77 『慧眼の魔女の瞳に映るもの』
名を聞かれ、動揺した。
記憶が押し寄せ、狼狽した。
ルーシーは呼吸を忘れてしまったかのように動悸が激しくなり、おもむろに片手で胸を抑える。
少女の前世の名を口にしただけで、これほどのダメージを受けるとは。
ライザはこれこそルーシーにとって最も効果的な方法だと確信した。
他国民の訴えを前にし、困惑する様子は見て取れても「なんとかしてあげたい」という感情は一切見られなかった。
つまり少女にとって、他国の人間がどうなろうと心を動かされることはないのだと。
ライザはあの時点ですでに察していたのだ。
「初めて会った魔女の夜会……。一見すればあなたは、五~六歳の幼い女の子にしか見えませんでしたが。私の目には、あなたを通して十代後半の別の少女が映っていたんですよ」
これこそ武器になる。
ライザはうっとりするような表情で、これまで調べ上げたルーシーに関する数々の情報を羅列していった。
「ルーシー・イーズデイル、とある町の商家で生まれ育った中流貴族のご令嬢。だけどその地域では魔女に対する差別が強かった為、彼女は奴隷の如く扱われてきた。……違いますか?」
「……やめてっ」
拒絶反応を見せるルーシーに、ライザの心の奥底で鳴りを潜めていた嗜虐心が、いけないとわかりつつも少しずつ顔を覗かせていく。
「それは肯定と捉えていいですね? 思えばあなたのその消極的な性格、他者に対して恐怖しているような態度……。それはあなたが生前、人間たちから酷い扱いを受けて来た何よりの証拠ではありませんか?」
「……聡慧の魔女ライザ、あなたは一体……っ? 本当は一体何者なんですか!?」
ライザの足元にすり寄ってきた猫のソニアを抱き抱える。
愛らしい猫の滑らかな毛並みにライザは手を滑らせた。
ごろごろと喉を鳴らしたソニアは、とても気持ちよさそうだ。
こんな姿を見ていると、やはり邪悪な部分など一切感じられないというのに。
ルーシーを捉えたまま目だけが笑っていない微笑みと、猫を愛おしく扱う様はやはり、どこかちぐはぐで不気味にすら思える。
「その昔、私はかつて慧眼の魔女……と呼ばれていました」
「慧眼の……」
その二つ名には聞き覚えがあった。
まさに今日、ニコラの口からその言葉が出て、ライザがそれに対し苦々しそうな態度を取っていたことを思い出す。
「不思議に思いませんでしたか? 才知に優れたという意味を持つ二つ名、聡慧の魔女と銘打っているこの私が。相手をこの目で見ただけで、どうしてその人物の特性を言い当てることができるのでしょう」
当時のルーシーには、まだ魔女というものがどういった存在なのか。
どういった能力を持っているのか。
二つ名で呼ばれる所以など、それらを考察するにはあまりにも経験がなさすぎた。
「知識、智慧、それだけで特性を正確に言い当てることができないわけではありませんが。それだと非常に難儀です」
そう言って、ライザはソニアを抱き抱えたままもう片方の手で下まぶたを指で引き下げた。
まるで子供がべっかんこうしているような仕草だが、ライザは自分の瞳を注視するよう促しているだけで、別にからかっているわけではない。
ライザの瞳を見てみると、驚くことにこれまで見て来た魔女特有の真っ赤な瞳ではなく、揺らめくような虹色に輝いていた。
それはまるでスノータウンにある極寒の空に、稀に現れたオーロラを彷彿とさせる美しさだった。その瞳はライザが強く意識しなければ、こういった状態にならない。
「私の持つ特性、慧眼はあらゆるものを見通す力を持っています」
「だからそれを使って、多くの魔女の特性を見出してきたってことですか?」
しかし疑問が残る。
魔女の夜会でルーシーの特性を見てもらった際、ライザの瞳は通常の赤い瞳のままだったはずだ。こんなに美しい虹色の瞳、一度見れば二度と忘れることなどできないだろう。
ライザは両目を閉じ、再び開いた時には瞳の色は戻っていた。
「慧眼は魔力を多く消費します。魔女たちの特性を見る時は、まばたきほどの長さでしか発動させていないんですよ。そう、ちょうど相手がまばたきをした瞬間なんかにね」
からくりはわかった。
ライザはルーシーの特性を見ようとした時に、同時に前世の姿も目にしたのだ。
彼女が驚いていたのは、ルーシーの類稀なる特性だけでなく、ルーシー・イーズデイルの姿も見えていたからだ。
慧眼の魔女に関しての話題はこれでおしまい、とでも言うようにライザは何事もなかったかのように話題を変えた。
自身の特性を語ることは、相手に自分の手の内を明かすことになる。
ライザはこれ以上自分に関して語ることはなさそうだった。
その代わり、慧眼以外でルーシー・イーズデイルに関する情報をどのように手に入れたのか。それを話して聞かせるつもりらしい。
「私には有難いことに、私のことを慕ってくれる魔女がたくさんいます」
まるでちょっとした物語を聞かせるように、ライザはルーシーのことを解せず語り出した。
もはや警戒心しか持てないルーシーは、それを黙って聞く他ない。
