牡丹と愛子
◆◇◆◇
「門倉牡丹様、坂口愛子様。お待ちしておりました。私は''キュウマ''と申します。この度は、私どもの世界を救ってくださり、誠にありがとうございました」
老人はそう言うと、私たちに向かってその薄い頭を深く下げた。
夕暮れ時のM.S.駅入口。
古びたスーツ姿の老人が、清楚なワンピース姿と無骨なB-ガール姿の女子高生二人組に対して、そう言いながら何度も何度も入念に頭を下げている、何とも異様な光景だったのだが──
段々と増えてきた通行人たちは、何故だか誰一人として、その老人の姿が見えていないようだった。
「やべー。怖えー。''ぼ''っちゃん。今日はなんか、変なのに絡まれるねーうちら」
一歩下がった後方から、私の背中を指先で掴んでいる愛子がそう言った。
「いや、でも。例の『黒いオーラ』は見えないから……悪い人じゃないよ多分」
「……なんで! 今日さっき発現したばっかの能力に、そんな全面の信頼を寄せてんだ君は!」
頭を上げた老人は尚もこう続けた。
手には一冊の、絵本らしきものを携えながら。
「私は、この本の中で……村長をやっておりました。『ジンボ』という辺境の村でございます。そろそろ黄昏時なので、私はこの世界の中に戻らないといけません」
「……ああ、それは凄いですね、はい──(おい''ぼ''っちゃん、幸いこの場所は向こうの本屋近く、交番から見える位置だ! 今からハンド・サインで通報入れっぞ!──)」
そう小声で耳打ちしてきた愛子を、私はそっと制しながら言った。
「──いや、大丈夫。多分……」
老人は更に続けた。
それはどこかで聞いたことのある、懐かしい声な気がした。
「牡丹様、愛子様──いえ、''ノラ様''。まさか貴方方が、悪帝『シルク』を打ち破るとは、誰も考えておりませんでした。おかげで虐げられてきた者どもは全員生き返り、今では誰もが皆、平穏に暮らしております」
老人はそう言うと、持っていた絵本をパラパラと捲って見せた。
──豊かな自然、肥沃な土地に恵まれたジンボという村──
──黄金の小麦畑から作られるパンが名産品である、ドワーフたちの住むモリミーヤという町──
──過酷なビーチブ砂漠を渡る移動樹──
──心優しい竜たちの住むミソノバース──
──ダイムゲン山の頂上に棲む妖精一家──
──そして、色鮮やかな花々に彩られた王国、そこに住む種々多様な小動物たち──
「……なんかキモくない? 何この絵本。モチーフの統一性もないし」
気付けば愛子が横から顔を出して覗き込んでいた。
老人はそれを受けて、朗らかに笑った。
「ほっほっほっ! まあ所詮こんなものは、単なる虚妄の絵空事ですからの! 早々に忘れ去ってもらっても、何ら構いません。でも、こんなにヘンテコな世界でも、この宇宙の大事な一部分でございます……それでは牡丹様、ノラ様。最後に一目会えてよかった。先程、''永野様''にもお会いしましたが、元気そうで何よりでした……それでは私は、これにて御暇致します。そして、牡丹様──」
老人は私の顔を覗き込んだ。
「''リュウ様''は、いつでも貴方を見守っていらっしゃいます。それではお二人共、いつまでも、末永くお幸せに──」
そうして老人は、その場からゆっくりと立ち去ったのだった。
◆◇◆◇
「うーん、何点よ。''ぼ''っちゃん。この図書館」
「……80点。''外側''も''内側''もかっけー。雰囲気も落ち着いてて最高だけど……エレベーターないの地味にキツい」
「……思った。地下3階まであんだねここ。びっくりしたわ」
「あと、やっぱ欲を言えば''スチール棚''より''木製棚''派なんだよな、私」
「ほーう、原理主義者だ」
「──しっかし、一体何だったんだあれは」
「……まあ、知らん間にうちら、どっかの世界を──多元宇宙を救ってたんでしょうよ、多分」
「へー、格好いいじゃん」
「うん……まあね」
「……結界とかちゃんと張れなさそうなジジイだったね」
「確かに。序盤にレベル上げしてるときの村の長老、って感じ」
「おっ。''セリーヌ''の全集置いてる、イカついな」
「……''セリーヌ''って誰だっけ? ''ディオン''か?」
「''ルイ=フェルディナン・セリーヌ''。後に、君の好きなサルトルの実存主義にも影響を与えた」
「サルトル……いや、''名言集bot''でしか知らないけど」
「……''我々は自由の刑に処せられている''」
「……んでもって門倉さん、何か天啓は降ってきたかね? 君の執筆の……ルイス・キャロルを超える名作のための」
「──これ、借りたいなー。何でその区民以外はカードって作れないんだろうなー」
「おい無視すんな……そりゃ返却率下げないためだろ」
「そういやさあ、今日せっかくだし、思い切ってプリクラとか撮っちゃえばよかったね」
