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妖精


 ネズミが吐く嘔吐物ゲロというものを初めて見た。

 それはとても線が細く、短い間隔で小間切れになっては、ポトポトと地面に投下されていていく黄色い爆弾だった。



『……もういい。帰ろう。あいつら悪魔だ』



 気付けば異界の地で勇敢な剣士としてやっとこさ一旗上げたその男は、かつての45歳児サブカルヘタレ舞台俳優へとすっかり後退アン・ドゥしてしまっていた。

 今では姿形こそ、鼻を持たない異形の小動物ではあったものの。



『別に……''そんなに''ですか?』


『''そんなに''、てなんだよ。そういうところが痛いんだよお前は』



 私たちはその巨大なヒマワリの展示物から数十メートル離れた、我々の世界でいうプラタナスによく似た樹の木陰に隠れていた。


 広場を通る人々やクリーチャーは誰一人として、その熾烈な無惨絵には目もくれずにシルク城へと続く緩やかな坂道を邁進まいしんしている。大衆レストランの客たちも特に感心を示していないようだ。


 その悪趣味かつ残虐な造形物アートに関心を払うものは最早私たち以外にはおらず、まるで建国以来、特に何の理由もなくそこに陳列されてきた記念品の石のように、それは周囲の草花が演出する華やかな空間の中に完璧に溶け合っていた。

 まるで毎朝通う駅に飾っているだけだから、別にどんなに奇抜なデザインをしてようが今は何にも気にならない、すっかり見慣れてしまった風変わりなモニュメント、といった風に。

 


『……''そんなに''だよ。昔から推してた十色といろちゃんがいる』


『ああ……確か、女子アナの……』


『……そう』


『……でも、別に面識はなかったんでしょ?』



 私がそう言うと、永野ネズミは口からハアハアと悲痛な重い吐息を漏らしながらしばらくの間、沈黙した。

 あの安アパートで日々処理に励んでいた、どこぞの得体のしれない肉塊と、実際に自分の目と耳で認識していた個体との違い──

 たとえ相手が液晶画面の中であったとしても、それは時には自分にとってかけがえのない存在たりうるのだろう。


 私は人目を避けながら、巨大なお客たちが遠くの机上に残していった残飯などを素早く掻き集め、傷心中の永野の元へと差し出した。小さな両手で直に集めたそれは、こんがりと焼かれたチーズやパンの欠片だった。

 永野は悲痛な面持ちで片っ端からそれを口へと放り込むと、私に向きあった。

 そしてこちらの目を覗き込みながら、ゆっくりと手を差し出した。



『……ごめんな、ありがとう。もう大丈夫』


 

 その目は以前の勇壮な剣士のものに戻っていた。

 私はその薄汚れた手に、自らの華奢な掌を勢いよくぶつけた。



『生き返らせるために、これから戦うんですよ。''時間を巻き戻した''新しい世界で、また会えますよ……画面の向こう側だけかもしんないですけど……』


『ああ、ありがとう……牡丹ちゃん。君、''こっち''きて何か変わったよ……何がとは言えないけど』


『ほら! ''チーズはどこへ消えた?''でも書いてたじゃないですか。世界は常に流転の上、生きてゆくのは変化を追い求めてゆくことである。変化を恐れていては前へ進めない』


