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もうヒトリの自分

 鏡がある。四方と上下を囲む鏡だ。

 明かりも無く、光も差し込まないこの暗闇の中、進む事も退く事も出来ず、前だって見えないこの場所で、自らを閉じ込める鏡だけが感触としてそこにあった。

 彼は鏡に閉じ込められてしまった。逃げる事を許さないこの鏡の部屋に。

 そうして彼の意思は何時しか、鏡に囲まれたこの部屋の暗闇に消え去ろうと―――




(ピアノが勝手に鳴るわけも無いっと)

 学校の音楽室。昼休みになったが誰もいないその教室で、長也・錬太郎はピアノに手を触れていた。

 せっかくの昼休み。普段であれば同じクラスの友人とぐだぐだ話をしながら時間を潰すのが常であるが、今は少しばかり行動の指針を変えていた。

 それがこのピアノとの触れ合いであるが、こんな奇異な事をしているのも、例によって郷土風聞研究部の活動が関わっていた。

(学校の怪談ねぇ。そういうのって、どこの学校にも……あるのか? 大分古いよな、そういうのって?)

 中野鳥高校には怪談話が存在するか? 今回の活動はそういうものである。

 学校由来の怪談話とかってあるのだろうかと言い換えても良い。顧問の千条・霊子の発言である。

(まだ入学して一年も経って無いけど、そういう話は聞いた事なかったな、そう言えば)

 霊子曰く、最近になって、あれこれ妙な噂をしている生徒が出ているらしく、指導教諭とやらが少しばかり心配しているそうだ。

 少し心配して、それで終わる話でもある。若い人間が流行りものに乗っかる事など、どんな世の中、どんな場所でもある事だろう。

 そうして大人は、そんな状況をいちいち気にするものだが、大半は杞憂で終わる。そういうものだと若い人間側の錬太郎は考えていた。

(じゃあ何で俺はわざわざ、貴重な昼休みをこんな事で浪費してるんだ?)

 これもまた霊子の発言であるが、そんな生徒の噂を気にする指導教諭の悩みを解決できれば、部費の予算とか便宜してくれそうじゃない? というものがあった。

 とりあえずくそったれと回答しておいたが、結局行動してしまっているのだから、錬太郎も自身でお人好しだと思ってしまう。

(あー、ピアノの裏側には人型の染みがあって、それが夜な夜な校庭を全力疾走するとかいう……ねえよな? そんな染み。あるわけねえんだよ)

 とりあえず、噂の怪談話とやらを錬太郎は調べ始めたわけであるが、生徒の何人かに聞いてみたところ、どれもバラバラの話であった。

 今、音楽室にやってきたのは、そんなバラバラな怪談話の一つを確認するためである。

 本当の話かなんて確認では無い。世の中にオカルトと言うものがある事を錬太郎は知っているが、今回に関してはまったく違う。

 むしろ、バラバラな話は本当にただの話で、そもそも生徒が浮足立つ様な噂なんてもの自体が存在しない。その事を確認するために音楽室までやってきたのだ。

「ここも無駄足。いや、確認出来たんだから一歩前進か」

 呟いてみるも、誰かが聞いているわけも無い。ピアノの裏側にも人型の染み何て無く、動いて聞いてくれるはずも無い。

 とりあえず、他の生徒が知っている怪談話について、現地に足を運び、そんな噂の元になっているものでもあるのかと探っているのが今の錬太郎だ。

 結果、元すら無いと言う結果に終わる。恐らく、聞いた錬太郎に聞かせてやろうとその場で作ったか、学校と関係ないところで聞いた話を、その場でアレンジして話したとかそういうところだろう。

(霊子姉さんには悪いが、今回は何の収穫も無さそうって報告しとくか。三藤先輩なら、こういう時でも、何か活動報告を作れるのかもしれないけど―――

「な、長也君……いる?」

「うん? あ、先輩。どうしたんですか、こんなところで」

 ピアノの下から這い出ながら、音楽室の出入口の方を見る。そこには同じ郷土風聞研究部の部員であり、一年上の先輩でもある三藤・井伊子の姿があった。

「きょ、教室に行ったら……音楽室にいるって聞いて……お、同じクラスの……に、西岡君って子から……」

「ああ、この音楽室にある怪談話なんですけどね? あいつに聞いたんですよ。先輩は知ってます? ピアノの裏にあるクラウンチングスタートしようとする人型の染みが、100m5秒の速さで迫って来るって言う」

 出入口近くでちょこんと立ったままの三藤先輩に尋ねてみるも、酷く困ったと言った表情を浮かべつつ、彼女は首を傾げた。

「ちょ、ちょっと……そういう独創的なのは……聞いた事が無い……かな」

 と言う事は、西岡に担がれた形になるのか。いや、こんな馬鹿馬鹿しい怪談を聞いて、実際に音楽室へ確認しに向かうなんて思わなかったのだろう。

「こう……前にオカルトの一件があったせいか、馬鹿馬鹿しい話でも、確認しないと、どうにも気になってしまいまして。あっ、先輩は何か、俺に用ですか?」

 わざわざ他人に居場所を聞いてまで探していたのだろうから、今は怪談話よりそちらの理由についてが気になった。

「ん……もう、幾つか……オカルトについての注意事項について……話したと思うんだけど……」

「オカルトは色んな形で現れる。常識外れの様でいて理屈がある。巻き込まれた時は危険な場合が多い。とかでしたよね?」

 以前、不可思議なオカルトに巻き込まれ、さらには危険な目に遭った錬太郎にとっては、身に詰まされる忠告だった。

「い、言い忘れてた事が……あって」

「まだ、気を付けないと駄目な事があるんですか……」

 うんざりとした気分になるも、これもまた自分のため。そう思えば無視する事も出来なかった。

「え、えっとね……学校の怪談について調べろって……せ、先生は言ってたけど……鏡に関わる怪談だけは……し、調べちゃ駄目だと……思うの」

「鏡に関わる怪談……ですか? そりゃまた何で。変に限定的ですけども」

 忠告があるのなら聞く気にもなるが、それより先には、その意味についてを聞きたい。

「あのね……た、多分……それだけは本物だから……」

「本物?」

 不吉な印象のある言葉。特に最近では、直接的に不幸を呼び寄せそうな、そんな言葉であった。

「オカルト関係って事ですか?」

「た、多分……ね」

 日常から外れた不可思議な現象、オカルト。それが具体的にどの様なものであるかを錬太郎は知らないし、目の前の先輩も詳しく知らないだろう。

 だが、経験で言えばあちらが上だ。そんな彼女がするなと言うのなら、本当にするべきでは無いのだろう。

「えっと、実際にどういう危険があったり?」

「い、いなくなってる……の」

 か細い声の三藤先輩を見ると、彼女は眼鏡の向こうの目を鋭くしていた。真剣そのものと言った様子だ。

 最初からそうは思っていなかったが、冗談では無さそうだ。

「いなくなるって、誰がですか」

「誰か……多分鏡に関わる怪談について興味を持った人が……だと思う」

「多分とか誰かとか、すっげぇ曖昧じゃありません?」

 忠告にしても、具体性が無くなっている。注意するにしたって、その本人すら根拠を掴めていない様に見えた。

「し、仕方ないというか……その……な、長也君は……この前、オカルトに襲われた……でしょ?」

「そうですね。出来れば二度としたくない経験だ」

 だからこそ、今もこうして先輩の意見を聞いていた。危険から逃れるもっとも建設的な方法は、危険についてを知る事だろうから。

「オカルトに襲われて……被害を受けた時……そ、その人はどうなると思う?」

「そう言えば……考えない様にしていましたね」

「単純に……け、怪我をしたり……病気になったり……そういう事も……あるかもだけど……む、向こう側に……行っちゃう事だって……あるかもしれない」

「向こう側って……」

「つ、つまり……オカルト側」

 オカルト……ただの噂が実際の現象になったり、不可思議な現象を発生させたりもするそれ。

 そうではあっても、現実という絶対な物には勝てず、消え去った後には、それが起こした現象はすべて消え去り、元の平穏無事な世界が残る。

 では、襲われて、どうにかなってしまった人間はどうだろうか。オカルトが消えれば、その存在は元に戻る? それとも……。

「消えちまうって言うんですか? その……オカルトに飲み込まれた人間は、オカルトごと」

「だ、だから……多分。こ、根拠って言う程のものでも……無いけど。そ、それでも……そうなるんじゃないかっていう……気がしてて……じ、実際……消えたのかもしれない人間を……わ、私は知っている様な……せ、説明が難しいね?」

「人間が消え去っちまう事もありそうなのがオカルトの怖いところですが、それに先輩が気付いているのが、確かに良く分かりませんね」

 別に責めているわけでは無いし、信じないわけでも無い。ただ、疑問に思う事を口にしているだけだ。

「わ、私の……オカルトに対する力……そ、それがちょっと特殊で……」

「特殊じゃない力ってのも無さそうですけど……説明が難しいって言うのは分かりました。あー、はい。気を付けます」

 オカルトに対して、人間と言うのは基本的に強い立場なのだと錬太郎は思う。

 その証明の様に、オカルトに巻き込まれた人間は、そのオカルトへ対処できる力を得るのだ。

 その力がどの様なものかについては、人それぞれだと言えた。錬太郎の場合は、身体能力や思考能力が普段より高くなると言うものだ。

 自分が単純に強くなれば、不可思議な力相手でも戦えると言う、ある人間から言わせれば、とても単純な発想の元に生まれた力であるらしい。

 その力とて、オカルトと関わらなければ発現しないあやふやな力だ。説明が難しいと言うのは、文字通りの言葉なのだろう。

「受け入れてくれて……う、嬉しいよ。ずっと……か、鏡にまつわる怪談は……あ、危ないって……思い続けてるんだ」

 それは何時からだろうか。錬太郎はそう尋ねるより先に、言葉を止めていた。

 三藤先輩の表情が、真剣なそれから、どこか恐怖を覚えている様な、そんな表情へ変わっていたからだ。

(何かあったんだな)

 それを直接本人に尋ねる程、錬太郎は無遠慮な人間では無い。

 ならばどうするか。錬太郎は考えを巡らし、とりあえず、もう一度音楽室を見た。

 何の変哲も無い、どこの学校にでもありそうなその音楽室のピアノを一瞥してから、錬太郎は口を開く。

「あのピアノの裏については……気を付けた方が良い事ってありますかね?」

「し、染みなんて……無かったんでしょ? な、何とも言えない……なぁ」

 こちらに関しては、危ない事も無さそうだ。なら、三藤先輩には、こちら側の怪談について、色々と手伝って貰おうと考えた。

 お互い、危険な事には、積極的に関わるべきでは無いのだし。




(鏡か……鏡ねぇ)

 昼に三藤先輩から忠告を受けた錬太郎であるが、何故かその壁の怪談についてが気になり始めていた。

(……危ないから調べるな、何て言われても、むしろ好奇心が出て来ると言うか……いや、調べはしないけどな?)

