最強のさんにん
『そこで、興味しんしんになったアリスは、うさぎのあとを追っかけて野原をよこぎって、それがしげみの下の、おっきなうさぎの穴にとびこむのを、ぎりぎりのところで見つけました』
『次の瞬間に、アリスもそのあとを追っかけてとびこみました。いったいぜんたいどうやってそこから出ようか、なんてことはちっとも考えなかったのです』
『うさぎの穴は、しばらくはトンネルみたいにまっすぐつづいて、それからいきなりズドンと下におりていました。それがすごくいきなりで、アリスがとまろうとか思うひまもあればこそ、気がつくとなにやら深い井戸みたいなところを落っこちているところでした』
(不思議の国のアリス/ルイス・キャロル著/山形浩生訳)
◆◇◆◇
''穴''が人を喰らうのを初めて直に見たとき、それは過去に言われたとおり''生き物''でしかないのだと瞬時に理解した。
その黒暗領域──中空に時折出現する漆黒のワープホールは異界よりの使者の死体をこの世界の何者よりも早く嗅ぎ当てるハイエナであり、極めて迅速かつ精密な動作で以て、それを捕食するのだ。
特定の地点で待ち構えるものと、餌を探して亜空間を彷徨い歩くもの。
「''汎次元生物''、か……」
そして咀嚼されながら嚥下される肉体──あの小さなボロアパートの一室──103号室へと送り出される。
私は自分の肉体がそうなるのを想像してみる。
まあ、別に構わないか。
自分が死んだ後のことなど知ったことではない。生きているこの最中でも、どうにも上手く出来ないことはあるのだから。
結局、私もアリスと一緒だ。
あの子は目の前にある''不思議''に、何でもかんでも飛び込んでいってしまうから。
''いったいぜんたいどうやってそこから出ようか''なんてことは、今まで一度も考えたことがない。
目の前に肉があれば喰らう。水があれば飲む。''穴''があれば飛び込む。ただそれだけだ。ただ、生きてゆくために……
自分が本当に、やりたいことのために。
「ここんとこ負け続きだからな……でも次はいけるぜ、牡丹ちゃん。あの2人、モリミーヤんとこの甲冑を着てる。あれの性能はマジだからな。ワームの性質にさえ気付けば、突破出来るだろ。別に速度は関係ねえし」
この前、立ち寄った馴染みの小さな町……
陸続きになった世界陸の南東部、モリミーヤの町で大量に仕入れた名産品のパンに齧り付きながら、永野が片目に充てた手の輪っかを除きながらそう呟いた。
輪っかは双眼鏡の役割を果たす。中々に汎用性の高い魔法だった。
町のドワーフたちは皆が皆、親切だった。
迫田の豚が言っていたとおりだ。挑戦者を歓迎してくれる町、シルク討伐を心より望んでいる、無辜の世界陸市民……村人は全員武装していながら、ひらすら開墾と農業に精を出している町。
私たちは彼らのように根は穏やかで、世界の平和を望んでいるような民族からの期待も背負っているのだった。
陽射し避けには格好の、背の高い移動樹が幾何学的に飾り付けている大きな葉の下で、私たちはその広い枝々の上に座りながら、お互いに遠くに望むビーチブの砂漠地帯を見つめていた。
私もまた、千切ったパンの最後の欠片を口の中へと放り投げては答える。
枝の地面にはバティオス地方で取れた、新鮮な湧き水の入ったコップ。
「……はい。いつ食っても美味いっすね、モリミーヤのパンは。''向こう''でたまに食ってた、お昼のテレビ番組とかで特集されてたやつの何百倍も美味いですよこれ」
「いや……そんな話は今、してねえ。聞け、まずお前は。人の話を。今回の''勝負''のことだよ」
「次、また貰いにいきましょう。やっぱ、あの魔法がかけられた''黄金の小麦畑''のおかげなんですかね?」
「……これ以上タカリに行ったら、俺らもう盗賊扱いになんじゃね?」
「大丈夫ですよ。私、村の英雄なんで」
「……そういう名誉をいちいち笠に着るのはなあ……」
「腹が減っては何も出来ませんからね。それに英雄なのは私だけなんで──''ぬらりひょん殺しのボッチャン''。''義賊の狂戦士ボッチャン''。それに……''抵抗組織の女王ノラたん''……」
「……あん時は、俺も雑魚の足止めぐらいはしてたぞ! 一応。それにもう、昔の話だろ」
「でも……なんか私のは違うんだよなあ。''発音''が……」
すると両目に充てがった2つの輪っかの向こう側で、重そうな甲冑を着込んだフルアーマー姿の二人組の男たちが──そんな大層な武装をしているのは、決まって私たちの世界からやって来た挑戦者だ──突如出現した、ビーチブ砂漠の巨大な''半透明ワーム''に襲われているところだった。
''半透明ワーム''は身体中の皮膚を炭素系メタ物質へと変化させることで光の屈折率を操作し、透明化するという能力を持つ。
ビーチブを渡る際には振動で彼らに気付かれないよう、「右に3、左に1」を基調とする砂漠闊歩を保つのが鉄則だが、どうやらそのフルアーマー二人組はそれを知らなかったようだ。
もしくは、映画や小説の「DUNE」を履修していなかったかのどちらかだろう。
「……あれって軍人ですか? それとも警官? 元の動きはいいのに甲冑のせいで……防御魔法をかけ過ぎてて単なる重りになってますね」
