『ちょっと呪い、かけられてみませんか?』
隣人トラブル。
現代日本において、巻き込まれたくはないだろう事象の筆頭にして基本的に誰しもが他人事として無縁のままではいられない可能性を秘めている出来事。
回避するためには良好な関係を、それも初対面の時から築いていくのが何よりも重要で、仮に相手が不穏だった場合はどうにかしてやり過ごす手段を考えなければ光はない。
それが一軒家が立ち並ぶ住宅街ではなく、アパートやマンションの中でのことであればなおさらの話。
ご近所付き合いというのは、非常に解の求めにくい難題として誰にでも立ちはだかる危険性を常に孕んでいるのだ。
では。
「引っ越してきました! よろしくお願いします。これ、出会いの印に!」
と言われ、それと同時に『ちょっと呪い、かけられてみませんか?』の文言が書かれたボロボロの紙にくっつく、あからさまに場違い感を醸し出す人形を手渡された者は、どうするのが正解なのだろうか?
【呪い】
その男は、疲弊した日々を送っていた。
生まれながらにして平凡な家庭で育ち、平凡な親を持ち、平凡な学校で平凡な学力を培い、平凡な経験を積んで平凡な会社に平凡に就職し、平凡なアパートで平凡に一人暮らしを続ける。
何もかもが平凡だったが、社会は平凡を許しはしない。
特に最近は「個々の能力が」やら、「各々の持つ特技が」やら、「多様性を見ることが」やら、何かと人と違うことを求めてくる。
結果として枠にはまった人生を歩んできた者に風当たりは強かった。
いちいち聞かれる「あなたのできること」という質問と返されるため息のみの反応は彼の耳にはたこができるほど。
出る杭は打たれると言うが、出ない杭もまた打たれるの世の常であることは、彼の中身を着実に腐らせていった。
行く末として彼は疲弊し、そして学んだ。
風当たりが強いのなら、二度と当たらないようにしよう、と。
もちろん、そう決めた彼の脳内に将来像はもはやない。
ただ安定し、これ以上疲れることのない生き方を求めて、ある種この世における死に方を求めた人生を歩むことを彼は決めたのだ。
これは、そんな時の話である。
持論はいつも脳内で反芻するもの。
が、いざという時その持論通りに対応なんてできないのが人間という生き物。
平凡にしたかった日常に響くインターフォンに釣られるがまま、扉を開けた先にいる異様に明るい表情をした男性に挨拶と同時に渡された『それ』は、どこからどう見ても平凡とは程遠いものだった。
結局呆気に取られたまま断ることもできず受け取ってしまったその彼は、部屋の中にぽつんと置かれた机の上でものを眺める。
「はぁ……」
たった一つ漏れ出たため息は、彼の心中からその場の状況まで、ありとあらゆるものを示唆するものだった。
見れば見るほどやはり不気味としか言いようのない人形。
物自体は手のひらサイズの熊の人形らしかったのだが、なんと言っても長年放置されたかのような小汚さが目について離れない。
日に当てられすぎて毛が駄目になったのか、埃やちょっとした汚れが染み付いて落ちなくなったのか、遊び尽くされてくたびれ過ぎてしまったのか、あるいはその全部なのか。
眺めるほどに理由がいくらでも浮かんで来そうな代物は、とてもじゃないが引っ越しの挨拶に送るような物ではない。
それも、不安感を駆り立てるような紙一切れがあるとすればなおのことだった。
「どうしよっかなぁ、これ……」
哀愁すら漂う呟きは熊の耳には入ったのだろうか。
しばらく絶望もとい思案した彼は、やがて立ち上がった。
「……まぁ。返したい、よなぁ……」
その決断は、彼の持論には反するかもしれないが、妥当といえば妥当な判断でもあった。
★
結論から言えば、『それ』は未だに彼の手元にあった。
というのも、彼のアパートないし近所に越してきたものはいなかったからである。
一体誰が?
