あの娘私が世界救ったらどんな顔するだろう
車はやがて人混みから遠ざかり、かつて戦時中に使われたというトンネルを潜っては、郊外の山路を走行していた。
私は関東圏にもこんな場所があったのだと感心した。失われた歴史の暗部。そこには微かな郷愁を感じずにはいられない。窓を覗けば、夜空の星が私達のゆく道を照らしている──
「牡丹さん、現実逃避してないで聞いてくださいよ」
緩やかに閉じた瞼の暗闇の向こうから、岡崎のそんな声が聞こえてきた。
あくまで音が聞こえてきただけである。
今の私の脳味噌は、それを知覚する状態になかった。
「うっさい。疲れた。頭痛い。寝る。死ね」
「……まだ死にませんよ。これから向こう着いたらやること山程あるんですから……おやすみなさい」
……
……
……
……
「……牡丹さん、牡丹さん! 着きましたよ」
目を開けると、人里離れた山の中──先程の町並みを見下ろす小高い丘の上。
吉松組の2次団体のひとつである中田組の堅牢な構えの組事務所──後に気付いたことだが、高さ5メートルはある外壁はよく見ると所々が剥がれ落ちており、歩み寄るほどにその実、貧相な印象へと変わった──その建物が遠くに立ち現れた。
夜風にそよぐ周囲の木立がそれに静謐な雰囲気を与え、私たち以外には生き物は鼠も含めて一匹もいないような、完全なる隔離空間だった。
「……なんか懐かしいな。多分、初めて来るんだけど」
茂みの中に強引に駐車したアルファードをまるで乗り捨てたかのように脱出し、私たちは岡崎を先頭に、暗闇の中に密集する草葉や枝々をミシミシと手で掻き分けながら邁進していた。
「確か幼少期に、龍太郎様と来られたことがあると思います。その頃、俺は見張り番でした」
と岡崎が静かに答えた。
私の脳味噌は''龍太郎様''という単語をガン無視しながらも、辛うじて稼働を続けた。
「……ああ、ジャージ着た住み込みの見習いってやつ? 私、前から思ってたんだけど。ヤクザって最初、みんなジャージ着て始まるじゃん? そんでどんどん出世してって高級なスーツ着出して、最後に会長とかまで登り詰めたら、またジャージに戻るんだよね。ジャージに始まりジャージに終わる。あれ、何で?」
「……牡丹さん。ここまで来れば奴等の感知から逃れられます。事務所には親分の手による''結界''が張られてますから、取り敢えずは一安心です」
小野が後方から声を掛けてくる。
それはどうせ、さっき岡崎と新盾から仕入れた情報だろ、門外漢のアホは黙っとけボケと返答する前に、この緊急事態の中で見落としていた、とある疑問点と対峙した。
「……いや、感知って何? 私と愛子の居場所を探ったり、あのアパートの清掃業について他言した奴を探し当てたり出来るの?」
どこぞの女子高生による''人力エンコ''の餌食となった、哀れな新盾が後方の暗闇のどこかしらから応答した。
「大方、その見立てであってます。エルフの使う呪文の一種です。まだ解明されていないことばかりですが、恐らくは他者の頭部の血中濃度を探知したり、遠隔操作したりするものと思われます。''こっち側''の世界の、''科学''に無理矢理当て嵌めるのだとしたら」
「私の頭の中に巡ってる血を、遠く向こうから監視していると。なら、いつ私はその陥穽にハマったの……ああ、あのアパートか」
「そうです」
「そうです、じゃねーよクソ。だから愛子が私の''アキレス腱''だってバレてんのか。クソクソクソクソクソクソクソ」
「あのアパート……通称''異世界アパート''の事を少しでも他言した者は──牡丹さんの前任だった松本ですね──原因不明の事故によって頭部を酷く損傷し、死亡しています。まあ、そういうことですね」