 君子危うきに何とやら。以前に危険な目に遭ったのだから、これからもそれが続くなんて考えたくも無い。

 ましてや自分からそんな危険に挑むなど、どれほどの興味があったとしても御免だった。

「それで……な、長也君が集めてくれた話ですけど……や、やっぱり……最近流行りの怪談なんて……無かったみたい……ですね」

「そうなの? いや、そうなんでしょうけれど、それはそれとして、でっち上げられないかしら? 生徒の中でこういう話があるっぽいですよ! 調べたのは私達です。いやあ、何時も頑張ってますから部費ください。みたいな感じの話題のネタになりそうな」

「ねえよ、そんなネタ」

 怪談話について錬太郎が気になって居るのは、この郷土風聞研究部の雰囲気が関わっていた。

 最近は集まればオカルトだの何だのの怪談話。今だって、顧問の千条・霊子が、テンションを上げながら、無茶な事を言ってくる。

「あのねえ、この部の存続についても関わってんのよ? 部員なんてあんたと三藤ちゃんの二人っきりで、もうちょっと顧問としては、人も賑わいも増えて欲しいって思ってのこの努力。分かって欲しいんだけどなぁ」

「だから分かんねえって。って言うか、暫くはこういう怪談とかが関わってくる様な話題……やめないか? 俺から言うのはあれだけど、危ないだろ」

 本当は、もっと早く言っておきたかった事である。

 先日、錬太郎がオカルトに関わって危険な目に遭ってから、そう何日も経っていないのだ。普通、部活の自粛なんて事も有り得る事だろうに。

「その部分に関してはね、あえて遠ざけるって言うのも危ないのよ。だって、関わろうと関わるまいと、何時の間にか巻き込まれてたりするのがオカルトってもんだし。なら、常在戦場の気持ちで居た方が良いでしょう?」

「なーにが常在戦場だよ。オカルトについては良く分かんねえから、準備の仕様も無いって事だろうが。ねえ、先輩?」

「あ、あはは……」

 何とも言えぬ顔で返されてしまう。そう言えば、彼女もオカルトに関わって、錬太郎より長いはずだ。

 今でもこんな部活の部員をしていると言うのはどういう気持ちなのだろうか。

「関わろうが関わるまいが巻き込まれるのがオカルト……そうだ、先輩。昼間に話してくれた忠告について何ですけど、あっちについては、確定的にオカルト絡み何ですかね?」

「昼間……? な、何の事?」

「え?」

 きょとんと、こちらを見つめて来る三藤先輩。何の悪意も無さそうなその顔だからこそ、むしろ錬太郎は焦った。

「いや、だから、昼間に音楽室で話したじゃないですか。鏡に絡む怪談話については、関わらない方が良いって言う」

「鏡? 何? そんな怪談話もあったの? さっきの活動報告じゃあ話題に出さなかったじゃない」

 霊子の方も知らないらしい。オカルト絡みの話題だと思っていたから、てっきり、霊子も知っているとばかり思っていた。

 錬太郎は助けを求める様に三藤先輩を見るも、彼女は変わらず、戸惑いの表情を浮かべている。

「ひ、昼って……昼休み……だよね? 昼休みは……ず、ずっと教室に居た……けど?」

 その返答は聞きたく無かった。こちらをからかっていたり、陥れようとしているのならばまだ良いのだ。

 だが、そうで無い場合が問題だ。

「本当ですか、先輩。先輩はずっと……昼休みは教室に居て……俺と話してはいない?」

「う、うん……」

 顔が青くなる。鏡なんて無いから分からないが、そうなっているくらいに寒気がした。

「まさかだと思うけど、錬太郎。あんた、もしかして……」

 嫌な顔だ。霊子も、三藤先輩も、錬太郎だって嫌な顔を浮かべている。

「また……関わったみたいだよ。その、オカルトと」




「それで、三藤ちゃんそっくりの誰かとあんたは話して、鏡にまつわる怪談は調べるなって言われたと」

 一通り説明をしてみたところ、霊子の顔がどんどん真剣そのもののそれへと変わって行った。

 まさかどころでは無く、またしてもオカルト絡みの事件が発生してしまったのだ。

「わ、私の……姿の……お、オカルト……」

 今回に関しては錬太郎だけで無く、三藤先輩の方も関わってしまっている。それを思えば、前に錬太郎が巻き込まれた物よりも、もっと厄介かもしれない。

「錬太郎。あなたが話した三藤ちゃんの……分身? 的な存在だけれど、聞く限りはそれがちょっと問題ね」

「本人が知らない場所で、その本人を見たって言う奴がいるんだったら、そりゃあ問題だろうよ」

 ドッペルゲンガーという怪談話を聞いた事がある。

 自分以外の自分。そこにいるはずが無い場所で、お前を見たと言われる事への恐怖を形にした怪談だ。

 また、自分の前にいるはずも無いもう一人の自分が現れるというタイプの話題もある。

 そちらの場合、もう一人の自分を見てしまった人間には不幸が訪れるとか、最悪の場合は死ぬなんてオチも存在していた。

 今回の場合は前者になるのだろうか。

「問題って言うのはね、あなたが話した三藤ちゃんだけど、三藤ちゃんくらいしか知らない事を知ってるって事なのよ」

「三藤先輩しか知らないって……何かしらの秘密ですか? そういう話題は無かったですけど」

「わ、私の……オカルトに対する……ち、力についての……事」

「ああ。何か特殊な力って言う……え? あれ、もしかして本当の?」

 昼間に会った三藤先輩がオカルトの偽物なのだとしたら、話題の大半が単なる出任せだと思っていたのだが、そうでは無いらしい。

「三藤ちゃんはね、単に相手より強くあったら勝てるとか思う単純なあなたと違って、知的な感じでオカルトと相対しようとしたのね。だから、一風変わったものになった」

 誰が単純だ。だいたい、霊子も錬太郎と似た様な力をオカルトと絡んだ時は発揮すると聞いている。つまり、二人揃って単純なのだ。

 一方、三藤先輩は違うらしい。

「わ、私のはね……オカルトが……み、見える様になるって……ち、力なの」

「……俺も見ましたけど、オカルト」

「そ、そうだよね……だから……頼り無いんだけど……ま、まあ、普通の人より見える……って言うか……」

 何やら落ち込ませてしまったらしい。どう慰めたものだろうかと頭を掻くが、助け舟を出したのは霊子の方だった。

「誰よりもまず、察知できるって事よ。あんたや私より、三藤ちゃんは敏感なの。多分、オカルトに対して、良く観察する事で、それをどうにか出来るって考えるタイプなんだと思うのよ」

 危険に巻き込まれる前に、それを避けると言う事でもあるのかもしれない。

 考えてみれば、それが一番だろう。

 錬太郎だって、オカルトと関わる前に、オカルトから逃げられるのであれば、そうしたい。

「じ、事前察知できれば……向こうが関わろうとしてくる前に……逃げられるから……わ、私。むしろ……他の人より……ちょ、直接オカルトに関わった事は……す、少ないかも……ね」

「だから、郷土風聞研究部の部員も続けていられるってわけ。ほら、ストレス溜まらないでしょ?」

「この部の活動がストレス溜まるもんだって自覚はあるんだな?」

 別にわざわざオカルトに関わる事も無いのだろうが、風聞を聞いて回る活動は、オカルトと関わり易いと思う。

 他にも幽霊部員が居ると聞くが、もしかしたら、その事にうんざりとして、部室に寄り付かなくなったのかも。

「まあ、今は別に良いじゃない。問題は、そんな三藤ちゃんが、今度ばかりは関わってしまったって事よ。それもあんたを通して」

 本人くらいしか知らない事を、そのオカルトは知っていた。それだけで、三藤先輩はオカルトに関わってしまったと言って良いのだろう。

 普段は関わるまいと避けているオカルトが、まさか錬太郎の方へ接触してくるとは、三藤先輩自身、思っても見なかったに違いない。

「け、結局……これからも……き、気を付けるしかないって言うのは……変わらないんだけど……ね」

 身も蓋も無い結論であるが、案外、そういう風に気軽な態度で居る方が、まだ状況としては良いのかもしれなかった。




「少なくとも、俺は嵌められたな」

 部活動が終わって、錬太郎は自宅へ戻って来た。

 どこにでもある一軒家。両親が働き、手に入れたであろう城に、錬太郎は途中から間借りしている形になる。

 これもどこにでもある事として、そんな立場だと言うのに、ベッドで我が物顔でごろごろとするのが、家の子どもと言う存在だ。

 だが、今の錬太郎は、ただごろごろとしているだけでは無い。ほんの少しばかり、焦っていた。

(昼間に会った三藤先輩がオカルトだったとして、何が目的だったかって話だよ)

 ベッドの上で人が転がる時、それは何かを深く考えているか、単にその日一日が疲れる事ばかりだった事への甘えが出ているかのどちらかであろう。

 ちなみに今の錬太郎にはその両者が当て嵌まる。

「やっぱり……嵌められたって事だよな?」

 特定のオカルトに関わるな。あの時の三藤先輩はそう忠告してきた。

 それは、オカルトから遠ざける事なのか。いや、今の錬太郎の内心を思えばそれは違う。

(どう足掻いたって、鏡の関わる怪談についてが気になっちまう。関わる事が駄目だって印象を持たせた上で、それでも、気持ちがそっちへ向かう様に仕向けられたって事……だよな?)

