呪いに口づける魔王と、鎖の少女──『幽世のリリン』外伝
──「地獄」だ。今いるこの場所が言葉通り、「地獄」なんだ……
幽世の奴隷小屋の檻の中で、デルは思う。
──売られたのだ。
オリンポスの神々に。
ギリシャの最高神ゼウスとの戦いに敗れた私は、今、こんな光の届かない穴蔵で、戦利品として陳列されている……
まだ少女と呼ばれる年頃の姿。
銀の髪は色を失い、
それでも瞳だけは、エメラルドの光を拒むように灯っている。
かつて、神々すら恐れさせた槍使い──
そんなこと、誰も想像もつかぬほどに、その腕は痩せこけている。
少女の名は、デルピュネー。
ギリシャ神話に名を刻む、半人半竜の末裔だ。
ゼウスをも引き裂いた怪物テュポーンからの信頼も厚かった、知る人ぞ知る戦士。
それがいまや、奴隷小屋の展示品。
彼女の強大な力は特別にあしらえられた手枷で封じられている。
両の腕を重い鎖で吊り上げられ、
標本の蝶のように、壁に固定されている。
ジャラ……
手枷が、デルの白いやわ肌をうっ血させていた。
多くの擦り傷やあざがいまだ残っている。
それは特殊な魔術により、一切の回復を禁じられているためだ。
まだ生々しいその傷から、一筋の赤が、見世物箱の底へ落ちた。
音はしない。
ただ、色だけが増える。
デルが任されていたのはコーリュキオン洞窟の番人であった。
数百年前、ゼウスとデルの飼い主である強大な魔物・テュポーンの間で大きな争いが起こった。
星々に頭が摩するほどの巨体を持つテュポーンは、ゼウスを引き裂いた。
戦場は悲惨だった。
ゼウスの雷とテュポーンの火炎による熱で大地は炎上し、しばらく草木も生えなかった。
激しく鳴動した天と海は、その後数十年も荒れたままだった。
勝利したテュポーンは、戦利品としてゼウスの手足の腱を切り落とした。ゼウスが復活しようとしても身動きができないようにするためだ。
そのゼウスの腱を隠した場所がコーリュキオンの洞窟。
デルはそこの護り手であった。
だが失敗した。
騙されたのだ。ゼウスの使いであり、旅人の守護神であるヘルメスと、羊使いと羊を監視する神・パンに。毒入りスープで幻を見せられている間に、デルはまんまと、ゼウスの手足の腱を奪われてしまった。
復活したゼウスは、次の戦いでテュポーンをエトナ火山の下敷きにし、その身を封じてしまった。敗走の兵であったこの幼い少女の姿をしたデルはオリンポスの神々に捕らえられた。
──そうだ。私は……
失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。失敗した。
──私は、失敗した。
その何百年もの間、デルは神々から悲惨な拷問を受けた。意識を失うような痛みを何度も味合わされた。そしてそれに飽きられた今、デルは、この埃臭い奴隷小屋にいる。
食事はもう何十年と与えられていない。
聞いた話では、ここで奴隷として買われた者たちの末路は悲惨だった。新たな魔術の実験体となる者。何度も治癒魔術をかけられ、死ぬことすら許されず、永遠に苦痛を受け続ける者。性奴隷として、笑顔のまま壊されていった者。手足を切り落とされ、見世物として永遠に客間に飾り付けられた者。
ただ、デルは売り物ではない。この奴隷小屋の「展示品」。ゼウスに逆らった見せしめだ。買われることも、出されることもなく、私はこのみすぼらしい姿を、奴隷買いをする下衆な輩にさらし続けるんだ。
逆らう気力も恥じる胆力も、もうとうに失せた。
何百年という時間は、デルに今の状況を受け入れさせるには十分であった。
そんな、ある日のことだった。
デルは、「なかなかの掘り出し物があるんですよ」という奴隷商の珍しくはしゃいだ声を聞いた。
「どんな奴隷だ」
その声はひどく温度がなく、デルの耳に落ちた。
「そりゃあもう! いい悲鳴を上げるヤツもいりゃあ、絶望の淵に沈んだ美女もおります。なんなら不死の呪いを受けて、どんな重労働でも耐えられる強靭な魔物もおりまっさ」
「ほう」
「魔王さまクラスとなればとっておきの高級品もご用意できまさあ。奥の特別室へ行きますか?」
「……とにかく見せてもらおう」
「当然、当然、ごゆるりと! まさかこんな場所に魔王ベレスさまがいらっしゃるとは、あたしゃ、思いもせんかったですからにして!」
──魔王ベレス……!!