「……まだ爆弾が仕込まれてたとかなら理解出来るけど、約束を破ったら、どこにいようがその瞬間に"頭をパッカーン''されてしまうと……」
「そうですね」
「それが、呪文。それが、魔法」
「そうです」
「……じゃあ、我々地球人類なんかに、勝ち目なんかある訳ないじゃないですか。何なんですか。やめてくださいよ。そんなこちらの理屈の通用しない、おっかない道理が支配する世界にこんな、か弱い女子高生と……うだつの上がらない劇団員を、放り入れようとするのは」
「……自分の見解では、ヤクザの小指を自力で噛み千切り、口腔の組織をズダボロにさせた後、一眠りしたらほぼほぼ完治し、今ではすっかりケロッとしている牡丹さんは……客観的にみて、とてもじゃないですがか弱い女子高生とは言えないですし、というかもう、''普通の人間''とも呼べない領域にいると思います……まあ、いいや。後は親分に説明してもらいましょう」
気付けば、その親分お手製の''結界''が張られているという巨大な黒の門扉が──
私たちの目前に、荘厳と立ちはだかっていた。
◆◇◆◇
「おう牡丹ちゃん、久し振りやんけ! また背、伸びたんちゃうか?」
数点のソファーと観葉植物がある以外には閑散としたエントランスに、迫田さんの大声が響く。
そのわざとらしい関西、もしくは河内のアクセントは、この極限状態においては煩わしい他なかった。
「……お久しぶりです。1ミリ足りとも伸び縮みしちゃいないです。中肉中背、顔面偏差値も中の中でやらせてもろてますー。牡丹ですー」
吉松組2次団体、中田組の組長──
そして、''夢幻荘''の''元''管理人である迫田さんは、初老のダルマ体型に如何にも高級そうなスーツを着込み、ゴツゴツとした指輪を嵌めた手でこちらを手招きした。
左右に複数人の屈強な護衛を引き連れて。
毛穴ひとつ見当たらない程に徹底して刈り込まれた後頭部……足早に中央会議室へと進んでゆく。
喋り好きにしては機敏なその動きが、ことの緊迫感を伺わせる。
「おい! 新ちゃんにエンコ持ってき。前に冷凍したん何かあるやろ。簡単な回復の呪文でくっつくで」
新盾が列を外れ、岡崎と小野がその後に続いた。薄暗く濁ったリノリウムの床をコツコツと革靴が叩く。
すると私は自分の心臓の音を聞いた。
速くもなく、遅くもなかった。
「流石やね、牡丹ちゃん。去年は何度も校門の前で車張ってたんやけど、毎回フラれてんな。どう? 何か考え直したりした?」
「しないです」
「せやんな! そんなキッパリしたとこが好きやねん」
かつて我がS校は反社会勢力のファームだった時期がある。
といっても遥か昔の話、過去の遺産でしかない。ヤンキーが絶滅した今、この世の汚穢の流れはむしろ聖職者の側に流れている。
「元号変わってから唯一やで。ワシらがわざわざ車出したんは」
そんなこんなで会議室へ到着し、ドアを開けると既に永野がそこにいた。
涙目で、複数の舎弟に囲まれてソファーに座っている。ブルブルと震えながら。
「……牡丹ちゃん」
私を見上げるその目には、既に生気が失われていた。
流石に不憫に思った。所詮私たちは陳腐な陰謀に巻き込まれただけの被害者だ。低きに流れていっただけの水だ。もう、どうしようもない。私は諦念と悲観主義の向こう側にある救いに今にも手が届きそうだった。
「じゃ、始めよか」
迫田さんは、長方形の黒光りしたテーブルの向こう側に座り──何故、こうも''黒''ばかりなのだろうと思う──私たちは組長の護衛や組員の皆様に囲まれて座った。これまた黒光りした、物々しい物体の上へと鎮座ましまして……
「じゃ、担当直入に言うんやけど、ある呪文を取ってきてほしいんや。時間巻き戻せるやつ。そうすれば、こっちの世界の被害は全部チャラやから。この''多元宇宙''は分岐して、何事もなかったそれまでの平穏が取り戻せるっちゅう訳やね、多分」
