悪夢
『何これ。変な見た目の''鳥''ちゃんねー。嫌いだわー』
愛らしい輪郭。でっぷりと太ったその西洋のブルードラゴンは、光り輝く恒星を背に、私に向かって微笑みかけた。
そしてゼットンも驚愕の火球を、上空からエルフの高飛車な女王に向かって直撃させる。
私はノラたんに掴まって、空高く舞い上がった。
城全体を覆い尽くす業火。
何だかこういう映画もあったなと思い起こす。流石に1兆度の温度がある訳ではなかろうが、中々に壮観な眺めだった。
私はブルードラゴン──アンゴラちゃんの背に飛び乗った。
アンゴラちゃんは嬉しそうに巨大な喉を高らかに鳴らし、その勇猛果敢な咆哮を旧帝国の空に響かせた。
「よーし、いい子いい子!」
黒煙が、真横にスライスされたシルク城の天蓋に絡みつく。
轟々と燃え盛る炎の勢いは未だ衰えず、破壊と暴発の連鎖反応が、積み重ねられた装飾の織り成す絢爛たる城塞を隅々まで食い尽くしてゆく。
そして、城全体が巨大な消し炭と成り果てた頃──
その小さな唄は聴こえてきた。
《…………》
《…………》
《…………》
《…………》
何と謳われているかも、全く以て判断がつかない。
孤独な術式の呪文が、この世界中に響き渡るかのように私の耳元をくすぐった。
あまりにも儚い声。
一瞬でこの世を過ぎ去ってしまうからこそ、至上の有限性を体現しているその旋律。
琵琶法師の音のように完全な美。
今生の音楽の結晶。
次の瞬間──
肌を焼き尽くすほどの業火と黒煙の熱は、私の身体と精神の世界から消え失せた。
そして、無限に広がりゆく漆黒の宇宙が眼前に広がってゆく。
方々に広がる微かな星の瞬き。
右も左も上も下も分からずに、私は虚空の真っ只中をクルクルと回転してゆく。
たった一人で。
行く宛もなく。
''これ''は、''この感覚''には確かに身に覚えがある。
まるで、夢の中にいるかのような──
どこからともなく聴こえる唄。
彼女の小さな夜の唄。
夜啼鳥。
夢と幻。
きっと、私の頭はどうかしているのだ。
私は、一体全体、何が何だか分からなくなる。
私は、私が分からなくなる……
「……起きろ! 起きて! 牡丹!」
目を開けるとノラたんがいた。
私を抱えたまま、飛行していた。
涙目で光る杖を私にかざしながら──いつものことだ。
私は両頬をシバき上げて、両目をカッと見開く。
エルフの女王の幻術から醒めたばかりの心身が、まず最初に知覚したのは──
恐らく光線によって、片翼をもがれたアンゴラちゃんが、悲鳴を上げながら目の前を墜落している場面だった。
黒煙がジャングルの密林のように立ち上がる下方を見やると、赤茶色の瞳をドス黒い魔力で纏っているシルクがこちらを見上げていた。
私は考えるより先にノラたんの腕から飛び降り、眼下の煙火の中へと突進した。
ノラたんがくれた最上級防御魔法──オーラの塊はまだ生きている。私をすっぽりと優しく包んでくれている。
地獄の業火を掻き分けて、私はどこまでも降下し、進んでゆく。
後方でノラたんが私を呼ぶ声がする。
何と言っているかは分からない。恐らく私を引き止めるその声。何も聞こえない。今は聞きたくない。
ただ本能に身を任せて突き抜けてゆく。
「ブチ殺すぞコラアアアアアアアアア!」
『落ち着いて牡丹! 怪我は私が治せるから! まずは一旦引いて、様子を見て!』
ノラたんの忠告が脳内にはっきりと届いた頃には、既に手遅れだった。
私と女王は黒煙と灼熱の業火が渦巻く濁流の中で揉み合いになる。
一瞬で身を焼かれそうになる中で、左腕をもがれる感触がした。
どうやら接近戦で、防御魔法のオーラが破られたようだ。
クソエルフが笑いながら、私の左肩から下部分を右手に握っていた。
大量のガスと煤が爆散する地獄の光の中で、私はクソエルフのその尖った耳にかじりついた。
クソエルフは悲鳴を上げる。