「私がお願いすれば、色々と手伝ってくれるんです。探し物や人探し、ありとあらゆる情報を……」
「つまりそうやって、私に関する情報を手に入れた……ってことなんですね」
ルーシーに向かって微笑む。肯定と捉えることができた。
ライザと初めて出会った夜会の直後から、ルーシーに関して情報を集めていたとするならば。それは相当時間に余裕があったことだろう。
何年間も、言うなれば「ルーシーに関する情報」のみを探し続けていたというのなら。
しかし当の本人は日々の生活や、魔女の修行に追われていた。
一人で勝手にスノータウンより外界を出歩くことすらままならない状況で、「ルーシー・イーズデイルに関する情報」を集めることなど不可能だった。
だが例えライザに調査する時間の猶予があったとして、赤の他人の前世を探し当てるなどどうやって可能とするのか。
「情報収集に長けている魔女を、私は何人か知っています」
指折り数えるように、ルーシーの前世を探し当てた方法を丁寧に説明していく。
そうすることでライザが言っている情報が、どれだけ明確なものなのか。それを知らしめる為のようにも聞こえた。
「他人の心を読む特性、その地に刻まれた記憶を見る特性、質問したことを強制的に答えさせる特性……。魔女というのは調薬の才能だけではありません。そしてもちろん、自然エネルギーを利用した魔法が使えるだけでもないんです」
薬学、調薬こそ魔女の本領だと教わった。
だが魔力を操れない人間とは異なり、自然界のエネルギー。つまり地、水、火、風といった元素の力を操ることができることもまた、魔女の特別な能力でもある。
そこからさらに、精神や概念といった部分に関与する能力も魔女の本領だとライザは説いた。
ルーシーは知っている。
かつて自身で体験した、他人の魂に刻まれた記憶を見る魔法を。
「当然、膨大な時間がかかりました。どこの誰なのか? いつの時代の人間なのか? そもそもこの大陸に存在していたのか?」
問題はそこだ。ルーシーだからこそ、自分が一度死んで転生するまでにかかった月日を把握できたに過ぎない。
それをライザはどうやって調べ上げたのか。
しかしそれはごく単純な、最も簡単な方法で知ることができることをルーシーは失念していた。
はっとしたルーシーの表情に、ライザは嬉しそうな笑みをこぼしながら首を縦に振る。
その名を口にする前に、それが正しい答えなのだと。そう認めた。
「そう、動揺しすぎてうっかりしてたわ……。幽魂の魔女ヴァイオレット、あの人から直接聞いたのね?」
「ニコラの入れ込みようから、きっと特定の魂である必要があった……。そしてそれができるのはヴァイオレットだけ。あの娘は強いこだわりはあれど、義理人情に厚いタイプではないから。交換条件を持ち掛けたら、すぐに教えてくれたわ」
ライザの言う通り、軽薄そうなヴァイオレットならやりそうなことだ。
親しく付き合って来たわけではないが、彼女の立ち居振る舞いや口振りを思い出せば、何の違和感もなく納得できてしまう。
(お師様がそれを聞いたら、ヴァイオレットのことを地の果てまで追いかけてでも殺してしまいそうな案件ね……)
他にも引っかかることはあったが、今のルーシーにいくつもの内容を気に留める心の余裕がなかった。
それはやはり「自分の前世に関する情報が手に入るかもしれない」という、またとない餌が目の前にぶら下げられていることを知ってしまったから仕方ない。
ルーシーが喉から出るほど欲しかった情報。
一度死んで、転生してから芽生えた復讐の炎。
どうやって突き止めたらいいのか途方に暮れていたところに舞い込んだ、ピンポイントな情報。
これを逃す手はない。
自分の新たな人生に課せられた使命を、ようやく果たせるかもしれないから。
狼狽していた表情から一転、物欲しそうな顔つきに変わったルーシーにライザはさらに餌をちらつかせた。
「情報集めの種明かしなんかより、あなたが欲しいのは前世に関する具体的な情報……ですよね」
「……わかってるわ。どうせこう言うんでしょう? 獣人国とのいざこざを解決すれば、それを教えてやる……って。それを伝える為に、お師様にも内緒で私をここへ呼んだ」
「ニコラの前で話しても、私は別によかったんですよ? でも、ニコラに知られたくないのはルーシー、あなたでしょう?」
前世に関してニコラに内密にしていることを、ライザは察していた。
ニコラもそうだが、彼女らは一体どこまで察しているのかと思うと鳥肌が立つ。
まるで手の平で上手く転がされているような感覚だった。
こんなもの、答えは一つに決まっている。
「……引き受けて、くださいますね?」
その言葉に、ルーシーは頷く他なかった。
こうなることさえ、初めからわかっていたかのように。
ライザは思い通りにルーシーを転がした。
それ以上の会話はなく、お辞儀をしてその場を立ち去るルーシー。
立ち去るルーシーに追い打ちをかけることなく、ライザはテラスで猫を抱きながら空を見上げた。
「今夜の満月はとても綺麗ね」
穏やかな微笑みを浮かべるライザとは対照的に、ルーシーの表情はこれまで誰も見たことがないほど険しかった。