76 『ライザの切り札』
ルーシーが聡慧の魔女ライザを初めて見た時の印象、それは――。
『神々しい』
その一言に尽きた。
きっと他の魔女ですら、同じ印象を抱いたことだろう。
それほどライザの纏う神々しさ、聡明さ、まるで天上の女神のような雰囲気そのもの。
ただそれだけの印象で抱いてしまう誤った感情、それは――。
『慈愛に満ち溢れた善人』
柔和な微笑みを絶やさないライザの顔に、言葉使いに、誰もがそう信じて疑わない。
聡慧の魔女ライザは、心優しい魔女のはずだ。
彼女は聡明であるから、間違いなど絶対に犯したりはしない。
だからライザの言うことは正しいのだ。
知恵者なのだから。
温厚なのだから。
しかし今日改めてライザと対話し、ルーシーのライザに対する印象は一変した。
守るものの為ならば、手段を選ばない非情な性格。
天秤は常にミリオンクラウズに傾いている。
だから冷静な判断を下せるのだ。
他に対する情など皆無なのだから。
少なくともルーシーはライザに対して、そういった人物なのだと認識した。
(お師様が心を許していない素振りを見せていたのは、照れ隠しとかそういったものじゃなかったんだ……)
思えばニコラは、ライザに対して当たりが少々キツイと感じていた。
魔女の夜会で初めて会った時にも、そういった態度を示していたがルーシーはてっきりニコラが親友に対して素直になっていないだけなのだと、そう捉えていた。
ニコラは基本的に誰かに対してデレデレとした態度を見せたことが、ただの一度もない。
それはニコラの性格故だと理解している。常に鉄面皮を貫くニコラが、誰かに対して甘ったるい態度を見せようものなら、それはニコラの偽物だとはっきり言える程度には想像ができない。だからこそ、気付けなかった。
ニコラはライザのことを警戒していたのかもしれないことに。
(でもお師様は基本的に、誰も信用していない素振りを見せるから……。わかるはずないわよ)
侍従から受け取ったライザからのメッセージ。
それを手に、ルーシーは立ち尽くしていた。
断れるわけがない。
今となっては、ライザの機嫌を損ねてしまったらどうなってしまうのか。
考えると恐ろしい。
師であるニコラが側にいるのだから、まさか殺されるわけがないとは思っているが。
逆に考えて、万が一にでもニコラを人質に取られる形となった場合。
そうすればルーシーはライザの命令に従う他ないだろう。
(お師様が誰かにどうにかされるところ、全く想像できないけど。でもライザはこの国の権力者と言ってもいいから、何が起きるかわからない……)
だから宮殿に宿泊することを勧めたのだろうか?
ニコラを人質に獣人国へ行くように、そう告げられるのだろうか。
悶々と考え事をしていたら、握っていた紙切れが突然発火した。
「きゃっ!」
慌てて放すと、紙切れは跡形もなく消え去った。
煙も灰も残さずに。
「証拠隠滅……? 手が込みすぎだわ……」
空恐ろしくなって、ルーシーはこのままニコラに助けを求めたくなった。
嫌なら断ればいい。
ニコラがそう言ったということは、きっとどうにかしてくれるに違いない。
まだまだ未熟な魔女の身であるルーシーが、ライザの手から逃げおおせるはずがないのだから。
そして何より、やはりニコラが誰かの手によって罠にはまる光景が浮かばない。
「きっと大丈夫。お師様なら、きっとなんとかしてくれる……」
この国が抱えている問題は理解している。
獣人国のことも、獣人のことも、本に書かれている範囲でしかわからない。
しかし彼らが人間以上の能力を備えているのは間違いないと、ルーシーでもわかる。
五感に優れ、一部の魔法以外に効果を半減させてしまう魔法耐性。
いくら動物と会話ができると言っても、だからなんだというのだろう。
ルーシーが単身で行くには、未知の領域すぎる。
情けないとわかっていても、ルーシーはニコラに泣きつこうと決めた。
しかしその前に、ライザからの招待は受けた方がいいと考えた。
一体どんな材料を使って交渉するつもりなのか。
聡慧の魔女ライザの企みに、少しばかり興味があったことをルーシーは認めた。
