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門倉牡丹の語ること  作者: 順風バカラ
また宇宙
36/40

お風呂に入ろう


 

 …………

 …………

 …………

 …………



 ◆◇◆◇



 …………

 …………

 …………

 …………



「──おーい、起きろ。''ぼ''っちゃん、おい!」



 懐かしい声の響きに呼び起こされて、私の心と身体は目まぐるしい回転を止めた。

 手を伸ばした。

 まるで世界との距離を測るかのように。


 暗闇の中で意識を手探りする。

 次に目を開けた。

 情報の洪水が脳裡に雪崩込み、薄い光の被膜ヴェールの向こう側に、一匹のぬいぐるみがいた。



「……全く、部屋に着くなり汗だくの身体で、人様のベッドにバタンキューするかね普通」



 デフォルメされた、竜のぬいぐるみ。

 ロンドン生まれのその新進気鋭の''ぬい''メーカーによる一品は、つい数週間前に私がN駅前の寂れたゲームセンターで興味を示したものだ。

 高級品なのか、わざわざ箱に入った状態で、クレーンゲーム横のケースの中に大仰に陳列されていた。


 ──たかがぬいぐるみなのに、珍しい。


 何気なく呟いたその一言を、愛子はまたしても拡大解釈したという訳だった。



「あー……よく寝た。で、すっげー変な夢見た」



 欠伸をした。

 まるで半世紀ぶりに心身を再起動させたかのような、ドップリとした疲労感。

 目をギュッと瞑って、もう一度開けた。

 それまで全身に纏わりついていた、倦怠感の泥が少しずつ、ゆっくりと剥がれ落ちてゆくのを感じる。



 私は今まで自分が何をしていたのか、今は何をしているのか──今はどの座標に位置しているのかを瞬時に理解した──愛子の部屋の、ベッドの中だった。


 そして視点と思考回路、皮膚感覚などが正常値にアジャストされた瞬間──私は思わず叫び声を上げた。



「えっ! 今何時? 寝過ぎた!」



 ここは6畳程の部屋、愛子の部屋。

 私たち2人の宇宙──



 ベッドから2メートルほど離れたデスクで、怪訝な顔をしながらノートPCをカタカタと叩いている愛子は、少しだけ視線をその画面の左上に逸らしては答えた。

 目を凝らしてみると、どうやら何かの番組の、出演者に実施されるアンケートを返信しているようだった。



「んー……7時、27分。てか時計あるだろ、そこの壁」



 壁。

 私たち2人を取り込んでいる数枚の壁の内のひとつ、愛子が座っているデスク後方に位置するその秒針は、確かにその現在時刻を指し示していた。

 特に何の装飾もない掛け時計の横に取付けられたラックには、CDやら漫画本やら小説の文庫本やらが乱雑にブチ込まれており、新進気鋭のファッションモデルの部屋としては、見栄えよりもあまりに機能性に特化し過ぎているのが伺える部屋だ。



「あー。帰るのダルい、ごめん今日泊まる」



 そう言って私は寝返りをうった。



「はいよー。今日、親いないし」


「……何してんの?……あっ! 何々……『今日の共演者との、過去の何か面白いエピソード等はございますか』だって? 何それ。無茶振りもいいとこだし、昔こんなセクハラされましたーってでっち上げとけば? 舐めてるだろ。こんなぞんざいで投げやりな、紋切り型の定型文クリシェしか送ってこないようなスタッフは。エンタメ業界の斜陽だよ。全く」


「うっさい! この変態! この窃視症め。ほんと目いいな、君……これは昔からお世話になってるディレクターの人が、新しく作った番組なの! いくら爛れた業界だっていっても、全員が全員、''豚''な訳じゃない……この世界と一緒! その縮小スケールが小さくなってくだけ! それに……もうこれからは、自分の身は自分で守るから……」



