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ヒが落ちる

 人間の形をした炎が空を舞っている。

 時間は夜。月の出ていない薄暗い夜の帳を、その炎は照らしていた。

 燃える人型。それだけでも異様な光景たと言うのに、それは空を飛び回り、そしてこちらへと襲い掛かって来るのだ。

(くそったれ!)

 その光景に、心の中で悪態を吐いた長也(ながや)(れん)太郎(たろう)だったが、くそったれな光景だけで済むのであれば、そもそも悪態を吐かない。

 最悪なのは、炎の人型が錬太郎へ向かう様に空を突き進んで来たのだ。

 その速度は、まさに空から落ちて来る人間のそれ。

(走って……逃げられるか!?)

 空から落ちているというのに、明らかに錬太郎の方を目標にしている。ならば考え、戸惑っている時間すらもあるまい。

 あの速度の炎の塊に当たれば、どう考えても無事ではいられない。ならばと恥やその他もろもろの感情も捨てて、錬太郎はその炎から背中を向けて駆け出しだ。

 それにしたってギリギリだろう。背を向けていたとしても、近づくその炎は、熱量と光量で錬太郎に恐怖を与えて来る。

 そうして、それを感じた以上、炎がぶつかるのはすぐ後の事であった。




 県立中野鳥高校は、地区で可もなく不可も無くという評価を受けている、平凡な高校の一つだった。

 少子化が叫ばれる昨今、それなりに新入生の減少に悩まされたりもしているが、通う生徒にとってはあまり関係ない。

 変わらぬ日々を三年程過ごし、そうして卒業する。それが当たり前だし、そうであって欲しいと、錬太郎は常々考えて過ごしていた。

「そういうのってねぇ、駄目よ? 若いうちからそういう爺臭いの、人生の先達として駄目出ししちゃう」

「駄目だって言うんなら、霊子姉さんが部室でダラダラしてるのが一番そうだろ……えっと、放課後にも、教師って仕事があるんじゃなかったか?」

 錬太郎は今、高校の片隅にあるプレハブ小屋の一室に居た。

 部員数の少ない部活動の部室として使われているそのプレハブ小屋であるが、その場所の主であると言わんばかりにくつろぐ女がここにいる。

 名前を千条(せんじょう)霊子(れいこ)と言い、この学校の教師兼、錬太郎にとっては従姉でもあった。

 まだ確か20代だったはずだが、若々しさと言うより、この場においては図々しさを全開にしている。

 狭い部室にデカデカと置かれた安いソファー。そこへだらしなく身体を預け、一応、ワイシャツとタイトスカートと言う出で立ちでながらも、色気すら感じさせてくれない女なのだ。

 黒く長い髪も、やはりだらりと広がって、死に掛けの蜘蛛の様である。

 一応、外見上は美人の部類に入るとは思っているが、それはもう少しばかり、普段の言動に気を使ってくれればの話だ。

「あーによ……一応、ここの顧問なんだから、放課後に居たって別に構いやしないでしょーが。仕事なんて、あれよ、叱られてから動き出せば良いの」

「何だろうな、常々思うんだが、担任でも無いんだから、この部活に入らなきゃ、早々顔を合わせる事も無かったよな」

 錬太郎は、目の前の女との血の繋がりを感じさせる、同じ色合いの髪が生えた自分の頭を掻く。

 放課後、日も暮れて来た時間帯に、帰宅するのではなく部室に足を運んでいるのだから、錬太郎はこの部室を与えられた部活の部員であった。

 そうして目の前の女も、本人が言う通りに部活の顧問である。

 部活名は『郷土風聞研究部』。何かズラっと文字が並んでいるが、地域の噂を集めてぐだぐだ話し合う部活らしく、これでも結構な伝統があるとの事。

 どれくらいの伝統かと言われれば、目の前の女がまだ学生であった頃には、既にあったらしい。

 つまり錬太郎にとって、教師であり部活の顧問であり、従姉でもあるこの女は、さらにこの高校のOBでもあるのだ。

「嬉し恥ずかし青春の一ページがこの部室あるってのに、それが部員数減少に伴う廃止なんて事になっちゃあ事でしょ? どんな手でも使って部員は確保してやるわよ。悪い?」

「良いところがあると思ってんのか? だいたい、入学すると同時に、もし入部届を出さなきゃ、どんな手を使ってでも担任になってやるなんて脅してきやがって……」

 その時はあまりにもな剣幕に押され、入部届に印を押してしまったが、冷静に考えてみれば、この女にそんな権限は逆立ちしたって有り得ないわけで、騙されたと言う思いが強い。

「だいたい、口が悪いわよ、錬太郎。私ったら、教師で年上であなたのお姉ちゃんみたいなもんじゃないの。こう、畏まってニコニコしつつ、お姉さん大好きーとか言えないもんかしらね?」

「悪いな。昔っから厄介この上ない女だと思ってるし恨みも持ってる相手に、本性隠して何時か寝首を掻いてやろうと油断させるには、まだ人生経験が足りないんだよ」

 まあ、この女とは本当に昔からこんな関係だ。

 何時からだろうかと思い出して見ると、物心付き始めた頃からなので、きっと生まれたその瞬間から、宿命の敵か何かだったのだと思われる。

「はぁー……憂鬱だわねぇ。可愛い弟分は何時からこんなひねくれ野郎になっちゃったのかしら。目付きも悪いし、高校生にもなって帰宅部を選ぼうとしていたし。それを何とかしようとした親切心を曲解するし、目付きも悪いし」

 こういう嫌味を、正面から受け止めてはならないと学んだのが何時かと言う話なら、5歳くらいからだったはずだ。

 その年の正月のお年玉を、右腕から破壊的な力を持った魔物が出て来るのを抑え付けるために金が必要だという理由で騙し取られてしまった時から、信用できない相手である事を学んだのだ。

「無理矢理入らされた部活に、こうやって、結構な頻度で顔を出してる事に感謝して欲しいってところだろ。これは」

「そ、その点……り、律儀だよね。長也くんって………」

「あ、三藤(みとう)先輩。お疲れさまっす」

 何時の間にか、部室に人間が一人増えている。現れた存在感の無さそうな彼女の名前は()(とう)井伊子(いいこ)

 錬太郎が今年入学の一年であるところを、彼女は三年生であり、要するに先輩だ。この郷土風聞研究部の部長でもある。

 眼鏡を掛け、肩に掛からない程度に伸ばした髪は、パーマも掛けてないのに、きちんと整っている。

 服装に関しても制服を規定通りに着込んでおり、物腰も穏やか。見た目通りの真面目な人であった。

 錬太郎にとっては、素直に敬う事が出来る相手でもある。

「そ、それほど……疲れてるってわけじゃ……な、無いけど、お疲れ様」

 ちなみの彼女からは、吃音で喋り掛けられるくらいに、人見知りされているところがあるものの、入部してからはそれなりに距離感を近づけられている。と思う。きっと。

「よっし、じゃあこれで全員揃ったわね!」

「ぜ、全員……じゃあ……な、無いです……けど」

 三藤先輩はそう言うが、他は幽霊部員と言うか、霊子が無理矢理に入部させた上で、名前だけ置いている生徒しか居ない。

 錬太郎とは、一度も顔を合わせてない生徒だっているはずである。

「先輩、諦めましょうって。この三人が何時ものメンバーで、他はいない。もう、どこにも」

「な、名前だけは……お、置いてくれてる……もん」

 しんみりとしたところで、視線は霊子へと向かう。

 部活の方針としては名前通り、郷土の風聞を研究するわけであるが、具体的に何をすれば良いのかは顧問の彼女が決めるのだ。

「じゃあ、そろそろ何かしらの活動をしないと、指導教諭あたりから部活を潰すぞと脅される感じになってきてるから、二人に調べて貰いたい事があるのだけれど」

「相変わらず、すっげぇ後ろ向きな活動方針だよな、この部」

 部員も部を潰さないために存在するのであれば、部の活動も部を潰さないためにある。もういっそ、潰れてしまった方が学校のためなのではと思わなくはない。

「そうつんけんしないの。これも文化と歴史と、私の思い出を守るとかそんな感じのため。やる事は簡単よ。兎に角、私が指定する噂話について、あれこれ集めて来なさい。三藤ちゃんはそういうの苦手だから、特に錬太郎。あんたが頑張るの」

