S IDE③ヒエドラン ナドランド王国近況
ナドランド王国北西の国であるデンガン公国と交戦していたホクレン軍が戦を解き、合計30000の軍勢がナドランド王国との国境に配置された。30000の軍勢による圧力を受け、リアラ・クンリーと婚約破棄したヒエドラン王子の責任を問う声もある。が、もともと王家に反抗的だった少数派の貴族によるものに過ぎず、大きな動きにはなっていない。
「あの女と婚約する前の状況に戻っただけだというのに」
ヒエドラン王子はナドランド王国の皇太子として、国政の少なくない部分について、既に判断を委ねられていた。執務室の机には決裁を求める書類が山積みだ。1枚1枚丁寧に目を通して適切に判断していかなくてはならない。
特にリアと婚約破棄して仕事が増えたということはない。元々、自分一人で全部こなしてきた。むしろ、今は別室にいる婚約者候補のイレーネ・ペイン公爵令嬢が手伝ってくれているので、少しずつ負担が減りつつあるくらいだ。
「それよりケイズだ」
ヒエドランはダイドラから戻ってきたサナス外相を睨みつけて告げる。
リアと婚約破棄して生じた唯一の大問題はケイズ・マッグ・ロールの失踪だった。
「本当にダイドラから戻らないというのか?」
信じられない、という気持ちでヒエドランは繰り返した。
サナスが肩をすくめる。
「リア嬢と幸せにやっていくので、ニーデルには戻らないと。ダイドラで冒険者として楽しくやっていくから邪魔をするなよと」
一度した報告を、嫌な顔一つせず淡々とサナスが繰り返した。要するにリアラ・クンリーのせいでケイズがいなくなったということだ。
(本当に忌々しい女だ。よりによってケイズをたぶらかすとは)
結果的にはナドランド王国がリアラ・クンリーの所在を一番早く知るところとなったが、別にリアを探していたわけではない。ケイズを死物狂いで探していて、目撃情報からダイドラにいることを把握、リアの同行もついでに知ったというだけのことだ。
平地の多いナドランド王国において、地形すら操ることの出来る老師キバやケイズは非常に有用な存在だ。他国に攻められた際には国防の要となり、帯同した戦いでは常勝だった。
ケイズがいないというだけで、国境を侵される危険すら出てくる。
「そもそもケイズだってあの女が欲しかったなら、私に一言くらいあっても良かったのではないか」
ポツリとヒエドランは零した。水くさいではないかと思う。ケイズについては、彼が王宮に封じられていた時から知っている。
同じ精霊術師でも、リアと違い、死にかけるような苦しみの中にいたケイズには嫌悪感は不思議と湧かなかった。初見の時から風を纏って能天気に踊り回る女とは大違いだったと思う。
「婚約破棄する予定だからくれてやるとでも?ケイズとしても殿下の婚約者に露骨な好意は見せられなかったでしょう。仕方のないことでしたよ。まぁ、自分の惚れた少女を、可愛がるどころか疎んじていた殿下を、ケイズがどう見ていたかは想像に難くないですな」
サナスが冷たく言い放つ。年齢が親子ほども違う家臣ではあるが、忌憚なく意見を述べるサナスのことをヒエドランは信用していた。
「あの、婚約破棄の宣言がまずかったとでも?」
リアに対しては、もはや何もかもが不満だった。少しでも苦しめられるなら、と及んでしまったことだ。
「どうですかな。とりあえず殿下のご希望どおりリア嬢を苦しめられたことでしょう。そして、そのリア嬢にケイズは気があったということです」
サナスが明言を避けた。まだ、何がどう作用するかは分からない段階だ、とでも言いたいのか。
遠慮がちにドアをノックされた。
「殿下、ダン・ラダン将軍がお見えです」
イレーネ公爵令嬢が扉の外から告げる。
「入れ」
ヒエドランの返事を受けて、赤毛の、見上げるように大柄な男が入ってきた。ナドランド王国軍のダン・ラダン将軍だ。騎乗で大斧を振るう猛将であり、国内外で恐れられている。
「ははは、リア嬢との婚約破棄が裏目に出ましたな。まさかケイズが連れて失踪してしまうとは」
まったく配慮のない大声で挨拶も抜きにダン・ラダンが告げる。
ヒエドランはうんざりした。サナスも元々折り合いが悪いので同じ顔をしている。
ダン・ラダンの後ろにいる水色の髪をした細身で美しい少女がイレーネ・ペインだ。扉が開け放たれているので、別室に退がる機会を逸したのだろう。