 何かの狙いがあったとして、錬太郎はその狙いに嵌っていると言う事なのだ。これをどうにかするには、錬太郎の精神状態を何とかしなければならない。

(そんな事は無理だし、こうやって鏡の怪談について考えながら、ベッドの上を転がるしかない。それが今の俺だ)

 この思考だけで、オカルトの利となっているのだろうか。そこまでは分からなかった。

 今の錬太郎は、オカルトが関わっている状態になってしまう、身体と思考能力の上昇が存在して―――

「いや……」

 ベッドから一気に起き上がり、自分の部屋の端に置かれた鏡を見た。部屋に最初からあったそれであるが、違和感を覚えた。

 さっきベッドから起き上がった時も感じたのだ。どうにも、身体が軽い気がする。

(能力が上がってる。おい、待てって)

 危険信号を発する思考の片隅で、いや、早く何か行動した方が良い。何かを待ち続けていると、むしろ相手に飲まれてしまうぞと言う考えが生まれる。

 普段の自分では考えられない思考形態。

 オカルトへ対処する時に発生する力が今、ここに存在していた。

(何があるんだとしたら、この鏡だ)

 真っ先にそう考えて、鏡を見続ける。何かおかしなところは無い気がするも……。

(俺が鏡を見ているって事は、鏡の中の俺もこっちを見ている……当たり前の話だよな?)

 だが、鏡に映る自分自身に対して、錬太郎は何か、恐怖を感じていた。

 こちらを見るもう一人の自分。それはこちらの表情をそのまま映して―――

(っ……!)

 鏡から咄嗟に体を離した。鏡の中に、自分自身が映らない様に。

 笑った気がしたのだ。今、この状況で恐怖しているはずの自分が、鏡の中では笑っていた。

「何だ……? いや……やっぱり見られていた?」

 恐る恐る、もう一度、錬太郎は鏡を見た。

 だが、そこには何の変哲も無い鏡があるだけだと知る。

 先ほどまで錬太郎の身の内にあった力の感覚が、無くなっている事を確認したからだ。




 問題は幾つもあった。どうにも今回のオカルトは鏡が関わっている事。それがどういう目的の元、動いているか分からない事。

 そうして一番厄介な問題と言えば……。

「どうにもこっちに働きかけて来る気がありありだって事だよ。また、とりつかれたって奴なのか? 霊子姉さん」

 何時もの部室であるが、放課後では無い。登校し、そのまま安易に授業を受ける気が無くなってしまっていた。

 それでも真っ先に部室へ向かうのは、錬太郎自身、毒されている部分があると感じてしまう。

 もっとも、霊子も三藤先輩も、既にこの部室に居たのであるが。

「昨夜……そっちも昨日の夜の事よね? そっちもオカルトと接触したって事で良いのかしら?」

「そっちもって……霊子姉さんもか?」

「う、ううん。せ、千条先生じゃなくて……わ、私の方も……」

 おずおずと、椅子に座っている三藤先輩が手を上げた。その表情には、やや疲れが見えている気がする。

 たった一日と言えども、オカルトに関わるなんて、精神的に疲労してしまう。

「先輩も、昨日は鏡に何か違和感を?」

「ちょ、ちょっと違くて……わ、私、昨日からずっと……どうしてか鏡に近寄りたく無いんだ……」

「あー、先輩の、特殊な力って奴ですね。そういうところは羨ましいと言うか」

 オカルトに対処する力として、オカルトがありそうなところを事前に避ける事が出来る。三藤先輩の力はそういうものらしいが、身体能力が上がるよりずっと、オカルトに対しては有効なものだと錬太郎は思った。

「三藤ちゃんはそこらが安心よねー。こう、珍しいくらいにほいほいとりつかれる従弟とは大違い」

「最近まで、オカルトそのものを知らないくらいに縁が無かったんだけどな、俺!」

 軽く言う霊子に対して、さすがに怒りを覚えて来る。あちらから接触してきている以上、オカルトが悪意を持っているのであろうから、危機感を持つべきだろうに。

「思い詰めすぎも良く無いわよ。精神的に追い詰められれば、それこそ向こうの思うツボじゃない? それに……ちょーっと何時もとは違う部分もあるし」

「違う? オカルトが?」

 オカルトそのものに、それほど多く関わった事が無いため、何が普通で、何が異常かが錬太郎には分からない。

 そもそも、オカルト自体が異常だとは思うのであるが。

「そ、その……最初に……な、長也君が会った、私の姿をした……オカルトについてだけど……」

「先輩の姿をしていたってのが、こう、嫌らしいですよね。分かりますよ、一番怖いのが先輩でしょうし」

「そ、それもそう……だけど、私だって……違和感なく思ったくらいに……ちゃんと話せてたんだよ……ね?」

「そうですね……それは、はい。普通に会話はしてましたけど」

 記憶を思い返してみても、会話自体にはおかしなところは無かったと思う。最初から意識してみれば、また違っているのかもしれないが。

「明確な行動力のあるオカルトって事よ。前にあんたが巻き込まれた燃える人型があったじゃない? あれも意思とか方向性はあったけど、話し掛けてなんて来なかったでしょう?」

「ああ……話したりできるオカルトが少ないって、そういう事か」

 人間と変わらないか、それ以上に形のある存在と言えるのかもしれない。

 オカルトそのものが、本来はあやふやな存在であるからこそ、そこまで明確な意思を持つオカルトなんて、珍しいのだろう。

「つまり……強力なオカルトって事か?」

「どうでしょうね。強力って言うより、普通に話せるという形にガワを被っているのかもしれないし」

「それは……どういう?」

 聞いてばかりだと思われるかもしれないが、知識が足りないのであるから仕方ない。

 だいたい、もうそろそろ始業の時間が来てしまう。聞ける話は、さっさと聞いておくべきだ。

「た、例えばね……特定の時間に……ある番号に電話を掛けると……聞いた質問に……何でも答えてくれるっていう……お、オカルトが現れるとする……でしょ?」

「そうか。そういうタイプのオカルトなら、むしろ会話したり出来なきゃおかしいわけだ」

「今回は、まさにそんな形のオカルトなんじゃないかって私は思うわけだけど、具体的にどういう形の物かは、さっぱりなのよね」

 頭を掻きながら、霊子の方も困った顔を浮かべていた。三藤先輩を見ても同様だ。悩み、少々疲れている顔。

「……むしろ。こっちから調べてみるってのも手か」

「ちょっと、錬太郎?」

「あっちが調べるなって言って来たんだ。つまり、調べられたら困るかもしれないって事だろ?」

「あんたねぇ。オカルトに対する反作用か何か知らないけど、どうにも積極的になってるわよ?」

 今はオカルトと接触していないのだから、精神的な作用だって無い。ただ、多少なりとも影響は受けているのかもしれない。

「負けるのは嫌なんだ。そう勝ち負けに拘る人間じゃあ無いけど、オカルトに負けたら、取り返しの付かなくなる様な、そんな気がする」

 ある意味で、単純な勝利への欲求よりも切実だった。自身の生存本能に訴えかけて来る様な、そんな部分をオカルトから感じてしまう。

「ったく。分かったわよ。そこまで言うなら、幾らか調べてみなさい。ただ、定期的な報告と、手袋の方も忘れない様に」

「分かってる。手袋の方については……そんなに必要なのか? 昨日なんて、なくてもオカルトに反応しちまったけど」

「す、スイッチみたいな……もので……あった方が……力を発揮できる……き、気がするよ?」

「気分の切り替え用って事ですか? そう言えば、先輩のスイッチって言うのは、どういう?」

「わ、私の場合……そっちも特殊……で」

 何かにつけて特別特殊な先輩も居たものである。

 文句は無いものの、オカルト塗れの日常よりかは、一般的な事柄に囲まれていたいと思う様になったのは、錬太郎の我がままだろうか?




 一日の授業が終わって暫く。錬太郎はまだ自身の教室に居ながら、頭を悩ませる事を続けていた。

(調べると言っても、取っ掛かりがな……)

 まず始めたのは、やはり鏡の怪談について知っているのかと言った類の事からだったが、あまり良い成果は得られなかった。

 学内の怪談を調べる事自体は、オカルトに巻き込まれるより前から行っていたのだ。新たに聞いて周ったところで、新しい結果が生まれるわけでも無い。

(鏡が関わる怪談話は、幾つかあった。理科室と美術室、ついでに階段の踊り場と、らしいと言えばらしい場所にある鏡に、これまたいろいろと映ると言う怪談だな)

 在り来たりと言えば在り来たりだ。どこにでもありそうで、実際に何かが起こるとは思えない、そんな噂。

(実際のオカルトはそういうものじゃあない……と安易に言えないのが悩みだけどな。それにしたって、鏡に何か映るって怪談ばかりだよな)

 鏡は光を反射して、そこに何かしらの像を映し出す。これもまた当たり前の話であるが、その事に人間は、どうしてだか恐怖を覚える。

 覗き込む鏡にもっとも映るのは、鏡を覗く自分自身。良く知っているはずの自分なのだ。だと言うのに、その事に不安感を覚えてしまう。

(何時も、主観でしか自分を見てないのに、客観で自分を見てしまうって言うのが恐怖なのかもな。もうドッペルゲンガーだったか? 居るはずの無い場所に居るもう一人の自分ってのも、そういう恐怖から来てるんだろうが……)

 ふと、思考を止める。いや、別の方向へ進めてみる。取っ掛かりとすら言えないが、思い付いた事があった。

(どっかの鏡じゃあなく、鏡に映った自分が何かをするとか、そういうオカルトである可能性もあるよな?)