「何時もの事だから文句は言わないけど、何時も通りくそったれって言わせて貰うな」

「ご、ごめん……なさい」

 悪態は霊子に対して吐いたつもりだが、萎縮したのは三藤先輩の方だった。

「あ、いや、三藤先輩が悪いってわけじゃなく、この根性ねじ曲がり教師の根性を、多少なり軌道修正するための言葉なだけですって」

 この気弱な先輩は、こういう風にちゃんとフォローしてやらないと、その日一日落ち込んだままになってしまうのだ。

 顧問がそんな生徒の繊細な心を気にしない大雑把な女であるから、代わりに自分が気にする必要があった。

 それに、三藤先輩が本当に役に立たないわけでは無い。

「あちこち聞いて回るのは俺がやりますから、先輩はこう、良い感じのまとめお願いします。やっぱり、活動報告の体裁はきちんとやらないと」

 研究しているのだから、情報を集めた後は、それをらしい形にしなければならない。

 錬太郎はそういう部分は苦手だから、三藤先輩の存在は有難かった。

 もっとも、部活動そのものが存在しなくなればそれが一番良いのであるが、顧問はそれを許してくれないだろう。

「ぶ、分業で、頑張ろう……ね。そ、それで……今度はどんな……う、噂話……を?」

「ふふーん。もう、夏も近い季節でしょう? だから怪談話なんてどう? 燃えながら落ちて来る男の話とか」

「なんだよそれ、熱血が余りに余って足を踏み外した男の話か?」

 そういう馬鹿話をしそうではある。そうでなくとも、何時だって馬鹿な話を持って来るのがこの霊子と言う女である。

「似てる様でぜんぜんちがーう。ほら、あんたが入学してくるちょっと前に、西の団地で自殺者が出たって事件あったじゃない?」

「あー……そういやそんな話が」

「なんていうか、あれがなんか、今頃噂話になっちゃってるみたいで」

「え? それを調べろって?」

「せ、先生……ふ、不謹慎……です」

 三藤先輩の言う通り、人の生き死にをネタにすると言うのは抵抗感がある。教師がその様な話を持って来るなんて、どうかしているのでは無かろうか。

「ちょっとちょっと、違うのよ。いえ、自殺者の件は本当だけど、興味は湧く題材なのよ? 噂話に寄ると、どうにもその自殺者。男性で、団地の屋上で焼身自殺を図ろうとしたらしいのよね」

「あん? 確かあの事件、自殺は転落死に寄るものだって話じゃなかったか?」

 疑問符を浮かべてみるも、詳しくは知らないため、自分の間違いである可能性はあった。

「えっとね、だから噂話だとこうなのよ。初め、焼身自殺を図ろうとしたその男は、それでも、その炎に苦しんだ。現金なもので、苦しくて耐えられなくなった男は、人に助けを求めるの。けど、団地の屋上なんてなかなか人が居ないわよね。だから人が居る方。屋上から見える、下の道路に向かい……」

 落ちて来た。と言う話なのだろう。夏場の怪談話らしい噂話だと思う。だが、それを聞いた上でも、変わらない部分はある。

「や、やっぱり……ふ、不謹慎」

「それこそ死ぬまで苦しんだ人間の話をって事ですからねぇ」

「だから待ってってば。本題はここからなのよ。ちゃんと話は最後まで聞きなさい。そういうの、社会人になってからとても大切よ?」

 生徒二人から疑いの目を向けられて、さすがに焦ったらしい。

 教師は何時だって、大人になったら大切な事とやらを教えてくれるが、それが本当にそうなのか。探りを入れるくらい生徒にだって出来る。

「不謹慎なのは、むしろこの噂の方なの。だって、別にその人って焼身自殺してないんだもの。単なる落下による自殺。いえ、自殺だから、単なるって言うのも不謹慎かしらん?」

「うん? じゃあ、何でか知らないが、最近あった自殺に、妙な尾ひれが付いてるって事か?」

「か、怪談話に……しても……も、盛りすぎ……?」

 死んでからも、燃えて落ちて来たなんて話まで盛られるのは災難だろう。本人がもう苦しむ事なんて無いのが救いと言えば救いであるが。

「ちょーっと気にならない? ほら、何でそんな尾ひれが付いたかって思うじゃないのよ。その原因を突き止められたりしたら、供養とかにもなりそう……とか言ってみたり」

 最後の言ってみた事柄については、不謹慎だと言われたら、咄嗟に思い付いた事だろう。本人がその事を隠していないから、わざわざ突っ込んだりしないが。

「え、えっと……ある一つの事件が……どの様に、変わった風聞で語られる怪談話となったか……み、みたいな題材……と言う事でしょうか?」

「そうそれ! さすが三藤ちゃん、良くまとめてくれたわ! 今回はそれで行きましょう。良い感じに文章でまとめられれば、らしい感じに私がでっち上げるから」

 少しばかり錬太郎も好奇心が湧いて来ていたが、身も蓋もない霊子の言葉に、力が抜けそうになる。

「あー……じゃあ俺、さっそく今から現場にでも向かってみようか? 噂がどうなってるのかは、明日、同級生からでも聞いてみるし」

 抜けた力を立て直すには、行動しかないと思い、提案してみる。

 そもそも活動しないと言う選択肢は、霊子により全力で潰されるであろう事が目に見えている。

「じゃあ頼める? あ、でも、早くしないと、日が暮れちゃうわよ? それとも、怪談話何だから、そっちの方が良い?」

「親に心配されない程度の時間で帰るよ。それじゃあ、報告は明日になってからで」

 これでも男子高校生だ。夕暮れだろうと、夜であろうと、外出くらいは幾らでも可能だった。怪談とて、単なる噂話だと笑い飛ばす事も出来るのだ。




 とは言え、夜の薄暗さと、自殺者が出た場所である事実が、どうしても恐怖を感じさせてくるとは思う。

(気のせいってんだから気のせいなんだろうが、怖いと思うなんてのは気の方から来るもんだから、本当に怖い場所ではあるんだよな。多分)

 団地の屋上……には、今は施錠されているので入れないので、錬太郎は下から団地を見上げていた。

 縦にも横にも長いその建物に、幾つもの部屋。それも大まかな間取りが同じであろう部屋が、規則正しく上下にも横にも並んでいると言うのは、冷静に考えてみると不気味な光景である。

 しかも、建物すら見た目がほぼ一緒かつ等間隔なのだ。夜に見れば、曰くが無くても恐ろしさを感じられる。

(そりゃあ、自殺者が出れば噂にもなるわな)

 恐怖はそれだけで話の種になる。他人と共有しなければ、自分一人で抱えきれなくなるタイプの感情だからだ。

 怪談話は、そうやって人から人へと話されていく。

(やめだやめだ。そういう小難しい事を考えるのは俺のやる事じゃあない。ええっと、どこの建物が事件のあった場所だ? この団地って事は確かなんだが……)

 事件自体、人づてに聞いたものでしか無いため、詳しい場所なんて分かりっこなかった。

 それでもと暫く探してみるものの、やはり見つからない。

 ただ、それでも成果がまったく無いわけでも無いだろう。現地に足を運んだだけでも、分かる事は結構ある。

(んー……噂の元みたいなもんは見つけられたか? 日が暮れた後に来れて良かったと言うべきか……)

 どうにも、団地の屋上から赤い光が見えるのだ。恐らく、何かしらの赤ランプが、日が暮れると焚かれているのだと思われる。

(自殺者が出た時に目撃者が居たとか、その時にもこの光があったとかは分からないが、まあ、あの光を見れば、落下してくる人間が燃えてる……みたいな発想になるか?)

 あくまで予想ではあるが、取っ掛かりと思えるものみは見つけられた。その事は、素直に良かったと思う。

 ここに来て何かを発見すると言うのは、ここらで一旦帰ると言う選択肢を選べるからだ。

(時間も時間だし、人通りが少なくなってるんだよなあ)

 自分から怪談話やら事件やらを想像しているせいで、さすがにこの場から立ち去りたくなって来ていた。

 そんなものは居ないとは思いつつも、何がしかが出るのではと想像してしまう。恐怖心とはとても厄介なものであった。

「あん?」

 目を細める。

 恐怖心とは、本当に厄介なものだ。さて帰ろうかと団地から背を向けたその瞬間、何かが目に映った気がしたのだ。

 それを確認するため、何かが見えた気がした方を向くものの、何も無い。何かあるはずが無いのだ。そんなものが見えるなんて、気のせいに違い無いのだから。

(それにしても……ここまで俺ってナイーブだったのか?)

