まり
「どうしてお前がその絵を持ってるんだ?」
原野が普段口をきいてくれない娘に話しかけたのは、純粋に疑問を持ったからだ。
イラストを額にいれていた娘は、むっとした顔で原野を見た。今年、高校三年生で、ついこの間十八歳になった娘は、この三年近く父親の原野とまともに話さない。大学進学についても、原野には妻経由で伝わってきた。大学附属高校に通っている娘は、成績も生活態度もいいので、大学にそのまま進めるそうだ。
娘はリビングのソファからぱっと降りて、ローテーブルにひろげた道具をかき集める。はさみやファイルなどが散らばっていた。「お父さんには関係ないでしょ。アイドルとかきらいじゃん」
「それはアイドルと関係あるのか」
それも、純粋な疑問からだったのだが、娘は尚更むっとしたらしい。ぷいと顔を背け、小走りに部屋へ向かっていった。
キッチンから、妻が顔をのぞかせる。苦笑いしていた。「また怒らせたの?」
「よくわからないよ。……あの子がすきなアイドル、知ってるかい?」
ローテーブルには糊がついていたらしく、妻が拭いている。リモコンをとりあげ、TVを点けると、ニュースが流れはじめた。食卓に着いた原野は、斜向かいでとんかつをかじっている娘へいう。
「なあ、さっきの絵、父さん見たことあるんだ」
「は?」
娘が鋭く、こちらを睨んだ。「そんなことある訳ない。あれはあたしのだもん」
「お前が描いた絵なのか?」
娘は小学生の頃、漫画家になりたいといっていた。その頃には、誕生日になると色鉛筆や、塗り絵帳などを買ってあげたものだ。
娘ははらをたてたらしく、険しい声でいう。「違う。……友達にもらった」
「学校の子か?」
「だから、お父さんには関係ないでしょ。お父さん、漫画とかアニメとか、わからないんだし、絵の区別もつかないんじゃない」
「そうかもしれないけど、さっきの絵は覚えてるよ。お客さんの家にあったんだ」
原野はとんかつにソースをかける。「お前、よそで喋っちゃだめだぞ。ほんとはお前にいうのもだめなんだけどな。柊さんの娘さんだよ、ほら……あ、丁度やってる」
TVを示す。近所で起こった事件のことをやっていた。高齢の男性が殺され、家族が逮捕されたのだ。
「大人しい、いいひとだったんだけどなあ。いつも挨拶してくれて。あんなことするなんて思わなかったよ」
娘は不審げに眉を寄せた。しばらくしていう。
「ほんとうに? 本当に同じ絵だった?」
原野が頷くと、娘はまっさおになって立ち上がった。「警察に行かなくちゃ。警察に……」
娘の話すことはよくわからず、原野夫妻は戸惑っているだけだった。が、娘がしきりと、警察に行かなくてはならない、説明しなくてはならないというので、食事も途中だというのに一家ででかけた。娘は額にいれた絵を持っていたが、あれとは別のものだった。
向かったのは、一番近い警察署で、出てきた警察官に娘が同じ話をはじめた。
自分は殺人犯とされている女性の友達で、犯行が行われた時刻に彼女とずっと話していたから、彼女が犯人というのはありえない、と。
警察官は娘の話をひととおり聴くと、不審顔で出ていき、別の警察官がやってきた。娘は数人の警察官に同じ話を繰り返し、話す度に周囲が慌ただしくなっていった。眼鏡の警察官が来て、娘はケータイを操作して、その警察官になにかを見せた。「このアカウントです。こっちの、『雷雷』っていうのがわたしです。メッセージのやりとりはこれで……」
署内は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
原野はいまいち、状況を把握できない。娘が話すのを頭の隅で捉えながら、考えていたのは別のことだった。
ふた月少し前のことだ。家電量販店に勤めている原野は、その二週間前に納品したデスクトップについて、お客さんから電話をもらった。買っていったのは五十代の女性で、設置は息子にしてもらえるからといっていたことを原野は覚えていた。