 実際、三藤先輩という形をしてオカルトは現れたのだ。

 出会った音楽室には鏡があっただろうか? 鏡なんてものは、結構どこにでもあるかもしれないが、音楽室にある鏡としての怪談は無かったはず。

(考えろよ……どこかに行けば会えるわけじゃあ無い。だが、どこにでも現れる可能性のある相手には、どうやったら―――

「な、長也君……まだ、こっちに……あ、居た」

 ビクリと身体が震えた。

 教室には既に錬太郎しか居なかったし、椅子に座り、机に肘を突きながらぼんやりとしていたから、唐突に話しかけられるなんて、驚くなと言うのが無理だ。

 現れたのが三藤先輩であれば猶更だ。

「な、何ですか、先輩。いきなりこんなところで」

「そ、それは……こっちの台詞だな……って。き、危険な事を……調べてみるって言ってから……すぐ今日の放課後……部室に来なくなるんだもん」

「そりゃあまあ、心配される様な事をしましたけど」

 錬太郎は椅子から立ち上がって、扉近くにいる三藤先輩へと近づく。そうして笑った。

「けど、成果が無いわけじゃあ無いんですよ? さっきから考えて、ちょっと行動の指針みたいな物は出来ました」

「へ、へえ……。そ、それは凄い……けど、ちゃ、ちゃんとした方法……なんだよね?」

 そういう心配そうな顔をしないで欲しい。別に、とんでもない方法を思いついたわけでは無いのだ。

 唐突にグラウンドとかを走り始めそうな輩と思われてそうなのは心外である。

「ま、とんだ考え方である事は確かなんですけどね。聞きたいですか?」

「い、いや……聞きたい様な……聞きたくない様な」

「というのもですね」

「と、止まってはくれないんだ……ね」

 せっかく話をしているのだから、話題は弾んだ方が良いに決まっている。無理矢理に口を塞がれない限りにおいては、話を進ませて貰う。

「相手……つまりオカルトについてですが、こっちに悪意を持って接触しようとしていると仮定すれば、こっちから向こうが寄って来そうな状況を作ってやれば良いんじゃないかと」

「そ、それって……自分を危険な立場に置くって……こと?」

 不安気にこちらの顔を見て来る三藤先輩。心配しているのだろうか。それとも、別の感情でもあるのか。

 あまり見たくも無い表情である。日暮れになってきて、教室が暗くなって来てくれたのが幸いだ。その表情が隠されてくる。

「有り体に言えば、危険ではあります。例えは……誰も無い場所で一人で居るとか、鏡が関わってるんだから、鏡を用意してみたりとか。あ、ほら、これ、実は今朝、家から持って来てたんですよ。何かの役に立つかと思ったんで」

 ポケット入るサイズの手鏡を取り出す。化粧用に使うもので、母親から借りて来たのだ。

 何に使うのか訝しがられたけれど、部活動でどうしても必要なのだで押し通した。嘘は言っていない。

「な、何と言うか……む、無茶してるね」

「ええ、そうでしょう? 丁度今、オカルトが現れそうな状況に、偶然なってるんですよ」

「あっ……」

 日が落ちれば、世界は夜の帳で隠される。すぐ近くに居る人間の顔だって良く分からなくなるのだ。

 そういうあやふやな場所でこそ、オカルトは現れる。そういう物だと聞く。

「ね、ねえ……な、長也君? じゃあ、ここで……オカルトが現れる可能性って……」

「あるに決まってるでしょう。実際、俺の目の前にあなたがいるじゃないですか」

 錬太郎は手袋を嵌めた。

 なるほど、これは確かにスイッチだ。明確に、意識して、自分の中に力が発生するのが実感できる。

 そう。力が発生していると言う事は、ここにオカルトがあるという事でもある。

「えっ……」

「先輩の姿で現れるって事は、やっぱり狙いは先輩の方か? それとも、俺の目の前に居るって事は、俺を狙ってる?」

 錬太郎は拳を握り込み、右腕を三藤先輩……いや、現れたオカルトに対して突き出す。

「……っ」

 その拳が触れるより先に、目の前の三藤先輩の姿をしたナニカの輪郭が崩れた。

 丁度、明かりの加減で全身が影の様に見えるそれが、実際に影の様に不確かな形となり、それが空気へ溶ける様に薄れ、消え去って行く。

 そんなオカルトが完全に消え去る寸前に、笑っていた様に見えたのは気のせいだろうか。

(ああ、気のせいさ。お前の顔は影になって良く見えなかったんだからな。そうして……逃げたわけでも無いらしい)

 力はまだ、ここにある。思考も鋭く尖って行く。オカルトは姿こそ消したものの、どこかへと去ったわけでは無い事を知る。

(この力……便利と言えば便利だ。自分の力の存在で、相手の存在を察知できる。オカルトに対して、人間が優越している理由の一つかもな)

 力の種類とは関係なく、力そのものがレーダーの代わりみたいなものだ。

 三藤先輩のそれは、こういう部分がさらに顕著なのかとも思いながら、今は三藤先輩に化けていたオカルトへ集中して行く。

(逃げないって事は、何かをまだする気でいる。何かをする気って事は、現状のままじゃあなく、さらに状況を進展させるつもりでもあると言う事)

 オカルトの行動一つ一つから、相手の目的を探って行く。

 出来ればここでオカルトそのものを解消したいところであるが、単純に殴れば何とかなる相手で無い事を錬太郎は理解していた。

 オカルトがオカルト足りえる理屈をまず知る。そこから、その理屈に合った勝ち方を狙わなければ、とりつかれたままとなってしまう。

(つまり、相手が逃げ出ささないってのはむしろ幸運だ。相手の形を、さらに知れる機会が―――

 思考を撤回する。どんな形であろうとも、オカルトと出会うなんて幸運では無く不運な状況だろう。

 ましてや、錬太郎が手に持って居た手鏡に、持って居た左手が食い込み始めた状況なんて、不運そのものだろう。

(いや、食い込んでるんじゃあなく、飲み込まれてるのか!)

 咄嗟に手鏡から手を放そうとするも、それは糊の塊かの様に離れない。手鏡はその鏡部分以外も鏡面になっており、その鏡の像へと錬太郎の左手を飲み込もうとしていた。

「鏡の世界への招待状ってか?」

 そちらがどの様な世界であろうとも、あまり良い場所とは思えない。だからとりあえず、招待状に対して暴力に出る事にした。

 手に張り付いた状態の手鏡を、近くの机へ叩き付けたのだ。

 張り付いている様に見えたそれであったが、それでも鏡は鏡。高く不快な音を立てて、手鏡は砕け散った。

「ちっ……!」

 舌打ちをしたのは、目の前で起こった現象への不快感からだ。鏡が割れる音も不快であったが、もっと嫌な事が起こった。

 鏡に飲み込まれていた左腕も、鏡と一緒に砕けたのである。

「鏡の世界に行くって事は、自分も鏡の一部になるって事でもあるのか?」

 不快ではあったが、思考は冷静そのものだった。そういう力が錬太郎にはあるし、砕けた際に痛みが無かったのも幸いか。

 ただ、先ほどまであった左手が無くなっているというのに、喪失感を後押しするはずの感覚が無いと言うのは、むしろ不気味に思えてしまう。

(これもオカルトってわけか……ええい。影響から抜け出せれば、左手も戻って来るよな?)

 そう信じたいところであったし、それどころでは無い状況でもあった。

 砕けた鏡の破片が落ちた床。それが破片の周囲から鏡面化し始めたのだ。

「逃げなきゃいけないのはこっちの方かもなっ!」

 床を避ける様に、錬太郎は廊下へと出る。教室に居たままでは、逃げ場が無くなるかもしれない。

 幸いと言えば良いのか、鏡面化する速度はそれほど早く無く、少し移動すれば逃げる事は可能―――

「くっ……そ!」

 逃げ去ろうとし、廊下へと出て、さらに一歩、足を引いたその先に、何時の間にか砕けた鏡の破片があった。

(小さな破片程度なら……動かせるってか……!?)

 状況を瞬時に把握し、このままでは大変に危険だと判断する。足が鏡に飲み込まれれば、それだけで移動を阻害される。

 無理にで動かせば左手と同じく砕けるかもしれない。結果、完全にオカルトへ囚われる事になるだろう。

「ええい!」

 足を奪われるのは駄目だ。そう判断して、踏み込みそうになる体勢を無理矢理に崩し、廊下に付くのは右手側になる様にした。

 出来るだけ早く、廊下を殴る様に右手を突き出し、その反動で立ち上がる。

 やはり不快な音が響き、すべてとは言わないが、右手の表面が幾つか砕けていた。突いた廊下の部分については、既に鏡面化を始めている。

 砕けた部分の自分の体を見れば、内側にあるはずの肉が見えず、ただ黒い断面がそこにあった。

(こっちも鏡になってないのは幸運さ。そう思え、俺)

 本当に幸運だ。泣き出したくなるくらいに幸運だった。相手を探るより先に、やはり逃げなければならない事が分かる程に幸いなのである。

 錬太郎は再び廊下を走り始める。平行して、床部分が鏡面化していない事への確認も行う。

 なかなかに難しい事であったが、それが出来る頭が砕けていないのも幸いだろう。まったく、世の中、幸運な事ばかりだと思う。

 ただ、厄介な物だって存在している。

 まだ、錬太郎の体から力は抜けておらず、両手だって砕けたままなのだ。間違いなく、あの鏡のオカルトは追って来ている。

(何が狙いだ? 考えろ。何でわざわざ俺を狙う?)

 良く良くオカルトに狙われる体質……なのだとは思う。それでも、今回で二例目なのだから、わざわざ錬太郎を選ぶ事もあるまいに。

(俺を狙い始めたのは……俺が自分かららしい状況を作り出したからだが、狙い続けているのは、俺の存在に執着してるって事だよな?)

 錬太郎はオカルトからは美味しそうにでも見えるのか。それとも、もっと違う理由があるからか。

(鏡……鏡の怪談は……誰かがいなくなる怪談……だったか?)