迫田さんは対して笑いもせず、対して怒りもせずにそう言った。
今日一日の疲労感が、この好々爺の照り返すようなスキンヘッドの上に微かな脂汗として滲み出ていた。
「それは……''ノストラダムスの大予言''は正確には回避された訳ではなく、私たち自身がそれが起こらなかった別の宇宙に移動した──みたいなオカルトですか?」
「うーん……まあ、そうやね多分」
「……呪文を、取ってくるというのはどういうことなんですか?」
迫田さんは、大きく仰け反りながら答えた。
「まあな、向こうの世界で呪文を会得する、魔法を覚えるいうんは、頭ん中に''術式''を植え付けることをいうんや。ワシらにはとてもじゃないが数値化も言語化も出来ない、識閾下の、尚且つ形而上の概念いうんかな。それを心と身体で覚えた時、初めて世間一般でいうところの、呪文っちゅうもんが口から言葉として飛び出る訳やね。まあ……そういうことなんでよろしく」
「……具体的には向こうで、何をすればその呪文は手に入るんですか?」
「知らん。ワシ2回ぐらいしか103号室は行ったことないし。視察で。てかおっかのうて、すぐに''穴''潜って帰ったわあんなとこ。そら一瞬で、どれこれも肉塊になりますわな」
迫田さんは一瞬、懐から煙草を取り出すような仕草を見せては──思い留まった。
横から永野が震える声で、恐る恐る尋ねた。
「……整理すると……」
「いや? 別に整理せんでええけど?」
すると哀れな45歳児は凍りついたように石化し、部屋の斜め上の虚空を黙視し始めた。
私は迫田さんに言った。
「……すみません。まだ私は全容を聞かされてないので、続けさせてください」
「なんやほうかいな。じゃ、頼むわ」
暫し沈黙の時が流れた後──
永野はゆっくりと慎重に喋り始めた。
「……えっと。まず、吉松組様、とりわけ中田組様は、国の中枢にも世界にも内緒で、''穴''の管理をする''組織''の下請けをしていて、''報酬''の配分などで旨味を得ていたと……そしたら既に''穴''の向こう側から──」
この導入部分は既に聞いた情報だったので、クラシックの退屈な前奏部分のように、私の脳味噌はそれを自然と聞き流していた。
「──それで、この門倉さんのお父さんは''向こう側''から侵入してきたモンスターたちを止めるべく……''モンスター''というのは''向こう''にいる生命体の総称なんですが、その擬態した''生物''の正体を突き止め、''こちら側''への侵略を阻止するべく、駆逐ないしは和平条約締結のため右往左往していたが、交渉は決裂。既に攻略済みの101号室、102号室に続いて……103号室を制圧するため、奴等打倒の''報酬''を得る任務のため飛び込んだと──」
「まあ、ひとつ注釈を入れるとすると、別に上の''組織''も下の''中田組''も一枚岩やないってことやね。''上''の連中でもエルフやドワーフ、ゴブリンとよろしゅうやっとんのもおる。ただワシらは昔気質というか、全ては均衡や思てるから。"こっち側''へライン踏み越えてくんのは入植者の横暴よ。まあ所謂、『余所者から町を守るいいヤクザ』の現代的な拡張版やね、ワシらは。そういう意味では、一杯食わされた側なんやけども。情けないことに──''上''の、''組織''の、ケツモチ担当しとる''政府''の連中に。今やあっちは、''異世界連合軍''になりつつあるんやないかな……ごめん長なったわ。続けて」