女性は非常に丁寧な調子で、今朝パソコンが動かなくなってしまったので、見に来てもらえませんか、といった。原野は、彼女が追加料金を払って保障プランにはいっていることを確認し、部下と一緒にその家へ向かった。
原野が暮らしているのは、住宅街の比較的あたらしい区画だ。そのお客さんの家は、街のなかでも相当古い区画にあった。戦前の町並みがそっくりそのまま残っている場所だ。原野はその辺りを、毎日のように通る。通勤ルートなのだ。
その古い区画のなかでも、特に古くさいのが、お客さん――柊さんの家だった。
大きな門を潜り、きちんと手入れされた前庭を通って辿り着いた建物には、インターホンさえなく、玄関扉を叩いて挨拶すると、奥からあの女性がとんできた。パソコンは娘の部屋にあります、という。
デスクトップが設置されているのは、かなり奥まったところにある部屋らしい。そこまで歩かされた。廊下はぎしぎしと軋み、古い家が歪んでいるのか、途中、扉が最後の最後まで閉まっていない部屋もあった。原野と部下はそれを見ないようにして、埃っぽい空気にたまに咳払いしていた。どこかの窓が開いているのか、やけに風が吹き込む。
障子を開け放した部屋には、大きな本棚があって、カラフルなペンや色鉛筆、インクなどが大量に並べてあった。ぽんと、絵が数枚置いてある。随分上手だなと、原野はそれを見た時に思った。立派なデスクにはこの間納品したデスクトップ、それから、スキャナやプリンターなどがある。部屋の隅に何故か車椅子があって、ブランケットがたたんで置かれ、その上に花のはいったかごが飾られている。
その部屋には、金髪の女性が居た。三十代はじめくらい、大振りな眼鏡をかけていて、体のラインのわからない、野暮ったい服装だ。女性にしては大柄で、少々ぽっちゃりしているが、不格好という程でもない。
その顔を見て、いつも自転車で通勤する時に、挨拶してくれるひとだと気付いた。金髪の女性は、毎朝、門の前を掃除している。
あちらも気付いたみたいで、緊張気味だった顔がほころんだ。
デスクトップは故障していたのではなかった。なにかの拍子に、コードがぬけてしまったのだ。部下がそれを見付け、つなぎなおすと、正常に起動した。「少しだけ、甘かったみたいですね。もっと奥までいれてしまっても大丈夫ですよ」
「そうなんですか? 兄にしてもらったので、わからなくて……すみません。ありがとうございます、こんなはやくに来てもらって」
金髪の女性は恐縮しきりだった。
奥さんが、缶コーヒーとお菓子を持って戻ってくる。「わざわざご足労戴いて……まりちゃん、きちんとお礼申し上げた?」
「うん、お母さん」
まり、というらしい、金髪の女性は、こどもっぽく笑った。
それ以降、たまにだが、通勤の時に挨拶以外でも言葉を交わすことがあった。まりは三兄弟で、上に兄、下に妹が居る。兄が電化製品の配線なんかは全部してくれるけど、お仕事が忙しいのでこの間は原野さんに来てもらったんです、と、困ったような顔でいっていた。妹は大学生で、元気で可愛い子。今は留学している。おばさんが入院していて、お母さんはそのお世話で忙しい。
まり自身は、定職には就いていないらしかった。化粧けはなく、服も三パターンくらいを繰り返していて、大人しい中学生みたいだ。部屋に絵があったので、絵が好きなんですか、と訊くと、まりははにかんだみたいに笑っていた。
一度だけ、妻に頼まれたホームセンターでの買いもの中に、まりを見かけたことはある。金髪と分厚い眼鏡が目立つので、気付いたのだ。
彼女はホームセンターでバイトをしているらしく、従業員のエプロンを身につけて、尿素の袋をふたつ担ぎ、軽トラの荷台へ載せていた。体格のいいまりには、それくらいはなんでもないようだ。顔色もかえず、溜め息さえ吐かない。