デルの瞳がわずかに反応した。その名に聞き覚えがあったからだ。
地獄の85軍団を従える、怒りそのものの化身。ソロモン王が封じたという72の悪魔達の頭領であり、残虐で極悪な地獄王。魔界随一の力の持ち主であり、怒らせたら何をされるかわからぬ恐怖の君主で、あの魔界の王サタンでさえ一目置いていると囁かれていた。
それが、魔王ベレス。デルが怯えるのも無理はなかった。
「コレなんてお勧めでございます! 美しい容姿もさながら、あらゆる男を快楽に導くサキュバス! 戦闘に使うのもよし、体を売らせるもよし!」
「ふむ……」
「お気に召しませんか? ならコイツはどうです。ミノタウロスのはぐれ子ですが、その体力は無尽蔵。強力な下僕となりますし、死ぬまで働かせ続けること請け合い! お値段は少々張りますが……」
「このガラス箱の中の少女はどうだ」
ぬっと魔王がデルの箱の中を覗き込んだ。デルには顔を上げる気力もなかった。だがエメラルドグリーンの瞳に入る。
魔王ベレス──それは端正な顔立ちをしていた。
長めの黒い前髪がサラリと流れ、目も疑うほどの美しい黄金色の瞳が覗いた。
その妖艶さは逆に人々に恐怖を与えるような類のものだった。
悪魔をも虜にするような……
切れ長な目。そこにいるだけで、その場の空気が凍りつくような妖しい美しさ。
地獄に花とはこのことだ。
いや。“地獄の花”、か──
その魔王ベレスが、デルを見ながら交渉をしている。
「見たところ、かなりの者のように感じ取れるが」
「いや、いやいやいやいや! そいつぁ、いくら魔王さまでもお売りできません!」
奴隷商はあわあわと慌てながら、必死で両手のひらをぶんぶんと振っていた。
「こいつは売りもんじゃないんでさ。ゼウスさまからあっしがこっぴどく叱られてしまいます。こいつは見せもんなんでさ。かつてのテュポーンの戦いにゼウスさまが勝利した証としてここに送られたんです」
「テュポーンの?」
「さらに言えば、こいつはとっくに感情が死んでおります。ここに来ても、何度か拷問を受けさせましたが、可愛くないことに悲鳴どころか表情一つ動かしません。神との戦に敗けた者の末路でさあ。ここにたどり着くまでにオリンポスの神々から、あたしどころじゃない酷い拷問を何度も受けたようですから。もし売れたとしても……もう使い物になりゃあしませんよ」
奴隷商が臭い息でまくしたてる。その間もデルは魔王ベレスの視線を浴び続けている。すでに身動きする力なんて残っていない。だがその視線には、そんな体でも、不思議と魅了される。魔王の金色の瞳がデルの華奢な肉体のあちこちに注がれた。身につけた衣服ももうボロボロだ。あちこちが破け、まるで、羽を抜かれた蝶の標本だ。ああ、私はこの悪魔に殺されるんだ……。そんな言葉を思い浮かべながらも、デルの心はゾクゾクと不可思議な恐怖を感じた。自分に恐怖が感じられる気力が残っていることに驚いた。
「あと例え心がまだ行きていたとしても、その槍の能力と力は魔界随一と言われている。下手にあの手枷を外したらどれだけ大暴れするかわからんじゃじゃ馬でしてね。魔王さまにはもっと従順で、いたぶりがいのある奴隷がわんさかいますが……」
「この娘の名は何という」
「いやですから、コレは展示品で、売り物じゃ」
「名前だ!」
奴隷商は目をまんまるにして尻込み、それからペタンと腰を抜かした。
「名を聞いている!!」
その叱責に奴隷商は「ひええええ」と後ずさった。声ががたがたと震える。
「デルピュネー……。ギリシア神話の……」
「デルピュネー?」
魔王ベレスの表情にピクリと反応があった。
「あのコーリュキオンの番人だった者か」
「へえ。ゼウスさまの仇敵だったテュポーンさま。その配下でやす」