***
あれから急いでその辺りを歩いていた侍従をつかまえ、ニコラが注文していた熱々のブラックコーヒーをもらい、部屋に戻った。
ルーシーはホットチョコをもらっていて、嬉しそうに飲んでいるとニコラから子ども扱いされてふてくされてしまう。
夕食は侍従が部屋まで運んでくれたので、師弟仲良く食事をとった。
それからは自由時間と言わんばかりに、各々で旅の疲れを癒す。
「明日にはここを発つことになるだろうから、疲れを残すんじゃないよ」
「……はい、お師様」
ニコラのセリフに、ルーシーが依頼を断ることをすでに察していたようだ。
ルーシー自身そう考えていたから気付かなかったが、ニコラの言葉は実際にはどちらにも取れるセリフだった。
どちらに転んでも、ルーシーはミリオンクラウズ公国を後にする。
そのことに最後まで気付かなかったのは、やはりこの後テラスでライザに会うことばかり考えていたせいだろう。
***
深夜零時、少し前。
静かに寝息を立てるニコラを見て、ルーシーはそっと部屋を抜け出す。
果たしてテラスがどこにあるのか途方に暮れていると、どこからともなく赤毛の猫が現れた。
尻尾を上にピンと立てて、ご機嫌に鳴くとルーシーの前を通り過ぎる。だが少し歩いては振り向き、ルーシーに合図を送っているようにも見て取れた。
まさかと思い、ルーシーはその猫に話しかける。
『もしかして、ライザの元へ案内してくれるの?』
『そうだよ。ついて来て』
言葉が通じ、ネコが先導する。
とてとてと軽い足取りで歩いて行く猫の後ろ姿を見つめながら、ふとルーシーは全く関係ない話をした。
『あなた、ひょっとして……システィーナの猫?』
その言葉に、猫が足を止め振り向く。
どこか嬉しそうな、悲しそうな、誇らしそうな顔で答えた。
『うん、システィーナは私の大切なママだった』
『ママ……。うん、そうだね……』
目頭が熱くなる。
システィーナの事件を知って、彼女の過去を見て、喪失感が蘇ってくるようだった。
『私の兄弟は、ママが信頼している魔女たちの元へ送られたはずだよ』
そう聞かれ、ルーシーは首を縦に振る。
クローバーの惨劇で生き残った、数匹の猫の内何匹かは他の魔女の元へ里子に出された。
それがシスティーナの望みであり、遺言でもあったから。
『私のところには、リチルって名前の猫が贈られたわ』
『リチル、一緒にはいないんだね? ママは兄弟たちが、信頼できる魔女たちの使い魔にしてもらえるように贈ったはずなんだけど』
『長旅をしている最中だから、故郷の友達に預かってもらってるの』
使い魔を使役する修行も、あるにはある。
しかしニコラが、ルーシーには今は必要ないと言ってスノータウンに残してきた。
動物と会話ができるので、その辺りは問題ないそうだ。
リチルの話をして思い出す。
預け先である友人、カミナは今も元気でやっているだろうか。
『いけないいけない、早くライザ様のところへ案内しないと……』
そう言って、猫は再び歩き出す。
『私の名前はソニア。他の兄弟共々よろしくね』
猫の挨拶に心が和らいだところで、どうやらテラスに到着したようだ。
夜風が冷たい。クローゼットにあった外套を羽織って来て正解だった。
ミリオンクラウズ公国が一望できる、一際大きなテラスはさながら空中庭園のように見える。多くの草花に囲まれ、夜空の満月を見上げていたライザがこちらを振り向いた。
「待っていましたよ。ルーシー」
時刻を確認していなかったが、ライザの言葉に対して「遅れてすみません」と言おうとした、まさにその時だった。
「いいえ、ここでは本当の名で呼びましょうか。ルーシー・イーズデイル……」
「……っ!?」
ルーシーは一瞬で凍り付く。
まるで金縛りにでもあったように全身が硬直し、同時に目の前が真っ白になる。
その名で呼ばれ、たった数秒の間に駆け巡る記憶の数々。
走馬灯のように流れる過去の映像が、脳裏に焼き付けられているように。
鮮明に思い出す。悲惨な人生を。
「どう……、して……」
狼狽するルーシーに、ライザは勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。