 自分が見間違ってしまったものを思って、気の弱さにショックを受ける。

 さっき、屋上から人が落ちて来るのを見た気がした。赤いランプに照らされて落ちる、何かを。

 勿論、何かが落ちて来た音も、実際には姿だって無いわけだが、それでも、そういう物が一瞬目に映ってしまった……気がする。

 それはまさしく、この場所に抱いた恐怖心から来るものなのだろう。




「あの団地の噂? ああ、燃えながら人が落ちて来るって奴か?」

 話すのは錬太郎の友人である同級生の西岡(にしおか)武人(たけと)。内容は燃えて落ちる人間の噂話について。時間は昼休み、昼食を取り終えてからの学食での事だ。

「相変わらず、そういう話を良く知ってるよな」

 事件があった現場へ向かった次の日に、錬太郎はさっそく噂集めを開始していた。

 その際、何時もまず、彼から話を聞くのだ。噂話に聡い性質であるうえ、さらには錬太郎が妙な部活に入っている事を知っているため、気安いのである。

「いやあ、結構みんな話してるって。あれだろ? 体を燃やしながら世間を呪って飛び降り自殺したって言う」

「焼身自殺するつもりが、燃えるのが苦しくて助けを求めたって話じゃなかったのか?」

 さっそく、自分が聞いた話と他人が聞いた話で相違を発見する。

 風聞について聞いて回っていると、こういう事が多々あるのだ。その事について西岡に聞いてみるも、重要な話なんてものは返って来ない。

「やっぱ、あっちこっちで噂されると、聞いてる話と違うものあるんじゃないかな」

「みたいだな。だからこそ、集めて回って研究する価値あり……みたいなでっち上げが出来ると、うちの顧問なら言う」

 何にせよ、色々と話を集める側とすれば、むしろ歓迎である。全部が全部同じ話と言うのも、こちらとしては調べる張り合いが無い。

「なーんか、お前の口から聞かされる千条先生と、俺の知る千条先生って、違う人に思えて来るんだけど、そうじゃないよな?」

「親しくしてないから、綺麗系のしっかり美人とかそういう評価になるんだろ? 知ってるよ。けどな、化けの皮ってのはすぐに剥がれるんだ。西岡、お前も卒業する頃になれば、きっとわかるはずだ」

 噂は知っているが、周囲の人間への評価はまだまだいまいちな西岡に忠告だけしておく。あの霊子という女は狂暴でだらしないのだ。

 何故か、その事を良く知らない生徒からは人気があるらしいが。

「いや、そういう話は知らないけどさ……けど、この……怪談話で良いんだよな? 集めるなら気を付けとけよな」

「気を付けるって、何を?」

 真面目な話では無く、ちょっとした悪ふざけでもする様な表情で、西岡が口を開いた。

「いや、俺の聞いた話じゃあさ、燃えて落ちる人間を見た奴は、その燃える人間に追われるって話みたいだぞ?」




 授業が終われば放課後がやってくる。そして放課後になってから暫くして、錬太郎は郷土風聞研究部の部室へと足を運んでいた。

「とまあ、典型的な怪談話になってるみたいですね。一番多かったのが、男が燃えたのは何かしらの儀式で、死んだのはその最後のトドメみたいな話。尾ひれとしては、男が落ちる姿を見た人間は、漏れなく呪われるとか、何故か別の場所でも燃えて落ちる人間を見るって話もありましたね」

「い、何時も……思うんだけど……話を集めて来るの……は、早い……よね」

「そうですか? 普通に知り合いとか知り合いの知り合いとかに聞いて周っただけですけど、いざとなれば、街中に繰り出したりとかも出来ますよ」

 今日は霊子がいないため、三藤先輩と二人だ。女子の先輩と二人きりなんて、さすがに錬太郎も緊張してしまうため、出来る限りは部活動に関する事で会話を進めている。

「そ、その行動力は……う、羨ましいな」

「んー、俺としては、ここから先輩に頼りたいところですし、憧れる側? になると思いますけど」

 話を聞くなんて誰にでも出来るし、後は回数を重ねるだけだと思っている。

 問題はここから、どこにでもありそうな怪談話を、それなりに面白味のある文章にしなければならない。

 そうして錬太郎には。そんな事は逆立ちしたって出来ないのだ。

「と、とりあえず……典型的な怪談話としての……発展を遂げているって方向で……す、進めて見るね」

「はい、よろしくお願いします。期待してますからね」

 とりあえず、錬太郎のやるべき事は終わった様なものなので、後は応援する側として動く事にした。

 応援と言っても、こうやって世間話を続けて、退屈を紛らわすくらいなのだが。

「それにしても……話を聞けば聞く程、人間って面白おかしく話を盛る生き物なんだって思いますよ」

「う、うん?」

「ああ、ですから、噂話を誰から聞いたーとかあるじゃないですか。とりあえず、それを遡れるだけ遡ってみたんです。時間の許す限り」

「きょ、今日の朝から……ほ、放課後までの……間に?」

「ええ、で、ほぼ噂の出所みたいな人にまで行き着いたわけですけど」

「い、行き着いちゃったんだ……」

「学校の生徒だったんで、運が良かったですね。学外だと、さすがに休日じゃなければ話を聞けない……って、どうしたんです、先輩」

 頭が痛そうに額を抑えている三藤先輩。やはり、頭脳労働をすべて任せてしまうと言うのは、負担を掛けっ放しだったろうか。

「な、何でも……無い。それで……元の話は……ど、どうだった?」

「どうもこうも、やっぱり予想した通り、最初はほぼ事実ですよ。その団地に住んでる生徒で、遠くから人が落ちるのを見たそうです。で、他の人にもその事件を話て噂が広まったと」

「も、燃えたりとか……は?」

「そんなのじゃあ無かったそうですね。本当に、転落死だったんでしょう。自殺かどうかすらその時は分からなかったらしいです」

 怪談話とやらが、如何に人の中から生まれるのかを知る。怖がったり泣いたりするのも、生きている人間がする事だ。

「ふ、ふうん……じゃあ、興味を惹く部分の……だ、だいたいは……作り話って……ことか」

「ですね。燃えもしなければ、人に向かって落ちて来たリもしない。ましてや、燃えて落ちて来る男を見れば不幸になるなんて事も有り得ない。団地の屋上にある赤ランプにでも影響された発想って事で―――

「ちょ、ちょっと待って……? や、やっぱり……変じゃ……ない?」

 食い気味に、三藤先輩が言葉を発した。何か、気になる事でも言っただろうか。

「さっきまでの話で、オカルト的な部分……ありましたか? いや、そうだったら、確かに怖いですけど」

「そ、そっちじゃ……なくて。屋上に……あ、赤ランプ?」

「はい。これは噂じゃなくて、実際に見ましたよ、俺。光か何かの加減か知りませんけど、燃えて落ちる人間に見間違いもしました。俺、思いのほか怖がりだったみたいで」

 怖がりと言えば、今も三藤先輩の剣幕に対して、やや驚いている。

「ふ、普通、あそこくらいの……団地の屋上に……あ、赤ランプなんて……無いよ?」

「は? いえ、けど、実際にありましたけど。こっちは噂の尾ひれなんかじゃなく、この目で見た事実です」

 何かを見間違ったりもしないはずだ。しっかり、団地の屋上は赤く輝いていた。あれがランプで無く何だと言うのか。

「も、燃えて……落ちる人間を見たら……不幸に遭う……」

「何ですか急に。脅かしっこ無しですよ」

「う、ううん……気を付けた方が……良いかもしれない……よ?」

「気を付けてって、不幸に遭わない様にって事ですか?」

 何かの冗談ではないかと思うのだが、三藤先輩の表情はかなり真剣だった。

 本当に、そんな不幸が起こるのでは無いかと心配している顔なのである。

「あのですね、先輩。さっき、噂を遡って聞いたって言ったでしょう? 幽霊がひゅーどろどろなんて話、元は無かったんですよ?」

「け、けど……噂としては……あるから……その……き、気を付けた方が良いと……思う」

 どうにも普段の三藤先輩らしからぬしつこさである。

 どうしろと言うのだろう。単なる噂で、根拠なんてどこにも無い話題について、気を付ける方法を錬太郎は知らなかった。

「とりあえず、不幸が襲って来ない様に、祈っては置けば?」

「う、うん。そうした方が……良いと……思う」

 言ってみただけの答えであるが、三藤先輩にとっては正解であったらしい。

 安心した様に表情を緩める彼女は、次に視線を錬太郎から外し、机の上に置いたノートへと向かった。

 これから、錬太郎が集めた話を纏めるつもりなのだろう。

(別にそれは良いんだが、何か……変な雰囲気になったな)

 まさか、本当に自分へ不幸が襲ってくるとは思っていない。ただ、気を付けろと言う助言に頷いた形になったため、どうしようも無い不安だけが残る事になったのである。




 本日の部活動が終わり、帰る道すがら……のはずであるが、今も錬太郎は学校の校舎に居た

(まさか、スマホを部室に忘れるなんて、先輩の話に動揺してたのか?)

