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【最初から当たり前にそこにあったもの】



 ◆◇◆◇



 ……

 ……

 ……

 ……



 緑色に反射した光の筋が、視界の右端から左端へとゆっくり移動している。

 初夏の日の朝。少しだけ胸につかえたような温い空気が、歩幅に合わせてゆっくりと肺から吐き出される。

 太陽が照らし出した、広いイチョウの並木道。ミニチュア・ダックスフントを散歩させている老人の姿が遠くに見える。雉鳩きじばとの鳴き声が耳元をくすぐる。

 数日前に通過した梅雨前線が洗い流していった歩道のタイルは、未だに蒼い鈍色の湿度に覆われていた。

 その上をスニーカーで蹴り付け、踏みしめてゆく快い乾いた足音。アスファルトの公道に伸びるふたつの長い影。

 お揃いのナイロン製のジャージ生地が、シャカシャカと擦れる音がする。


 

「いやー、アツナツいね! これ、退院祝い! あのさー、''ジェリードッグ''のドラゴンってこれ、本当可愛く出来てるよねー」



 病棟から出てきた私を迎え入れたジャージ姿の愛子は、そのデフォルメされた竜のぬいぐるみを左手の先に吊るしていた。

 ロンドン生まれのその新進気鋭の''ぬい''メーカーによる一品は、つい数週間前に私がN駅前の寂れたゲームセンターで興味を示したものだ。高級品なのか、わざわざ箱に入った状態で、クレーンゲーム横のケースの中に大仰に陳列されていた。

 ──たかがぬいぐるみなのに、珍しい。

 何気なく呟いたその一言を、愛子はまたしても拡大解釈したという訳だった。



「可愛く思ってんなら、そんな首根っこのとこを雑に持つなよ。可哀想だろ。あと、別に無理しなくていいのに……いくら使ったの? これ」


「えっ? もちろん一発で''キメた''けど?」


「……違うよ。''メレケリ''でいくら使ったのよ?」


「……2万」


「……馬鹿じゃないの? でも……ありがと」




 S区を見下ろす丘の上に立つ、ネット上の口コミでは少しだけ評判の悪いその総合病院は、とある傷害事件を引き起こしたばかりの非行少女の治療を早急に済ませた後、それを吐き出してはまた次の人々を背後で吸い込んでいるところだった。

 この道の展望からは町がよく見通せる。目を凝らせば、駅へと急ぐ学生や勤め人の群れが点々と浮かび上がる。

 そんな平和の裏側でうごめいていた、害虫を一匹踏み潰し、押し退けては駆除した。

 今回はたったそれだけのことだった。


 私の両腕の中に抱き抱えられた、少し緑がかったドラゴンちゃんに一瞥をくれた後、愛子は真っ直ぐに前を見つめながら言った。


「あのさ……ありがとね、色々」


 私は何も言わず歩き続けた。

 今はそれ以外に、何も選択肢がない気がしたからだ。



 愛子は数ヶ月前から、とある体育教師に付き纏われていた。

 昨今の腑抜けた警察ポリはストーカー規制法の名目だけでは決定打に欠けるアクションしか取れず、大事に至る前に事前に手を打ったという訳だった。

 学校に監視カメラを仕掛けた上で、密室の中で正当防衛を狙った作戦はリスキーだったが、今後の抑止力として都の教育委員会へ証拠を提出し、マスコミへの具体的な情報流出を事前に防ぐという意味では致し方ないことだった。

 愛子もこうして、無事だった訳だし。

 

 これからは、きっと何事もなく、日々を送れるように──



「……だからさ、何というか……これからはもっと変装とかさ! しっかりしなよ。自衛の手段としてさ」


「要らないよ……強いて言えば、このダサいジャージがそうじゃん……お互いにさ。それにさあ……別にスーパーモデルとかじゃないんだし。まだ駈け出しなんだから」


「でも、確かに悪い虫……悪い害虫は湧いたじゃん。今、メイクだってしてるし。それにこの前、あの番組出てたじゃん。病室で観たよ」


「……メイクってのはおまじないなんだからさ、そりゃあ、したい時にはするよ。……それ、ネットのやつでしょ。あんなん誰も観てないよ。''ぼ''っちゃんにも今度してあげるよ、流行りのおまじないを」


「それに、もしこんなとこ見られたら、内申に響くだろ」


「ショービズは大学受験じゃねーんだよ」


「いや、''ショービズ''て……古い響き……」


「にしてもさー。結局、大丈夫だったの? ''ぼ''っちゃん、あれ……相手がまさか一流のジークンドーの使い手だったとは思わなかったじゃん。あんなハゲた冴えないおっさんなのに。チャウ・シンチーの映画じゃないんだから」


「……ジークンドーはブルース・リーだろ。いっつも寝てりゃ治んだからさ、形だけだよ。大丈夫。むしろヤブに診られて悪化したぐらいなんだから。あー、病院のベッドってなんであんな寝にくいんだろ。むしろ相手の心配してやんなよ」


「にしてもさー……もしかしてこっから、ワンチャン年少とか鑑別行ったりとかある?」


「……''ワンチャン''って悪い時に使うなよ……今頃、恵美子があっちこっち飛び回ってっから平気っしょ。それに完璧に、警察の方にも情状酌量の余地がどーたらって認められてんだし……今回は」