「デルピュネー。……そうか。君があの、“失われし槍の護り人”と誉れ高い者。まさかこんな幼い少女の姿をしていたとは」
ベレスは再び、デルのエメラルドグリーンの瞳を覗き込んだ。
一方のデルは、自らの感情が動いたことに驚いていた。何故なら、この冷酷と噂の強大なこの魔王の言葉に、思わぬぬくもりを感じてしまっていたからだ。
この手枷の呪いでデルの心も体も魔力も、すべてが封じられているはず。
なのに、これは一体──
「魔王さま、まさかこの娘を……!? あなたさまもゼウスさまから殺されますぞ」
「ゼウスなどどうでも良い」
「ですが、さすがにオリンポス12柱を敵に回すなど……」
「どうでも良いと言っている!」
ベレスは蔑んだ目で奴隷商を見下ろす。
「ゼウスが何か言ってくるようだったら、私の城に来いと言ってやれ」
「そんな。でもあたしがコレを売ったとなるとあたしの命もどうなることやら」
「逃げればいい」
「そんな」
「ここにある奴隷。全部、私が買ってやる。その上で、ゼウスに絶対に見つからぬ場所へと行ける金もくれてやる。永遠に遊んで暮らせる金だ。文句はなかろう」
「いやしかし……」
「わからぬのか?」
ベレスは腰を落として、驚くほど冷たい目で奴隷商の目を真ん前から見据えた。その頬に、自らの手を起きながら。
「この娘を私に売らなければ、私が、お前を殺すと言っている」
「ひいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいっ!!」
その一言で、そこにいたすべての者が自分の首が落ちる未来を想像し、
世界そのものが窒息した。
その沈黙は、都市一つを数週間、沈ませた。
◆ ◆ ◆
奴隷商はしぶしぶ牢の鍵を開け、デルの手枷も外した。
「大丈夫かい?」
ベレスは、デルの手を取った。
その手は驚くほど静かで、そして温かかった。
狭い箱から、ゆっくりと彼女を引き出す。
デルはきょとんとしたまま、それに従う。
手首から落ちた血がぽたぽたと、床に血痕をつけていく。
その時、デルは信じられないものを見た。
ベレスがかしずくようにデルの前で膝を折ったのだ!
そして、傷だらけの手首へ、躊躇なく唇を寄せる。
「な、なにを……」
だが思わず出たデルのかすれた声は言葉をなさなかった。それほどに衰弱していたのだ。だが次の瞬間、デルはようやく出たその吐息を、もう一度、呑み込まれることとなる。ベレスはそのまま、擦りむけて血だらけのデルの手首を──
その舌で、そっとなめたのだ。
舌が、血を辿る。
冷たいはずの魔王の舌は、熱を帯びていた。
その温度が、デルの凍りついた時間を溶かした。
その途端だった。なめられた手首に魔法陣が浮かび上がった。ソロモン72の悪魔の1柱・魔王ブエルの印章。
ブエル。コラン・ド・プランシーによる書籍『地獄の辞典』に書かれている魔王。「星か車輪のような五本の脚を持ち、自ら転がりつつ前進する」と紹介され、挿絵ではライオンの頭の周りに5本の蹄がついたヤギの後ろ脚が円状についた異形の姿で描かれている。
──その権能はすべての怪我、病の回復。
「どうだ?」
デルは驚きすぎて答えることができない。
手首の傷がみるみる完治し、衰弱した肉体にも力が宿り始めているにも関わらず。
何故、この魔王は、私ごときにこのような行動をするのだろう。
何故、魔力を大きく使う他の魔王の権能を使うのだろう。
ベレスはデルを立たせると自らが羽織っていたローブをその肩からかけた。そして奴隷商にこう告げる。
「もし、ゼウスがお前を見つけることがあればこう言えばよい。ベレスに脅された、と。文句があるなら私に直接言って来い、と」
「あ、あわ、あわ……」