 基本的に、服のポケットから出る事の無い物であるはずが、部室で取り出してから、そのまま置き忘れてしまったらしい。

 家への帰り道の途中で気付けたのが幸いと、一度、学校まで戻ったのである。

(あー……くそっ。怪談話なんて聞いて回ってたせいで、夜の校舎まで怖く感じる)

 校内へと入り、部室のあるプレハブ小屋へ向かうのであるが、日が落ちたせいで、何時も通う見知った場所が、何時もと違う様相を見せている事に、少しばかり恐怖心を抱いていた。

 と言っても、ここまで来て帰る程の物でも無かった。

 小学生くらいの時は、小心から、それこそ引き返していたのだろうが、人生経験を積むにつれ、大半の人間は学ぶのだ。

 世の中、幽霊やお化けと言ったオカルトなんて、目の前に現れるものでは無いのだと。

(学ぶと言うか、慣れるって言った方が良いか?)

 何時からか、それこそ自分の行動すら変えてしまう感情に、人間と言うのは慣れて行く。

 恐怖心が無くなるわけでは無いのだが、その大きさはそのままに、そんなものすら日常の一部とするのだと思う。

 怖い怖いと思いながらも、部室のあるプレハブ近くまでやって来られたのは、そんな慣れのおかげなのだろう。

 ただ、慣れなんて物も、現実は容易く飛び越えてしまう時があった。今がまさにそれだ。

(現実? これが……?)

 プレハブへと向かう途中の道で、赤いランプに錬太郎は照らされていた。

 いや、ランプでは無い。もっと違う色の……火の色がそこにあった。

 校舎の上だ。見上げれば、こちらから見ても様子が分からない屋上から、何かが周囲を照らしているらしい。。

(少しずつ、明るくなっているよな?)

 いや、やはり違う。ランプではない不定の、ちらちらとした明かりのブレがあり、それが少しずつ、錬太郎がいる側へと近づいて来ているのだ。

 まるで、屋上で何かが燃えていて、その何かは動き、錬太郎の頭上へと近寄って来ている様な……。

「嘘だろ……? あれは噂で……根拠すら無いもので」

 我知らず声を発していた。有り得ない事だ。恐怖から来る妄想だ。自分で自分に言い聞かせているのに、幻覚であるはずのそれは消えてくれない。

 屋上に、燃える人型があった。丁度、大人一人分の炎の塊。

 それが屋上を照らしている。下側から錬太郎がそれを見られると言う事は、屋上の端に立ち、今にも落ちて来ようとしていると言う事でもある。

「待て……待てよ……待てって!?」

 恐怖を覚えたその瞬間に、錬太郎は走り出す。落ちようとしている風に見えるどころじゃない。落ちて来たのだ。それも、錬太郎目掛けて。

 背中を向けて逃げ出す。それは錬太郎にとって咄嗟の判断であり、それでどうなるか何て予想すらしていなかったが、結果的には正解の行動だった。

 走り逃げたそのすぐ背後から、相当の熱量と、何かが激しく地面へぶつかる音がしたのである。

 まともに受けていれば、錬太郎にとって致命的な状況になっていた事だろう。

 だから振り返る。落ちた以上、もう落ちて来る事は無いはずで、ならば、落ちて来た物は何であるかと気になったのだ。

「え?」

 だが、そこには何も無かった。振り返り、地面の周囲を探してみても、何かが落ちて来た痕跡はどこにも無いのだ。

「そ、そんな馬鹿な。だって、さっき見たし……落ちて来るところも、音も……!」

 恐怖と言うのならば、この時点が一番それを感じていた。しっかりと確認した怪異が、跡形も無く消えている。

 それはつまり、限りなく正体不明の現象と言う事であり、人間はその理解できぬ現象にこそ恐れを抱く。

(もしくは……俺の頭がどうにかなっちまったって可能性だが……)

 それも有り得た。おかしな話ばかり聞いて回ったせいで、何かしら精神的な均衡を崩してしまったのかもしれない。

 だとすれば、それもまた恐怖だ。自分が自分の制御の埒外にある不確かさ。恐怖心を抱くには十分な状況であった。

 ならば、ここから発生したさらなる変化は、錬太郎にとって救いとなるか?

(嘘だろ……)

 地面では無く空を見たのは、そこしか探せる場所が無かったからだ。だが、見るんじゃあ無かったと錬太郎は後悔していた。

 人間の形をした炎が空を舞っている。




 地面にぶつかったその人型の炎。その勢いと熱さを感じながら、錬太郎は走り続ける。

 立ち止まれば、あの空を飛び、落ちて来る何がしかに、今度こそぶつかってしまいそうだったからだ。

 だが、何時までも走り続ける体力を錬太郎は持たない。

 必死に走るその最中にも、何とか逃げ切る方法を考え続けていた。

「考え続けて……結局ここに逃げ込むなんざ……考えなしにも程があるけど……な」

 乱れる息を整えながら、錬太郎は顔を上げる。

 そこは慣れ親しんだ郷土風聞研究部の部室だった。逃げて逃げて、疲労し、混乱する頭では、こんな場所に飛び込む事しか思い付けなかった。

(……まだ、外にはいるのか?)

 考え無しの行動ではあったが、天井のある場所では、さすがに落ちては来られないと思われる。それも希望的観測ではあるが。

「よしっ……ちょっとは……落ち着いてきた。そういう状況にもなった。そう思えよ、俺」

 混乱する頭の中でも、まともに思考を続けようとする。

 こんなわけのわからぬ状況だからこそ、自身の行動だけはしっかりと考えたかったのだ。

(あれは何か? そんなのは俺には分からない。あれから逃げられるか? もうちょっと、普段から走り込みして体力作りしときゃあ良かったと後悔してる)

 まともに考えようとしたところで、碌な考えが浮かんで来ない。まともな現象ではないのだから当たり前だろう。

 このまま、部室の中では襲い掛かって来ないとしたら、部室の中で朝まで籠って置くと言う手もあるが。

「っ―――

 心臓が跳び上がりそうになった。また音が鳴ったのだ。

 ただし、地面に人間がぶつかる音では無く、スマートフォンのバイブ音だった。

「な、なんだ……あ、忘れてたやつ……」

 机の上で震動しているのは、錬太郎自身のスマートフォン。

 今、こんな状況になっているのも、これを取りに来たせいかと思うと、どうにも怒りが湧いて来たので、荒っぽくそれを手に取る。

 着信は霊子からだった。その事も怒りを膨れ上がらせて来る。そもそも、こんな怪異に巻き込まれているのは、彼女が上げた部活動の方針のせいでは無いか?

