【彼女は】
◆◇◆◇
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「で、君はどんな作家に憧れてるの?」
窓の外には新緑の葉が生い茂る背の高い樹がある。オー・ヘンリーがこれを見たら何と言うだろう。生命に満ち満ちた有機体。初夏の陽射しを揺蕩う葉の一枚一枚に反射させている。
「こら! 現実逃避してないでこっち見てよ、門倉さん」
坂口さんの両の掌が、私の頬にそっと触れる。
温かい手。
本当は、私になんか触れてほしくないと思う。
本当は、私になんか構ってほしくないと思う。
私は汚れている。
育ってきた環境からしてそうだ。
なのにこの人は、いつも私を気にかけてくれる。
自分は有名人なのに、まるで何事もなかったかのように。
私に笑いかけてくる。
「折角、本の頁を開いて、''向こう側の世界''にダイブしてるんだから、ほっといてよ」
坂口さんは、艷やかなサイドテールを揺らしながらこちらを覗き込んでいる。
周りの生徒たちが、何がヒソヒソと話しているのが見えた。
「でもさ、君。授業中も含めて、朝からずーっと''向こう側''にいる訳じゃん。ちょっとは''こっち側の世界''のことも気にかけたら? だから……もう昼休みだから、ご飯でも食べに行こう!」
私は坂口さんに手を引かれて──
また屋上へと連れ出される。
◆◇◆◇
恐らく、それから数週間は経った気がする。
夏の陽射しが徐々に弱まってきて、どこからかカラスの鳴き声が聞こえてくる夕暮れ時。
屋上。
「……''インヒアレント・ヴァイス''だよ」
「……何? それ」
高く設置された塀にもたれかかっている私を、坂口さんは横から見上げている。
「トマス・ピンチョンの小説で、まあ……説明するのは難しいんだけど、''固有の瑕疵''とか、''根源的な悪意''って言われてる。要は、その物質や物体──もしかしたら人間そのものの中に、最初から埋め込まれている性質……もっと噛み砕いて言ったら、その人や物や土地が持ってる、''元々あるヤバい本質''とも言えるかもしんない」
坂口さんは尚も不思議そうにこちらを見上げている。
夕陽に照らし出されたその端正な顔立ちを見る度に、私は何故だか自分のことが恥ずかしくなり、思わず目を逸らしてしまう。
「その、''元々あるヤバい本質''がどうしたの?」
私は息を呑んで、こう答えた。
「''暴力''なんだよ、私の場合。それに、他者に対する度を越えた防衛欲求、加害欲求……クラスの皆さん、ご存知の通りね」
すると坂口さんは突然、大声で笑い出した。
「いいね! 私も根っこは一緒だよ! 今度、音田って子も紹介するね。きっと気が合うんじゃないかな」
私は、呆気に取られて呟いた。
「……合うの?」
「……合うよ! ほんとにちょっとずつだけど、私が君の世界を広げて進ぜよう」
坂口さんは髪をかき上げながらそう言った。
眩しくて、目を逸らしてしまいたかった。
「……何でそこまでしてくれるの? 頼んでもないのに……それに、自分が周りからどう見られるかとか、気になんない?」
坂口さんは立ち上がり、私の額を人差し指で押した。
一瞬、私は全身に電撃が走るのを感じた。
「''自分が周りからどう見られるか''──君がそんなこと言うのかね! はっはっはっ! 可笑しい! あのね、君は自分が思ってるほど、そこまで変わった人間でもないよ。変わった人間なんて、この世界には山程いる。というか、この世界の人間全てが皆、変わってる。まずはそれを知ることが、世界を知る、世界を広げるってことだと思うんだよね」
坂口さんは屋上階段口へと向かって歩き出した。
そして、未だ立ち止まったままの私に向かって、振り返ってこう言った。
「あとね、坂口さんじゃなくて、愛子でいいよー」
私は思わず走り出して、右手で彼女の肩に触れた。
そして胸のどこかに澱のように溜まっていた言葉たちが、一気に口をついて溢れ出した。
「……ルイス・キャロルは──『不思議の国のアリス』の物語を、最初はアリス・リデルっていう小さな女の子の友達のために話してた。即興で。それを後に小説としてまとめたの……まあ、ロリコンなんだけど……そういう……頭の中にあるイメージを言葉として繋いで、物語に昇華させる、作家のそういう能力に憧れてる。私の頭の中はいつも憎しみばかりだから。それが出来れば、この憎しみたちを全部まっさらに、消し去ってしまえると思ったから……でも、気が付いたんだ。これだけは自分には、もうどうにもなんないって──私の頭の中には、常に思弁が渦巻いてる。でも今は、憎しみもキラキラした幻想も全部含めて、何か物語を紡いでみたい。そしてそれを、誰かに聞かせたい。読ませたい。だから、今は小説を書くのに憧れてる……まだ、一行も書けてないけど。それに……物語の語り部ってのは、最古の職業でもあるからさ」
彼女は笑った。
「なーんだ! やっと言えたか! 自分の好きなものについて! じゃあ、記念にまたあのハンバーガー屋、行きますか!」
私たちは、手を繋いで歩いていった。
私はこの時、確かに思ったのだ。
私は自分の物語を、いつかこの人に読んで貰いたいと──
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