 他ならぬ、オカルト自身の言葉だった。三藤先輩も鏡についての怪談を知っていなかったのだから、正にオカルトからの情報だろう。

(俺を、この世界から消そうとしているのか? 何のために……消す事自体が目的なのかも―――

 心臓が飛び出そうになった。走る廊下。幾つか曲がり角を曲がったその先で、ばったり三藤先輩と対面したからである。

「どっちだ!?」

「ど、どっち……?」

 困惑した表情を浮かべる三藤先輩。本物か偽物か。まずはそこから判断しなければと思った段階で、錬太郎は考え直す事になった。

「あっ……手が……良かった。治ってる」

「な、なんの……こと? っていうか……今、ぶつかりそうで……危なかったから……ろ、廊下を走るのは……ちょ、ちょっと」

「そんな場合じゃないんですって、先輩! オカルトが現れたんですよ! 例の鏡の怪談のオカルトが! 今はいませんけど……」

 自分の体の中から、力が無くなっている事を感じる。

 つまり、力で対処すべきオカルトの存在が、遠ざかったと言う事だろう。

「そ、それは……どうかな? 多分……ま、まだ近くにいる……はず」

 三藤先輩が、掛けている眼鏡の縁に手を触れる。そう言えば、彼女はオカルトを、他人よりもっと感じたり、見たりできる力があると聞くが。

「もしかして、その眼鏡が先輩のスイッチ的な?」

「て、的な。お、オカルトを事前に避けるには……常に……スイッチを身に付けていた方が……便利……でしょ?」

「なるほどと言えば良いか、常日頃から気を遣うのは、むしろ疲れそうと言うか」

「そ、そこは……慣れ……かな?」

 そんな慣れるくらいにオカルトに関わっているはずの三藤先輩が、まだオカルトは近くにいると言うのだから、まだまだ警戒するべきだろう。

「で、近くに居て、まだ俺達を狙っている……と?」

「それは……そうなんだろうけど……な、長也くんが察知出来て無いのなら、直接何かも……出来ないんじゃあない……かな」

 とりあえずは安全な状況も続いていると言う事だろう。せっかく戻って来た両の手を、再び失う事は避けない。

「じゃあ、これからは鏡に気を付けましょう。どうにも、鏡から体を侵食してくる様な、そんなオカルトですよ、あれ。鏡に飲み込んで、相手の存在を消したりもしてくる。と言うか、それが目的なのか?」

 そこまで言ってから、上手い事が思いつかない。

 力が無くなると言うのは、思考能力も普段並になると言う事。ここからさらに考えを発展させる事が難しくなってしまった。

「相手を……消す……か」

「あ、先輩は何か良い事を思いつきましたか?」

 自分では無理な以上、別の人間に頼る事が大事だろう。三藤先輩は錬太郎より学校の成績も良いはずだ。

「怪談話で……か、語り手が行方不明になるのって……お、おかしく……ない?」

「そりゃあ、確かにそうですけど」

「こ、これが……鏡の怪談に関わるオカルトなら……だ、誰かを居なくしたら……だ、駄目だと思うの」

「そうか。怪談話なら、語り継ぐ人間も必要だ」

 であれば、このオカルトは誰をどの様に襲うのか。錬太郎へ襲い掛かって来た時、本当に錬太郎を鏡に引き釣り込んで、それで終わりとなって居たのだ。

「誰かを襲って行方不明にさせるなら、行方不明になったと話せる人間も用意しなきゃ……ヤバい、先輩」

「う、うん……二人揃った状況は……か、片方を行方不明にして……もう片方を残せる状況だって言う事……だよね?」

「そうじゃない! 俺、今、頭が冴え始めた!」

 オカルトが、また現れる。しかしどこへ。今回は周囲に鏡なんて無いはず。

「やっぱりヤバい……日が落ちた、先輩。校舎の中は、本当にヤバい」

 急ぎ三藤先輩を連れて、手近な窓でも破ろうとする。が、それはもう無理だ。

 日が落ち、外は夜がやってきていた。そうして、校舎にはまだ電灯が点いている。この様な状況において、窓ガラスを見ればどうなるか?

 光の加減により、外の景色よりもまず、自分自身が映るだろう。まるで鏡の様に。

「窓ガラスが無い学校なんてものも無いよなっ」

「ちょ、ちょっと……囲まれた……って、感じ……かな」

 窓ガラスと言っても、鏡そのものでは無いはず。だと言うのに、そこら中のガラスが、向こうの景色を少しも映さず、鏡の様に錬太郎達の姿を映し出していた。

「力云々以前に、オカルトの影響下にあるって事、嫌でも分かりますね。どうしたもんか」

 ガラスは鏡となり、さらに先ほどと同じく、周囲を侵食し始める。

 相変わらず侵食速度は遅々としたものであったが、元となる窓ガラスがどこにでもあるため、校舎すべてが鏡になるのも時間の問題だろう。

「の、飲まれちゃ……駄目」

「と言ってもこの状況……相手の腹の中みたいなものですよ」

 三藤先輩の声援は、少しばかり心を立て直す効果があるものの、それ以上のものでは無かった。

 なにせ、単なる声援をするだけではなく、彼女はもっと逞しい存在だからだ。

「お、オカルトは……所詮オカルト。何もかもは……変えられない。こうやって……世界すべてが鏡になりそうな光景も……あ、あくまで、私達の周囲でしか……起こってない。ほ、他は……普段通り……なの」

 だから逃げ道なんて幾らでもある。楽観では無く、正真正銘そうなのだと三藤先輩は語る。

 その知識は錬太郎に新たな考えを与えるし、もっと言えば、大胆な思い付きも誘発してくれた。

「そういえば……先輩の力って、オカルトを察知するのが俺より鋭いって奴ですが、それだけですか?」

「は、反撃するつもり……何だね」

 勿論だ。

 現状、一人だけでは逃げるくらいしか出来ないかもしれないが、二人でならどうにかなるかもしれない。

 そのためには、もう一人であるところの三藤先輩の力を頼りたいところだ。なにより、単純な力を振るうだけの錬太郎よりも、オカルトに対しては強そうに見えた。

「わ、私の力は……特殊って話はしたけど、力自体は説明した通り。オカルトが……他の人より……良く見える。力は、見える事って言うのが重要……でね」

 三藤先輩の顔を見る。表情では無くその眼鏡だ。眼鏡の片側。右目側のレンズが、紫の色に輝いていた。

「それが……力?」

「そ、そう……こっち側を通してだと……お、オカルトがすっごく良く見える……の」

「へえ。すごく見えるその眼鏡からだと、ここはどう見えます?」

「ま、窓ガラスが……鏡になって……鏡が、廊下へ広がろうとしている……かな?」

「ええ、俺にもそう見えます」

「……」

「それだけ!?」

 驚いて三藤先輩を見るも、彼女はきょとんと頷いて来るのみ。何てことだろう。頼りにしようとしていたが、あんまり頼りに出来なさそうだ。

「良し、先輩。逃げましょう。きっと、方法は何かとあるはずですから」

「ま、待って……ちょっと待って」

「待てません。ほら、鏡が廊下の半分くらいまでに来てますから。逃げないと、足場が無くなる」

「そ、そう? あなたには……そう見える?」

「先輩にだって、そう見えてるでしょう?」

 良く見える眼鏡を持っているのだから、錬太郎よりも、もっと追い詰められていると実感しているはずである。

 だと言うのに三藤先輩は、冷静そのものであった。

「こっち側の……力がある方のレンズからは……そう見えるけど……もう一方は……ち、違う……よ」

「もう一方って……」

 三藤先輩の眼鏡を見つめる。紫に輝いている右側のレンズと……輝いていない左側のレンズがそこにある。

「こっち側は、オカルトが見えない……わ、私は見える力を持ってるから……力が無い方は……お、オカルトなんて見えない。廊下は鏡に包まれてなんかいない。な、長也君……一歩前へ……進んで」

 一歩前は、既に鏡となった廊下がある。だが、三藤先輩の、輝いていない方のレンズの向こう側にある目。その目からは、自信の色が見て取れた。

「一歩……進むだけで良いんですか?」

 言われた通り、一歩踏み出す。明らかにオカルトの領域である、鏡面化したその床を踏み込んだのだ。

 そうして終わる。錬太郎は鏡になった廊下を踏みつけ……そこで終わっていた。

 鏡は錬太郎の体を、欠片も侵食していないのである。

「これは……」

「うん。ただの床を……踏んでいるだけ……だよ。な、長也君」

 それはきっと、三藤先輩がずっと見ているからなのだろう。力の無い方の三藤先輩の目には、ただの廊下と、その廊下を歩く錬太郎の姿がある。

 その視界には、オカルトなんて鼻から存在していない。存在していないのだから、錬太郎が鏡に飲まれるなんてあり得ない。そう映る視界が無い。

 だからこそ、鏡に寄る侵食だって受けないのだ。

 これが、三藤先輩の力と言う事か。

(いや、逆か。力があって、力が無い方もある。力が無いんだから、オカルトの影響だって受けない)