あらん限りの力を顎に込めて、それを丸ごと引き千切った。
鮮血が視界を覆い尽くす。
まもなく炎が全身を焼き尽くそうとしていた。
その瞬間。
私は声を聞いた。
またしても、その声を聞いた。
『''ぼ''っちゃん! 戻ってきて! ''ぼ''っちゃん!』
私は両脚に残された全神経の力を注ぎ込み、そのまま天に目掛けて垂直跳びをした。
身に纏わりつく炎は消えてくれない。
この穢れは、そう簡単に消えてくれないのだ。
身体と意識を殆ど燃やし尽くされたまま、表裏が反転したように錯乱した世界を彷徨う。
意識が薄れゆく中で、私はノラたんにその身を掴まれた。
空中で、ノラたんは燃え盛る私の身体に向かって杖を振りかざし、ありとあらゆる魔法をかけていた。
そうだ。
私にはこの人が必要なんだ。
この人はきっと──
愛子の別人格だったんだ。
まったく。
本当は、私に行かないで欲しかったなら……
はっきりそう言ってくれればよかったのに。
わざわざ、こんなところまで付いてくる必要ないのに。
本当に変な人だ。面倒くさくて、ややこしくて。それでも私にとって、一番大切だったんだ。
だから、私の方からも引き寄せてしまった。
私は自分一人で何かを成し遂げたことなど、今まで一度もなかった。
とんだ思い違いだった。
自分自身の世界すら変えられないほどに、非力だった。
いつだって側には、この人がいた。
次第に復活してゆく人体、皮膚感覚と痛み、視界、そして聴覚──
衣服まで修復してくれたノラたんはあの時のように、涙目になりながら私に光る杖を充てがっている。
「……なんで、いっつも、無茶ばっかりするの」
ノラたんに抱き抱えられながら私は次第に意識を取り戻す。
空飛ぶ魔法使いには恐らくもう魔力が殆ど残っておらず、その飛行速度と高度は徐々に低下してきていた。
「……うん。ごめんね。ごめんね」
私は取り戻したはずの視界を再び涙で埋めてしまう。
それは向こうも同じだったようだ。
私はノラたんに──愛子にギュッと抱き付く。
すると彼女もそれに強く答えてくれた。
「ごめんね……ごめんね」
「うん、大丈夫……やれることはやったんだから……ありがとう」
私はノラたんの顔を見上げる。
閃光が彼女の身体を貫き、私は空中で身動きが取れなくなる。
口から血を吐きながら、ノラたんは私に向かって微笑みかける。
私は声にならない叫び声を上げたが、最早それは誰の耳にも届くことはなかった。
真っ二つに分かれたノラたんの──
愛子の''半分''が、地上に落下してゆく。
私はそのまま、ただ堕ちていった。
どこまで深く、深く。
…………
…………
…………
…………
◆◇◆◇
…………
…………
…………
…………
「──で、どう? いい夢見れた?」
私は、両膝を付いていた。
最上階の部屋。
目の前には、オーセンティックでコンサバティブな服装をしたエルフの女王が椅子に腰掛けている。
何事もなかったかのように。
女王の城は、''鳩たち''の襲撃を受ける直前の状態に還っていた。
「ほう、汝、とんだ悪夢を見たと見受けられる……ご愁傷さまでーす!」
私は、あまりの急な現象に口が聞けなくなる。
女王を目の前にして、膝を付いたまま身体が動かなくなる。
それは、生まれて初めて心の底から湧き上がる根源的な感情に、この身と心を完全に支配されたからだった。
──いつからだ?──
──いつからこの''術''にかかったんだ?──
やがて小さく身体が震えだす。口の中がカラカラに乾き出して、小さな唾液の塊が次々と飛び出す。
私は嘔吐した。
胃の中に溜まっていた微かな食物の欠片と水が全て吐き出される。両目から大量の涙が零れ落ちてゆく。
「うむ……冥土の土産に教えてやろう……いや、ごめん。やっぱ君はもうちょい生かしておく予定だから、''冥土の土産''ってのは違うかな。悪夢は、こっからが本番! 一応、『あれ』もまだ手に入れたいしねー。まだ交渉材料として、何か使えるかも」