 28℃に設定された冷房の低い音。

 その冷気を部屋中に送るサーキュレーターの高い羽音。

 壁に掛けられた白いブラウスと紺色のスカート。

 黒いカーテンの窓枠の向こう側で、静かに反響している蝉の声。



「……本当に? たとえばほら……あの体育教師みたいにさ……」


「えっ何が?」


「いや、だから……」


「……何? 別に何もなかったぞ? 作戦は万事成功」


「……うん」


「え? 何でそんなこと言うの?」


「……え? あれ? 何でだろ?」


「……まーだ寝ぼけてんのか」



 部屋の左奥、小さな赤いソファーの近くに充電中のスマホが2つある。私はベッドの中に転がっていたハンドタオルで汗を拭きながら、それを取りにいった。

 ゆっくりと深く、ソファーに身体を沈み込ませる。



 母、恵美子に''ロイン''。

 ──今日は泊まっていく、コンビニ弁当でも買っておいて。

 速攻で返信。

 ──何なのふざけんな、恵美ちゃんはそんな添加物と着色料、保存料まみれの素材スタッフは食べない。


 無視して次は妹、珠妃たまきに''メール''。

 ──お詫びとして、冷蔵庫の''隠し扉''に板チョコがあります。



 スマホを閉じて、深い溜め息を吐く。

 それにしても、本当に混沌的ケイオティックな感触の夢だった。

 もう殆ど何も思い出せないが、その感慨というか、体感だけは全身にまだこびりついていた。

 出来れば、もう二度とは見たくない類のものだ。



「んー、何か本当に……すっごい長い、変な夢見ててさー」



 部屋の気温は相変わらず蒸し暑い。社会的身分はここまで違えど、うちのポロアパートと殆ど変わらないぐらいだ。

 自分と同じくTシャツにホットパンツという軽装を身にまとった、新進気鋭のモデルの声が後ろから届く。



「知ってるよ。ずーっとうなされてたもん。何かずっと叫んでたしさあ。熱はなかったんだけど、流石にちょっとヤバいと思って途中揺すって無理矢理起こそうともしたけど、うんともすんともいかないし……最後らへんはなんか安らかそうだったけど……よくご無事で帰ってきたな、君」



 ベッドの方をよく見ると、ハンドタオルが散乱している上に、床のカーペットの上には水の浸された洗面器があった。



「……ごめん。いや違う、『ごめん』じゃない……ありがとうございます。恥ずかしながら、帰って参りました」


「おっ。もう謝んないっていう約束、覚えてんねー。偉い」



 質問シートを入力し終えたらしい愛子は、椅子を回転させてこちらを振り返った。

 真夏の熱気に浮かされて少し赤らんだ、いつもと変わらぬ笑顔。

 私とは違う、整った顔。

 それでも、本当の美しさは''別に''あった。

 外見など所詮、魂の器に過ぎないのだから。


 でも今日は少しだけ、微かに違和感があった。

 その笑顔の内奥に、何か一物を隠しもっているような印象だった。



「そういやさー。これ、何なの? 鞄の中あったんだけど」



 彼女が指差した先、テーブルの片隅には、いささか大仰な包装に包まった大きめのクッキーがちょうど2枚、置いてあった。

 私はそれが何であったのか──どこで貰ったものなのかを思い出そうとした。

 そして、思い出した。



「……あー。昨日バイト先でさあ。劇団員の先輩がいて、その人最近本業の方がようやく軌道に乗り出したとかで……シフトの穴開けまくりのお詫びでってさあ。事務所に置いてあったんだよ。普通こういうのお土産とかだよね。いや、最初はこんなんでチャラにはならんだろって思ってたんだけど。おかげでこっちは閉店後のレジ締めまでやらされるようになったし」

 