不可思議な現象には違いなかった。
あの決断から何時間かは経っただろうか。
近くを歩き回っても、引っ越し業者すら見つけられない。
見つけたものと言えば近所で何やら人だかりができていたのを目にしたが、背筋に上り詰める寒気が段々と増していった彼にはそれどころじゃない。
「はぁ……」
渡された直後となんら変わりのないため息と共に向けた視線は、机の上の熊のぐらついた目と合ったのちに紙切れの方へと移動した。
『ちょっと呪い、かけられてみませんか?』
「呪い……かぁ……」
ただ平凡な日々を送りたかっただけなのに、既に呪いかけられ平凡を失ってしまった事実が彼を襲う。
そして、呪いはその日の夜から早速効力を発揮した。
諦観半分で寝る彼の耳に声が聞こえた。
それは子供の笑い声だった。
いつもなら決して聞こえるはずのない楽しげな声。
声自体は寝ている部屋から隣の部屋ではあったのだが、まるで現在進行形で遊んでいるかのようなその声はとても楽しげなものこそあれど、夜中に唐突となれば気味が悪いことこの上ない。
もちろん、心当たりも一つしかない。
「あぁ、ちくしょう……」
恐怖と眠気を押しのけて音の出所を探るため布団からなんとか起き上がった彼は、恐る恐る隣の部屋を覗いた。
当然、誰もいなかった。
だがしかし、普段なら必ず電気を消して戸締りをしていたはずのその部屋だったのが、なぜか豆電球だけがつけられて戸が半分開けられていたことにすぐに気がつく。
「勘弁してくれ……」
途端にこみ上げてくる悪寒になんとか耐えながら歩みを進め、震える手で電気の紐を引っ張った。
普段はなんの抵抗もなく下がっていく紐なのに、たった一回のその動作がまるで進まない。
丸々数分をかけて暗闇を取り戻すと、次は部屋に必要以上の寒気を放っている戸へと近寄った。
風にさらされていた割にはやけに温かい金属製の枠が手に触れる。
だが、物事は唐突に起こるもの。
それは、やっとの思いで戸を閉めて、鍵をかけようとした瞬間だった。
「――――――」
明らかに彼の声ではない何者かの声が耳のすぐ近くで発された。
あまりにも近過ぎた一言ではあったのだが、その声の一言一句が彼に届くことはなかった。
どのみち、次に起きたのは翌日の朝だったのだから。
★
それからと言うものの、呪いはたしかに彼のもとで発揮されるようになった。
毎日のように存在感を示してくる謎の存在に、明らかにいるはずのない誰かがそこにいる現象。
元凶を離そうとして捨てれば当たり前のように家の元あった場所に戻ってくる人形は、彼の中での存在感を日に日に高めていた。
「どうしたんですか? 最近、明らかに変ですよ……?」
あまりにも不可解な現象が起こりすぎてしまっていたからか、平凡に徹していた時期にはかけられなかった声を、しかも同じ会社の女性社員からかけられるようにすらなってしまっていた。
「ちょっと呪いが……。はぁ、死にたい……」
「えっ、えっ……?」
だからといって状況が好転するわけではない。
話しかけられるとはいえ、心配されるとはいえ、彼にとっての呪いは希死念慮を芽生えさせるまでに至る。
ある種の死に方を求めていた彼には皮肉に値するものであるのは、言うまでもないのだが。
だが、そんな地獄とも言える日が続いたある日、彼に転機が訪れた。
長らく続き、彼に永遠に続くかと思わせたその怪現象がその日を境にぱったりとなくなったのだ。
しかし、人形がなくなったわけではなかった。
むしろその逆で、人形は相変わらず定位置として今までと何一つ変わらない様子でそこに居続けただけで変化などは一切ない。
あった変化といえば、死にたいと漏らしたあの日から、馬鹿にせず気にかけ続けてくれた女性社員とそれなりに良い関係に発展したことだった。
まるで都合の良い出来事が重なったのか、それとも怪現象に精神を蝕まれ続けた揺り戻しが今やってきたのかは不明だったが、どちらにせよ平凡から転落した人生に追い風がやってきたことに違いはない。