女王は立ち上がり、思考盗聴を駆使して私の頭の中を探りながら、優雅に巨大なテーブルを周回し始めた。
気配で分かる。どうやら私たち以外には誰もいない部屋。
そしてまた、彼女の声がゆっくりと四方の壁に反響し始めた。
「なるほどねー。その''永野''って奴が持ってんだ。でも余所の国に行かれたら色々めんどいしなー。どうしよっか……やはり何事も、保険をかけておくというのは重要よね……実際よくやったよねー君ら。虫けらにしてはだけど。で、さっきの続きだけど。『いつから?』ってのはさー。分かる?」
私は薄れゆく意識の中で少しづつ理解を推し進めていった。
きっと、旧帝国そのものが食虫植物の口なのだ。迷い込んだ者を確実に捕らえ、''現実''と''幻想''の混濁した意識の迷宮へと誘う魔物の口……私たちは端から見当違いの作戦を立てていた。
この不夜城を打ち破るには、まず女王そのものを余所へと引きずり出さなければならなかったのだ……
部屋の窓は開かれていた。
何となく潮風の匂いがした。
外の陽射しは強い。
何事もない平穏な午後のように思えた。
「ふむ……私を旧帝国から引きずり出さなければならなかったというのは確かだが……ブッブー! 不正解ちゃんでーす! 正解はー! 『君の夢の中に初めて現れた頃から』でーす!」
そして、私は思い出した。
あの感覚。あの浮遊感を。
アンゴラちゃんの炎が眼下のシルクを焼き尽くしたかと思えば、急に目の前が暗くなり、銀河系が広がっては、虚空に飲み込まれて──
私は宇宙空間にひとり投げ出された。
あの夢。
''向こうの世界''で、眠れない夜に、何度も繰り返しみた夢。
「……人心掌握……''心理誘導''ってこと……? あの妖精……パックちゃんを媒介にして、私をこの世界に呼び寄せる装置と見せかけて……パックちゃんを通して、私に幻覚の秘術をかけ続けていたと……? 何でもありだな、あんた。フィクションの世界で催眠術が最強な訳だわ」
女王は私の目の前に現れ、どこからか取り出したティーカップを啜りながら答えた。
「そうだ……全ては最初から仕組まれた、美しくも残酷な夢幻劇だったのだよ。人間のかよわき少女よ……まあ、『あの子』も魔法使いとしては結構イケてる方だからさ、夢ん中でも最後まで抵抗しててさ、何かあたしに口答えするような素振りも見せてたんだけどさー。なんか、『うん、ちょっと待って。もうちょいで終わるからー』とか訳わかんないこと言ってさ。まあこれまた、何かに使えるかと思って取っておいてよかったわ。残る気がかりは……あたしの頭ん中から''あの魔法''をぶん取ってどっかにいった、君のクソ親父のことなんだけど……まあ、そのうち何とかなるっしょ」
女王は、シルクはそう言って再び椅子に腰を降ろした。
その顔は勝ち誇るように、燦然とした表情で私を見下ろしていた。
「……でも、所詮お前らは、この宇宙が零から生まれ変わる瞬間に生まれた『歪み』で、結局は全てが『虚妄』の存在なんだろ! 私たちの宇宙がでっかい''黒穴''に飲み込まれちゃう前のさ……! だから、私たちの宇宙が消えてなくなれば、お前らだって結局、全部消え失せるんだ! 所詮''RPG''のゲームなんだ! ''異世界での大冒険''なんか! 私たちの宇宙からしたら! いつまで経ってもうだつの上がらない世界から抜け出すための、''現実逃避のゴミクズ''なんだ! お前らはそんな''ゴミ溜め''の中でグルグル規則通り回って行動してるだけの、クソA.I.も同然なんだろ!」
そうだ。
それでも。
こんなに全てが都合のいい、虚構の世界の中ですら。
私は無力だった。
私は何にも出来なかった。
現実世界でどれだけ''力''を誇示していたって。
ここでは何の意味も成さなかった。
トラウマの超克?