「まあ、せいぜいうまく逃げ回ることだな」
そこへキラキラと雨のように宝石や金貨が降ってきた。ガラガラ、ガシャガシャという金品の雪崩の音とともに、奴隷商はあっという間にその山の下に沈んでいった──
◆ ◆ ◆
魔王ベレスの城は幽世の果てにあった。
ここに来てから数ヶ月が経つ。
ベレスは冷酷で残虐な地獄の大王と聞かされていた。
だが今のところ、何かひどい目に遭ったということはない。
寧ろ、逆だった。
デルはそこで礼儀作法や悪魔学、神学などを徹底的に教え込まれた。
得意である槍を持つことも許され、その鍛錬に励むこともできた。
デルの教えにあたったのはセイレーンという魔物だ。
美しい青い長髪に海の色のような瞳を持った女性の姿をしており、ベレスの片腕、側近であるようで、しばしばベレスの部屋に入る姿を目撃した。
「デル。今日は北欧神話のここからここまでを暗記しなさい」
「ここから……ここまで?」
「ベレスさまの従者として当然! 実際に神々に会った際にベレスさまに恥をかかせないようにしなければなりません」
「……わかりました」
さすが魔界のプリンスと呼ばれるベレスの城。広く大きく、手入れは行き届き、デルは贅の限りを持って扱われた。いつしかその無尽蔵の体力も完全に回復し、言葉遣いも昔よりはるかに丁寧になった。そして果てしない知識と果てしない強さを身に着けていった──
その一方で、デルを買い、教育を施した当の張本人ベレスは。
(どうして、あの時の温度が、もうないのだろう……)
デルが廊下で声をかけても。用を頼まれ、執務室へ入っても。
視線は合う。
だが、言葉は落ちない。
それは罰のようだった。
奴隷小屋で、あの人は私を救った。
なのに今、私は……
──救われてない。
やはり、魔王は魔王なのだろう。恐怖の存在は恐怖そのものなのだろう。
デルは自分が嫌われているのではないかと不安を感じるようになった。
ゼウスへの反目のリスク、そして唸るような大金を使って手に入れたのに。
「なんて出来の悪いやつだ」と呆れられているのかもしれない。
それゆえ、必死でさまざまなことを身に着けた。
ベレスさまのお力になれるよう。
ベレスさまに認めていただけるよう。
ベレスさまに。
いつしかデルは、85軍団の1軍団を率いるまでに成長した。肉体は人間でいう10代前半の少女のままだが、その強さは85軍団中、随一と言われるまでに鍛え上げられていた。また地獄王の使い魔にふさわしいよう、一人称を「私」から「わたくし」に変えられた。──うん、いいかもしれません……デルは思った。──こっちのほうが、わたくしに合ってございます……!
ただ──
願わくば、せめて一言。
名前を呼んでほしかった。
「デル」と。
ただそれだけで、
私はまた、戦えるのに……
そんなひび割れた日常が壊れるのも、あっという間であった──
魔界の街を見下ろす城の最上階。厚い窓ガラスにパーティーの終わった部屋が映っている。
今夜はさまざまな神話の神々をもてなす催しが行われていた。
北欧神話のトールやロキ、中国からはセイテンタイセイ・孫悟空、日本からはスサノオノミコト、タケミカヅチ、インドからはシヴァとブラフマー。
この幽世は『ミス・ヴァース』。すなわち、数々の神話はその境なく繋がっていた。そして今晩は神話の枠を超えて、多くの神々が魔王ベレスのもてなしを受けていた。
もっとも、そこでも、ベレスは言葉を持たなかった。すべてセイレーンに任せきりだった。
悪魔という身の上ながら、神々とも交流が深いというのが魔王ベレスの不可思議さだ。そこに一声も発さないという行為。それはその正体をさらに謎めかし、さらに好奇心という魔女の手のひらに包まれているようだった。