 そんな思いもあったから、文句の一つでもと、つい着信に出てしまった。度胸と言うよりは、混乱がまだ続いていたのだろう。

「もしもし、霊子姉さんか!?」

「そーよー、霊子お姉ちゃんよー。何? 何だか随分不機嫌じゃない。何度か電話入れたけど、全然出てくれなかったし」

「部室にスマホ忘れてたんだよ! ってか、今、そういう状況じゃないって言うか、その、信じてくれるか分かんないし、話して真っ当に取り合ってくれるか不安で仕方ないけど」

「何々? 随分焦ってる声じゃない。どったの? 今、部室よね? 夜の学校でお化けにでも遭遇しちゃったりした?」

「……その通りだよ」

「マジ?」

 驚いた声が向こうから聞こえてくる。

 仕方ない事だろう。従弟から、お化けに襲われています何て言葉が返って来れば、錬太郎だってそういうリアクションを返す。

 そうして、呆れた様にこう言うのだ。頭は大丈夫か? と。

「部室の端にある机の引き出しを開けなさい」

「ああ、分かってる。頭のおかしい事を言ってる自覚は……って、何?」

「だーかーらー、ほら、部室の隅に古っくっさい引き出し付きの机があるじゃない。それを引きなさい。何かに襲われてるって言うのなら、あんまり時間無いかもだわよ?」

 霊子の言葉に合わせてと言うわけでも無いだろうが、部室の外から音が聞こえた。今度はスマホからの音では無く、何かが落ちる音だ。

 少しばかり遠く、それでも、人が空から落ちて来る様な。

「時間……無いのか? この状況」

「どんなものかは知らないけど、一度襲い掛かって来る輩なんて、早々に見逃してくれないはずよ。襲われる側がか弱ければ猶更」

 言っている内に、また音が聞こえる。先ほどより近い場所で、人が落ちて来る音が。

 どうやら、悠長に構えて居られる状況では無いらしかった。

「部室の端の机だな? その引き出しを……なんだこれ、手袋?」

「ああ、良かった。まだあったのね。黒い革手袋よね? それを手に嵌めなさい」

 霊子の言う通り、引き出しの中には細々とした筆記具だったり、何かのネジだったりの他に、一番目立つものとして黒い色の革手袋が一組入っていた。

「嵌めて……どうするんだよ」

「良いこと? あなたは今、どう考えたってまともじゃない、今までの常識からかけ離れた事態に巻き込まれている。そうよね?」

「……っ、そうみたいだ」

 音がさらにもう一度。プレハブ小屋の中から聞こえた。だと言うのに、何故か空から人が落ちて来た様な音だった。

 恐らく、天井があるからと、安心すら出来ない状況になってしまっている。

「そんな状況、腹の底からムカつくって思わない?」

「何言ってんだ、あんた」

「だって、あっちは一方的に現実を無視して襲ってくんのよ? 何でこっちはそれで怯えて竦んで、ガタガタ震えなきゃなんないのよ。不公平でしょうが」

 霊子の言っている事の意味は分からないが、何を言いたいかは分かる。

 要するに、襲って来た奴には反撃できなきゃ腹が立つと言う事なのだ。

 確かにその通りかもしれないが、時と場合による理屈だと思う。

「あのな、話してなかったけど、こう、燃えてる人間なんだよ。それが、落ちてくるんだ。落ちて来たと思ったら消えてて、また空の上から―――

「関係無いでしょうが! あっちが理不尽で来るなら、こっちも理不尽で対抗するの。出来んのよ、その手袋があれば。分かる?」

「分かんねえよ! 手袋嵌めただけで何が……」

 話の途中で絶句する。空だ。部室の天井を見上げると、そこには空があった。いや、天井はそこにあるのに、天井の奥に、燃える人型がいた。

 遠く、小さな点にも見えるそれが、落ちて来る。まるで炎が少しずつ燃え上がる様に、その点は大きくなり、天井との縮尺も無茶苦茶に、錬太郎へと近づいて来ている。

「手袋を嵌めなさい。それは、理不尽に対抗できる」

 霊子の声を聞くのはそれまでだった。炎が近づく。いや、錬太郎に向かって落ちて来る。それは既に、確かに人が燃えていると視認できる程の近く。

 錬太郎に逃げる時間など残されていない。錬太郎の場所は部室の扉からは遠く。ただ、出来る事と言えば、手袋を嵌めるくらい。

(ざっけんな!)

 血筋と言えば良いのか。些か不本意ではあるが、霊子と錬太郎は似ている部分がある。

 つまり、理不尽に晒されれば、ムカっ腹が立つと言う事だ。

 だから……落ちて来た燃える人型を、錬太郎は殴りつけた。

「!?」

 手袋越しに伝わる感触。それに驚いているのは錬太郎自身だった。

 自分は一体何をした? それを理解できぬから、目の前の状況を見る。

 そこにあったのは、落ちて来た炎の人型が、錬太郎の拳により横へ吹き飛ばされ、部室の窓をぶち破って外へと転がって行ったと言う結果のみ。

「俺が……殴りつけたって?」

 人が燃えながら落ちて来るより、もっと信じられない光景だった。

 自分の身体能力も、反射神経についても良く知っている。

 それは空から落ちて来る人間を殴れる程のものでは無いし、ましてや人間大の物を吹き飛ばせる程のものでは無い。

 さらに言えば、殴りつけた感触はあるのに、それに寄る反動だって無く、体は元気なままなんて事は有り得ない。有り得ないのに有り得ていた。

「何だこれ……何なんだよ!? そ、そうだ、スマホ……」

 手袋を嵌めた際に落としたスマホを、床から持ち上げる。まだ霊子との通話は繋がったままだ。

「おーい。聞こえてるー?」

 向こうから、霊子の呑気そうな声が聞こえて来た。その事にやや怒りを覚えるものの、今は状況の説明を聞きたかった。

「霊子姉さん、この手袋……嵌めたらこう、体が勝手に動いたと言うか、それにしたって」

「おっと、上手く行ったみたいね。色々と説明とかもしたい……ところなんだけど、怪異の方はどうなってる? 無くなった?」

「どうなってると言われても、今、部室の外に吹っ飛ばして……そこに転がって……ない!?」

 部室の外にある地面に、吹き飛ばしたはずの何がしかは存在していなかった。

 それを認識した瞬間、錬太郎もまた窓の外へと飛び出していた。再びスマホを落としてしまったが、画面が割れていない事を祈るのみだ。

 スマホの無事より、自分の命を最優先にした結果である。

(また……落ちて来やがるのかよっ)

 再び、天井の向こうから、天井を無視して落ちて来る炎の塊を見たのだ。また殴り返そうかと思ったのであるが、それをするより先に体が動いていた。

 反撃できる方法が既にあるのならば、部室と言う狭い空間よりも、もっと鋭く動ける場所へ移動を。錬太郎はそう判断していた。

 そして、錬太郎はそんな自分の選択にこそ驚いている。

(何だ? 俺、こんな状況で、どうして自分の身体能力や周囲の状況の判断なんて……)

 混乱は、今、この時においても、ずっと続いているのだ。訳も分からず、その場で立ち尽くすのが普通のはずだろう。

 しかし、今の錬太郎は、ひたすらに現れた怪異を敵として、全力で戦う事を選んでいた。

(今俺は、予想以上に動けてる。この距離なら、まだ耐えられるか?)

 身体能力が、どうしてだか何時もより向上していた。窓から飛び出したその跳躍だけも結構な距離を跳び、地面に転がりながら、すぐに姿勢を立て直して、立ち上がる頃には部室がある方を向いている。

 故に、落ちて来る炎の人型を、余裕を持って視認出来ている。

「だいたい……これで威力の範囲は分かる……か?」

 分かる。相手が落ちて来る際の速度、落ちた際の威力、被害の範囲。どの様なタイミングで動き回れば、逃げ切り、もしくは反撃できるか。それが分かる。

 普段の自分なら、そんな事分かるはずが無いのに、今は分かってしまう。混乱もしていると言うのに、冷静過ぎる自分がそこにいた。

(何だこれ……何なんだ)

 答えを教えてくれそうな霊子とは、スマホを手放したので話す事が出来ない。さっきの人型の落下位置にあったので、破壊でもされたのだと思われる。

 そうして、落下してきた人型はまだ消え去り、錬太郎の上空にまた現れるのだ。

(逃げ回るにしても、どれだけ続くか分かったもんじゃあない。なら、反撃できる時に反撃だ)

 物騒な自分の思考に、既に驚きはしない。驚く心すらも、何かに塗り潰された様な気がする。見据えるのは落下してきた炎の人型。

 ここからやる事は単純。先ほどと同じ様に、落下し、接近してきた瞬間に殴りつけるのだ。

(それでダメージがあるかどうかは分からない。と言うか、元気にまだまだ落ちて来るから……)

 落ちて来て、殴りつけた後に、吹き飛んだ人型を追う。

 さすがに吹き飛ぶ速度に追いつく事は出来ないものの、吹き飛び、地面に叩き付けられたその人型のすぐ後に、同じ場所へ辿り着く事が出来る。

 吹き飛び、倒れたはずの炎の人型。そんな相手の熱量だって、耐えて攻撃できるくらいの身体能力になっているらしいので、追撃とばかりに人型の炎を足で踏みつけるのだ。

 もっとも、足は地面を叩くだけに終わった。

 既にそこには炎の人型はいない。

(地面に触れた瞬間に……消えちまうのか? なら、また上に……いない)

 空を見上げれば、今までは炎の人型の存在があったはずだが、それも消えていた。

「逃げたのか? それとも……ええっと、それとも……何だ?」

 今まで鋭く、戦う事を優先していた思考が、いきなり途切れた。感じていた身体能力の高まりも、今は存在していない様に思う。

 試しにその場でジャンプしてみれば、何時も通りの、高校生にとって平均的に思える高さを跳ねるのみ。着地に失敗して、危うく足を捻りかけた。

「えっと……うわ、今になって震えて来やがった。っていうか、部室はどうなった? 結構破壊されて…………無い?」

 窓をぶち破ったはずのその部室には、破れていない窓があった。炎の人型の落下による破壊の跡だって存在していない。

 一応、窓へと近づけば、鍵が掛かったままである。そう言えば、壊れる前までは確かに鍵が掛かっていたはず。

(何だよ……全部夢か幻だったってか?)