「……はい。それで、この子のお父さんは103号室の世界で行方不明になって……いよいよ奴等の''侵攻''は激化してきたと、どうも理屈はよく分からないが、この子を……''父娘の縁''のためなのか、門倉牡丹を連中は狙っていると。それで僕らは、これ以上、現実世界に被害をもたらさないために、今すぐ''向こう側''に飛び立つ必要があると──今現在、"夢幻荘''は当然奴等に包囲されているから、こっちの組員がかつて持ち帰った唯一無二の''報酬''、秘術の''呪文''で、僕らを''穴''を通らずとも向こう側''に飛ばすと──」
再び、暫しの沈黙──
迫田さんは上機嫌に笑い出した。
「……なんや! 完璧な要約やん! 君、中々現代文得意やで! それと限られた時間の中での情報の取捨選択、脳内処理能力やな! 君もうちからの借金分、しっかり働くんやで!」
私も以前と比べてある程度は整理整頓された頭の中で、今、自分がやるべきことと、やりたいことの両方を導き出した。
そう時間はかからなかった。
「昔気質の、『余所者から町を守るいいヤクザ』って言っても、この町どころかこの国を、この世界を全然守れてないんですよね? 要は。かつて目先の利益に飛びついたばっかりに。そんで、そのケツ拭きを私たちにやれと」
「はは! 言うやんけ牡丹ちゃん! やっぱ君は最高やな!」
「それで、他の''清掃員''、''挑戦者''──つまり''道具''は私の父も含めて殆ど消えたから、藁にもすがる思いで私たちに泣きついたんですよね? 自分は、何もしないで。保険のつもりで清掃員に勧誘しておいた、自分のお気に入りの''挑戦者''の娘に。なのに何で、そんな虚勢張って、余裕ぶっていられるんですか? やっぱ、''メンツ''なんですか?」
「……牡丹ちゃん、君は''龍ちゃん''と同じ、''狂戦士''の血を引いてるんやで? ''向こうの世界''の奴等が君を探しとるのも、今や上の''組織''の連中が君を狙っとるのも、全部そのせいなんやで?」
「あの、すみません。申し訳ないんですけど、そんなこと言われても別に、私は良心の呵責や罪悪感なんかに苛まれたりしないんで。てかぶっちゃけ、何から何まで全部間違ってると思うんですよ。ヤクザの人って、今まではあくまで持ちつ持たれつの共存関係でいればいいかなって思ってたけど、もう、いいっすわ。この件を最後に、縁を切ります。今までありがとうございました」
会議室の空気がピリピリとした緊迫感に包まれた。
隣で永野がまたしてもオロオロとした目でこちらを見ている。
「……やっぱええのう、牡丹ちゃんは。ワシ、''JK''にこうして面と向かって啖呵を切られんのは初めて……」
「あっ、その単語使うの辞めてもらえます? 豚みたいな男たちが少女を性的に搾取する時の言葉なんで」
勿論、愛子の受け売りだった、
迫田さんはゆっくりと語り出した。
「……牡丹ちゃんなあ、君は今時の若者らしい、如何にも陰湿なグレ方しよんなあ。やから今じゃあ、巷で半グレみたいなのがのさばんねんなあ」
迫田さんは急に背筋を伸ばし、今までとは違った静かなトーンで話を再開した。
「要は自分、今まで正しくグレてこんかったんちゃうの? 正しく怒って、正しく悲しんでこんかったんやろ? やから今、そんな『宙ぶらりんな立ち位置』からこうして物申すようになったんやで?」
「『宙ぶらりん』なのはお互い様でしょ。でも、私は今さっき決めました。もう、私は降ります。『法律の内側で下劣に生きるよりも、法律の外側で誠実に生きる』なんてのは、単なる青臭い幻想だと、たった今、分かりました。私はこれからの人生、『法律の内側で誠実に生きる』ように出来るだけ努力します。今はこの場にいないけど、小野ちゃんに聞かせてやりたいです。これが、私が今までやってきた行いの贖罪と、周りの人間に対する''仁義''です。私は、もう降ります」
すると左右の護衛が懐から銃を取り出して構えた──
が、私は両手を挙げて冷静に対応した。