「あんなにゴテゴテ着飾ってちゃなー。''半透明ワーム''の左右の動きはよく見りゃ足元の振動と同調してる。それに視覚も持たないから、急に出くわしても砂漠闊歩さえ守れば何とかなるんだが……おい! そこで防御壁なんか張ってどうすんだよ! 甲冑があるだろ! おいおいもっと頑張れって……そんな無駄打ちしてたら魔力が切れるぞ……」
そして抵抗虚しく、二人の屈曲な男たちは装甲ごとワームの鞭のように撓る身体に打ち付けられ、意識のこと切れた躯と化した。
そして彼らの口に捉えられるより先に、中空に現れた''穴''が、彼らの死体を着の身着のまま丸呑みにして、またどこかへと消えた。
ある意味では植物連鎖の頂点に立つ、異端の存在な訳だ。あの''穴''たちは……
餌を横取りにされたワームは、そそくさと砂の海へと還っていた。きっと次は、挑戦者以外の獲物を狩るのだろう。
「南無……」
私たちが手の輪っかを閉じて両手を合わせていると、隣の枝から永野が1万ゴールドの金貨を投げてよこした。
「……ほらよ」
「あざーす」
「いい加減、そんな悪趣味なこと辞めなさい。''リュウ様''はそんなことしなかったわよ。」
気付けば背後にノラたん。
今ではこの世界のジャンヌ・ダルク。
いつもの魔法でピカピカになった黒の外套を翻し、白い絹地のワンピースは眩いばかりに煌めいている。
顔は、勿論私の知っている絶世の美女。
向こう側で、私を未だに待ってくれている人。
「はーい」
移動樹は大地に深く張った根を動かし、力強く一歩一歩、ゆっくりと確かに真昼の砂漠を進んでゆく。
私たちの、次の目的地へと。
◆◇◆◇
この世界に飛ばされてから、およそ半年が過ぎた。
ある意味では''穴''の中での生活は、快適かつエキサイティングだったということなのかもしれない。鍛錬に次ぐ鍛錬、謀略に次ぐ謀略、奇想に次ぐ奇想の日々──私たち二人は意外にも、このいかれた世界の中に確かな適性を見出していたのだ。
思えば軍人やヤクザ、政府のお偉いさん方になくて私たちにあるものといえば……それは弱者としての適性だった。''臆病さ''といってもいいだろう。彼らの持つ''傲慢さ''は、この世界で携帯するには命取りだった。
つまり、この世界の必勝法は、「時間をかけること」──たったそれだけだったのだ。
石橋を叩いて渡るような胆力。
モンスター、種族、動植物たち……そして各国の置かれた政治的状況、趨勢の観察。
それらを全て把握した上で「旧帝国」の敵陣を搦手で突破するには、半年もの歳月を費やすしかなかったのである。
いや、半年でも早急過ぎたのかもしれない。
それが、この世界の確かな法則だった。
私はクソ親父について考えを改めた。
あいつはもしかしたら、最短の道を歩んでいただけなのかもしれない。
「……じゃあ、旧帝国に攻め込むための包囲は概ね完成した。各チームへの伝令は私の''鳩''に運ばせてあるから明日にはいよいよ……''作戦決行''よ」
永野は全身の防具と剣を絹布で磨きながら、欠伸を噛み殺しながら答えた。
「……長かったな」
「……長すぎですよ、本当に」
私は未だに白い作業着を着たままだ。
ノラたんの魔法による''お風呂&洗濯タイム''の後、私たちは巨大なカンテラの吊るされたいつもの空間で話し合っていた。
我々3人……各地に散らばる抵抗組織を束ねる頭首たちによる、移動樹の一番大きく、一番高い場所に位置した枝に座りながらの最後の会議だ。
「いや、元はと言えばお前が猪突猛進で単身『旧帝国』に突っ込んで、速攻でとっ捕まっては大事になったからだろ。ノラちゃんが助けてくれたからよかったものの」
「……いや、もういいじゃないですかその話は。それにもう、昔の話ですよ」
各地で義賊のような動きをするようになったのは一見遠回りだったかもしれないが、結局、この''RPG''世界を征するにはそのルートしか存在しないのだった。
コツコツとしたレベル上げ。この世界の教養と訓戒を得ること。研鑽を積むこと。魔法と共に、戦い抜くこと──これも直線を好む勇猛果敢なヤクザや軍人たちには足りない忍耐力だ。
これを知ったのも全て、目の前に座っている案内人のノラたんのおかげだった。
移動樹は今、夜のビーチブを越えている。
漆黒の闇に漂う冷気は砂漠の獰猛な魔物たちを眠りにつかせ、唯一それを跳ね除けることが出来るこの大地の雄大な植生が、この血で血を洗う獣たちの狩り場を人知れず行進している。
ゆっくりと。
そして、じっくりと──
遠く彼方の空には、闇の中に巨大な肌色の大樹が霞んでいる。
人々からは移動する世界樹としてる知られるそれが、まさか私の同級生のつるつるな脛(羨ましい)だとは、この世界の住人たちは知る由もないのであった。
「ちょっと、この前狩りで獲った肉があるんで、焼きますね。ノラたんも、要る?」
私が立ち上がって魔法で火を起こす準備をすると、ノラたんはこちらをゆっくりと見上げて微笑んだ。
「ええ……今日は色々と魔法を併用して疲れたわ……誰かさんの代わりにね」
「うっさいわ」
私は下の枝々に降り立ち、そこに備蓄してあった水とモンスターたちの肉から特に新鮮そうなものを選び、空中に浮遊させては下から強火を充てがった。
雑メシの極意。
結局、どこの世界にいてもこうして血と骨を養っていく以外にないのだ。
生きてゆくためには。
砂漠の夜は静かに進行する。
様々な瘴気を身に纏いながら、私たちは移動樹の上でこの中世ファンタジー世界での最後の一夜を迎えようとしていた。




