うたかたの日々
目の前に、四角い空白があった。
等間隔で薄い縦線の引かれたその液晶画面は、私に向かってどこまでも''空白''という存在を放出している。
さながら事象の地平面を越えて「無」を吐き出し続けるホワイトホールのようであり、その圧倒的なスケールの「無存在」に、私はいつものように途方に暮れてしまうのだった。
どこからどこまでいっても白、白、白、白─
空白の世界。
「う、浮かばん……書けん……一行足りとも……何故だ……」
溜め息と共に、旧式のノートPCを閉じる。
微かなパタンとした音とほぼ同時に、風呂場の方から妹の忙しない声が届いてくる。
「おーいお姉ちゃん! この黒いの中々取れないよー? まるで恵美ちゃんがいっつも濃ゆーいメイキャップで隠してるシミみたいに!」
その悲痛な訴えを受けて、先程夜職を終えたばかり、ジャージ姿で居間に寝転がってはその羽根を休めていた麗しき夜の蝶が応えた。
「うるせー! これは人生という荒波を、お前らと共に乗り越えてきた名誉の勲章なんだよこら! おめーも義務教育終えたら分かるぞバカヤロー!」
未だ第2形態の名残りを宿した我々のマザーが絶叫するのを受けて、珠妃は私の座っている寝室へと一目散にすっ飛んできた。
私は我が愛しの妹に向けて助け舟を出した。
「あのー、漂白剤とさ! 片栗粉を混ぜて……まあいいや今やるわ! 危ないから……」
今朝はいつもより、数時間早く起床した甲斐があった。
数ヶ月ほど前から浴槽にこびり付いていた湿気退治には、より強力な助っ人が必要だったからだ。
そして戦場にて数十分間の格闘の末、それらの忌まわしき菌類の除去に成功した私は、両腕を素早く洗い流した後に、2人分の朝食──トースト、サラダ、牛乳を居間にある卓袱台の上へと配膳する任務を終えたのだった。
7月の1週目。
もうすぐで夏休みだった。
緑色のカーテンの隙間から、キラキラと輝く陽光が溢れている。窓枠の向こうにある無機的な建築も、今日は何故だか少し煌めいて見える。
何だかソワソワして、目に見えない蒸気に浮かされて──
私の胸の内に、微かな熱が静かに騒いでいた。
「疲れた……月に一度くらいでたまにある、登校前、姉妹揃っての''マルチタスク日和''」
「……''マルチ''だったのは主にお姉ちゃんだけだったよ。ごめんね。私がもう少し、化学薬品の調合などに詳しければ……こうして年頃の女子高生の、''黄金の時間''を余計に奪わなくて済んだのに……」
朝食を平らげた後、座布団に頭を乗せながら床にへたばっている私のやや右斜め上方向から……
トーストを片手にツインテールを申し訳なさそうに揺らしながら、珠妃がそう呟いた。
「いいよ……邪念と煩悩まみれの時は掃除をしてスッキリするに限る。私にとっての''瞑想''なんだこれが」
「恵美ちゃんは昨晩、もっともっとお仕事頑張ってたもーん。あと、何にも書いてないじゃんこれ。あれだけ何十分も、うんうん唸ってたのに。何? もっと頑張んなさいよ牡丹ちゃん。何がマルチタスクよ」
気付けば我らが夜の蝶が、寝室にある私の小さな作業スペース──小さな円型の台上にあるPCを覗き込んでいた。
「……しかもこれ、あんたんとこの高校、スペース、不祥事って何じゃこりゃ? そんなのあるの? あんな平和なとこに」
「……検索エンジンまで覗き込むなよ!」
這い上がっては、寝室までひとっ飛び。
敷布団の上で、朝っぱらから夜勤明けの酒臭い肉親と戯れるのはあまりよろしくない。
一体、何やってんだ私は……とやるせない気分になるだけだから。
◆◇◆◇
この寝室の最奥に位置するタンスの上には、申し訳程度に神仏に捧げられた小型の置き仏壇がある。
その余りに簡易な──というかコンパクトなサイズ感の古ぼけた仏具は最早、この国に棲まう八百万の神々の神経までをも逆撫でしているのではないか、とさえ思える程に安っぽい残念な仕上がりではあったが、我々3人家族がそれについて気に病むことは依然としてなかった。
私が''メレケリ''で購入した、れっきとした中古品だったのにも関わらずである。
誠に不思議なことに、2年前に交通事故で他界した父とは、残された家族全員、特に何のわだかまりもなく、スッキリ綺麗に別れることが出来たという共通の認識、共通の感慨があったのだ。
こんなことを余所で公言してしまえば真っ先に集団ヒステリーの症状を疑われてしまうためか、誰もが葬儀の場では一応、それなりに悲しそうな表情を取り繕っていたけれども。
「──それにこの前、夢ん中で会ってガッツリ話したからなあ」
「お姉ちゃーん! 友達もう来ちゃったから先行くよー?」
