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あなたがいるなら

 

 冷たい指先が頬に当たる。

 いつもの凜とした眼差しは、熱の病魔にうなされたかのように潤んでいる。私をじっと捕らえて離さない視線。真夜中の暗闇の中に残された、生き物たちの温度を求めて彷徨う亡霊のよう。確かに、それに恋い焦がれているのだ……

 彼女が今、探し求めている生き物は私ひとりだ。この寝静まった、ひっそりと夜の果てへの旅へと向かう終末世界の中で。


 紺碧の夜。

 合間を縫うように白い星が瞬いていた。


 大地を蹴りつけるツリーの息吹に合わせて、枝葉がゆっくりと大きく振動する。ふたつに重なった、私たちの心身と呼応するかのように揺れている。

 ノラたんが私を見上げる。唇の先が首筋を掠める。両腕は私の腰の後ろ、ツリーの幹と身体の間に挟まっている。鼻から漏れ出る息が荒くなる。そのまま私の胸元へと、その完全なる美の顔相を埋めてくる──



「……いや、しないよ? しないですよ?」



 ノラたんは乱れた呼吸をワンテンポ置いて、私をもう一度見つめ直した。

 まるで夢の中で夢でも見ているみたいだ。押し付けられる甘い柔肌、懐かしい匂い、思春期の微熱にやられたような衝動……あの目、あの鼻、あの口、あの輪郭……今や私の目の前にある。

 


 もう、うんざりなんだ。

 こんなのは──



「……分かった、我慢する。じゃあ……そっちから、して」


 ノラたんは私の手を取った。

 私はそれを即座に払い除けた。


「いや、そういう''プリティ・ウーマン''的なことじゃなくて……そもそも''しない''よ?」


 ノラたんは困惑した表情をその赤らんだ顔に浮かべては、尚も至近距離から私の頬へ熱い吐息を吹きかけている。

 高い鼻筋──この美貌を形成する上で最も重要な部品パーツ

 しかし、いつもの格調高さや品、大人っぽさ……私がいくら手を伸ばしても到底届かなかったあの憧憬は、今はここにはない。

 それはただの、''幼稚さ''でしかなかった。

 こんな表情は、今まで見たことがなかった。


「早く……''こっち''へ来てよ」


「……こんだけくっついて、これ以上、どう''そっち''へ行くんだよ」


 右肩に埋められた要塞のような髪の毛が、呼吸のリズムに合わせてサラサラと横に流れた。まるで呪いから解かれたように。この世の全てのしがらみから、解き放たれたかのように。



 はて、どうしたものだろうか。

 あの鉄面皮の師匠とも、時間をかけて少しずつ仲良くなれたかと思いきや、この有り様だ。

 まるで弱と強のスイッチしか付いていない扇風機……古臭い喩えだがそうとしか形容しきれない、NPCから血が通ったキャラクターへと変貌メタモルフォーゼしたにしても、どうにも話が急すぎる。



 ──まさか、現実世界の愛子とリンクしたのか?



 とも考えたが、愛子はここまで''あからさま''ではない。私の知っている愛子は、確かにそうだった。

 ……などと余計なことを考えていたらこの愛子面した登場人物キャラクターは、私へと巻き付けた四肢へ更に力を込め始めた。

 絹のワンピース越しに伝わる太腿の感触。私の着ている''夢幻荘''作業着の武骨な生地の上からも伝わってくる、その肉感。肉体の''魔法''。それも、酷く魅惑的な……幻惑的な。私は思わず息をのみ、両脚をモジモジと交差させてしまう。



「……ちょっと! やめ……」



 最早本能に突き動かされるだけの存在と化した彼女は、再び私の顔を覗き込んでは呟いた。

 私と同じぐらいの背丈。

 私と同じぐらいの目線で。



「あたしは、あなたを選んだ。いつもぼーっと教室で、ひとり本を読んでいたあなたを」



 そうだ。あれからもう、2年以上も経とうとしている。この異界での半年間を加味したって、私は今でもあの日のことをありありと思い出せる。


「だから''敢えて''、もう一度あたしを選んで、選び直してほしい」


「……選び直す?」


 

 ふざけんな。

 ふざけんなよ──

 私は彼女を──ノラたんを思い切り突き飛ばした。



 微熱に浮かされた魔法使いは、大きく後方の枝上に後退りし、そのまま倒れずに持ち堪えた。

 流石師匠、体幹もしっかりしているようだ。間違いなく''これ''は、愛子なんかではない。


 私は胸の内に燃やした憎悪と共に、肩で息をしながら呟いた。



「……いい加減にしろよ」



 私は、断固として認めたくなかった。

 ''これ''が、愛子であることを──



 ノラたんはそのまま私から数メートルの位置で静止していた。

 先程とは打って変わって冷め切ったその表情。いくら何でも不気味すぎる。最終決戦の前夜に生じたバグか? それとも''寝返り''のプログラムか? どうせ''おっ始まった''最中には毒でもナイフでも突き刺すのだろう。私は訳が分からなくなった。こんな''イベント''に、一体どんな''意義''があるというのだ?

