いつも美しく
やはり、予期せぬ来客は有るものだ。午後、と言うか時期母も戻ってくるであろうという、夕方に近い時間、その人は現れた。どうしますか、と使用人の一人が私に問うて来たけれど、通すしかないと指示を出した。取引しに来た客だ、話を聞かず追い返すわけにはいかない、と。そして、私も客と対峙する商人としてその部屋に入った。
「ようこそいらっしゃいました、キール・ブロンス様。本日ご用件を承ります、ザザ商会末席のマルガ・ティーニと申します」
部屋に入ると同時に、礼を取る。現れた相手、ブロンス公爵子息は、私の父に私との婚約を告げた相手であり、昨日話し掛けてきたジンジー伯爵令嬢の元婚約者である。話題の人間で、本人だって注目されている事を嫌でも分かっている筈なのだが、そんな人が我が家に用事という事は、断った事に対する文句だろうか。それとも、普通に商談だろうか、どちらにしてもそのどちらかしか考えられない。だからこそ、部屋には私の他にも、強面で屈強な人間が二人居るのだ。私自身の至らなさも含めて、何か不測の事態になった時の護衛である。本来彼等は少々危険な商談の時に就くのだが、公爵子息が現れた時、入室を許可して下さいと言われ、私が了承した為此処に居る。使用人も複数控えている。そもそも本来、余程内密な商談でない限り、一対一は有り得ない。ロイロ侯爵子息との時は外であり、他に誰も居ない突然の状況だったからだが、今日は違う。
「…キール・ブロンスだ。先触れも無く押し掛けて申し訳ないが、今日は商談で来たのではないんだ」
「…左様でございますか、では如何様で?」
子息の言葉に、周りの空気がピリつく。商談ではない以上、目の前の人間は商会にとって客ではなくなった。私自身は用等元から無い。ならば要件を聞いて、早々に解決し、お帰り願った方が良いだろう。下手に話題の公爵子息が我が家に出入りしたという事実が広がる事は、今、現状として良くない。昨日の私の遣らかしもあるのだから。それを周りも理解しているから、緊張したのだ。
「君に、謝りに来たんだ」
「その様な事をされた覚えがございません。寧ろ、此方が謝らねばならないのでは…」
「婚約断りの件なら気にしないでくれ。知っての通り、ジンジー伯爵令嬢との婚約は今白紙だが、彼女や俺に他に相応しい相手が現れない限り、再び結ばれる事になるのだから」
それは皆言っている。
「謝るのは……」
「?」
「謝りたいのは、昨日、彼女が君を訪ねた事だ」
「…恐れながら、それは貴方様には無関係ではございませんか?それに、そもそも昨日の件は、サラン様の御心を乱した上、観衆の居る中上手く対処出来なかった私の不手際です。謝るのであれば、私が…」
「違う!!」
ジンジー伯爵家へ詫びるのが筋だ。そう続けようとしたが、大声で遮られてしまった。突然の大声に、流石に私も言葉が継げなかったのだ。
「っ、失礼。だが、違うんだ」
「あの…」
「君は全く悪くない。彼女が君に会いに行ったのも、そもそも俺のせいなんだ。だから、俺が謝罪するのは当然の事なんだ。本当に申し訳ない」
「いえ、あの…」
「許してもらおうとは思っていない。俺は君に謝らなければならない事が多過ぎて、償う事が多過ぎて、どうしたら良いのか分からないんだ。兎に角先ずは謝らなければと、その思いだけで今日も来てしまった。君の、迷惑も考えずに」
目の前の人間は、何を話しているのだろうか。何も心当たりが全く無いにも拘らず、何故謝罪されなければならないのだろうか。確かに、婚約を白紙にした後の私への婚約打診は、噂に巻き込んだ、と言う意味では謝罪の対象なのかもしれない。そして、昨日その相手である伯爵家の令嬢が私に話し掛けた、という事で広がった新たな噂は、あまり面白くない事だったわけで、それがそのせいであるならば、それも謝罪の対象になるのだろうと理解は出来る。後は、今日、此処へ来た事だ。だとしても多くは無いし、わざわざ償ってもらう程では無いと思うのだが。そんなに大事なのだろうか。