 愛子は再びイスを回転させてはノートPCに向き合い、何らかの作業を再開した。



「あー。何だ、そっか」


「そんでさあ。まあ、見るからに高そうなやつじゃん。8枚入りとかかな……んで卑しい誰かがググってどこのブツか調べたんだよ。そしたらその値段が……」



 私は黙々と作業を続ける新進気鋭のモデルの背後へとソッと忍び寄り、そのまま首元へと抱き着いた。



「なんと一枚分の値段が、我々しがない労働者プロレタリアの時給よりも上だったのだ! 儲かってんねーあいつ。もう戻ってくんなって感じー。そんで余った1枚を、熾烈なじゃんけん大会を勝ち抜いて持ってプラスで帰ってきたのだ! 後で食べよう」



 腕の中で、小さな頭が右往左往する。

 横に少しだけ飛び出した髪の束が、私の頬をくすぐった。



「うっわっ! 汗くっさ! 離せコラ! おい!」



 私は彼女から離れると、Tシャツの首元を引っ張っては、周囲をグルグルと歩き周りながら言った。

 意識していても、顔の表情筋がニヤつくのを止められなかった。



「……ひょっとして、もしかして、何か勘違いされました?」



 彼女は左右の髪を少しだけ揺らしながら、否の意思表示を出した。

 かと思えば次の瞬間、かぶりをゆっくりと縦に振った。



「……はい、しましたよ。それが何か?」


「……なら安心しなさい。私、門倉牡丹かどくら・ぼたんには、そもそもまともな友達すら外界にはおりません故」


「……じゃんけん大会はやってたんだろ」


「まあ、私は''目''がいいんで」



 愛子はノートPCを閉じて、大きく深呼吸をした。

 そして立ち上がり、私の両手を手に取った。


 そしてそれまで僅かではあるものの、確かに精神的優位に立っていたはずの私は、それから彼女が繰り出してきた突飛な行動ムーブにすっかり面食らってしまったのだった。



「……何?」



 私とちょうど、同じぐらいの背丈の、生まれ育った環境が丸ごと異なるその美少女は至って真剣な表情で、こう言ったのだった。



「……取り敢えず、汗くさい。お互いに! だから、一緒にお風呂に入って、穢れを落とそう……話はそこでするから」



 

 ◆◇◆◇



 

 我が家の棺桶のような浴槽と違って、何とも立派な湯浴み場であることか。

 今なら彫りの深い顔立ちの、古代ローマ帝国の浴場設計技師がこの場に突如としてタイムスリップしてきたとしても、寛大な心で以て迎えられる。そのぐらい心地良い。満悦至極。

 いや、嘘だ。流石にお引き取り願う。この''鉄拳''で以て──



「……で、何なんすか話は! てっきり背中でも流してくれるのかと思ってたんだけども!」



 胡座をかいたまま、頭上から降り注ぐ温かな恵みの雨から顔を外し、薄い湯煙の向こう側──

 広々とした浴槽の中に、髪をタオルでまとめた状態で体育座りのままじっと静止している愛子に向かって、私は呼びかけた。


 愛子は、欠伸を噛み殺しながら答えた。



「いや、''ぼ''っちゃんさー。エロ親父じゃないんだからさ。身体ぐらい自分で洗えよ」


「……そういう意味で言ってないわアホ」



 私は再び目の前のシャワーの中へと突っ込んで、ボディーソープをまぶしていた身体の汚れを隅々まで念入りに洗い落としていった。

 小さな懸念と、不安に苛まれながら。



「……何か、ごめん! 勝手に気絶しちゃってたのは謝るから! 機嫌直して! ね!」



 全てを洗い流した私は、その広大な船へと身を投げ入れた。

 体積の増えた生命の泉が溢れ返り、浴槽の外側へと零れ落ちていった。

 排水口には、まだ泡の切れ端が残っていた。

 そして私は、目の前にいる少女に抱きしめられた。


 ゆっくりと、優しく。

 その細く美しい指の先には、確かな力が込められていた。



「……ううん。違うよ、ごめん。謝んなきゃいけないのは、あたしの方なんだ」



 私の胸に顔を埋めて啜り泣く彼女は、震える声でそう言った。



「あたしが、今まで全部、''ぼ''っちゃんにやらせてきたんだ。あたしが、弱いから。何もかも、あたしが弱いせい。だから……''ぼ''っちゃんの両手は、あたしのせいで汚れちゃったんだ……」