ふざけんな。
私にトラウマなんて最初からなかったんだ。
親父が出ていったこと? 何の関係もない。
結局私は、私が死ぬほど嫌いなんだ。
私のことが、何をどうしたって許せないんだ。
だから気を紛らわすために、暴力に縋って、他者を傷付けてゆくことでしか生きていけなかった。
そして更に、そんな自分が嫌になってゆく悪循環。
この''世界''は、全て私の想像しうる限りの憎悪の総体だ。
私が乗り越えなくてはならなかったのは、他ならぬ私自身だったのではないか。
''私は、私のことを好きになれなければ──''
''この女王に打ち勝つことは出来ないんだ──''
すると女王は、いとも平然とした表情で微笑んだ。
「そうよ。私は幸先短い『虚妄』の存在だからこそ、『自己実現』のために最善を尽くすの。どんな手を使ってでも。何でも思い通りに願いを叶えるの……邪魔者は全員ブッ殺してね。あなたと同じよ、門倉牡丹ちゃん」
「……違う! 私はそんなんじゃない!」
「……まあいいわ。でも、言ってくれんじゃん。あたし、やっぱ気に入ったわ、あなたのこと。''ここではないどこか''別の世界で出会ってたら、友達になれたかもね……じゃあ、これからたっぷり、可愛がってあげるから。これから起こる出来事も、全部嘘っぱちの『虚妄』だって思えるかなー?」
シルクはそう言って、指を鳴らした。
膝を付いたままの私は身体ごと回転し、その巨大なテーブルの上に広がる光景を目の当たりにした。
述べ300を超える戦士たち、同志たちの首が、そこには積み重ねられていた。
再びシルクが指を鳴らすと、それらの首は一瞬で雲散霧消した。
そして、テーブルの上には──
いつもの白い絹のワンピース、黒の上着がズタボロになったノラたんが現れた。
「……可哀想に。この子、あなたのために魔力を殆ど使い切っちゃったってさ。もう、どうにもなんないみたいね」
ノラたんは肩で息をしながら、テーブルの上から私を見た。
その目は、涙で溢れかえっていて──
私に、確かに助けを求めていた。
私は絶叫した。
しかし声は出なかった。
身体も動かなかった。
ただそれを、見ていることしかできなかった。
またもや指が鳴らされ、どこからともなく現れたシルクがノラたんを背後から抱きしめた。
その手は、黒の上着を掴んでは、ゆっくりと引き剥がしてゆく。
そして、白い絹のワンピースの上を弄ってゆく。
ノラたんの──愛子の顔が、次第に恐怖と恥辱の色に染まってゆく。
彼女は私を見ている。
身体が動かない。
私も彼女を──
ただ見ていることしか出来ない。
目を瞑ることも許されない──
背後から彼女の身体を弄っている、あのエルフの女王が放つ禍々しい魔力に支配されて。
ありとあらゆる汚穢の呪詛に囚われて。
私は、何も出来ずにただ、その場に膝をついていた。
やがて身に纏っていたものを破り捨てられたノラたん──
愛子は、一糸纏わぬ姿へと還った。
「……''ぼ''っちゃん、助けて……」
そして、女王の口が開く。
満面の笑みを浮かべながら、シルクは私に向かって言った。
「じゃあ、今からこの子、犯して解体するから。最後までよーく見ててね、門倉牡丹ちゃん!」