デルは窓際に立って魔界のふたつの月を眺めた。雨が降り始めた。雨は月の光を受け、銀色の針になって輝いた。その身は給仕のためもありメイド服に包まれていた。地水火風の精霊の加護を受けた特注のメイド服。身につけた者の能力を高め、そしてさまざまな攻撃を跳ね返す魔法の戦闘具だ。
何百匹の猫をかたどった氷の彫刻は全部溶けた。デルはこの宴で、無言を貫き通していたベレスの顔や匂いを思い出した。
あの奴隷小屋で感じたベレスの舌のぬくもりは、慈愛に満ちあふれていた。元々、デルを飼っていたテュポーンからも感じたことのない優しい空気がデルを包んでくれた。
その記憶だけが、デルの胸を熱くした。あたたかな涙の感触を頬に感じながらデルは思った。どうしてあの人は、あれから一言も言葉を発さなくなったのだろう。どうして、「よくやった」と言ってくれないのだろう。
私は、あなたの駒でいい。
それでも、あなたの声が欲しい。
水滴が転がる厚いガラスが、まるで自分を閉じ込める冷たい壁のようだった。それは自分とベレスとを遮断する壁にも感じられた。悲しくなった。孤独だった。愛おしく思った。涙はあとからあとから溢れ出し止まらなかった。
だから、気づかなかった。
月の光が、ほんのわずかに歪んだことを。
背後の影が、呼吸を始めたことを。
次の瞬間、
ガラスに映っていた“自分”が、
こちらを見て、笑った。
◆ ◆ ◆
気づくとデルは自分が水の中にいることがわかった。
メイド服は剥がれ落ち、
その身は水の中で白く晒されている。
両腕は頭上で縛られ、祈りの姿のまま、吊るされていた。
半人半竜であるデルは水の中でも呼吸が出来る。そのデルを閉じ込めた円錐形の水槽を見る青年の姿があった。竪琴を抱えた青年が、豪奢なソファに身を預け、水音と溶け合う旋律を奏でている。
「ようやくお目覚めかい? デルピュネー。探したよ」
この人は……!
──アポロン!
がぼっとデルの口から大きな泡が吐き出された。
そう。太陽神アポロンだった。
ゼウスの子であり、オリンポス12柱の神の筆頭。詩歌や音楽など芸能の神で、太陽の守護者。
アポロンは理性的であるとともに、人間を地上に向かって放った矢から広がる疫病で虐殺したり、音楽の腕を競う賭けでサテュロスの1人マルシュアースを生きたまま全身の皮膚を剥いで殺すなどの冷酷さ、残忍さも併せ持っている。
そしてかつて──
デルの肉と誇りを、丁寧に壊した。
忘れるはずもない。
「そうか。覚えているか。あの時はいい声で鳴いてくれたね。ダメだよデルピュネー。ゼウスの親父の命に背いて奴隷小屋を出ちゃ」
「何故あなたが! ここはどこですか!」
「オリンポスの地下。僕の秘密の隠れ家さ」
「わたくしをどうするおつもりですか」
「どうもこうもない。元々お前は我らがものだったのだ。それを単に取り返しただけのこと。なあに、簡単だったさ。魔王ベレスを蝕む親父の呪いは2つの月が満月である今が最高値。悪魔のくせに神々との交流を図る、不届きなプリンスさまとやらですら、ゼウスの呪いで大きくその力を失う」
「ゼウスさまの、呪い……?」
アポロンは抱えていた竪琴をソファーに置いて立ち上がった。それからゆっくりとデルが入れられている水槽へと近づく。
「ああ、そうさ。お前が奴隷小屋から出たら発動する呪い。ヤツめ。涼しい顔をしているようだが、実のところは死ぬほどの激痛が常に肉体を蝕んでいたはずだ。……やせ我慢だけは得意なようだな」
「何故そんなことを!」
「何故も何もない。親父に背いたんだ。それは当たり前のことだろうよ。聴覚、視覚、五感。ゼウスが奪ったのはそれだけではない。ヤツの声を奪った。」
「声……」
──そういうことだったのか!