玄関先から響く珠妃の声に、私は大声で応える。
あの子はいつだって太陽のようだ。今年もこの暑さを乗り越えて、どこまでも健やかに育っていってほしいと思う。
夏の光が、私たちの暮らす小さなボロアパートの一室に満ち満ちる。
「はーい! 行ってらっしゃーい! 気を付けてねー!」
「さあ、牡丹ちゃん。お愉しみはこれからよ」
背後を振り返ると、鬼神の如き表情をした夜の蝶が、私の頬を左手で挟み打ちにしてきた。
「えっ何?」
「……動くなよ?」
そして右手に握っていたアイライナーで、私の双眸の目頭から目尻にかけて、筆先を何度も小刻みに震わせながら、少しずつ黒線を引いていったのだった。
「……はい、''儀式''終わり! 我ながら上出来だわ」
私はしばし呆気に取られて、その場に立ち尽くした。
着替えたばかりの制服。少し汗ばんだ肌の上にある、ブラウスの胸ポケットからスマホを取り出す。
時刻は既に7時20分を過ぎていた。
「──で結局、何これ?」
「それじゃ牡丹ちゃん、ちょっとここ座んなさい」
恵美子はジャージの生地が擦れる乾いた音を立てながら、そう背中で語った。
そして居間の座布団の上にドサリと座り込み、卓袱台の上に置いてあったエアコンのリモコンを手に取る。
薄い黄色に染まっていた旧式のエアコンが、静かに部屋の隅々まで冷風を送り始めた。
「は? いや、もう急がないと──」
「いいから座れ」
そう言って恵美子は、もう一つの座布団を私に向かって放る。
一瞬だけ垣間見えた、''それ''は……
本気と書いてマジ、という死語(という死語)の表現が正鵠を得た、恵美子の''最高到達点''──
幻の第4形態だった。
その憤怒を通り越した静謐なる一言で、我が家の宇宙は完全に静止した。
そして時は再び動き出す──
私は黙ってその座布団の上へと座り込むしかなかった。
そして一呼吸を置いて元通りになった恵美子は……
静かにその口を開いたのだった。
「……あたしが、''龍ちゃん''と出会ったのは、そうあれは──」
「嘘でしょ? こっちは今から学校なんだけど!」
恵美子は頭を振り、乱れに乱れた金髪に手櫛を通しながら反駁した。
「まあ、落ち着きなさい。別に『過去編』は始まらないわ。そう……あれは確か、私がまだ19の頃、晴れやかな小春日和に──」
「導入がモロにそうじゃねーか!」
「だから落ち着きなさい……そうして、あなたが生まれたわ」
「今度はハショりすぎだろ!」
「……牡丹ちゃん。何でもかんでも条件反射で、杓子定規のツッコミを入れればいいというものではないわ。少しは間を置いて、裏切ることも必要よ。そんなものはNSCを出て、5年目ぐらいでやっと劇場入りする頃に自ずと気付くことであって──」
「だ・か・ら! 一体全体! 何が言いたいの! 端的に言って!」
恵美子は喉を大きく鳴らしながら、私の目をゆっくりと覗き込む。
そして先程こしらえたアイラインの咒いを、まじまじと眺めながらこう言った。
「じゃあ端的に言うけど……あなたにとって''龍ちゃん''は、どんな存在だった? はい。あたし端的に訊ねたから、あなたも''端的に''答えてね」
私は特に回答に窮することはなかった。
喋っている途中で、自分でも驚いたぐらいだ。
「ムカつくけど大切な父親。今も自分の中に生きてる……以上」
すると恵美子は微笑んだ。
たまに見せる嘘みたいに優しい顔だ。どうせまた何か、裏があるのだろうけど。
「……そう。それでね、あなたももう分かってると思うけど、永遠に続くものなんて、この世界には存在しないの……私が言ってる意味、分かるわよね? 大切な人のことよ」
私は恵美子が何について話しているのか、即座に理解した。
窓の向こう側の世界が、少しずつ賑やかになっていった。世界はゆっくりと動き始めている。
「……うん。そうだね」
すると恵美子は膝を付いて先進する。私を両腕で強く抱きしめた。
そして、一瞬──
ほんの一瞬だけ──
胸の中で私は、恵美子の身体の周りが薄い光に包まれているような幻影を視た。
「……今日のアイライン、途中で目擦って、台無しにすんなよ。あんたの''目''は、''未来を視る目''だから。それはあんたが、たとえこれからどんなことがあったって、いつまでもいつまでも幸せな未来を視続けるための『魔法』だから……どんだけ他人や社会と上手く付き合えなくても、それだけを願ってる、私はね……」
「……酒くせえ」
恵美子は私をポンと突き放す。
そして何の裏もない、満面の笑みを私に向けて解き放った。
「それじゃ! 走れ! 行ってこい若者よ!」
今、微かな熱が、私の胸に騒いでいる。