通りかかった老齢の小柄な女性客が、まりちゃんこないだすすめてくれたビオラ可愛かったよお、と大声でいうと、まりは尿素の袋をまた、軽々持ち上げながら、あのお庭ならフリージアもぴったりですよ、とすすめていた。大柄なのと、優しい笑顔をいつも見せてくれるので、なんとなくパンダのような印象を持った。
まりが「茉莉」という表記であることは、事件の報道で知った。
彼女が一度も話題に出さなかった父親も、同居していたことも、その父親が殺されたと報道されるまでは知らなかった。
娘がすすり泣いているのに気付いて、原野は我に返る。娘はしゃくりあげながら、また別の警察官に、必死で説明していた。「あの時間、わたしはこのひとと喋ってて……ぜったい、本人です。イラスト描いてくれて……」
妻が娘のせなかを撫で、娘は両手に顔を埋めた。
事件が報道されたのは、ひと月前だ。丁度、娘の誕生日の次の日だった。
その日、原野は、出勤時に柊家の周囲に規制線が張られているのを見て、泥棒でもはいったのかと思った。柊家は敷地がひろく、建物が大きい。一度なかにはいったことのある原野は、だいぶがたが来ているし、そう豊かな経済状況でもないということはわかっている。が、それを知らないで、大きな家だから、立派な門があるから、という理由で、悪い心を起こす人間も居るかもしれない。
しかし、泥棒にしてはやけに大勢のメディアが取材に来ている。しかも中継までしている。もっと大きな事件だとわかって、原野はぞっとした。あのちゃきちゃきした奥さんになにかあったんだろうか。それとも、パンダみたいな娘さんに、なにか?
昼休み、亢奮気味の部下がケータイを見せてくれた。ネットニュースで、柊家の旦那さんが殺され、娘が捕まったと報道されていた。
事件発覚は早朝。柊の奥さんが、庭で倒れている夫を見付けた。すぐに119番したが、亡くなって数時間経っており、しかも刺創があった為、救急隊が警察にも連絡する。
警察は現場を調べ、母子に話を聴き、近所にききこみをした。
深夜、男性の大声を、近所の人間が聴いている。内容は誰も、断片的にしか把握していなかった。罵るようなものだったという意見が大勢である。
それについて訊かれたまりは、気付かなかったけど、資産運用のことで電話していたのだろう、と、いった。柊氏は、深夜だろうとなんだろうと、そういった電話をかけることがあったそうだ。その際に庭に出ることも多かった。
だが、柊氏が刺されたのは、庭ではなかった。自室に争った形跡と、夥しい血痕、それに血のついたナイフがあったのだ。柊氏はそこで刺され、庭へ逃げた。
当然、同居している家族が疑われたが、死亡推定時刻、母と息子にはアリバイがあった。
母は、柊氏が刺されるよりだいぶ前に、妹が入院している病院から連絡があり、そちらへ行っていたのだ。息子は同窓会だし、娘は寝ていると思ってなにもいわなかった、夫には妹のことは話しても無駄なので話さなかった、と、柊の奥さんはそういった。タクシーで病院へ行ったので、タクシーの運転手、それに病棟の看護師や医師が証人になった。
息子は、奥さんの言葉通り、同窓会に出席していた。そのあと友人の家へおしかけて、そこで潰れて寝てしまったから、事件の日は家に戻っていない。数人分の同窓生の証言、それにおしかけられた同窓生の家族の証言もあって、物理的に犯行は不可能だと判断された。おしかけた家というのが、車で数時間かかるところにあるのだ。ちょっとぬけだして殺して戻るような芸当はできない。
まりは、寝ていた、といった。
大声や、争った物音に気付かないのは、おかしい。警察はそう考えた。
事件の起こった建物内に一緒に居たこと、以前から確執があったことなどを理由に、まりは逮捕された。
まりは父親と折り合いが悪かったらしい。
事件後、盛んに報道されたので、原野も知っていた。
柊まりは、大学生だった二十歳の頃から、家にひきこもるようになる。退学後、父親と何度か派手な喧嘩をしていた。女性にしては大柄で、力も強く、おまけにかなり強情な性格らしく、父親に殴られても殴り返していた。警察が二度、呼ばれているが、家庭内でのことなのでと、話し合うように促して終わっている。