相変わらず不気味な人形はそこにあったが、やがて彼の部屋に存在感を示すものは謎の存在から愛すべき存在へと変わっていった。
それから時は経ち、彼は結婚した。
「おはよう」
「えぇ、おはようございます」
彼はあの女性社員と結ばれ、一つの新たな家庭を築き上げ、幸せの絶頂期にいた。
住まいも平凡だったアパートから一軒家へと移し、子宝こそいなかったが愛する妻がいつも側にいる。
思い返せば苦味なんてものじゃない過去とはおさらばし、平凡目指して息を殺すだけの彼はもうそこにはいなかった。
だが、人形は変わらずそこにいた。
けれど、彼は人形のことをもう悪くは思っていなかった。
確かに、あの時捨てたのに手元に戻ってきたことだったり、ひたすら止まない怪現象があったことは事実。
だとしても、それがあってこその今の生活があるのも紛れもない事実で、言い換えてしまえばこの人形がきっかけとなって手に入れられた幸せな人生ということに他ならないからだ。
「呪い、ね……。本当は呪いだったのかも、なんてね」
前よりも色の褪せたぬいぐるみと紙切れを見て、彼は呟く。
『呪い』
その単語は彼の言う通り、意味の通る単語として確実な現実を生み出していた。
【呪い】
「ねぇ、それ……なんとかならないの?」
きっかけは彼の妻、過去彼に寄り添った女性社員の一言だった。
当たり前だろう。
いくら彼にとっては人生を決定づける運命の品だったとしても、他人に見えるのはただの薄汚れた熊のぬいぐるみでしかない。
それも、汚れの程度は甚だしく、さらにその上に不気味も良いところな文言が添えられたボロボロの紙となればことさらで、第三者が見ればやはり印象は良くない。
「あぁ、まぁ。そうだね……」
さすがに彼と言えど、今はもう喉元過ぎればなんとやらと言うもの。
幸せに慣れてしまった現状に、事実上の特級呪物は不必要だった。
それよりも今は家庭、もっと言えば、妻を優先するのは自明の理。
彼は人形を処分することに決めたのだった。
だが、彼の頭にある光景が浮かび上がった。
「捨てちゃ、まずいよなぁ……」
とある日のあの記憶。
捨てた人形が元々あった位置に戻ってくる。
加えて、そもそも今があるのはこの人形のお陰なのに、捨てて良いものなのだろうか?
彼の中に様々な葛藤が巡り巡ったのち、彼はある結論を導き出した。
「そうだ。この呪いを、似たような境遇の人にかけてあげればいいんだ」
そこからの行動は早かった。
過去の彼と重なる、似たような悩みを持つ人を探すべく、彼は街の中を歩いた。
幸い、経験が手伝ってかある程度の見分けがつくようになり、時間も新居に身を移してからそこそこ落ち着いた頃合いだったということもあって自由に使える時間は多かった。
そしてしばらくの相手探しののち、一人の男性を彼は見つけた。
その男性は過去の彼の生き写しかのような人物で、冴えない顔をして冴えないアパートに住んでいるようだった。
相手が見つかってしまえばやることはたった一つ。
彼は『それ』を手に持つと、男性のアパートに向かってインターフォンを鳴らした。
そうして、彼は晴れやかな顔でこう言った。
「引っ越してきました! よろしくお願いします。これ、出会いの印に!」
【 】
「は〜、良い天気だなぁ」
良いことをした、とはこう言うことを言うのだろうか。
などと考える彼の頭の中はとても晴れ晴れしたものだった。
実際彼を照らす太陽の明かりは心地が良いもので、帰り道として歩く道路に陰鬱な要素は何一つとしてなかった。
その中には厄介だった人形を手放せたという思いも多かれ少なかれあるだろうが、今はそんなことすらも些事に過ぎない。
過ぎてしまえば全て思い込みが過ぎただけだったのだろうかと、現実さえも否定してしまいそうな肩の荷が下りた感覚を彼は覚えていた。
「よし! これから何するかな? まだまだしあわ――」
だが、希望に満ちたその声はなんの脈絡もなくかき消された。
その場に残ったのは、大きく変形し煙を上げる一台の車と、興味本位で群がる人混みの悲鳴だけだった。