 開かない窓から、部室の中を覗き込む。

 そこには、先ほど落としたはずのスマホが、無事のまま床に転がっていた。




 元通りのままの部室で、唖然としていた錬太郎。時間がどれだけ経ったか分からないが、我に返るより先に、霊子がやってきていた。

「だからね、まんまオカルトなのよ。神秘体験? 心霊体験? そんなやつ」

「いや、わかんねえ。さっぱり分かんねえぞ、霊子姉さん」

 やってきた霊子は、さっそくとばかりに錬太郎へ、先ほどまで起こっていた事を説明してくる。くるのであるが、混乱が続く錬太郎の頭では整理が難しい。

「んー……ほら、あなたの身には、不思議な事が起こったわけよね?」

「今までの常識じゃあ考えられない事がな。それは信じてくれるのか?」

「もっちろん。ただ、それを前提に話すけれど、その痕跡なんて、どこにも無いじゃない?」

 霊子の言う通り、何もかもが消え去っていた。恐ろしく、有り得ない事は、本当に存在しなかった様に姿を消したのだ。

 錬太郎が手に嵌めた革手袋はそのままであるが。

「だからね、オカルトなの。なんて言うんでしょうね。そういうオカルトがあるのよ。巻き込まれた側に不可思議な事が起こって、それで終わってみれば、そんな痕跡は無くなってる。特に、怪談話とかを追っていると、時々ある」

「……それってつまり、あんたが噂集め何てさせたから、俺が妙な事に巻き込まれたって事に……」

「まあ、それは良いじゃない。終わった事は受け入れて、色々と諦めなさいな。重要なのは、あなたが被った物に対しての理解。違う?」

 納得は出来ないものの、そこを突き詰める前に、確かな理解は必要だとは思う。故に文句は後に回す。勿論、忘れるつもりなんて無い。

「思い返してみると、こう、夢を見ていたみたいだよな。おかしな現象があって、それでビビったり、撃退したり、けど、終わってみれば何事も無くなってる」

「夢……多分、その表現が一番近いのかもしれないわね。夢と違うのは、個人が見てるんじゃなくて……社会、集団? そんな感じで、みんなが見ている物なのよ、きっと。噂って、そんなもんじゃない?」

 噂……実態とは違うのに、何故かそれが事実かの様に人々の中で囁かれる不確かな何か。

 そう、先ほどの現象とも似た部分がある。

「つまり……噂が流れて、それがまるで本当の事みたいにみんなが思ったから、本当にあんなものが現れたって、そういう事か?」

「そうなるわね」

「有り得ない」

「けど、あなたは見たし体験した。そうして、ちゃんと夢から醒めた。今がその状況ね。何で、そんな現象があるのに、知らない人が多いというか、世間で認知されないかについては……それも、今の状況を見れば分かるんじゃなかしら?」

 霊子は部室を見渡す。釣られて錬太郎も見てみれば、何事も無い部室がある。オカルトの様な現象は完全に消え去り、体験した本人以外、誰も何かが起こった場所には見えないだろう。

「記憶がしっかり残ってる時点で貴重な事よ? 大半の人は忘れるもの」

「じゃあ、何でその貴重な状況に俺が巻き込まれたんだよ」

「うーん。だから、変な現象自体は、体験してる人が沢山いるんじゃないかしら。あなただって、今回以外にも、昔、変な物を見たり、変な体験をした事があるけど、あまりにも些細で、見間違いとかで済ませられるから、そうしてる事ってあるでしょうよ」

 その幾つか。今では単なる勘違いや記憶違いで済ましている事柄が、実は本当に体験したものかもしれないと霊子は語る。

 それを確かめる術が、後からは無いと言うのが、この現象の特徴であるとも。

「私なんかは、それそのままにオカルトって呼んでるわね。らしいでしょう?」

「……らしいかは兎も角。じゃあ、この手袋も、そういうオカルトの?」

「あん? いえ? その手袋、私がそこの引き出しに入れたまま、忘れてたやつよ。千円ぽっきりで安売りしてたからつい買っちゃったけど、デザインが悪くってねぇ」

「ちょ、ちょっと待て。じゃあ何でこんな手袋俺に嵌めさせた!? 確かに俺は、この手袋を嵌めてから、こう、身体に凄いパワーが溢れたと言うか」

 それもまた、オカルトの類では無いのか。ただの革手袋に、身体能力向上なんて機能は付属していないはずだろうに。

「ははーん。あんたの場合はそういうのなのね。いや、そんなに睨まないでってば。別に意味の無い行動をさせたつもりは無いのよ。確かに手袋を嵌めて、あなたはオカルトに対処できたわけじゃない?」

「そりゃあそうだが、そこについても説明してくれないと、別に能力が向上したわけでも無い体で襲い掛かるぞ、あんたに」

「いやーん。従弟がこわーい」

 冗談みたいにおどける霊子であるが、錬太郎は本気だ。

 とりあえず説明してくれているから話を聞いているが、巻き込まれた事が事なので、精神的には切羽詰まっているのである。

 だいたい良い歳して、何がいやーん、こわーいだ。その姿の方がより怖いじゃないか。

「何よ、冷めた目で見つめる事無いじゃない。繊細なのよ、私ってば。それで……ええっと、何だったかしら。あっ、だから襲い掛かろうとしないでってば。革手袋、革手袋の話だけど、切っ掛けみたいなものなのよ、それ」

「この手袋が?」

 嵌め続けている手袋を見る。そう言えば、これを嵌めてから、何かが変わった様に思う。

「そう。それ自体は単なる手袋だけれど、オカルトに巻き込まれたあなたは、こうも思えたんじゃないかしら? 妙な、燃える人型に襲われる事があるのなら、それに対抗する何かだって、あっても良いだろうにって」

「……」

 黙るのは納得できなかったからでは無い。腑に落ちたからだ。

 確かに、燃える人型に襲われた錬太郎は、そういう事を望んでいた。そうして、霊子の言葉に寄り、手袋を嵌めれば何かが起こると信じたのだ。

「つまり、身体能力が上がったのも……」

「あなたが、そうなればオカルトに対抗できると信じたから。対抗しなきゃって状況で、本当に自分の力が強くなればーなんて思うって、あなた結構単純ね?」

「うるせえな。ああいう突発的な状況なら、仕方ないだろ」

「ま、そういう風に単純に対処できるから、やっぱりオカルトは噂程度で語られる事になんのよ」

 つまり、恐ろしい事態に巻き込まれたとしても、それにひょんな事で対抗できる様になると言う事だ。

 単なる手袋を嵌めただけでも、それだけの事が出来たのである。

「大半の人間が、オカルトを記憶違いや見間違いで済ますって言ったじゃない? つまりそれって、ものすごく強力に、オカルトに対処してるって事でもあるのだと思う。だからこそ、オカルト何て、大半の人間が信じてないのよ」