 人間は、オカルトに対して優越する。そういう状況を、ここでもまた知る事が出来た。

 しっかりと、オカルトに関わらないで居られるのならば、オカルトの影響なんて受けるはずも無いのだ。それもまた、人間の強さであるはず。

「窓を……ちょっと無作法だけど……開けて……そこから出よう。あっ……私の視界からは……外れない様に……ね」

 錬太郎は頷き、鏡面となった窓ガラスへ、ざまあみろとばかりに強く、とても強く手を掛け、開く。

 やはり侵食はされず、開いた窓の向こうには校庭が見えた。

 錬太郎は三藤先輩と共に、窓の縁を足場としながら校庭側へと脱出する。

 降り立った校庭側であるが、少なくとも、見える範囲においては鏡が広がっていなかった。

「ふぅ……安全圏……ですか」

 窓からさらに距離を置く。何かが映る様な物はオカルトの力となってしまうだろう。

 結果、校舎から離れ、周囲に何も無さそうな、校庭の中心へ近づくところで、一旦足を止める事になった。

「ど、どう? そっちは……力が抜けた?」

「ええ、俺の方は。三藤先輩どうです?」

「こ、こっちも……特に感じたりは……しない……ね」

「オカルト側も、一時撤退ってところですか」

 少なくとも、すぐさま襲ってくると言う事も無さそうだ。

 その事を確認し、錬太郎は三藤先輩と二人、顔を向き合ってから一息吐いた。

「とりあえず……せ、千条先生に……れ、連絡しておく?」

 ポケットからスマートフォンを取り出す三藤先輩。グラウンドの真ん中近くでそんな事を話し合うのもおかしな光景だったが、錬太郎は頷く事にする。

「あんな教師ですけど、頼りにならなくは無いですしね。お願いできますか?」

「う、うん……」

 スマホを操作して、霊子へ今しがたの事を報告しようとしている三藤先輩。

 錬太郎の方はと言えば、手持ち無沙汰になってしまったため、周囲の警戒でもしておく事にした。

(警戒と言っても、力が発揮できなって事は、近くにオカルトが居ない事が確定だけどな)

 頭を掻きつつ、ならばと頭の方は動かす事にした。

 こちらに関しても、オカルトが近くに居なければ上手く働いてくれない残念な物である。ただ、そうだとしても、考えを纏めるくらいはできる。

(とりあえず、オカルトの目的は、人を行方不明にする事。ただし、怪談の形を取ったオカルトだから、巻き込まれて行方不明になった事を目撃する人間が必要って事でもある……と)

 かなり生きるのが面倒くさそうなオカルトだと思う。生きたり死んだりする様な存在かは怪しいものの。

「も、もしもし? せ、先生……? う、うん。三藤……です。うん……うん……そ、そう。オカルトで……今……学校の校舎なんだけど……」

 さっそく、霊子と連絡が取れたらしい三藤先輩。

 状況説明を続けている様子で、恐らく、電話が終わり次第、霊子が迎えにくると思われる。

「えっと……鏡の怪談の形をした……だから、誰かを居なくするにしても……誰かに見られ無きゃ……え? どういう事? ち、違う?」

「どうしたんですか? 先輩」

 どうにも、単なる報告で終わりそうに無い様子だったので、電話中であるが声を掛けてしまった。

 三藤先輩の顔を見れば、かなり困惑している様子。

「そ、その……まだ油断するなって……言ってる。えっと……狙いは別かもしれない? わ、私が……? 先生……ちょ、ちょっと……先生?」

 どうやら電話が繋がらなくなったらしく、慌てた様子の三藤先輩が錬太郎の方を向く。

「た、大変。また、オカルトが近づいてる感覚がある」

 どうやら電話が繋がらなくなったのも、それが原因に思える。

 いったい、オカルトが電波にどういう作用を及ぼしているのかは分からないものの。

「と言っても、グラウンドには鏡になりそうなものはありませんよ。霊子姉さんはなんて言ってたんです?」

「そ、それが……せ、千条先生の方でも……い、色々調べてたらしくて……やっぱり、この学校に……鏡の怪談なんてそもそも無い……とか」

「じゃあ、何がどうオカルトになったって言うんですか」

「そ、それが……無いものが有る様になった事が……大変な事……みたいに言ってた。怪談のオカルト……じゃなくて……怪談からはまだ何かがある……みたいな……そ、そこで切れちゃって……」

 気落ちし、さらに焦っている様子の三藤先輩だったが、錬太郎の方は冷静そのものだ。慌てている彼女を見て、むしろこちらが落ち着いて―――

(いや、違うっ。俺の方も力が発揮され始めたんだ!)

 思考が鋭くなって行くのを感じて、オカルトの最接近を知る。

 オカルトが力を発揮できそうな鏡なんて無いこのグラウンドに、一体何をどう近寄ろうとしているのか。

「な、長也君……私は……周囲を警戒している……から」

「俺だけ逃げろ……何て言わないでくださいよ。そもそも、どう襲ってくるかも分からないんで、逃げ出せもしない」

 ただ、三藤先輩が周囲を見つめてくれるなら、錬太郎は自分の思考に集中する事にした。

 今、馬鹿みたいな身体能力が役に立つ時では無いため、力を発揮するなら頭の中で行うべきだ。

(どう襲ってくるか? そもそもどうして襲ってくるのか? 霊子姉さんは何て言っていた? 違う? 怪談のオカルトで無いとしたら、何がどんな形を取っている? 無いのが有る様に……だったよな?)

 材料は増えている……はずだ。霊子は電話で、ヒントをくれたはずなのである。

「三藤先輩。霊子姉さんからの話の内容、さっきのだけですか? 何か他に……ありませんでしたか?」

「え、えっと……狙いが私と……な、長也君の二人であるって言うのは……正しい……って。駄目……感覚がさらに強くなってる……どこに……?」

 もう一つ。ヒントが増えた。時間は迫っているかもしれないが、それでも、思考を発展させる事が出来る。

(俺達二人を執拗に狙っているって考えは正しいとしたら……それでも、怪談じゃあ無いんだから、俺を目撃者にする必要なんて無いし……三藤先輩を行方不明にする必要も……いや、待てよ? 何で三藤先輩の方を狙った?)

 音楽室で、初めて現れた時から三藤先輩の姿をしていたのだから、最初から三藤先輩も狙いに定めていたのだ。

 だが、不用意に怪談を調べたり、教室で鏡を用意したりした錬太郎に対して、三藤先輩の方を狙う要件とは何なのか。

(この人も……オカルトに関わってる。多分、それが条件の一つ何だろうが……まだ……何か。そう、俺が教室でオカルトを誘い出した様な、何か、オカルトが望む条件が―――

「そうか! 三藤先輩っ。眼鏡だ!」

「え、ええっ……?」

「眼鏡ですよ! その眼鏡のレンズは、窓ガラスみたいにレンズにも―――

 気が付き、錬太郎はすぐに伝えようとしたのだ。

 三藤先輩は眼鏡を掛けている。その眼鏡のレンズは、校舎の窓ガラスと同様に、鏡に出来るとしたら?

 ならば、オカルトは三藤先輩の傍で、すぐに怪異を発生させる事が出来るではないか。

 その事を察し、だからこそ三藤先輩を標的の一つにしたのだと錬太郎は気が付いた。気が付き、伝えようとしたのに。

 既に、三藤先輩の眼鏡は、鏡の様に、その向こうを映さなくなっていた。

 鏡となった眼鏡から、何か光が発した様に思える。それが、夜のグラウンドにはあまりにも眩しくて、錬太郎は一瞬目を瞑ってしまった。

(それは……失策だろっ)

 瞑った目蓋を、無理にこじ開ける。ただ、やはり一瞬だろうと視界を外してしまった事は、オカルトにとって有利に働いてしまう。

「そ、そんな……嘘っ」

 渦中の三藤先輩が、二人(・・)同時(・・)に(・)声を発した。

「……」

 鋭くなった思考の中ですら、錬太郎は驚愕していた。

 三藤先輩が二人居る。まるで鏡合わせになった様に、グラウンドの中心に、三藤先輩が二人立っていた。

 二人の間には、一枚の板がそこにある。錬太郎には鏡では無く、透明のガラス板に見えたが、二人の三藤先輩にとっては、自らの姿を映す鏡面に見えた事だろう。

 正にそうとしか言えない程、二人は同時に、そうして鏡合わせの形で動いている。

「こ、こうなる事が……お、オカルトの……目的だった……の?」

「先輩……慌てるなってのは無理でしょうが、慌てないでください」

「な、長也君? こ、これは……」

 うろたえ続ける三藤先輩を落ち着かせるため、錬太郎は手のひらを前に出し、そうしてゆっくり声を発した。

「ええ、そうです。そうなるのが目的だって、今気が付きました。それと……俺はどちらの三藤先輩にも話しかけてます。それだけは理解してくださいね」

 冷や汗が頬を伝う。ただ、オカルトの只中にある錬太郎は、目の前の状況の意味について、答えを導き出していた。

(俺に……選ばせる気だ。だから俺と三藤先輩の二人を巻き込んだんだ)

 錬太郎がこの出会った最初の場面。その時語られた鏡の怪談を思い出す。あれがこのオカルトが語ったものだとしたら……。

(鏡の怪談なんて、最初から無かった)

 そんな怪談がある様に、このオカルトは語った。それがこのオカルトの始まりであり、根本だったのだ。

 無いものが有る様になる。なら次は? もっと確かな存在になろうとするのでは無いか?

 例えばそう、オカルトに近い人間をオカルトに巻き込めば、お互いの、存在としての距離は近づき、そうしてあやふやになる。

 そのあやふやで、二つの存在の区分けが曖昧になったその瞬間に入れ替われば……成り代わる事だって……。

「俺が……どちらかの三藤先輩を本物だと断定した時点で、多分、片方の三藤先輩は消える……そういう事なんだと思います」

「う、嘘……」

 オカルトと三藤先輩。それぞれはオカルトの狙いにより、等価となってしまった。

 それを狙って、最初から三藤先輩の姿で現れていたのだ。錬太郎が偽者だと判断できないくらいに精確な姿で。

 観測者として選ばれたのは錬太郎。どちらかを選んだ時点で、本物かオカルトかが決まり、どちらかが消えて、どちからが残る。五分と五分。

(確率としては……オカルトが賭けに出てるって事なんだろうが……三藤先輩の命が2分の1の確率で消えちまうんだぞ? ざけんなって話じゃねえか!)