数年、険悪な状態が続いたが、その後父親はまりを無視するようになった。まりもまりで、父親をほとんど無視した。二年前に、家から少しはなれたところにあるホームセンターでのバイトをはじめてからは、顔を合わせることが減ったからか、少しは雰囲気もよくなっていたらしい。
ところが、半年くらい前から、再び激しく口論するようになった。柊氏は、まりをどうにか家から追い出そうとしていたようだ。息子がそれを辞めさせようとしていたが、柊氏は聴く耳を持たなかった。まりは自分の子ではないと、以前から何度も近所のひとに語っていた。家族以外にも何度もいうくらいなのだから、確信していたのだ。
柊氏は、まりを相続人から外す遺言状を作成していた。日本で、さほどの資産家でもないのに遺言状まできっちりつくるのもめずらしいし、そこまで娘をきらっていたのだから、まりの家での扱いは相当に悪かったろう。その積年の恨みだろうというのが、警察の考えらしかった。
かなり階級が高いらしい、制服姿の人間が来て、娘の話を聴きたがった。原野はよくわからないが、娘の証言は相当重要なことらしい。まりの弁護士だというひともやってきた。
娘はもう泣きやんでいて、ケータイと、額にいれた絵を見せながら説明した。原野はそれを、少しだけ理解した。
犯行時刻、娘はまりと話していた。ネット上でだ。
まりはネット上で、絵や小説を書いて公開している。娘はまりのファンで、三年ほど、数ヶ月に一回くらい、メッセージをやりとりする仲だった。
娘は十八歳になった日の昼、だから事件の起こる十数時間前に、まりからメッセージをもらう。「十八歳になったんですね! お誕生日おめでとうございます。なにかプレゼントしたいんですけど、迷惑ですか?」そんな文面だ。
「なぜ、あなたの誕生日がわかったんですか」
「その日の朝に、申請したんです。年齢制限のかかっている作品を見られるようにしてもらいたいって。キスシーンがある作品でも、R18に指定されてるので、彼女の場合……」
娘は、まりの「プレゼント」の申し出に、感動したそうだ。まりは以前、数名限定で、リクエストされたイラストを描く催しをした。その時にも、娘は抽選で選ばれ、あの、原野が見たことのあるイラストをもらった。もらったといっても、それもネット上でのことだが、娘はそのイラストをプリントアウトして、額にいれてかざっているらしい。
娘はイラストでも小説でもいいので、なにかほしいと、当人曰く図々しく頼んだ。
「好きなカップリングが……ええと、なんていったらいいのかわからないんですけど。このグループの、このふたりが好きで、この青のジャケットの子と、紫の子です。このふたりのお話ならなんでもいいですって」
「お話?」
「二次創作、ファンアートです。いわゆる、ナマモノっていうジャンルなんですけど」
まりは筆がはやいそうで、娘が注文した小説をあの日の夕方にアップした。それまでまりの書いていなかった「カップリング」だったが、まりはそのアイドルグループの追っかけを数年しているらしく、情報はかなり頭にはいっていて、だからファンならわかるような会話やネタが随所に盛り込まれ、娘はその小説に大満足したらしい。おまけに、いつも応援してくれるかたへの誕生日プレゼントです、という文言までついていた。
夜になって、娘は舞い上がっていたあまりに、礼をいっていなかったことを思い出す。慌てて、メッセージで長文の礼を伝えると、すぐに返信があった。「遅れたらごめんなさい、もうひとつ制作中です。お誕生日終わるまでには仕上げたいけど、まだこれくらい。肌塗ったところです^^」と、イラストの写真とともに。
娘の好きな「カップリング」のイラストだ。可愛らしい、絵本のような雰囲気で、男の子がふたり描かれている。