 私の頭の中、私の脳味噌、いっそのこと──今にも腐り切って、全部グチャグチャになって沸騰して、そのまま弾け飛んで、この世界ごと何もかもをぶっ飛ばして欲しい。


 ノラたんはその座標から、私に向かっていつもの儚げで機械的な声を発した。

 夜の冷気の上をスルッと滑る、雪上のそりのように流麗な声だった。



「……あたしは、''ぼ''っちゃんが欲しい」



 思わず、目頭を揉んだ。

 それでどうなる訳でもないが、今はそれ以外に出来ることがない気がした。



 ''無論、教えたことはない''。

 ''ぼ''の字の、破裂音、アクセント──



 こうしてそんな呼ばれ方をしてしまったら、元から不安定であったものが──本当に気が狂ってしまいそうだった。


 その教えたことのない呼び方で、この異世界における案内役、師匠、ある意味ではメンターであったそのキャラクターが、私に向かって呼びかけている。


 もしこれが、現実と虚構とを繋ぐリンクのひとつであるなら──

 私の頭は、本当にどうかしているに違いない。

 全く同じ顔を持つ別人。

 私の潜在意識の中の人。

 現実世界を映し出す''鏡''──


 私は観念して、頭の中にあるその''モヤモヤ''を選択しては、静かにその質問を投げかけてみた。



「止まった時間の中で、いつまでも永遠に続くキ◯ガイのお茶会。その章で初めて登場した帽子屋が、アリスに出した答えの存在しないなぞなぞは?」



 その帽子屋はかつてハートの女王の前で歌った曲のせいで、お茶会が開催された6時で時間を止められてしまったのだった。



「''カラスと書き物机はなぜ似ているの?''」



 そう、間違いなく──愛子はそう言って微笑んだ。勝ち誇ったように。耳元をくすぐる無邪気な笑い声。

 私は観念して、身体の力を少し抜いた。

 愛子は再び私の元へと近付いてきた。



「まるで、あたしたちの関係性みたいよね。初めて出会った頃の──''あの日、あの頃''のキラキラした瞬間で止まったまま──そのままで、実は何も進んじゃいない。何も成長しちゃいない。都合の悪い部分は見て見ぬ振りをしたまま……お互いに、本当のことは何も知らないまま」



 再び肩へと伸ばしてきたその手を、私は勢いよく振り払った。

 その目を、真っ直ぐに見据えながら。

 今度は、私が捕らえて離さない番だった。



「"本当のこと''って何? ずっと私たちは近い距離にいたし、危ないこともやったし、特別な体験だって十分共有してきたはずだけど……それでも、何か足りないって言うの? それに……私たちは、''最初から当たり前にそこにあった''んじゃないの? 常にふたつでひとつ。根源的な悪意インヒアレント・ヴァイスっていう絶望があるなら、その反対側に、そういう希望もあっていいはずだって、そう言った……そう言ってくれたよね? 愛子」



 愛子は少し斜め上を見つめながら、少し気の抜けた声で答えた。



「言ったよ。でも、それはただの自惚れだったんだよね。ちょっと小難しい言い回しをするなら、僭称せんしょうだったっていうこと」



 何となく予想は出来ていた答えだったが、私は二の句が継げなかった。

 沈黙が河のように流れた。

 私たちの間を隔てる、深い深い河の流れ。



「……いつか話した、あの''名言bot''の話に戻るんだけど、サルトルの『我々は自由の刑に処せられている』っていうやつ。まあ詳しい意味は分かんないんだけど多分、最初から本当の意味での''自由''なんてのは、この世界に存在しないってことなんじゃないかな? あたしたちがもし、初めからふたりでひとつの存在であるはずって望んでたなら、それは''自由''ではなくてただの''義務''になるからね」



「……''義務''じゃなくて、''運命''だよ」



「……笑える。''ぼ''っちゃんって、割とロマンチックだよね。まあ、そんな武闘派なのに、''不思議の国のアリス''とか言ってる時点でね……でも、それはただの修辞レトリックであり、言葉遊びだよ。結局、あたしたちはこうあるべきだっていう固定観念に囚われてただけで、お互いの本当のことは、知らないままでいたんだから」