 どうすれば良いのか。どちらを選ぶのが正解か。錬太郎は頭を悩まし続けていた。

「な、長也……君」

「……何でしょう」

「ほ、ほら……鏡合わせの形になってる……から……鏡面の向こう側の私が……偽者なんじゃあ―――

「駄目だ、三藤先輩。それ以上言うのは危険だ。何もかもを決めてしまう言葉に成り兼ねないから……慎重に」

 確かに、先ほどまでの三藤先輩とはまったく左右逆になっている三藤先輩はいる。

 本物と偽者を安易に決めるのであれば、逆になっている三藤先輩が偽者と言う事になるのだろうが……。

(この場において、賭けに出たオカルトが、そんな分かり切った分かり易さを放置してるかって事だ)

 もしかしたら、本当に安易な正体判別方法かもしれない。

 だが、そうでは無く、三藤先輩本人が、本人も気付かない内に、左右が反転した行動をさせられているのかもしれない。

 それにしたところで可能性は五分と五分。事態はまったく好転していない。

「そ、それでも……この状況が続く事の方が……も、もっと厄介かも……だよ?」

「そりゃあそうですが、先輩の命……掛かってるんですよ。だから俺……何とかしてみせなきゃ駄目なんです」

 だから、錬太郎が答えを考え出さなければならない。

 この、三藤先輩と成り代わろうとしているらしきオカルトを、どうやって解消すれば良いのだ。

(答えが無いなんて言わない。考えるだけの材料はここにある。考えられる頭もある。なら、後は答えを出すだけだろう?)

 しかして、このオカルトは相応に用意周到だ。まるで誘い出されたかの様に、この状況を作り出している。

 だからこそ、選択肢は慎重に選ばなければ、相手の罠に嵌ってしまいそうになる。

(考えろ……考えろ考えろ。この場は相手が用意した、相手にとって有利な場所……それをどうにかするには、生半可な結論じゃあ……いや……)

 本当に、困難極まる状況か? 錬太郎の脳裏に誰かが囁く。

 人間は何時だって、オカルトに優越できる。追い詰められた様な状況だとしても、考え方一つで、こちらの圧倒的優位となる場合だってあるはずだ。

(目の前の先輩を、確実に、安全に助け出せる事だって……ある)

 脳裏への囁きとは、自分の発想から来たものである。そんな、ふいにやってきた発想に対して、錬太郎は吹き出しそうになった。

 なるほど、そういう方法もあるじゃないか。

「先輩……朗報です」

「え、えっと……それは……良い意味での?」

「悪い意味での朗報って何ですか。いやまあ、これが通用するのなら、あれこれ悩まなくて済むってわけで……土台自体を崩します」

 錬太郎は立ち止まる事を止めて、歩き始めた。向かう先には、正しい動き方をしている三藤先輩が立っている。

「ど、土台? やっぱり……こ、こっちの方が本物っていう―――

「ストップ。まだ黙っていてください。そういう形で本物と偽者が分かったわけじゃあ無いんですよ」

 そもそも、まだ錬太郎には判別が出来ない。

 きっと、どれだけ時間を費やしたところで、その状況は変わらないだろうし、時間が経てば経つほど、こちらにとっての不利になりそうな、そんな予感だってする。

(オカルト側が用意した舞台なんだから当たり前だ。だから……オカルトに相対する人間としてするべきなのは……相手の舞台ごと崩してやる事)

 ポケットに手を入れ、そこにあるものを取り出す。

「そ、それは……」

「ええ、ガラス片です。さっき、校舎から出る時に、何かの役に立つかもとか思って、持って来てました。考えてみれば危険な事ですよね、これはオカルトの影響下で鏡になった、窓ガラスの破片なんですから」

 三藤先輩の眼鏡のレンズの様に、これがオカルトの媒介になる可能性だって十分にあっただろう。

 それを、何故か錬太郎は持って来ていた。わざわざ、意趣返しの様に窓ガラスの一部を割ってまでだ。

(何だろうな。これにしたって、まるで最初から答えがあったみたいだ。こっちに関しては、俺の思考の問題だけどさ)

 オカルトの影響下に置かれた際の錬太郎は、思考の鋭さが度を超えている気がしてしまう。

 ただ、その部分に関して考えるのは後だ。今の思考は、鏡のオカルトをどうするか。

「な、何でそんなものを……って突っ込みは……あ、後にしておく……ね。それを……どうするつもり……なの?」

 恐れた様子の三藤先輩であるが、彼女の感情がどうであれ、錬太郎はやるべき事を変えない。

(この、正しい動きと姿をしている三藤先輩の方。この位置で正しいはずだ)

 そちら側の三藤先輩ともやや距離を置くが、二人の三藤先輩の間にある一枚のガラス板。三藤先輩にとっては自分を映し出す鏡の様にあるそれを、錬太郎は正面で捉え続ける。

「先輩、俺、思うんですけど、やっぱり、こういう状況であろうとも、オカルトより人間の方が強いんだ。俺はそれを実感してる。だから……確実に先輩だけが助かるって信じてます。けど、先輩は信じ切れますか? オカルトより、自分の方が強い存在だって」

 最後、自ら見つけた引き金を引く前に、三藤先輩にも確認する。どちらの三藤先輩へも話しかけたつもりだ。だから、どちらの三藤先輩も同じ言葉を発した。

「う、うん……信じてる……よ。私は……オカルトの私より……強いって」

 上等だった。ならば憂いは無い。錬太郎はその位置で、手に持ったガラス片を、三藤先輩を挟み、グラウンドの中央にあるガラス板へと向けた。

「そ……それが……何?」

「これだけすよ、先輩。合わせ鏡って……さすがに知ってますか。鏡と鏡を合わせて見たら、無限の像がお互いの鏡に映るって言うあれです」

「う、うん……けど……それが……あっ」

 さすがに先輩も気付いたらしい。だが、オカルトの方がどうだろうか。

「これは当たり前の理屈だ。単なるそういう現象だ。けど、オカルトにとっては違う。オカルトが鏡の中から現実に出て来ようとして、今、先輩とオカルトの二者択一で俺に選ばせようとしているのなら、俺はこう言う」

 錬太郎は笑う。まさにオカルトが用意した舞台をぶち壊すその事への快楽か、それとも何か、もっと違う感情からかは分からない。

 だが笑い、錬太郎は言葉を発していた。

「この合わせ鏡に映った幾つもの三藤先輩のうち……どれを選べば良いんだ?」

 手に持ったガラス片は、やはりオカルトの影響を受けて鏡面となっていた。その鏡面は、二人の三藤先輩の間にあるガラス板を反射して……複数の像を成す。ガラス板が二人の三藤先輩にとっての鏡として存在するなら、そうなるはずなのだ。

 ならば、発するのは先ほどの言葉だけで良い。

 普通の人間は、こんな言葉を向けられただけでどうにかなるはずも無いが、オカルトは別だ。

(お前は、三藤先輩と等価になって、どちらかを選ばせる事で、現実の三藤先輩と取り代わろうとしたんだろう? だが、こうなればその土台が無くなるよな?)

 無数に映る三藤先輩の像。三藤先輩の姿になり、三藤先輩と等価になろうとしたオカルトにとって、自らを幾つもに引き裂かれた様なもののはずだ。

 幾つもになった三藤先輩の内、どれを選んだところで、オカルトにとっての一部でしかない。そうであるなら、どれを選んだところで、オカルトは三藤先輩になれやしない。

「本物と偽者。二つの内の一つを選ぶから意味がある。偽者の像が幾つもある中で、一つを選んだところで、価値が残るのは現実の本物だけだ!」

 叫ぶものの、叫ぶ必要すら無い程に、既に決着はついていたのかもしれない。

 グラウンドにいた二人の三藤先輩は、今は一人となり、間にあった一枚のガラス板も無くなっていた。錬太郎が持っていたガラス片も、同じく姿を消している。

 割って持って来たものだが、そもそも窓ガラス自体が割れていない事になったのだろうと思う。

 すべてのオカルトは消え去り、その結果も存在しなくなった。何時もと変わらぬ日常が戻って来たのだ。

「な、成り代わろうとしている……存在に対しては……そもそもその存在を……う、

薄めてやれば良いって事……なんだね」

「はい。そう思ったわけですよ。幾らあの瞬間、先輩と等価になったとしても、俺に選ばれなければ本物になれないくらいには、存在が薄いわけですから。さらに薄まれば、残るのは本物の先輩だってわけで……それで……ええっと」

 あの場において、何かを選ぶのは間違いだった。もっと別の方法を見つける事が正解……だったのだと思うが、オカルトが過ぎ去ったせいで、頭の回転が遅くなって行く。

 霞がかった様に、今まで考えていた事が考えられなくなると言うのは、どうにも不快感が勝ってしまう。

「わ、分かってるから……無理しなくて良いよ。とりあえず……オカルトは解消されたみたいだし……ね」

 オカルトにはとりつかれていないのだから、オカルトについて深く考える必要も無くなった。三藤先輩のその言葉に、錬太郎も漸く安堵する。

「なんて言うか、オカルトが現れると、自分まで変になるから、妙な気分になるんですよね。そこがもっと、オカルトと関わりたく無くなると言うか……」

「そ、それも……分かる……よ。だから……あまり考え過ぎない様に……ね」

「分かってます。今日だって、これで終わりなんですから、さっさと帰って……あ」

「ど、どうかした?」

「いえ、ちょっと……母親から借りてた化粧用の手鏡……教室に置きっ放しにしてたのを思い出しまして……回収してから帰る事にします」

 確かオカルトに巻き込まれたので放置していた。オカルトだって悩ましいが、家に帰ってから母親に貸した鏡はどうしたと聞かれた時だって悩ましい問題だ。

「じゃ、じゃあ、今から取りに行けば良いと思う……よ。せ、千条先生への連絡も……こっちで済ましておく……ね」

「あー、そっちもしとかなきゃでしたね」

 霊子はまだオカルトが解消したと知らないため、今でも慌てていて、錬太郎達を探しているかもしれない。

「あ、明日になって……大慌て……何てことには、な、ならない様にしないと……ね」

「霊子姉さんなら、それでもあっけらかんとしてそうですけど」

 そんな風に笑い合いながら、日常が戻って来た事に安堵する。夜はまだまだ深まって行く時間帯であるが、それでも、オカルトの時間は終わったのだ。




「どこに落としたっけなぁ……」

 オカルトが終わった後の日常だって、怖いものはある。例えば母親の怒り顔等だ。

 子どもの頃から悪い事をしたら叱られる。そういう形で作り上げられたトラウマとやらは、幾つになっても晴れないものだ。

 オカルトに巻き込まれて後、すぐに一人、教室に戻ると言うのは。なかなかに勇気のいる事であったが、それ以上に母親が怖い錬太郎であった。

「男は幾つになってもって奴で……あん?」

 教室に戻ると、すぐに探していた手鏡を見つける。オカルトから逃げる際、扉の近くに捨てたので、探す必要すら無く目に入って来た。

 そうして、捨てられた手鏡は見事に割れている。鏡面は見事にバラバラになって床に散らばっていた。

(やっば……)