執務室で調べ物をしていた魔王ベレス、廊下でデルと目も合わせなかった魔王ベレス。
その間もあの人は、あの人は……
「まあ、その呪いの在り処もヤツにはわかるまい。あれは発動すると少しずつ大きくなっていく。愛に応じて大きくなる。ヤツがお前を大切に育てていたのは知っている。すべてを見通す水晶があるのでな。それにしても偶然とはいえ皮肉なものよ。地獄の大王と呼ばれる魔王ベレス。その彼がまさにその地獄の苦しみを味わい続けている」
「アポロン……。あなたがたという神たちは……」
「そして今しがた、お前にも呪いを埋め込んだ」
「……!?」
アッハッハッハとアポロンはいかにもおかしそうに笑う。
「ああ、そうさ。これさ。この魔界の種をお前に埋め込んだ」
「……!?」
「アルラウネ。聞いたことぐらいあるだろう」
アルラウネ。根の部分が人間の形をした植物型の魔界の化け物だ。
「しかもこいつは特注品でな。埋め込んで、僕が指を鳴らせばすぐに発芽し、その生贄を養分として美しい花を咲かせる。なあに。死ぬわけではない。一生、その美しい花弁で僕を楽しませてくれればいいのさ」
「そんなものをわたくしに……!」
「おっと。助けを求めても無駄だ。なんせあの魔王ベレスは呪いで、その力のほとんどを失っている。それにお前にも悪い話ではあるまい。一生、美しい花の養分となりながら、その血を吸われ続けながら、僕を楽しませ続けられるんだ。奴隷小屋にいるよりは数段、マシだろう?」
「なんと愚かな……」
「おっと。これはゼウスの親父にも秘密だ。アレも好き勝手なヤツだからな。良い薬になる。奪われたと思わせておけば良い」
アポロンはデルにくるりと背を向けた。
「ではそろそろ頃合いだ。お前はこの世で一番美しい花となれ。そう。永遠に。この『ミス・ヴァース』と幽世が滅び去るまで」
だがその時だった。
後ろを振り返ったアポロンの目の前に。
「……あり得ない」
デルがその姿を見たのは。
「ベレスさま!!」
そこに立っていた。
いや、そこに“在った”といった方がしっくりと来る。
魔王ベレスだ。
いつの間に、魔王ベレスがこの場の流れをすでに支配していた。
「そんな、どうやってここを……!?」
アポロンの顔が驚きで歪む。
同時にデルの体で何か異変が起こった。
アルラウネだ。
アルラウネが発芽したのだ。
みるみるうちに、デルの胸元から淡い芽が覗いた。
それは花ではなく、欲望だった。
白い皮膚を内側から押し上げ、
ゆっくりと裂き、
細い蔓が肋骨に絡みつく。
花は、まだ咲かない。
咲くために、彼女を味わっている。
その芽は、彼女の鼓動に合わせて脈打った。
まるで、愛されているかのように。
ベレスさま……
「私を怒らせたな」
ベレスが地を這うような恐ろしい声を発した。
「アポロン」
その直後だった。
名を呼んだだけだった。
たったそれだけで。
太陽神の背後で、光が色を失った。
言葉一つ上げることはなかった。
太陽神は、
まるで存在を許されなかったかのように、
形を失った。
抵抗も、叫びもなかった。
神と悪魔の戦いですらなかった。
ただ、格の違いだった。
その残滓の塵が舞いながら消え失せる。
幽世の英雄がまた一人、
消える。
消えていく……
◆ ◆ ◆
魔王ベレス。
神をもひと睨みで滅する魔界のプリンス。
神々とも古くから交流があり、神からも悪魔からも特別視されている規格外の悪魔。
彼がいつから幽世に在るのか、
それを知る者はいない。
「今まですまなかった、デル」
魔界の空を蒼白の馬で駆けながらベレスは言う。その手には魔法のローブでくるまれたデルの姿。
「呪いは、呪いはどうされたのですか?」
「消し去ったよ」
そう言うとベレスはローブで隠されていた自身の胸を見せた。そこには、夜がひとつ、口を開けていた。そこからは生々しく血がいまだ溢れ出し続けている。
「ゼウスのヤツめ。デルが奴隷小屋の結界から出ると同時に発動する呪いを我が肉体に植え付けていた。その場所がどこかわからなかったのだが……。心臓だったのだよ。私の体の中にいくつもある心臓、そのすべてに呪いが隠されていたのだ」
「それでは」
「ああ。すべてこの手でえぐり取ったさ。その代わりに、胸の奥がひどく静かだ。また心臓が再生するには数十年はかかるかもしれないが。……とにかく間に合って良かった。手術の時間もなかったのでな」
なんということだろう!