 私はふと、自分の右腕を見やった。作業着を腕捲くりして露出した肌には、確かにあの日、''ノラたん''に癒してもらった傷痕があった。



「言葉遊びで誤魔化してんのはそっちだろ。だから、''本当のこと''って何だよ? 端的に言いなよ、端的に」



 すると途端に、愛子の眼差しが冷たくなった。

 何の生気も感じられない、完全なる虚無の視線。

 背筋に悪寒が走る。手足が痺れる。冷や汗が出てくる。

 私はただただそこに突っ立っている木偶の坊と化した。



「''ぼ''っちゃんが、まだあたしに''秘密''を全部打ち明けてないように、あたしにもまだ''秘密''がある。君は何にも、気付いてなかったみたいだけど……」



「……何なの? 具体的に言って」



「あたしが''あの時''、本当は体育教師に何をされたのか……」



 そう言って言葉を詰まらせた愛子を見て、私は自分自身の輪郭が溶けて消えてゆくのを感じた。

 目の前にある全てが、崩れ落ちてゆく──



「……嘘だ。カメラはずっと監視してたし、後で映像も全部、確認した。作戦は完璧だった。成功してた。勿論、危ない橋を渡らせて悪かったと思ってる。そんなはずない……そんな訳ないって……」



 頭蓋の奥からジンジン鳴り響く痛みと、心臓の音。全身の汗が夜風に冷えて微かな痛みに変わる。自分の発する声の音さえ不明瞭だ。

 私は今、本当にこの場所に存在しているのかそれさえ──



「……別に、いいよ。今になっては、どうでも。でも、勘違いしないで。致命的なダメージじゃない。もしかしたら、''ぼ''っちゃんにとっては、取るに足らない出来事かもしれない。それにあのクソ教師を追い払ってくれたのは確かだから、君には感謝してる。それは本当。ただ……そういう面もあるってだけ。物事には、何だって……」



 私はもう、その場に立っているだけで精一杯だった。

 今にも枝の上に倒れ込んで、そのままツリーから滑り落ちるて地面にまで落っこちてしまいそうだった。



「本当のあたしなんて、実際はこんなもんなの。君にとっての天使でもなければ、女神なんかでもない。ましてや、救世主なんかでもない。あたしも一生懸命それを演じて、今までそう振る舞ってきたのは悪かったけど……''ぼ''っちゃんがあまりに、あたしのことを見てくれなかったから……」



「……そんなの! 分かんないじゃんか! 私、馬鹿だからさ……頭、おかしいんだからさ……」



 枝の上に滴り落ちる大粒の水滴を見下ろしていると、声の震えが一段と大きくなっていった。

 息が上手く出来ない。

 それでも、何とか言葉を紡いで、吐き出してゆく他なかった。 

 今の私に、出来ることはそれだけだった。



「……私は、汚れてるから。君には、相応しくないから……育ってきた環境も違う。今、見ている景色だって、何もかも違う。そもそも、元から住んでいる世界が、違う。だから……私はあなたのことが真っ直ぐに見られなかった。あまりに眩し過ぎて、直視出来なかった。だから……私はもう、あなたの側には……」



「もう! だから! 何にも分かってない! そういうことが言いたいんじゃないんだよ! だから何で、もっとあたしを頼ってくれないんだよ! 一緒に乗り越えようとしてくれないんだよ!」



「……えっ?」



 ふと顔を上げると、愛子も大粒の涙で頬を濡らしていた。

 この表情も、初めて見るものだった。

 クシャクシャに歪んでいるのに、今までで一番、綺麗だった。



「あたしは君を選び直す! 君もあたしを選び直す! そうやってまた最初から! やり直したいんだよ! あたしは! 今度は綺麗な部分だけでなくて! 酸いも甘いも含めて全部! あたしは君のことを見つめるから! 君にもあたしのことを見てほしい! あたしももう、何も取り繕ったりしないから! ''最初から当たり前にそこにある''んなら尚更、今! 自分の手で、自分の意思で、''敢えて''掴み取るんだよ! 理屈も! 社会のルールも! 全部乗り越えて!」



 そう言って目の前で顔を歪めている彼女は、私が初めて出会う少女だった。

 どこまでも不器用で、人間臭くて。


 私は再び自分の右腕の傷痕を見た。

 きっと環境がどうであれ、元から私はきっと''こう''だったのだ。

 これ以上、この憎悪を色んなことの言い訳にするのは辞めようと思った。



「……そしたら、またあたしと一緒になってくれる? ''牡丹ぼたん''……」



 私は深く息を吸って、彼女に笑いかけた。



「うん……ありがとう」



 きっとこの子は、愛子は──馬鹿な私が知らなかっただけで、人並みにコンプレックスを抱いた、ただの17歳の少女だったのだ。

 自らのふがいなさを嘆いている暇などない。

 今、そしてこれから私に出来ることは、この少女を、魔法の師匠を、この世界で最後まで守り抜くことだ。これからは''狂戦士''でなく、気高き戦士として。


 私は愛子をギュッと抱き締めた。

 震える肩に手をかける。

 今、私たちは確かにひとつの同じ世界に位置していた。



「……''これ''をさっさと終わらせたら、約束どおりあの、ヘンテコな形の図書館で会おう。絶対に……」



 愛子は私の胸の中で静かに泣いている。



「うん……約束、絶対ね……」


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