「落ち着いて、『この件を最後に』っつったでしょ。やるよ。やります。ただし動機は……というか優先順位は、こう変更されます」
私は迫田さんの目をじっくりと覗き込みながら続けた。
「クソ親父を見付け出して、ついでにその呪文を取ってくる、必ず。二兎を追って、2つの報酬を獲得する」
迫田さんは盛大に吹き出した。
ダルマの巨体がソファーの上で、勢いよく左右に揺れ動いた。
「はっはっは! ''龍ちゃん''がまだ生きてると思ってんのかいな?」
「生きてるよ、絶対」
護衛が銃をしまっているのが見える。
私は自分の頭が今、何を考え何を見据えているのか、はっきりと理解していた。
視界良好だ。
''遥か未来までだって見渡せる''。
「……根拠はなんやねん」
「……そりゃ、''狂戦士''の血ですよ」
迫田さんは吹き出した。
「……ええよ。ほな、頼むわ。これで綺麗さっぱり、''最後''にしようや」
「……それともう一つだけ、お願いがあります」
「……なんや?」
私は肩の荷が降りた思いで、こう答えた。
「お風呂入らせてください。どうせ''向こう''に行ったら、しばらくは入れないでしょうから。そのあと少し……いや、長電話する時間も」
◆◇◆◇
「んー。何かよく分かんないけど、じゃあ取り敢えず頑張ってー。でも凄い話だねそれ! 門倉家は、親子揃って''穴''に導かれてたんだ! まさか、''ぼ''っちゃんもだなんてさ!」
ジャグジーと、口からお湯を吐き続けるライオン付きの大浴場から上がって──
用意されていた着替え──耐久性に優れた''夢幻荘''での真っ白い作業服に着替えた後、私は脱衣所で愛子とスマホ越しに話をしていた。
ドライヤーでパサついた髪を乾かしながら。
胸の奥で鳴り続ける、確かなざわめきを抑えながら。
勿論、迫田の豚の''結界''の中ではあるが、念には念を──
要所要所に嘘を交えながら話して、何とか''頭パッカーン''は免れたようだった。
所詮は遠隔操作の''呪い''ということで、あの''夢幻荘''のことさえ他言しなければ大丈夫──その精度はそこまで高くはないということだろうか? 適当な嘘を混ぜて取り繕った。
死体の処理については、言わなかった。
いや──言えなかった。
「いやー、そっちのお風呂も凄いけど、こっちのホテルも凄いのよ。なんてったってアメニテイーがさ……」
愛子は頭にハンドタオルを巻いたまま、豪勢なツインベッドの中央部分で胡座をかきながら、まるで何事もなかったかのようにこちら側へと笑いかけてくる。
黒くて艷やかな髪の束の先が、画面の向こうで微かに揺れている。
私は本当の意味で、再び''向こう側''へと戻れるのだろうか。
自分に、その資格があるのだろうか。
「お前、やっぱボサボサだな頭。だから、なんで洗う前に梳かさないんだよ」
「いや……ごめん」
広々とした洗面所の鏡。そこに映る自分のやつれた顔を見る。
違う。
その資格を今から取り戻すのだ。
「あのさ……まあ、うちの家族とか、音田とかクラスの連中は運良く大体無事だったけど、その、''ぼ''っちゃんがその魔法で時間を巻き戻したとして、被害に合った人らは生き返る? 訳じゃん。その世界は」
「……うん」
「……そしたら、うちらはまたちゃんと出会えるの? その、''時間を巻き戻した後の新しい世界''では」
「……分かんない。何か、自分でもノリでやってやらあ! って感じで売り言葉に買い言葉で受け取っちゃったけど、全てが曖昧模糊としてるよね……そもそも、''向こう''に飛び込んで何から始めりゃいいのかも分かんないし」
「……でも、時間の流れがこっちと違うから、明日の朝までには余裕で終わるんでしょ? 前にニュースで観たよ。数ヶ月冒険したってへっちゃらって」