冷たい人だと、決めつけていた。
見放されたのだと、怯えていた。
後悔していると思っていた。
嫌われたと思っていた。
それなのに──
自らの胸に自らで腕を突っ込み、そして心臓を。
脈打つ肉塊を。
わたくしのために。
わたくしだけのために……!
「痛むとは思わなかったのですか」
デルは言う。
「痛いとは思わなかったのですか」
「痛かったさ」
ベレスはそう言って微笑んだ。
「だが私の大切な従者だ。主君のために命をかけた誇り高き戦士だ。そんな君をみすみす辱められると考えれば……」
「考えれば……」
「そちらの方が胸が痛い」
ギュッ。
デルはベレスのローブを思い切り掴んだ。
止まらなかった。
涙が止まらなかった。
溢れ出るその液体を。
止める術は持ち合わせていなかった。
どれだけの強敵であっても。
相手が神であったとしても。
立ち向かう術は心得ている。
だが。
この涙は。
この涙だけは……
「愛している、デル。君は、もう僕の中に在る。君の栄誉。ギリシャに名を轟かせた誇り高きその魂。私は……いや僕は、手に入れたかった。君の魂を。君の心を」
「それでは……お城で、わたくしと会おうとしなかったのは」
「呪いの在り処を急いで探していた。まさか言葉まで奪われるとは思ってなかったがね」
「その間、ずっと苦しんで。痛みでもがきそうになりながらも」
「僕は、王だ」
ベレスは前を見据える。
王は、弱さを見せない。
それが、たとえ愛のためであっても。
「その姿を片時でも見せてしまったら」
「……はい」
「君の心は。君の忠誠は」
「……」
「永遠に手に入らないと思った」
さらに涙が溢れ出した。
自分なんかのために。こんな出来損ないの半竜の槍使いのために。
この人は。
この人は──!
「どうして」
思い切ってデルは訊いてみた。
「どうして、わたくしにそこまでのお言葉を」
ベレスは、その冷酷だという噂が信じられないほどの笑顔をデルに手向けた。
「君が過去の主君のために見せたその誉れ。僕だけのものにしたくてね」
「なんてことを言うのです」
デルは顔を赤くした。
「地獄の大王は、欲深いのですね」
「そうさ。欲深い」
「強欲でございます」
「強欲だ」
「いつか地獄に堕ちますよ」
「地獄、か」
再びベレスは前を見た。
「『地獄』だ。今いるこの場所が……、そして今これから始まる未来が、言葉通り『地獄』なんだ」
◆ ◆ ◆
蒼白の馬は掛けて行く。
魔界の空を。
魔界の2つの月の間を。
切り裂くように。
流れ星のように。
────やがてこの物語は、
幽世の“リリン”を巡る戦いへと連なっていく。
「デル、お前が僕の失われた心臓の代わりになってくれるかい?」
「はい。ベレスさま。わたくしの身は、あなたの心臓。どうぞ、いかようにもこの槍を、わたくしの槍を、矛にも盾にも使ってください」
神々も悪魔も、その双方の総称である『リリン』、そのすべてを滅ばさんとする『666の獣』。
魔王ベレスとデルピュネーは、その忠誠と愛でつながれ、そして『地球』と呼ばれる『方舟』を救わんと現世への扉を開く。
その先に何が待っているのか。
だがデルは思う。
魔王ベレスと共であれば、この命、失っても悔いなしと。
いや。
彼のために、決してこの命、失われてはならないと。
これは、
『幽世のリリン』に名を刻む前の、
まだ誰も知らない夜の記憶。
恐怖の魔王と、幽世の槍使い。
その忠誠と愛が、
いま、世界の裏側で静かに動き出す。
ここまで読んでいただきありがとうございました!
もし少しでも心を動かされることがあれば★★★★★で応援してくださると今後の励みになります。
また本作は長編連載『幽世のリリン』の前日譚となっております。
もしご興味がございましたら、魔王ベレスとデルピュネーのその後を、見守ってくださると幸いです。
何卒よろしくお願いいたします。
『幽世のリリン』→
https://ncode.syosetu.com/n6996hr/