『……書いてあったっけ?』


『とにかく! 我々の目指すべきチーズはここにはない……その残飯よりも、もっと良いチーズがどこかにある訳ですよ……勿論、あんな悪趣味で残酷なものよりもね』



 私はハムちゃんの小さな顎で、向こう側に屹立しているその無惨絵の方をしゃくった。



『……''あれ''を''チーズ''と見做みなすのか……やっぱり、何も変わってないかもしれん……』


『それより、現実の方は今頃どうなってんだって話ですよ』



 私はハムちゃんの拳を強く握り締めながら、頬を軽く小突くように引っ掻きながら言った。



『まあ……えらいことにはなってんだろうな、恐らく……ちょっとごめん、それ、考えたくないかも……マジで』


 またもやヘタレ45歳児に後退アン・ドゥしてしまいそうになった永野を、私は慌てて引き戻した。

 今、目の前にある現実は、あくまで''こっち側''でしかないのだ。



『あの……''向こう''とコンタクトを取る方々があるって、中田組の連中言ってませんでした? それで極秘裏に情報が政府やマスコミの筋に送られて、一部情報統制を交えながら報道される……みたいな。それで、''あそこ''に飾られてるのはメディア関係の人らな訳でしょ……歌手とかもいるけど、まあひとつのプロジェクトにタイアップとかで関わってたとかなら辻褄が合いますし……それでシルクと''向こう''の人らが繋がってて、何かこう、交渉が決裂して……見せしめにあんなことになったんじゃないですかね? まあ、現時点ではただの直感ですけど……』



 思念テレパシーによる長文の考察、というか妄想を受信して──

 永野ネズミa.k.a.百戦錬磨の剣士は頭を小刻みに振りながら、記憶の片隅を懸命に探っているようだった。

 プラタナスのような形をした葉の下で、地面に伸びる様々な人影が次第に短くなってきたのが見える。真昼のピークタイムを終えてお客たちは次々と退席しているようだった。



『……あの''鏡''、か』



 私はシルクのあの大仰な形の鏡を思い出した。

 恐らく強大な魔力の込められた、遠隔リモート通信が可能な魔具……出不精で自分の城から中々出たがらない彼女に、従者たちが特別に用意したものらしい。

 シルクが今まで''向こう''の連中と繋がっていたとなると、目的はやはりこの私──本当にそれだけだったのだろうか? 一子相伝、あのクソ親父の呪文スペルを探して……今ではあの身長を伸ばす魔導書を求めて……次第に頭がこんがらがってきた。

 

 

 そもそもの話──

 シルクを倒したらこっちに''究極の魔法''が手に入る''段取り''なら、シルク自身はその''究極の魔法''を使えないのか?

 もし使えるのであれば、自らの身長が伸びた世界を再編すればいい。

 あの身長を伸ばすための魔導書など、別に必要はないはずだ。

 ならばなぜ、私のいる世界を──私の住んでいるS区の半分を丸ごとぶっ飛ばしたりしたのか?



 究極の魔法によって何もかもを''チャラ''に精算して、傷一つない''私たちの世界''をもう一度作り直す──

 今更ながら、それは途方もない絵空事のように再度思えてきたのだった。



『まあ、何にせよだ……今まで持ちつ持たれつ、絶妙な均衡バランスで保たれてきた''向こう''と''こっち''、''こっち''と''向こう''の緊張関係が崩壊しつつある……''俺らの世界''は着実に侵食されつつあるってことだな……』


『はい……それに昨夜、ノラたんにも何か異変が起こって……』



 ここまで口にした瞬間、私はしまったと胸の内で舌打ちをした。



『え? 何があったのよ?』



 私は自分で自分の頭を吹き飛ばしてしまいたくなった。

 全身の毛穴から嫌な汗が吹き出す。それは小動物の身体にとっても不快な感覚だった。


 どうせ今更、誤魔化したところでどうにもならない。こうみえて永野には、意外と鋭いところがあるからだ。

 私は、''ノラたん''と''愛子''について、洗い浚い白状した──



 ……

 ……

 ……

 ……



『はあー……なんか、大変だなお前も。色々と』



 意外と淡白な反応に、なんだか面食らってしまう。こちらが二の句が継げないでいると、向こうから先に牽制される運びとなった。



『……でもな、そういうことはすぐに言えよ。別にこっちは、そういうので茶化したりしねえんだから』


『……はい』



 勇敢なネズミの剣士は、あまり可愛くない笑顔を見せながらフッと乾いた笑いを漏らした。



『なんか素直じゃん。やっぱ変わったよ牡丹ちゃんは』



 すると当然、背後から強烈な魔力を感じた。

 今までどんな魔物からも感じなかった波動だ。


 永野と私はすぐさま動き、近場の岩陰へと避難した。

 まだ、この変身を解くときではない。しかし万が一に備えていつでも臨戦態勢へと移れるようにはしなければならない。



 そしてその魔力の発生源は──

 その無惨絵のモニュメントに向かってトボトボと歩いている、とある一匹の妖精だった。

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