 単なる噂。オカルトがそうであるのは、そう思い込もうとして、実際にそう出来てしまう人間の力と言う物もまた、存在しているのだと霊子は言う。

「まだ……何か納得できないと言うか、説明不足な部分があるんだが……」

「そこは追々説明して行くわ。とりあえず今日は家に帰りましょう。もう随分遅い時間だし、教師としても、従姉としても、とりあえず休みなさいって言えちゃうもの」

「ああ……それはまあ、うん」

 とりあえず今夜はこれまで。霊子からそう告げられた錬太郎は、不満より、一区切りが付いた事への安堵の方を強く感じていた。




「き、昨日は……大変だったみたいだけど、ま、まだ……油断するのは……は、早いと思う……な」

 次の日の学校。錬太郎は霊子へさらにオカルトに関する説明を聞きたいと考えていた。

 だが、なかなかに機会が無く、放課後に部室へやって来てみれば、三藤先輩が待ち構えた様にそこにいる。

 そうして、何と彼女がオカルトに関してを話し始めたのだ。

「ちょっと待ってください、先輩。あの……もしかしてオカルト関係について、知ってたりします?」

「う、うん……じ、実は……そう。あ、あれだね……そういう意味でも……せ、先輩……かな」

「先輩もうちの従姉に巻き込まれた口で?」

「ま、まあ……そんなところ……かな」

 親族として謝っても謝り切れないわけであるが、そもそものオカルトについてを良く知らないので、どう謝罪すれば良いのかも分からない。

「と、とりあえず……せ、千条先生から……職員会議で……お、遅くなるから……説明しておいてあげてって……言われてる」

「こう、先輩に土下座して感謝すれば良いのか、あのくそ女への怒りをさらに溜めておけば良いのか……悩む発言ですね、それ」

「か、感謝は……ちょ、ちょっとだけで良いから……い、怒りは置いておこう……?」

 出来るかどうかは怪しいが、非常に困った様な顔を三藤先輩に浮かべられたので、今は怒りを忘れて置く事にする。

「じゃあ、オカルト関係について何ですが、そもそもあれは……何なんでしょうね。噂話とか、変な現象とか、要領を得ない事を霊子姉さんは言ってましたが」

「し、仕方ないと言うか……せ、先生にも分からないんだと……思う。私も……はっきり知らないの。ただ、じ、実際に……体験しちゃったから……信じるしかない」

 本当に仕方ない。仕方のなさがここに存在していた。誰もがしっかり説明できないのであれば、誰もがしっかり理解なんて出来ないのかもしれない。

「オカルトなんて、そんなものですか。さらに悩ましい事が増えたな、これ」

 頭を掻く。辞書やネットを探したところで、答えなんてどこにも無いわけである。

 自分より詳しい人間であっても、自分と知識量はそう変わらないのかもしれない。

「こ、これは……せ、千条先生に聞いた話……だけど。分からないなりに……対処する様な集団とか……団体とか……あ、あるらしいよ。近所の……神社やお寺なんかが……案外、そうだったりするんだって」

「聞く限りじゃあ、一般人でも、気持ち次第で何とかなる様な物ではあるらしいですね」

 誰にも良く分からないが、誰にでも対抗はできる。そういう存在だからこそ、それこそ、その気になった人間が作った小さな組織が、日頃から何とかしているのかもしれない。

「ん? じゃあ、この部活も、そういう類の一つだとか?」

「そ、そんな立派なものじゃ……無いけど……せ、先生的には……そういう方向性が……む、昔からあるんだって」

 それが霊子の青春であり、地域風聞研究部の伝統でもあるのだろう。

 そういう伝統を、あの教師はずっと守りたいのかも。

(だからって、詳しく説明せずに巻き込むってのは、腹が立つけどな)

 感心も尊敬もしない。だいたい、今回の件だって事故みたいなものだ。

 言ってみれば、交通事故が多い交差点に、興味本位で向かう様な活動である。そこで救命活動ができるか、もしくは自分が事故に遭遇するか。分かったものではあるまい。

「あっ……け、けど、風聞を研究するって言うのは……活動の一つだから……せ、千条先生が、な、長也君を……危険な目に遭わせるつもりなんて……無かったと思う。な、長也君が……巻き込まれた様なオカルトって……め、滅多に無いから」

「そりゃあ、相当に危険でしたからね。そんなのがぽんぽんあったら困りますよ。だから、気を付けろって話なんでしょう?」

「う、うん。露骨に……お、襲い掛かって来る……危険なオカルトって……そ、そんなに無いから……一度撃退したくれいでは……駄目かもしれない……でしょ?」

「不吉な事言わないでくださいよ。部活の方針が何であれ、俺、あんな目に遭うのは、二度とごめんですからね」




 言うべきでは無かったのだと思う。

 少なくとも、不吉な事は言うべきで無い。噂が現実……と言えば良いのか分からないが、人に害を与える形になる事を知ったのだから、さらに悪運を呼び寄せる言葉は発するべきでは無かったのである。

「それでさ、鈴木の奴、海を見たら急に……どうした?」

「あ? んん」

 話し掛けて来る同級生の西岡の声を聞きつつも、錬太郎は教室の窓から空を眺めていた。

 オカルトに襲われてから二日目。色々と三藤先輩や霊子から話を聞く日々が続く間に、とある事に気が付き、ずっと意識がそちらに向いていた。

 他人から見れば、まさに上の空で、黄昏れている様に見えた事だろう。実際、西岡はそう思ったらしい。

「なんだ? もしかして、あれか、委員長の佐藤を、お前もとうとう好きになったか」

「いや、佐藤は美人系だけど、むしろちょっと苦手なタイプだな……ほら、何か危なそうだ」

「大人びてるって感じだよなー。お前的には、近づく奴を切り付ける刃物みたいなタイプって事か?」

「むしろ……燃やされたり砕かれたりしそうかな」

「どういう印象だよ……」

 どうと言われても、空に燃えている人型がいるのである。印象とか興味なんて、全部そっちに奪われてしまう。

 そうだ。錬太郎の目には、先日襲い掛かって来たオカルトが、空にしっかりと見えていた。

「なあ、今日の天気、どうだ?」

「晴れだろ。雲一つない」

 どうやら、西岡には何も見えていない様子。オカルトとは、巻き込まれた人間にしか見えない場合もあるらしい。

(とりつかれた……って言うのかな、これ)

 この青い空の元、ひたすらに空を見上げる人間も珍しいだろうが、そういう人間だって、空に燃える人型が浮いている光景を見ているわけではあるまい。

 あくまで錬太郎一人。ただじっと、先日に撃退したと思っていたオカルトを見つめ、そうしてとりつかれていた。

「何だよ、何か疲れたり、どうかしてたりか? その割には元気そう……だよな?」

「いや、多分どうかしてる」

 だが、元気が無いわけでも無い。体に不調も存在しなかった。

 つまり、その事自体が異常なのだ。

「いやあ……確かに何時になく怖い顔してるな? ほんとに大丈夫かよ?」

「大丈夫は大丈夫かもな。本当はそうでも無いんだろうけど」

「……分かった。そうだよな。男って、時々、そういう風にブりたくなる時ってあるよな。俺は理解者だぜ。うん。暫くしたら普通に戻るって信じてる」

 何をどう信じられたかは分からないものの、暫くしたら元に戻るつもりではいる。

 ただ、何もしなければ戻れるわけも無いだろう。

(こっちから行動しなきゃ、こんな状況がずっと続く。そう思っちまうんだよな)

 とりあえず、動き出すのは夜になってからだ。

 錬太郎はそう決意し、日常生活に戻る事にした。まったくもって、内心では日常に居るなどと思えなかったが。




「三藤ちゃんおっすー。って、あら、錬太郎の奴はどうしたのよ。今日も今日とて、あれこれ聞いて来るもんだと思ったけど」

 本日、放課後の職員会議が終わり、部室へとやってきた霊子。既に日暮れも過ぎる頃であるが、まだ部員の三藤はそこにいた。

 もっとも、そろそろ帰るつもりの様子だが。

「あ……せ、千条先生。な、長也君は……ま、まだ来てないんだ」

 三藤の答えに、霊子は首を傾げた。

 今日も今日とて、自分の従弟の頭は疑問符でいっぱいだろう。

 それにすべて応えられているかどうかは怪しいが、それでも、教えなければならない事は沢山あったし、既に幾らから教えてもいた。

 つまり、オカルトに関しての事である。

「ふぅん……昨日は三藤ちゃんがあれこれ教えてくれたのよね? あいつの様子はどうだった?」

「きょ、興味と言うか、とりあえず……知れるだけ知りたい……みたいな、ふ、雰囲気だった……かな」

「一日でその欲求が消えるなんて事は無いわよね。まだまだ若いし、オカルトみたいな事を体験すれば、多かれ少なかれ好奇心を持つわよ」

 例え危険な事であっても、自身の常識を崩される様な体験を、三藤や錬太郎の様な年代であれば、知っておきたいと思うものだ。

 それが自身の身を守るためなのか、もっと大胆な、未知への挑戦心なのか。その部分は人それぞれだろうが。

「わ、私も……そうだった……っけ」

「三藤ちゃんの場合、普段が控えめだったから、アピールも控えめだった印象あるわね。それでも、まったく無かったわけじゃあなかった。うん。だから……この時点で部室に来ないのはちょっと不安ね」