「はー。あんた! 少しは親に感謝しろよー」


「してるよ。カレーは不味いけど。だから、最近は自分で作ってんの」



 気付けば私たちは傾斜を降り、ふもとのバス停のところで立ち止まっていた。

 ここから最寄りの駅までは、歩いていけば更に40分ほどかかる。


 私は深く息を吸って、吐き出した。

 蝉の声が聞こえる。もうすぐ9時になる頃だ。

 私はドラゴンちゃんを抱えたまま、額に浮かんだ汗の玉を手の甲で拭う。


「……歩くか」


「おう」

 

 私たちは再び歩き出した。



 ◆◇◆◇


 

 都内の一戸建てにしては広々とした60坪ほどの敷地、2階建ての家。

 流石官僚様の一人娘。小さめの庭に生えた蒼い芝生をまたいで部屋に入ると、今日一日、両親不在の理想郷ユートピアが広がっている。


 互いにジャージからTシャツ、ショートパンツの部屋着に着替えた後、二階にある北向きの、少しだけ陽当りの悪い愛子の部屋へと遅れて入る。



 あまり流行りの女の子らしくない、極めてシンプルな内装──

 そこに増築されたラックというラックの中には、書籍からディスクまで含めて、2人がかりで掻き集めた、古今東西の文化カルチャー物質フィジカルが溢れ返っている。

 

 映画。

 音楽。

 文学。

 漫画。

 等々──


 それらは恐らく、私たちがこの世界──この外界との距離を測るために必要であり、この外界に対する得も言われぬ違和感を解消するために必要だったものだ。


 さながら、ジョリス・カルル=ユイスマンスが書いた「さかしま」のような部屋だった。

 私はフィギュアとぬいぐるみの生息する区域エリアに、新入りのドラゴンちゃんをそっと置いた。



「やべー。先にシャワー浴びりゃよかった」


「後でいいよ、そんなん」


「うん」



 愛子がやや小さめの赤いソファーの上に座っている。

 私もその上に重なる。

 愛子の膝の上は常に不安定だ。

 私は常に細心の注意を払って、そこに頭を乗せる。

 少しだけ汗ばんだ腿に頬を寄せて、横向きになる。

 この絶妙なバランス。



 28℃に設定された冷房の低い音。

 その冷気を部屋中に送るサーキュレーターの高い羽音。

 壁に掛けられた白いブラウスと紺色の

スカート。

 黒いカーテンの窓枠の向こう側で、静かに反響している蝉の声。



「……ちょっと下行くけど、アイス、食べる?」


「……うん」



 私たちは惹かれ合い、共鳴する。

 最初から当たり前にそこにあったように。

 ふたりで、ひとつの世界。

 ひとつだけの、ふたりの世界。



 ◆◇◆◇



 化粧というまじないを落としたばかりの顔。凛とした剥き出しの偶像イコン。私しか知らない素顔。

 いつものように、正面から両肩に手を回してみる。さり気ないつもりだが、自然と肩に不要な力がかかるの分かる。

 私の中の''熱い期待''のような鼓動が、胸の内で早鐘を打ち鳴らす。それを自覚する暇もなく、私の心と身体は、すぐに限界に達してしまう。

 切なさで、いっぱいになってしまう。

 そして溢れ出す。

 声にもならない声を押し殺しながら、必死に自分の中にある、その原因を探ってみる。

 分からない。

 分からないままだった。



「……なんで、泣いてるの?」



 重ね合わせた両手にこもる夏風邪に浮かされたような微熱が、全身に毒のように駆け巡るまでそう時間は掛からなかった。

 閉め切ったカーテンの隙間から射し込む細い光線が、部屋の中央に脱ぎ捨てられた部屋着へと忍び寄り、やがて私たちのいるベッドの上へと届く。



「……分かんない」



 私たちは今、思春の日々を生き急いでいる。きっと夏のせいだろう。

 私はもう一度、愛子の胸元にすがり付く。まるで最後の一回のように。これから、もう二度と会えなくなるかのように。


 私は生き急いだっていい。

 時計の針も追い越せないほどの速さで、この束の間の永遠の時間を測りたい。

 私と、愛子の間にある距離を測りたい。


 それを知って次はどうするのか。自分にも分からない。

 しかしそんな酷く脆い、硝子細工のような儚い望みに今、確かにこの手で触れている。

 必死に触れようとしている。


 こうして肌を重ねていても、私たちの間は未だに何か薄い膜のようなものに隔てられていて、側で息をする度に、私はそれを否応なしに自覚してしまう。


 この''熱い期待''は、それを超克し、打ち砕いてくれはしない。

 

 私たちは、最初から当たり前にそこにあったはずなのに。


 私のいる世界と、愛子のいる世界。

 それらの位相空間の溝がやがて軋轢あつれきとなり、私の精神にいつも暗い影を落としてしまう。

 


 こんなにも近くにあるのに──

 こんなにも遠い──



「今のあたしには、君が何を怖がってるのかが、分からない。それが悔しい。少しだけ……いっつも守られてばかりで、君に何も返してあげられない……分かってあげられないのが」


「……分からなくていい。これは私の問題だから……私だけで、乗り越えなくちゃいけない問題だから……ごめんね」



 人差し指でその頬から小さな顎にかけての輪郭をなぞると、愛子はどことなく寂しそうな表情でこちらを見上げた。



「あたしは、君が欲しがるものは全部欲しいんだよ。あたしは、''ぼ''っちゃんの全てを受け入れる女神なの? それとも''ぼ''っちゃんを産み出した悪魔? どっち?」



 私は愛子の胸元で静かに泣き続けた。

 このまま、ここではないどこかへと飛び立ってしまいたかった。



 …………

 …………

 …………

 …………



 …………

 …………

 …………

 …………

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