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甘い香りに誘われて


『「どうしたって、もうにどとあそこにはもどりませんからね!」とアリスは、森の中の道をすすみながら言いました。「生まれてから出たなかで、いっちばんばかばかしいお茶会だったわ!」』


『こう言ったとき、木の一つに中に入るとびらがついているのに気がつきました。「あらへんなの。でも今日って、なにもかも変よね。だからこれも入っちゃおう」そして入ってみました』


『きがつくと、アリスはまたもやあのながい廊下にいて、近くにはあの小さなガラスのテーブルもあります。「さて、こんどはもっとうまくやるわ」とつぶやいて、まずは小さな金色の鍵をとって、お庭につづくとびらの鍵をあけました。それからキノコをかじりだして(かけらをポケットに入れてあったのです)、身のたけ30センチくらいにしました。それから小さな通路を歩いてぬけます。そしてやっと――ついにあのきれいなお庭にやってきて、あのまばゆい花だんやつめたいふん水のあいだを歩いているのでした』


(不思議の国のアリス/ルイス・キャロル著/山形浩生訳)



 ◆◇◆◇



''夢幻荘''の賃貸情報



所在地 T都N区Y町X丁目-X9-2X


交通 国鉄C線/K駅 徒歩25分

西武S線/都立K駅 徒歩30分


物件種別 アパート

築年月(築年数)19XX年1月(築X3年)

建物構造 木造

建物階数 地上2階


設備/条件 都市ガス



※※この物件は現在ご案内しておりません※※



(引用:HOME SWEET HOME'S 不動産アーカイブ)



 ◆◇◆◇



 ''旧帝国のシルク討伐作戦、決行の朝──''



 潜入方法は至って単純なものである。

 ノラたんの魔法で小動物に変身し、毎月税関を越えて旧帝国へと通行している、砂漠の商隊キャラバンの荷物の中に紛れる。たったこれだけだ。

 そして身長を伸ばすための魔導書を狙って今まで私たちを急襲、派遣させられた使いを撃退した中で救ってきた──恩を売りつけた連中が後から参戦し、敵勢を世界陸ワールド・マス南部の港へと追い込んでくれる手筈。

 肝心の魔導書は有志が安全な場所に隠してある。最終手段、取引の材料として。



 変身する小動物は自分で設定デザインした独自のものでいい。

 ただし、ひとつ条件がある。

 鼻孔を持たない生物であること──

 


 鼻孔を持たない生物などといえば、''私たちの世界''では精々ナマコぐらいしか思い付かないものだが、ここは全てが想像力イマジネーションによって運営される魔法の世界。口呼吸によってオーガニズムを維持しているネズミ、ハムスターなど、何でもござれだ。要は意図的に嗅覚を削いだ小さな生き物になればそれでいい。

 


 何故一度、''鼻''を捨てる必要があるのか。



 それは旧帝国全域を占める、シルクたんの''不思議なアロマセラピーの魔術''──

 ありとあらゆる生き物の全てを洗脳してしまう、その甘い香りから逃れるためである。



 以前に私が単身、旧帝国に猪突猛進した際……

 正直、その時のことは今でもよく思い出せない。記憶を掘り起こすべく脳の視床下部を揺り動かそうとする度に、何か薄いヴェールのようなものが自動的に心象風景の上に重なり、全てに暈し(ブラー)がかかってしまうのだ。



 ただひとつ、確かに憶えていたのは……

 降り立った町全域に、何か強烈な甘い香り──目には見えない馨香けいこうが漂っていたことだけだ。



「それはシルクの呪文スペル。''最強に可愛い支配者''を標榜する彼女が美容のために最近ハマっているとされる、『アロマセラピーの実験』を建前として旧帝国全域に散布され続けた、強烈な幻覚香料よ。3日も吸い続ければ即座に洗脳完了、周囲に空気感染するウイルスをばら撒き続ける感染源になる。だから、''今は待て''と言ったの。現に''自警団''に見つかった時も、ろくに抵抗出来なかったでしょ」



 私は、正座しながらそれを聞いていた──



 およそ数ヶ月前。

 魔法によって自らの鼻を''消失させた''状態で私を救出しにやって来たノラたんのその呆れた表情は、今でも脳裏に焼き付いたままだ。

 嫌というほどに。



「──つっても、そう長くは持たんぞ。''俺たちの認識だと''、こんな生き物は本来なら絶対あり得ねえ訳だから。いくらノラたんだって、魔力の消費は大きくなるだろ。こういう、ゴーゴリの小説みたいな合せ技をしてると……」


「……''ゴーゴリ''? って何? 永野」


「……いや、何でもない。てか今更だけど、君までナチュラルに呼び捨てするようになったんすね……」



 数多の食料、工芸品、魔具などが積み込まれた巨大な荷物、それらを包み込む巨大な絹布──砂漠を生きる''モリミーヤ・ラクダ''の揺れる背の上で、永野がそう言った。

 彼は今、本来は鼻のあるべき部位がつるつるとなったネズミに扮していた。

 私たちは各々が好む小動物に変身して、息を殺して身を寄せ合っていた。

 獰猛なモンスターの潜む砂漠をものともしないほどの魔力を携えた、ラクダの自由闊達な歩行のリズムが私たちの全身を小刻みに揺らいている。



「舐めないでください。半日はいけますから」



 次に鳩に扮したノラたんが、荒々しい息遣いで答える。そもそも鳥の鼻孔は大体がクチバシの根本に付いており、そこまで嗅覚も鋭くはないのだが、念には念をということらしい。