「軍部はリア嬢との結婚は支持していましたのに。今からでも復縁されてはいかがですかな?」
イレーネがいる前にも関わらず、よりにもよってリアとの復縁を勧めるなど正気の沙汰ではない。
「リアラ・クンリーとの婚約破棄は軍事的な事情だけによるものではない。あの女が国母、王妃の器に足りないから破談した。ケイズが王都から消えた今でも後悔はない」
イレーネの目を見て、ヒエドランははっきりと言い切った。イレーネがぽっと頬を赤らめる。
「そうですか。しかし、武術はまさしく本物でしたぞ。私以上の軍人となったことでしょう」
ダン・ラダンがしつこく言い募る。
「確かに武術だけは優秀であったな、あの女は。しかし、他の面での欠落が酷すぎた。貴様も納得していたではないかっ」
いよいよ苛々してヒエドランはこめかみを揉んだ。軍人は何でも力で推し量るところがある。政治の複雑さをまるで理解していないのだ。
無能なリアを王家に入れては、ホクレンに屈している、即ち王家が弱体化しているのだ、と考える貴族も出てくる。最悪の場合、王家を侮る貴族が増え、ホクレンと通じて内乱、という流れに繋がりかねない。
「ですから、ただ婚約破棄するでなしに、軍に入れていただきたかったですな。そうすればケイズと2人、夫婦となってナドランド王国軍の歴史に名を刻んだことでしょう」
冗談のつもりなのか本気のつもりなのか、悪夢のような考えを、朗らかにダン・ラダンが告げる。
「まぁ、外相の私としては、同盟国になったところでホクレンは歴史上まるで信用できないので。リア嬢と婚約破棄したからといって、状況が大袈裟に悪くなったとも思えませんな」
サナスがヒエドランの肩を持つようなことを言い、助け舟を出した。
実際、ホクレンは筆頭将軍の妹や親族を他国に嫁がせてはその国を攻撃して死なせる、ということを何世代も繰り返している。これほど政略結婚の宛にならない国もなかった。
「しかし、ケイズは裏切ったではないか。リア嬢との破談のせいで」
ダン・ラダンがサナスを見て首を傾げる。反対派の貴族でもないのになぜか似たようなことを言っていた。
「ダイドラにいるとわざわざ私を通じて王子に知らせたのだ。裏切りではない。むしろ、あの周辺を護るくらいはしてくれると読む」
サナスもダン・ラダンの愚鈍さに苛立ち始めた。大体3人で話しているといつもこうなる。
「ふむ。ダイドラのあるランドーラ地方か。あの辺をケイズが守ってくれれば助かるな。シュバルトにホクレン、イェレスにガオス、東部の周辺国全部に食い込んだ要地だからな」
ダン・ラダンが勝手にヒエドランの本棚から国土の地図を引っ張り出してきた。
東の大都市ダイドラの他、ランドーラ地方にはゴブセンとジエンエント、という2つの隣接した堅牢な城塞が築かれている。
イレーネも一緒になって地図を覗き込んでいた。
「ケイズ様がダイドラ近辺を守護してくださるなら、ゴブセンとジエンエントの兵士を、よその拠点に回せるのではないのですか?」
イレーネが考えを述べる。一向に妃教育を受けないリアを見て、母が裏で妃教育を施していたという。聡明な女性なのだった。執務についてもまた慣れていないだけで日に日に効率が上がっている。
「具体的な数は?」
試すようにダン・ラダンが尋ねる。リアならば答えられるぞと言わんばかりの口調だ。
「それは」
軍略など通常の貴族令嬢に分かるわけもない。イレーネが口ごもる。知ったかぶるより、ヒエドランには余程好感が持てた。
「くだらん当てつけはやめよ。兵の数や選抜はダン・ラダンが将軍として行え」
ヒエドランはダン・ラダンを睨みつけて告げる。
「リア嬢のときとは違って、露骨に庇うのですな」
ボソリと小さな声でサナスがぼやく。サナスの場合、ヒエドランがリアにした仕打ちを責めているのではない。露骨な手のひら返しを揶揄しているのだ。
「やはり、リア嬢とケイズがいたほうが」
ダン・ラダンが真に受けてまた蒸し返してくる。彼の場合もいざとなれば、ヒエドランのために骨身を惜しまずに尽くしてくれる、という信頼はあった。
「うるさい。今、使える手札の中で最善の手を打っていくしかないだろう。私はこの考え方は間違っていないと信じる」
打てる手、というのが信頼できる政治家である外相、勇猛な将軍、聡明な婚約者候補である。
自分の力次第で、まだまだナドランド王国を繁栄させていけるはずだ、とヒエドランは信じている。




