ狂っている。

 今にもこのアパートを倒壊させてしまいそうな勢いで地団駄を踏み始めたので、私は慌ててこの''女''に冷却クール・ダウンを促す──



「まあまあ……一旦落ち着いて、ね? 深呼吸しよう深呼吸。1日に最低30回の瞑想呼吸! 人間、精神の平静を保つためには必要なんだよ。ほら、力を抜いて……瞑想は今じゃ、名だたる外資系企業も朝礼で取り入れてるほどなんだよ……ほら! リラックスして、リラックス……こんな時間に大声出したら、近所にも迷惑だからさ……」


 それでも、恵美子の咆哮が止まることはなかった──

 

「まだ毛も生え揃ってない世間知らずのガキが、知った口聞いてんじゃねー!」


「もう大体生え揃ってるよバカ! あっちやこっちにボーボーでな!」



 すると恵美子は一気に脱力し、畳の上へと座り込んだ。

 トロンとした目でこちらを見上げている。

 全くこの躁鬱アップ・ダウンの差には、毎回娘ながら怖くなる。

 

 私はへたり込んでいる恵美子をそっと抱擁し、背中を擦ってやった。

 向こうも私の肩をそっと抱いた。


「……どう? 落ち着いた? 恵美子」


 恵美子は私に向かって、静かに微笑みかけた。


「うん……でも親を下の名前で呼ぶのは辞めなさい……きっと、あの人に似たのよ。毛深いのは」


「……は?」


「恵美ちゃんはそんな毛深くないもん。あんたが毛深くなったのは、''あの人''のせい……」


「……ああ、まあ、別にいいんだけど」


「大体、毛深くたっていいじゃない……昨今の脱毛ブームというのは、元々は……」


「いや、別に今その話はいいや。あくまで言葉の綾でそう返しただけで、そんなガチで悩んでる訳じゃないから……ちゃんと処理してるから。てか別に、そんな毛深くないから。普通ぐらいだから、多分……」


 やがて恵美子は無言で立ち上がり、そのままユニットバスへと向かった。


 

 消灯後。

 私は珠妃たまきを布団に寝かしつけた後、部屋の片隅に辛うじて確保されている作業スペース──小さな円型の台の上で、電気スタンドとノートPCを使って書き物を始めた。

 その日がどんなに忙しくても、辛いことがあっても、毎晩これを済まさないと眠れないのだ。


 隣で寝ている珠妃たまきを起こさないように静かにタイプをしていると、ふすまを開けて向こうの部屋から恵美子が顔を出した。


「あのさ……ごめんね、牡丹ぼたん


 幸運の御守りである、まじないの白粉を落とした顔は、やはり以前よりも少しやつれて見えた。


「いや……こっちこそごめん」


 恵美子は小さく笑った。 

 それは年不相応だが、別に悪い気はしない少女のような微笑みだった。


「だからね、家のことは心配しなくていいから……ね? そうやって、自分のやりたいことを頑張んなさい。本当は大学だって行きたいんでしょ? 愛子ちゃんと一緒に……」


「分かった……でも、やっぱり大学には行かないよ。それにこの前、恵美子が倒れたのは急にいっぱい仕事増やしたからでしょ? バイトも続けるよ、うん」


「いや、恵美ちゃんに任せなさい。あんたは学業と、そのやりたいこと。2つだけ頑張ればいいの。何でもかんでも背負わないで。まだ子供なんだから……とんだ問題児だけど」



 私はPCを閉じて、恵美子の顔をじっと見つめた。

 胸の奥につかえて取れない痛みや不安、そしてわだかまり。

 この世界に対する違和感と、不信感。

 何かしらの''答え''のようなものが欲しかった。

 それはたとえ神様に尋ねたって、答えられないようなものだった。



「あのさ……なんで''あいつ''はいなくなったの? それまで当たり前にあったものが、ある日突然に、失われたりするの? 別に貧乏なのには慣れたよ。金がないなりに生きてくのは、ある意味ゲームみたいで楽しいしね。でも、それまで何事もなかったのに、何も言わずにある日誰かが、突然いなくなるなんてことがあっていいの? 分かんないんだよ、本当に……何度考えても、考えても……」


「それは、分からない。''あの人''自身にしか分からない。でも恵美ちゃんはまだ''あの人''を信じてる。たとえ今ここにいなくても、私たちはずっと家族だから。いつか4人揃って、また食卓を囲む日がくるって……」


 私は頭を軽くかきむしった。

 もしかしたら自分は世の不条理というものに、こうして生まれて始めて真っ向から向き合っているのかもしれない。


「……なんで恵美子は、あんな男のことを信じてられるの? 最早カルトじゃん。はいはい、おかけで長女はこんなに分かりやすくグレてしまいましたよ。ねえ、本当は何か知ってるんじゃないの? 他に女を作ってた訳でもないんでしょ? ねえ、本当に何も知らないの? あの''クソ親父''について──」



 すると恵美子は私の頬を軽く撫でた。

 その指先は冷たく、まるで氷の矢をあてがわれたようだった。


「ほら! そんなこと言わないの。もうチャッチャっと寝ちゃいなさい。何かに迷った時や、訳分かんなくなっちゃった時はとっとと、夢の世界に逃げ込むの。そうしとけば、明日も何とか乗り切ることが出来るから」


 そう言うと恵美子はふすまを閉めた。

 私は卓上にある最後の灯りを消して、布団の中へと潜り込んだ。



 だから、男なんて嫌いだった。

 この世界はあまりに訳が分からなかった。

 私はいっそのこと''これ''を捨てて、さっさとどこか他の場所へと飛び立ってしまいたい気分になった。

 


 ◆◇◆◇



 その夜、不思議な夢を見た──

 私はパジャマを着たまま、暗黒の宇宙にひとり、プカプカと浮かんでいた。

 手足をバタつかせても上手く泳げない。

 まるでクラゲのように、流れに身を任せて揺蕩たゆたっているだけだ。

 

 何も見えない。

 何も聞こえない。

 ただ無限の虚空が広がっていた──


「……?」


 誰かが私を呼んでいる。

 確かに私の名前を呼んでいる気がした。


「……牡丹ぼたん門倉牡丹かどくら・ぼたん……」


 小さな光が視界に映る。

 光が私に語りかけている。


「ここではないどこかへ──これから案内しよう……うん、ちょっと待って。もうちょいで終わるから。こっちの用事、うん」

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