 加えてノラたんはその何百匹もの平和の象徴たちの仲間を既に近郊に待機させており、蜂起のタイミングでそれらを一斉に解き放つ算段だ。全く物騒な話である。



 そして、私はハムスターだった。

 潜入の条件に合えば別に何でも良かったのだが、ノラたんがどうしてもと言うのでこれになったのだ。

 小回りの効くこの身体は中々に気に入っていた。どちらかといえば自分は、死体だらけの安アパートに湧いて出るようなネズミだと思っていたから。



「しっかし牡丹ちゃん、マジでハムちゃんでいくんかい。いやー何だかなー」



 私たちより一回り大きい、ノラたんの鳩の背中越しに永野がそう言った。

 私は前脚で、顔の側面を軽く搔きながら答えた。



「なんすか? 私がハムスターじゃ駄目っすか?」



 永野は顔面の中央に平べったい空洞を残したままの、どこか能面じみたネズミの顔相で笑いかけた。

 それはより一層に、狡猾で不気味な印象になっている。諧謔かいぎゃくだとか、笑いの知恵などはこれ以上弄んではいけないぐらいに。



「……牡丹ちゃんさあ、将来車買ったら、ダッシュボードにフワフワのピンクのファーとか置きそう」



 ニヤついてんじゃねえこの阿呆が。

 その微かなケタケタ笑いが身体の振動に共振している。気色悪い。



「置かないですよ! そんなもん!」



「……え? ピンクのフワフワなんて可愛いんじゃないの? 何で駄目なの?」



 ノラたんが鳩のつぶらな瞳で、不思議そうに私たちを見やった。何の他意も感じられない、純粋な疑問であるのは明白な声の響きだった。



「……うむ、確かに。女性にとってピンクでフワフワな素材スタッフを選択するのは確かに自然な成り行きではあるのだが……ちょっとムズすぎるな、この感覚を異世界の人に説明すんの」



「……まあ、いいっすよ。取り敢えず、私は今後一生、ピンクのファーも大麻草の飾りも、自分の車に取り付けることはないというのだけはここで強調させて頂きたい!」



「……牡丹、もしかしてピンクは嫌だった? 私としては気を使ったつもりだったんだけど……」



「いや、そんなことない……ありがとう」



 そう言うとノラたんは鳩のまま笑った。

 私はいつもの''あの顔''を、その中に容易に見つけることが出来た。



 昨日の晩のこと──

 あの後、愛子はいつものノラたんに戻った。

 それから何も覚えてないノラたんと別れて、私たちはそれぞれの寝床に就いた。

 あれは一体、何だったのか? 

 今ではただの夢幻であった気さえする。

 もしかして、外の世界で何かが起こっている?

 もしや、愛子の身に──



 私はハムスターの小さな手で再び顔を掻いた。

 分からない。しかし今はとにかく、分からないまま前に進むしかない。



「とにかく、中に入ったらシルクの''香り''に気を付けること。少しでも異変を感じたら思念テレパシーで報告。即脱出よ。空中に漂う香りは無色透明。魔力探知にも引っかからないから」


「そういや牡丹ちゃん、''あれ''は一体、具体的にはどんな匂いだったの? 花とか、何かの品種に似てたとか……香水とかは詳しくねえの? ほら、昔はあのアパートの帰り、馬鹿みたいに全身にぶっかけてたような気がしたけど……」



 私は再び自分の頭の中を引っ掻き回すべく奮闘した。

 答えはいつものように空疎だった。



「うーん……本当に、世間一般でいうところの、植物由来のいい香りとしか……麝香じゃこう……ムスクみたいな……」



「牡丹、''向こうの世界''ではそういうの詳しかったんだ。何か以外ね」



 またもやノラたんが、素っ気なくそう呟いた。

 最終決戦を目の前に、本番で最大限のパフォーマンスを発揮すべくリラックス出来ている証拠だろう。

 しかしその一言が、私の胸にはズシリとした重い空気を運んできてしまったのは、他ならぬ悲劇だった。


 

「……昔、よく貰ってたよ……君に」



 ノラたんは小首を傾げて、少しの間、私の顔を見つめていた。

 私と、愛子は確かにこの間、お互いに見つめ合っていた。



 ◆◇◆◇



「……もうすぐ着きます。では、健闘を祈ります。我々も中で準備が出来次第、すぐに馳せ参じますので」


 商隊キャラバンの長が頭上で絹布をめくり上げ、私たちにひっそりと話しかけてきた。

 若い頃のニコラス・ケイジのような、面長で尚且つ優しそうな印象の男だった。普段は抜けていても、やるときはやる──といったような。

 私はハムスターの右手を、ゆっくりと握り締めた。



 今はこのかよわい、小さな掌。

 私の血塗られた拳の流星は、人の役に立つときがきたのだ。

 苦しめられている市民を救うときが。

 そう、誰かを救うときが。



 私は今日、その大きな目的を完遂したときにこそ、自分の中にあるコンプレックスである暴力を、初めて乗り越えられるような気がしていた。

 この魔法と呪いを打ち破って、あのクソ親父に面と向かって堂々と、会いに行けるような気がしていた。

 そしてまずは軽く、愛の平手打ち……いや、''馬鹿野郎''の一言でも言ってやれれば──

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