「…君が此処に来る前、彼等が同席する事を告げられた時、漸くその事に気付いた。それ程までに自分は切羽詰まっていたらしい。恐らく、今日、此処へ来た事も、世間の話題となると思う。だが、出来る限り俺は君を守るから…力になるから」
「結構ですわ」
突然、母の声がした。聞いた事が無い程の強い口調で拒否の言葉を告げ、公爵子息を睨んでいる。いつの間にか帰ってきて、部屋にもノックをせずに入ったようだ。普段であれば絶対に有り得ない行動で、またしても私は言葉を発せなかった。
「ふ、夫人…」
「さあ、ご子息様が帰られるわ。ご案内して差し上げて」
「はい」
「さあ、此方へ」
「ま、待って下さい!せめて彼女のっ…!」
「お引き取りを。いくら公爵家のご子息だからといって、先触れも無くいらっしゃった挙句、貴方様方の問題に娘を巻き込む事は、ティーニ家としてとしてもザザ商会としても、正式にブロンス家に抗議申し上げますわ」
「そんなっ!待ってくれ!!」
私は一体何を見ているのだろう。目の前の光景は、完全に立場が逆転しているではないか。我が家は所詮、商家である。母の生家も子爵位であるし、この場に居る全ての人間の中で、一番権力が有るのは、紛れもなくブロンス公爵家の嗣子である子息様な筈なのに。更に母はかなり立腹しているようで、ザザ商会として抗議すると宣言した。これは公爵家にとってはかなり痛手となる筈のものである。いち商家としての抗議ならば取るに足らないだろうが、商会として、筆頭補佐が宣言したという事はそれだけ大きな事である。ザザから抗議された、その事実は、その家の信用を著しく損ねるからだ。だからこそ、ご子息様は焦っているのだ。
「さあ、お帰りを。出来るならば、二度と我が家を巻き込まぬ様、ジンジー伯爵家のご令嬢様と今一度のご婚約を、心よりお祈り申し上げますわ。その際は商会を挙げて、お祝い申し上げます事をお約束致します。何せ今も昔も相思相愛でお似合いなのですから、誰からも祝福されるでしょう」
成る程、それが抗議の対価という事か。けれど、恐らくその一度だけだろう。通常、その家から引いた商会は、殆ど戻る事をしない。商人の信頼関係は、壊れると簡単に修復されないからだ。
「ふ、夫人、俺は、ただ…」
「お帰りを」
四度目だ。流石に、護衛が動いた。脇を取り押さえるよう抱えに入る。
「…止めてくれ、帰る、から……」
腕に触れた段階で、小声ながら意思表示が出た。その為護衛は手を止め、少し離れる。暴れている訳ではない以上、強制的にする事は出来ない。
「…本当に、申し訳なかった」
そう言いながら私を見た公爵子息は、促す使用人に付き部屋を出て行った。その後ろを護衛が追って出て行く。嵐は去った。
「……母さん、お帰りなさい」
「ただいま。でも、第一声がそれなの?」
苦笑いを浮かべながら、母が私の方へと歩いてくる。
「ごめんなさい、私はまた間違えたのね…」
「いいえ。玄関先で追い払っていたら、それこそ間違いだったわ。まあ本音を言えば、関わって欲しくないと思っていたけれど…あちらから来たら、避けようが無いものね。困ったものだわ」
話題の人間達は。そう小さく呟いた母の言葉に頷く。
「式典出席のせいかしら、今迄あまり表立って動いてこなかったから…」
「視野や交友関係が広がる事は、決して悪い事ではないのよ。でも、これから先、貴女にとって良くない人間との付き合いも増えるでしょう。それを止める事は、誰にも出来ないわ。判断は自分でしなければならないし、良くないと思っても付き合わなければならない場合もある。人との付き合いはこの歳になっても難しいの、貴女なんてまだ15年しか生きていないのだから、難しいに決まっているわ。だから、沢山間違えて覚えて行きなさい。母さん達は貴女を見守っているから、後ろなど気にせずに進んで行きなさい」