娘はそれから、かなり短い間に何度か、まりとやりとりをする。
「画材なにつかってますか?」
「これはカラーインク。ドクターマーチンのです。肌はコピックで、黄色だけはゴールデンアクリリックスですよ~この色大好きなんです」
「前戴いたのは、ポスターカラーでしたっけ」
「はい。ポスターカラーも好きなんですけど、今回はちょっとふんわりした感じにしたくて。わたしの画力だとポスターカラーはぱきっとしちゃうんです。ふたりともふんわりした印象だし、SRteは童話みたいなメルヘンな感じにしたくて。解釈違いだったらごめんなさい」
「解釈一致してます!」
原野にはわからない内容だったが、とにかくその時間帯にメッセージのやりとりがあったのは事実らしい。まりは二回、進捗を写真で伝えている。
「髪終了……SRくんのくせっ毛難しすぎ問題」
「めっちゃ綺麗ですよ!」
「ありがとうございます。SRte、いいですね。目覚めちゃったかも。小説のほうの続き、需要あるでしょうか。新曲、teくんの高音綺麗すぎませんか?」
「続き読みたいです!この間SRくんがteくんの声、インスタでほめてましたよね!公式が供給してくれて嬉しくて」
「SRくんインスタはじめたんですね! フォローしときます」
そこから数分あって、完成したイラストがアップされる。「できました。お誕生日本当におめでとうございます。間に合わなかったけれど(⌒-⌒; )」そういうメッセージとともに。
「彼女、そのイラストは本当にわたしにだけくれたんです。前のもそうでした。だから、ほら、ここ。彼女のアカウントの作品一覧には、これはないんです」
「成程」
わかっているのかいないのか、警察官はそう応じる。
「でもこの次の日からまったく作品をアップしなくなってしまって、彼女それまで、三日に一回はなにかはアップしてたから、なにかあったのかと思ってメッセージを送っても無視されてて、気に障ることしちゃったのかなって……それで、もらった絵も削除されちゃうかもしれないって不安になって、だからプリントアウトして……ほんとはそういうの、マナー違反なんですけど。……あの、彼女、犯人じゃありませんよね。だって、話してたし、ずっとイラスト作成してて」
警察官達が顔を見合わせた。「しかし、それならなぜ、柊さんはそのことを話さなかったのかな。わかるかい?」
「……公式に迷惑をかけないようにだと思います」
娘は難しい顔で、膝の上でぎゅっと拳をつくる。「彼女は、凄く厳重なんです。作品の管理が。全部にパスワードがついてるけど、そのどれも、ヒントはひとつもないんです。ヒントは別の場所にまとめられてて、そのページにもパスワードがついてて、それはこのグループのファンじゃないとわからない。このライブの時にこのメンバーがいったこと、とか、この雑誌で誰がなんといったか、とか、そういうのです。それがわかって、ヒントを見ても、そのヒントも暗号っていうか。そもそも、彼女が許可したひとしか作品を閲覧できないようになってますから」
娘は頭を振る。
「でも、もし、彼女がこのジャンルで二次創作してるってわかったら、報道されるかもしれない。現に、卒業アルバムとか、流れちゃってますよね、ニュースで。もし、彼女が親しくしてる誰かが、リークしたら……それがこわかったんだと思います。グループに迷惑をかけるって。それに、彼女はアナログでイラストを描いてるので、それが誰かの手に渡ってしまったら」
娘はもう一度頭を振った。なにかに恐怖しているような顔で。
事件の捜査は、かなり迅速にすすむものらしい。原野一家が警察へ行ってからほんの三日後、まりは完全に解放された。メッセージのやりとりがまりの部屋のデスクトップで行われていたこともわかったそうだ。まりは、あのサイトにアカウントを持っていることも、弁護士にさえ話していなかった。だが、原野の娘の証言で、警察がデスクトップをくわしく調べ、それがわかった。