「……うん、でも不安だよ」
「大丈夫だよ、''狂戦士''……父親譲りの……ぷぷぷぷぷぷぷぷぷ」
愛子は含み笑いをしながら言った。
画面越しにその顔を見ていると、何だか少しずつ落ち着いてきた。
「何だよ!」
「はー! 何はともあれ! ''ぼ''っちゃんがこうして''全部''、話してくれてよかったー!」
愛子はそう叫ぶと、フカフカの白いシーツの上に豪快に倒れ込んだ。
私はドライヤーを止めて、その画面をじっと見つめていた。
出来れば、このまま永遠にこうしていたかった。
本当はまだ、''全部''は話せていない。
だからその''全部''を打ち明けるために、私は一度、旅に出なければならない。
「……ごめん。愛子を、どうしても''こっち側''に巻き込みたくなかった。あのさ……私のせいで、というか私とクソ親父のせいで……もう10万人近く死んじゃったみたいだし……」
「はははは! そうだよね、全く。でもね! 不謹慎極まりないんだけど、今は、その喜びの方がでかい! ''ぼ''っちゃんが遂に、隠し事を全部話してくれたってことの方が! これ、正直な気持ち!」
そして、私も釣られて笑ってしまった。
いつまでも笑い続けた。
私たちはきっと、ずっとこのままだ。
たとえこの宇宙を、丸ごと塗り替えるようなことになっても。
私にはその確信がある。
イカれていると思うならそう思えばいい。
この世界なんかよりももっと、遥かに大切なものを、私たちは既に手にしているのだから。
今更、何も怖いものなどない。
「じゃあ、何かよく分かんないけど、全部責任取ってこいよ。今まであたしについてきた嘘の分と、自分についてきた嘘の分。あたしは、''ぼ''っちゃんなら出来るって信じてるからさ」
「……頭おかしいよ、愛子」
「……どっちがだよ!」
「……うん。そしたらさ、このクソ面倒な戯言に全部ケリ付けたらさ、また隣にいられる?」
「おう!」
「……ありがとう」
私は、微かに目に浮かんだ涙の切れ端を手で拭った。
「もっかい言うけど! あたしは、''ぼ''っちゃんのこと信じてるからさ」
「うん……本当に、ありがとう。じゃあ……」
「……あとさ、言い忘れてたけど」
「え、何?」
「……小説書けよ」
「……ああ……」
完全に、忘れていた。
今や忘却の彼方にある、かつての私の夢の一部分だ。
「あん時、''ぼ''っちゃんクラスで一人きりで本ばっか読んでた時、あんだけ言ってたじゃん! この夢は本当に心を開いた人にしか言ってないって。ルイス・キャロルがどうとかさー。あんだけ熱く語ってたのに」
「……完全に、忘れてた。てか、今いいとこで電話終われる感じだったのに。なんか……」
「なんか……何だよ!」
「……まあ、いいや」
「じゃあさ、全部ケジメ付けたら、前に言ってた、あの図書館行こうよ! そこで小説見てやるからさ。それに名著に触れればインスピレーションも湧くでしょ」
「ええー。確かあれ、郊外じゃん。遠いよ」
「でも、変な形で面白いんだよ!ほら!」
すると愛子は、ホテル側から至急されたらしいノートPCでその外観を見せてきた。
M.S.市──駅前の図書館。
確かに変な形の建物だ。
白い長方形に楕円形の窓がくり抜かれた、内装は近未来的な図書館。
私は自分の運命の全てに決着を付けて──
早く、''ここ''に辿り着きたいと思った。
「じゃあ、またね」
愛子がそう微笑んできた時には、私の視界は涙で滲んで、殆ど何も見えなくなっていた。
「……うん……ちょっと時間かかるかもしれないけど、必ず……必ず、戻るから……またね」
そうして私たちは通信を切った。
それぞれの世界と向き合うために。
そして、またいつか同じ世界で再会するために。