「…ありがとう、頑張るわ」
「頑張るとも少し違うのだけれど…ふふ、貴女らしいわ」
優しく微笑み、頭を撫でられた。こうして撫でられたのは、とても久し振りだと思った。
◇
「…宜しいのですか?」
「何の話?」
「お見えになった、公爵子息様の事です。本当に、何も思わないのですか?」
「思うって…母さんの言う通り、関わらないに越した事は無いと思っているわ」
「憎いとは思わないのですか!?」
「ええ、特に」
そういえば、最近入った使用人が一人居た。長く居る人間が多い中、珍しく私より商会の人間として歴の浅い人間だ。母と別れ自室に入る直前話し掛けられたわけだが、話したのは今日が初めてな気がする。
「そもそも、憎いってどうして思うの?何故?」
「今迄の事全てに対してです!罰したいとは思わないのですか!?」
「貴女が言う全てが何か分からないけれど、憎いと思う事は一切無いわ。それに商会としての抗議が罰ではないの?我が家に抗議された、と言う事実がその家の信頼にどれだけ響くのか、貴女だって分かるんじゃない?」
「それは、そうですが…」
「それで十分なのではない?」
彼女は何に影響され、ここまで言うのだろう。当人が不要と言っているのに、とても不満そうに見える。
「話はそれだけ?部屋に入っても構わないかしら」
「あ…お、お引止めしてしまって、申し訳ございません、でした…」
「あ、でも…」
「え?」
「知っている事だろうけれど、母は商会の中で父、兄に次ぐ地位がある、所謂役員なの。その母の決定は、私でも覆すのは難しいわ。でも、何か不満があるのなら母に言ってみたらどう?話は聞いてくれる筈よ。何なら私から通しても良いけれど、どうする?」
母も勿論だが、ザザ商会の風潮として、意見はいくら下の人間でもしっかり聴き、良ければ取り入れる。気付く事は人によって違うし、それでより良くなるならそれに越した事はないからだ。そう言った意味で下と上の垣根は低い筈だ、不満も意見の一つなのだし、母も聞かない事は無い。そう思い彼女を見るが、彼女は頭を横に振って拒否を示した。
「いえ、不満などは…御座いません。なので、不要でございます」
「そう?必要になったら言って頂戴ね」
彼女に、じゃあと告げて自室に入った。そして漸く一息吐く。疲れた、と感じる。今の使用人との会話も含め、この短い間に起きた事に、今迄に無い疲労感が残った。ここ数日に起きた事に対して、頭がついて行っていないのだと言う事は分かっている。整理しきれていない内に新しい事が入りすぎて、私のキャパシティを完全に超えてしまった。
元々私の中には、私しか居なかった。否、私すら居なかった。不都合無く何事も無く過ぎていくようにするには、人と同じ事をしていけば良いのだと気付き、人と成るべく学んで、母、父、兄達が順番に私に入り込み、他にも徐々に色んな人が私を作っていった。こうして昔より不都合の無い今の人擬きに成るまでに、何年も掛かったのだ。それは私が出来損ないだったが故の結果である。出来損ないは、一度作り直さなければ出来損ないからの脱却は出来ないものだ。つまり、私が死に、もし生まれ変わるならば、その時に初めて今の出来損ないから変わる事が出来る。私が生きている以上、私は出来損ないでしかない。それはもう、変えられない。だから不都合が現れたら、都度追加するしかない。僅かなキャパシティを凝縮して、出来た隙間に何とか詰め込むしかない。
「…しゃんと胸を張り、前を見て、堂々と」
子供の頃、何度も貴族だった母や祖母に言われた言葉を思い出す。例えどんなに劣等な状況にあろうとも、自分決して敵う相手ではなくても、己を弱く見せてはならない。お前は決して誰にも負けない輝きを持っているのだから、と。常に美しく、人として誇り高く生きよ、と。今でもその言葉の意味はよく分からないけれど、そこに満たないのは分かっている。満たせていれば、ここ数日のバタつきは起きなかったのだろうか。