物音や父親の声に気付かなかった理由もはっきりした。まりはイラストを制作する際、ヘッドフォンをして、ずっと音楽を聴いているのだそうだ。そもそも父娘仲は険悪で、ふたりの部屋ははなれている。
まりは廊下こそ通じているものの、ほとんどはなれのようなところへおいやられていた。その部屋へは、長い廊下を通っていったので、原野もいかに奥まったところにあるかは知っている。
距離があった上に、ヘッドフォンでそれなりの音で曲を聴いている状態であれば、父親の声は聴こえなくても不自然ではない。
なにより、犯行時刻に同じ建物内に居た、以前から折り合いが悪かった、という以外に、まりが犯人であると疑われる要素がない。
半月ほど経って、まりとその兄が、原野家にやってきた。髪の根元が黒いのを気にした様子のないまりは、終始、はにかんだように笑っていて、解放されてから描いたというイラストを原野の娘に渡した。原野にはわからないが、娘は感激していたので、嬉しいことなのだろう。まりは娘に礼をいい、自分の創作活動については警察がちゃんと動いてくれて、報道されなかったからよかったと、そんなふうにいっていた。
まりと娘が、低声でなにかを話す傍で、原野はまりの兄からもう少しくわしい話を聴いた。まりの兄は苦虫をかみつぶしたような顔で、亡くなったひとを悪くいうのはあれですけど、と、父のことを少し語った。
柊氏は相当、偏屈だったらしい。それに、昔からまりをきらっていた。まりが生まれた当時から、自分の子どもではないと考えていたのだ。まりは自分の子どもではないと折りにつけ周囲へいっていたというのは、本当らしい。
「おはずかしい話ですけれど、当時父は不倫していました。下の妹の母親とです。下の妹が生まれても、父が離婚しようとしないので、相手は赤ん坊をうちへ置いて姿を消しました」
まりの兄は肩をすくめた。「自分が不倫していたから、母を疑った訳です。まりは父に顔がそっくりなので、なにをいっているんだと僕達は相手にしていませんでしたが、当人は学校などではいやな思いをしたようです。あまり喋らない子ですから、わかりませんでした。父が殺されていろんな話が出てきたんです。当時のあの子のクラスメイトが、釈放を求めて署名をしてくれたりしてね。その子達から、クラスのリーダー格の子達に、まりが、不倫の子だといじめられていたと聴きました」
それがきっかけかはともかく、まりは次第に他人との交流を忌避するようになり、大学も辞め、ひきこもってしまった。兄は、絵の好きなまりに専門学校を薦めたそうだが、ひとと話したくないからといって、まりはそれもいやがったそうだ。
その後、しばらくは父親とまりは冷戦状態だった。
柊氏の母、つまりまりの祖母が、寝たきり状態で家に居たのだが、まりがずっと世話していた。その期間まりは、買いものなどにも出ず、庭の手入れをしているか祖母の部屋に居るか、だった。祖母は花好きで、喜ばせる為に花の絵を描いていたらしい。数日に一回は庭に出してあげて、日光浴や、花を見るのを介助した。まりの部屋にあった車椅子は、その当時に祖母がつかっていたものだ。
柊氏は母に頭が上がらなかった。その母が、男並みに力があって介助してくれる、それに綺麗な花の絵を描いてくれるまりを、とても気にいっていた。だから柊氏は、隣近所や職場でまりのことをくさすくらいしかできなかった。
が、その祖母が亡くなり、柊氏が定年退職して、退職金が手にはいったことで、情況がかわった。
「父は、まりがそれを奪おうとしていると、そんなふうに考えたようです。まりの部屋をあんなに遠くに移したのも、その為でした。僕に半分、妹に半分やると、よく話していました。まりは無視していましたが、父がDNA鑑定の話を持ちだしてから、相当怒るようになってしまって。父が母を無視していたのにはらがたったんでしょう。あの子は、自分のことではあまり怒らないので……」