 壊れた手鏡は、そのまま母の怒りを意味している。焦らない理由は無く、実際、錬太郎はそんな感情を覚えた。

 これも問題と言えば問題であるのだが、そこでさらに、もっと大きな問題が浮かんで来た。

「……なんで割れてる?」

 世の中の不条理を愚痴ったわけでは無い。

 もっと単純に、割れているはずが無いから呟いたのだ。

(確か手鏡は……先輩の姿をしたオカルトが現れた後で……)

 少し前の記憶を掘り返す。オカルトに遭遇した際、錬太郎はその手鏡に手を飲まれたはずだった。

 結果、振り払う形で手鏡を手ごと割ってしまい、オカルトの脅威を体感する事に―――

「だから何でそのオカルトに巻き込まれて割れた手鏡が、まだ割れたままなんだ!?」

 頭の中で危険信号が駆け巡って行く。

 オカルトに寄る被害は、オカルトが解消すれば、まったく無かった事になるはずだ。

 そうで無ければ、オカルトが引き起こした害が世の中のあちこちに残り、もっと世界は混乱しているはず。

 なら、この割れたままの手鏡は何なのか。オカルトが消え去ったのに、その結果はまだ残っていると言う事か。

 もしくは―――

(鏡のオカルトはまだ……!)

 咄嗟に割れた手鏡から距離を置こうとするも、そこで何とか足を踏ん張り止まる。

 錬太郎の背後にある教室の扉。それが閉まっていた。閉めた記憶が無いそれであるが、そのすべてが鏡面となり、錬太郎の姿を映している。

「おいおいおいおい」

 背後、教室の出入口がある方の面すべてが鏡面となっていた。何時からだろうか。錬太郎が教室へと入って来る前からか、それとも、それだけの事を一瞬で仕出かしたのか。

(逃げろ。このオカルトはまだ生きて……こっちもかよ!)

 もう一方の面。そこにある窓ガラスを再び割って、教室から逃げ出すため、教室の窓際側へ向かおうとするも、そちらも何時の間にか鏡面となっている。

 そうして鏡面はじわじわと教室中を包み込もうとしてきた。いや、速度はこれまでよりも、相当に早い気がする。

「こりゃあ……向こうも破れかぶれで、俺に恨みでも晴らすつもりなのかね?」

 どう考えても、先ほどまでのオカルトより慎重さが欠けていた。

 オカルトにとって、怪異はどの様なルールで起こすかは皆目見当が付かないが、それでも、無理をしているのだろうと思われる。

(これをしたところで……お前は力を使い果たして消え去りそうな……そういう必死さがあるよな、この状況)

 だからこそ恐怖する。

 少なくとも、自分の目的をぶち壊しにした錬太郎だけは潰す。そんな意思が感じられた。

(そんなもんは錯覚かもしれないが、それでも今は逃げなきゃならない!)

 教室中を見回し、安全圏を探る。大丈夫、頭はちゃんと回っているから、ここで混乱して、オカルトに飲み込まれるなんて事にはならない。

 錬太郎は、ひたすら自分に言い聞かせていた。

 実際、安全そうな場所は見つける事が出来た。

(掃除用具入れのロッカー!)

 鏡に飲み込まれていないそれ。ロッカーを開いた先だって、まだ鏡では無いかもしれない。そう信じてロッカーへ走り、開く。

「っ……!」

 勿論、そこにあったのはオカルトの罠だ。

 そもそも、ロッカーは出入口近くにあったのに、外側が一切鏡面に覆われていない違和感に気が付くべきだった。

 ロッカーの中身は一面に鏡だった。

 そもそも、この教室全体が、既にオカルトの影響下にあるのかもしれない。見えるロッカーの中の鏡は、オカルトの意思を表している様である。

 お前はもう逃げられない。お前だけはここで消してやる。そんな意思がこのロッカーの罠からは感じ取れる……が。

「お前が本当にそう考えてるのなら、やっぱりお前は人間に負けるんだ」

 鏡の箱と化したロッカー。それを見つめる錬太郎は、そのままロッカーに飛び込んでいた。

 鏡面に触れれば、そのまま鏡面を通してオカルトは錬太郎を侵食してくる。

 ロッカーの中身はすべて鏡なのだから、すぐに錬太郎は身体ごと鏡になってしまう事だろう。

 そうなる前に、錬太郎はロッカーを閉じた。蓋の内側もまた鏡面。すべてが鏡面となっているその箱の中で、それでも錬太郎は笑う。

「姿を映さない鏡があったとして、それは鏡って言えるのかね?」

 ロッカーを閉じた。一面が鏡となったロッカーを完全に閉じたのだ。そうなればどうなる?

 鏡があるのだ。四方と上下を囲む鏡だ。

 そうして明かりは無い。光も差し込まないこの暗闇の中。進む事も退く事も遮る鏡だけが感触としてそこにはあるのだろう。

 錬太郎は鏡に閉じ込められてしまっている。逃げる事を許さないこの鏡の部屋に。

 そうして錬太郎の意思は何時しか、鏡に囲まれたこの部屋の暗闇に消え去ろうと―――

「そうはならない。鏡に囲まれた部屋だろうと、光源が無ければ単なる暗い部屋だ。このロッカーが暗闇の中にあった時点で、ここには鏡らしきものは無くなるんだよ。当然、お前もだ」

 オカルトに語り掛ける。人間はオカルトを優越し、何時だって打開策が用意されている。今回はこれだ。

 鏡は周囲の光景を映すからこそ鏡。その機能が無くなった時、鏡に依存したオカルトは、その存在を揺らがせる。

「消え去るのは……お前の方だ」

 少しばかり、時間が過ぎた。

 暗いロッカーの部屋の中、感触がふと変わる。鏡面に触れた様な感触は無くなり、掃除用具入れの、臭い、雑多で、鉄の感触のするそれが戻って来ていた。

 錬太郎は意を決して、ロッカーを内側から開く。

 そこには鏡面に包まれた教室があるはずも無く、何時も通りの教室がそこにある。

 出入口付近には手鏡が転がっていた。別に割れてはいない、何の変哲も無い手鏡が一つだけ。

「……まあ、こんなもんさ。人間に成り代わろうなんて大胆な事でも考えたんだろうが、人間の屁理屈なんて、真似したくも無いだろ?」

 暗い場所にある鏡は、人を映さないのだから鏡では無い。そんな屁理屈の元、消え去ったオカルトに対して、錬太郎は呟く。

 勿論、既に解消されたオカルトが、その言葉に何かを返して来る事は無かった。




 錬太郎はオカルトについてを話す。

 これまでで二度、巻き込まれた錬太郎にとって、それが無為であったとしても、やらなければならない事であった。

 しかし、話が出来る場所と言うのは限られているし、話せる相手だって数える程だ。というか、この郷土風聞研究部の部室と、その部員及び顧問しか心当たりが無い。

「昨日の夜は大変だったみたいね。やっつけたと思ったらまた襲われて……だったのかしら?」

「勘弁して欲しいんだよ、こういうの。つい最近まで、平凡な日常を送ってた身で、命の危険が結構な頻度であるなんて、世の中、こんな物騒だったのか?」

 朝の部室で、顔を出している霊子に話す。用意された席には錬太郎と、同じく危険なオカルトに巻き込まれた三藤先輩が座る。

 こういう風景にも慣れて来たところであるが、決して慣れたくない状況ではあった。

「言われても、私がオカルトの動きをどうこうできるわけじゃあ無いんだけども……いえ、それでも、ここ最近は本当に物騒よねぇ」

「そうなのか?」

「そうなのよ。こんな近い頻度で、危険を感じるレベルのオカルトが現れるなんてのは、早々に無いもんなの」

 深刻そうな顔をしている霊子を見れば、嘘は言っていない様に見えた。

 となると、ここ最近は異常気象の様なものなのかもしれない。オカルトが気象なのかも分からないが。

「ちょ、ちょっと……嫌な予感とか……し、します……よね」

「先輩も怖い事言わないでくださいよ。嫌ですよ、俺。またオカルトに巻き込まれるの」

「まあまあ。単なる偶然かもしれないじゃないの。昔の人は良く言ってたわよ? 一回までは偶然だって」

「二回目からは必然って続かないか? その言葉」

 何にしても、三回目のオカルトは起こって欲しくない。錬太郎は切に願う。

「さすがに次があるのなら、私も色々と考えるわよ。どうにも、前回と前々回で、妙な共通点があるっぽいし」

「きょ、共通点……そういう話も……な、何か……怖いです……ね」

「ねー、オカルトなんて、あやふやで不確かだから、まだ受け入れられるってのに」

「分かる話だけど、そもそもその共通点って何なんだよ」

 警戒できる事があるのなら、情報として知りたい。そう思えるくらいに、錬太郎は切羽詰まっていた。

「こっちもまだ偶然かもしれないけどね。燃えながら落ちる人間についても、鏡の怪談についても、ほら、とっかかりは噂話じゃない? 誰かが噂をしている。そんな話がきっかけとなって、あなた達は巻き込まれてる」

 郷土風聞研究部の活動がその噂に引っ掛かるものであるため、オカルトに巻き込まれたのではないか。

 霊子にそう言われて、錬太郎は少しばかりぞくりと来た。

 噂なら、まだあちこちで流れている。形を変え、実態も無く、内容だってバラバラなそんな噂話は、オカルトみたいに解消せず、街中を常に流れているのだ。

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