 排水口に泡泡が徐々に吸い込まれてゆくのが見える。

 埃とゴミ、身体の汚れと、数本の髪の毛などを巻き込んだ小さな渦巻きが、静かに回転しながら、私たちの世界から消え失せてゆく。



 こうして何もかもが、移り変わってゆく。

 変わらないもの、変わらない関係などはこの世に存在しない。

 全ては流転の上にあって、広い広い宇宙の片隅で起こる全ての重大な事件は、神様にとっては取るに足らない出来事でしかない。

 


 そんな切ない法則ルールの中で、こんなにちっぽけな私たちには一体、何が出来るのだろう。

 そんな切ない法則ルールの中で、こんなにちっぽけな私たちには一体、何が残せるのだろう。



 ただひとつ、分かっていることと言えば──

 その時、その時で、どんなに小さなことでもいいから、何か自分の納得がいく行動が取れるか。

 たったそれだけ。

 それぐらいのことではないかと思う。


 

 私は湯船を離れて、大きな鏡の下に置いてあるシャンプーを一押しして、液体の塊を手に取った。

 そして両の掌を擦り合わせて、無数に膨らんだ巨大な泡を作り上げた。


 それを、再び湯船の中で彼女に見せる。



「……思い出してきた。さっき見てた変な夢の内容。まだところどころボヤけてるけど、きっとそれは、思い出さなくてもいい部分なんだと思う。ほら、夢ってさ。脳内の要らなくなったデータを消去する際に生じる『歪み』みたいなもんでしょ? だから……今の私にはそれは、必要ないんだ。多分、とってもとっても辛い部分なんだと思う。だから……ちょっと話飛躍するけど、多元宇宙マルチバースってあるじゃん」


「……うん。アメコミとかでよくある」


「……ほら、この泡の一粒一粒が、全部、宇宙なの。それぞれに、それぞれの世界があんだよ。でさ、ほら見て。どれももろくて、簡単に崩れてく。それぐらい、一瞬で流れゆくもんなんだよ……無数にあるこの''宇宙''ってのは」


「……うん。で、それが何よ」


「うーん、だから……さっき私は、ヤクザの斡旋する死体処理のバイトで生計を立ててる夢を見たんだよ」



 すると愛子は吹き出した。

 何だか可笑しくなって、つられて私も笑った。



「……ちょっと待って! 何それ」


「そんで、色々あって、世界を救うために中世のファンタジーみたいな世界に飛び立ったんだよ……バイト先の''永野さん''と一緒に」



 愛子はジタバタと手足を動かしながら吹き出していた。

 私は両手に咲き乱れていた泡のひとつひとつを見つめながら言った。



「そんで、2年前に死んだ、お父さんと再会した。相変わらずだった……」



 愛子はハッと息をひそめた後、私にハグをした。

 私も彼女の肩を抱いてそれに応えた。

 


「そう……そういう荒唐無稽で無茶苦茶な夢。そんな夢の中の世界も、この広い宇宙のどこかには存在してる。そう思うと……何だか私たちの悩みなんかちっぽけなものに思えてくる」



 様々な感情が溢れ出したのか、クリっとした目の端々に涙を溜めていた愛子が、私の両手に溢れる泡を右手でそっとすくった。



「──で、結局何が言いたいんだよ! この宇宙は限りなくバカでかいって話? そんなん小学生でも知ってるよ!」



 私は彼女の目を真っ直ぐに覗き込んで言った。



「だから、ひとつだけ言えるのは、私はこの宇宙で君と出会えて嬉しい……ってこと。そんで出来るだけ、可能な限り、君とずっと一緒にいたいってこと。そんだけ」

 


 そして私は、愛子にキスをした。

 


 私たちの日々は、あまりにも簡単に過ぎ去ってゆく。

 それでも私は、この夜だけは、この先死ぬまで忘れないと思う。








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