まりを遺産の相続人から外す為に、父親はDNA鑑定をしていた。子ども三人との血縁関係を調べるものだ。まりはいやがり、髪を脱色して抵抗した。それが実際に効果があるかはともかくとして、DNAを調べにくくするために金髪にしたらしい。
結局、柊氏は子ども達の髪の毛を手にいれ、DNAを調べた。まりの兄も妹もいやがったが、父親がしつこいのに根負けした。
「事件の数日後には結果がわかることになっていて、それも動機のひとつだと警察は考えたらしいですが、とんでもない。結果は笑い話にもなりません。父の実子はまりだけだったんです」
ぽかんとする原野夫妻に、まりの兄は苦笑いした。「妹は、父の子ではありませんでした。父の不倫相手が、誰かとつくった子だったんです。妹はあっけらかんとしてましたよ。べつにいいよ、お母さんと血がつながってないのは知ってるし、それでもお母さん優しいから、ってね。僕は、父とも、母とも、血がつながっていない。再検査してもらいましたが、結果はかわりませんでした。まりともまったく血がつながっていないんです。おそらく、病院でとり違えられたのだろう、ということでした。血液型は父と一緒なので、だれも気付かなかったんです。……今、病院とは話し合いの最中です。僕と同時期に生まれたひと達の連絡先を教えてほしいといってるんですが、どうも無理そうですよ」
まりの兄は、まりと原野の娘が、くすくすと笑っているのを、見た。哀しげな、なにか悔いているような目付きだった。
「皮肉な話です」
それから、柊家とは、たまにいききするようになった。まりは原野家に、綺麗なモンステラの鉢を贈ってくれた。妻が気にいって、世話している。スキャナが壊れたのでと、あたらしいものを原野のすすめで買ってくれた。娘と一緒に、あのアイドルのライブを見に行って、その感想をネット上で公開していた。
原野は娘から、まりがしていた話を少しだけ聴いた。
まりは、妹が父の子ではないことを、なんとなく察していたらしい。だからDNA鑑定を強硬に拒否したのだ。父の実の子ではないと思われている自分が、周囲から受けた仕打ちを、妹には味わわせたくないから、と。
「でも、まりさん、お父さんのことはあんまり悪くいわないんだよ」
娘は苦笑のような表情になった。「殴られても、殴り返してたから、お父さんとはおあいこなんだよね、って。結構いいひとだったともいってた」
まりは兄や母にいわれても、あの家を動きたくないらしい。殺人現場になってしまったし、と、引っ越しの話は出たが、まりがひとりでも残るというので、母も兄も折れて、あの家に住み続けている。
娘が、まりに、こわくないのか訊いたそうだ。まりは例の、困ったような顔で、お庭をずっと大事にするっておばあちゃんと約束したから、おばあちゃんの大切なジャスミンのお世話があるから、と、そんなふうに話したらしい。
しばらくして、隣市でひったくりが捕まった。持ちものから、数件の空き巣もその男の仕業であることがわかった。
男を取り調べていた刑事が、空き巣で狙った家がどれも古く、大きな家であることに着目した。その点を追及し、根気強く会話を続けたところ、男は柊家へはいったことも自白した。調べたところ、男の家にあったスニーカーから、柊氏の血液が検出された。
当時、敷地内を調べ、誰のものかわからない下足痕が出てきていたが、それがそのスニーカーと一致した。ナイフの入手経路も、その男の供述から判明した。柊氏の血がついた手袋や、柊家の庭の花の花粉がついた靴下も出てきた。柊家の花かどうかは、DNA鑑定で判明した。間違いなく、まりと柊夫人が丹精しているフリージアのものだったそうだ。
蓋を開けてみれば動機は、「家族の確執」なんてものではなかった。あの朝、警察や報道陣でいっぱいの柊家の傍を通った原野が、ふと想像したとおり、「立派な門構えだし家もデカいから金持ちだと思った」犯人の、強盗未遂の傷害致死だったのだ。
メディアはそのことを、ごく短く、或いは小さく報じた。