「……やだよ。何で仕事でもないのに、写真撮られなきゃなんないんだよ。こちとら休日はSNSすら、ろくに触れんのじゃ……凄いな、''ぼ''っちゃん。変わったな……」
「ああ! そうだ!」
「──ええ、何?」
「やっと分かった!」
「ちょっと。急に大声出さないで。みんな見てるから」
「……ごめんごめん」
「……前言撤回、何も変わってないわ、君は……」
…………
…………
…………
…………
「うわー、電車混んでんなークソが」
「……てか門倉さん、牡丹さん、''ぼ''っちゃんさんよ──」
「……何?」
「当方、恐ろしいことに気付いてしまったのですけど……」
「……えっ? もしかして終電ない?」
「……はい」
「なんだよー。絶対昼間のあれこれで、時間ロスしたせいじゃんよー」
「いや……当方の忠告を無視して、あの駅前の家系ラーメンに、ゆっくり二人で勤しんでたのが決め手だと思うんですけど。それにカロリー……」
「いやーこの世界、色々と不思議なこともあるもんですなー」
「……あのさ」
「……ん? 何?」
「本当にありがとね、今日」
「……うん」
「愛子ちゃんさあ」
「……何?」
「……私がせっかく頑張って、必要以上に謝るの辞めようと努力してるんだから、君も一々感謝するの辞めてみたら? 私からしたら、当然のことしてるだけなんだから」
「……いや、それとこれとは話が違くない? 人間、感謝の気持ちなんか、なんぼあってもいいですからねー!」
「そっか。じゃあ……私こそ、ありがとう」
……………
……………
……………
……………
「いやー綺麗だね、星。見てよ愛子」
「……ねー。ガチで今更過ぎること言っていい?」
「……何?」
「……''愛子''って言われるの、恥ずいわ、何か……」
「見なはれ! きっとあれが夏の大三角形やで! 愛子!」
「……急に押しかけて恵美ちゃん大丈夫かなー? ブチ切れたりしない? 不安なんだけど、牡丹」
「大丈夫っしょ。お客さんには優しいし。特に愛子には……ごめん牡丹呼びも辞めて」
「……辞めない。これからはこれでいく。あたしも少しずつ、大人になってかなきゃ──でも、ほんと綺麗……」
「──''Nothing's gonna change my world.''──''Nothing's gonna change my world.''──」
「何だっけ? それ。牡丹」
「ビートルズ。親父が昔好きだった」
「……知らないわー」
「おい! ビートルズも知らないのかね君は」
「……いや、だって世代が……」
「……そういや宇宙ってさ。馬鹿みたいにおっきくて、私らの存在なんてちっちゃすぎて、一体何のために生きてるんだー? って悩んだりもするけど……全体で、『一編の大きな詩』なんだよね。無限に言葉を連ねてる、とんでもなく長くて、大きな詩──私たちは皆それぞれが、その言葉の一粒一粒なんだよ! だから、自分が何のために生きてるか分かんなくなったら、一度そのことを思い浮かべてみたらいいんだよ……私たちはこの壮大で美しい、ひとつの詩の中の一欠片なんだって」
「……凄い。響いたわ……''ぼ''っちゃん、凄い。まるで映画のセリフみたい、それ……」
「いや、映画のセリフなんだけどね。この前観たやつ」
「──なんだよ! おい!」
「……さて、もうすぐ着くぞー!」
「……あのさ」
「……何?」
「あん時図書館で、''やっと分かった''! って叫んでたけど、何が分かったの? 牡丹」
「そりゃあ、『不思議の国のアリス』を超える小説を書く方法でしょうよ! そのために図書館行ったんだからさ、今日」
「……それは、一体全体どうやんの?」
「君のことについて書けばいいんだよ! 読者に語りかけるようにさ。はあー! 何でこんな簡単なこと、今まで気が付かなかったんだろ!」
「……いや、図書館関係ないじゃん! もう! 今日のお出かけは一体何だったんだ……でも、何だかんだ……楽しかった。ありがとう、牡丹」
「……うん! こっちも……ありがとう、愛子」
「あれー? お姉ちゃん、愛子ちゃん連れてきてるー! 恵美ちゃーん! お姉ちゃん帰ってきたー!」
「おーい! 遅えぞ不良娘! せめて一報ぐらい入れろやコラ……あっ! 愛子ちゃん! 久しぶりー! 上がって上がって! 昨日のカレーぐらいしかないけど……おい牡丹! てめえヘソクリ返せやボケ──」
夜更かしな妹と母が、我が家のボロアパートの窓から顔を出して叫んでいた。
私と愛子は、それぞれ片方の手を、大きく振りながらそれに応えた。
もう片方の手は、ギュッと強く、私たちの間で結ばれていた。
何度でも、そう何度でも──
私たちはこの手を、力強く繋いで生きてゆくのだろう。
──おしまい──