 親戚として、教師として、錬太郎の今の状態は、不安定である事を認識しているし、何とかしてやりたいとも考えていた。

 しかし、十分にそれが出来ない自分がいる。霊子自身も、未熟と言えば未熟なのだろう。

「い、家へ……先に……帰ってるんでしょう……か」

「かもしれない。もう時間も時間だし、三藤ちゃんが帰るなら、私、送って行こうか?」

「そ、その心配は……な、長也君に……してあげるべき……かもですよ」

「あっちゃー……生徒にそう言われると形無しだわね」

 頭を掻いて反省する。彼女の言う通り、暫くは、錬太郎の心配を最優先にすべき状況なのだ。

 霊子の責任でオカルトに巻き込まれ、その事で動揺している。一般的な視点で錬太郎を見れば、そういう事になるのだろう。

「普段から、妙に小憎らしくて、しかも精神的に頑丈な部分あるから、目を配って上げてられなかったわね。三藤ちゃん、ありがと、気付かせて貰っちゃった」

「お、お礼を……される程の……事じゃあ……せ、先生?」

 話の途中であったが、霊子の視線は三藤から、着信の掛かったスマートフォンへと移る。

 画面を見てみれば、肝心の錬太郎からだった。電話では無くメールだ。

「……ごめん、三藤ちゃん。送ってあげる予定だったけど、今日は一人で帰れる? まだ本格的に暗くなるまで、もうちょい時間があるし」

「な、何かあったんです……か?」

「ええ。馬鹿やるつもりの生徒を、止めてあげなきゃいけなくなっちゃった」

 スマホに送られたメールの文面にはこうあった。

 面倒ごとに決着を付けに行く。と。




 幽霊だとかお化けだとか、そういう物にとりつかれるのは、面倒以外の何者でもあるまい。

 事実、錬太郎はそう感じていたし、面倒な事はさっさと終わらせるのが、錬太郎の心情だ。

「だから、やってきてやったぞ。お前の好きそうな場所だ。そうだろう?」

 燃えた人が落ちて来る。錬太郎が立つのは、その噂の中心地。以前にやってきた団地だった。

 以前と同じく薄暗い。そうして、暗くなったと言えども、まだ夜も更けていない時間帯。だと言うのに、人通りが極端に少ない。

 いや、無いと表現した方が良いか。

「これもお前の仕業か? 今度は逃がさないとか、お前はもう終わりだとかいう意思表示?」

 だとしたら大した力だ。周囲の人の動きを誘導しているのかもしれないし、もしかしたら錬太郎を、似た様でまったく違う世界に連れて来たのかもしれない。

 頭の方にも悪意がありそうである。オカルトが自然現象なのかどうかも分からないが、人型をしている以上、人間並みに頭を働かせている可能性だってある。

(何にせよ、形の上では俺が追い詰められたって事だ)

 どうしてあの燃える人型は、ずっと空に浮かんでいるのか。夜の暗闇に、その体を輝かせているのか。

 答えは簡単。錬太郎の隙をずっと狙っているのだ。

 一度、撃退されてから、相手は慎重になったのだろう。安易には狙わない。こちらが油断した隙に、落下し、錬太郎へ害を与える。

(恨みを買ったつもりは無いんだけどな)

 もっとも、何度か殴り付けたわけだし、そもそも、今も空に浮かんでいる存在を見てしまった時点で、延々と狙われる事は確定してしまったのかもしれない。

「うんざりだ。お前みたいな奴に、ずっと付きまとわれるのは、本気でうんざりなんだ。俺はな」

 だからここにやってきた。心底消耗してしまう前に、自ら決着を付けに来たのだ。

 この団地は恐らく、錬太郎が初めてオカルトを見た場所だから。

 最初は見間違いだと思ったのであるが、思えば、この団地で燃えながら落ちて来る人影らしきもの見た瞬間から、オカルトの接点が生まれていた。

 つまり、相手の根拠地だ。そこにのこのこ、一人でやってきたと言うのだから、相手もまた、勝負を挑んで来るのではと予想した。

(案の定来やがったか)

 果たして、錬太郎の予想は当たる。空にずっと浮かんでいた小さな人型が、どんどん大きくなってくる。

 こちらへの接近……と言うか落下が始まったのである。

(この瞬間を相手は待っていた。俺を焦れさせて、前みたいに撃退されない様にしている。実際、俺も限界―――

 落下、落下、落下。そうして錬太郎の目の前。焦る自分は、それを避ける事が出来ない。

「って、わけじゃあないっ」

 ギリギリのタイミングで、錬太郎は身体を跳ねさせた。腕には既に、黒い革手袋が嵌められている。

 落下し、地面へぶつかる人型を、錬太郎はすぐ近くで見つめる事が出来た。

 単純に、自分の体のバネを使って、瞬時に移動しただけではある。

 それでも、オカルトに巻き込まれている状態の錬太郎であれば、前みたいに常人離れした動きが出来る。

 そうして、油断も焦れも、限界だって存在していない。

(いや、確かに心には限界があるのだろうが、俺にとってのそれは、まだまだ先の話なんだよ)

 燃える人型にとりつかれていると知ったのは、今日の昼頃の話だ。付きまとわれて、苛立ちこそすれ、精神を擦り減らすまではまだまだ先の話。

 だから余裕のある内に、錬太郎は勝負に出たのだ。

(体力のある内に、こうやって決着を付けるのが、こっちを追い詰めようとしている相手の、一番嫌がる方法……のはずだよな?)

 別に、こんな事態の経験があるわけでも無いが、そう心に決めた。

「一応は、まだ戦える。だが、勝つ方法ってのがまだ分からない。そっちだって、不利な状況とまでは行かないんだろう? 今はさ」

 地面にぶつかった人型が、地面から空へと瞬時に移動していた。

 空から落ちて、地面にぶつかる。それくらいしか出来ない相手であったが、殴りつけたところで、消えてくれる存在では無い事を錬太郎は知っている。

(今、この場は、こうやって俺がお前を避ける事が出来たとしても、お前の有利だ。だからこそ、お前も仕掛けに来た。そういう事だろう?)

 では、錬太郎はどう行動すれば良いのか。

(実を言えば、それがまだ分からない)

 不甲斐ない話であるが、どうすれば良いのか分からなかったからこそ、この土壇場に挑んでみたのだ。

「言っておくが、自暴自棄になってるわけじゃあないぞ? 一応、保険も掛けておいたんだ」

 先ほど、霊子にメールを送っておいた。ハチャメチャで無責任で、何かにつけてだらしの無い相手であるが、あれで良いところがある。

 とても、良い奴なのだ。

(ちょっと無茶する程度の文面でも、急いで助けに来るんだろうな。俺がこの団地にいる事も予想出来たとして、10分程か?)

 その10分以内という区切られた時間で、錬太郎は戦う。助けを待つわけではない。そうするつもりなら、最初からこんな面倒くさい方法を取らない。

 あくまで、来るか来ないかのギリギリの部分を作って、その中で本気で戦うつもりなのだ。

「お前にとりつかれて、それを払うのなら、俺が、俺の力で、全力で振り払わなきゃあならない。オカルトなんてもんに巻き込まれた俺が、無事にこれからも生きてくためには、そうしなきゃならない」

 もし、ここで誰かに助けて貰ったり、逃げ回ると言う選択肢を選んでしまえば、この場は良いが、これからはずっと怯えて過ごす事になる。

 オカルトなんて現象を知った人間は、そうなってしまう。錬太郎はそう考えた。だから、本気で戦い、勝利するチャンスを、無茶とは言え自分で作ったのだ。

 駄目だったら、霊子が助けてくれる。そういう望みは、とりあえず確保しておいたものの。

(話聞いてんのか、おい!)

 色々と叫んだり考えたりしているものの、相手のしてくる事は、落下してぶつかろうとしてくるのみ。

 その悉くを錬太郎は避けるわけだが、避けているだけではこの事態は終わらない。攻撃し続けたところでも終わらない。

(つまり、どっちにしたところで、この状況はベストじゃないってわけだ)

 ならどうすれば良い。錬太郎は考える。考えなければならない。

 その考えるという行為こそが、錬太郎に与えられた、オカルトへの対抗手段なのだから。

(ああ、そうだ。俺は、こうやって体を動かせる以外にも、お前らへの対抗手段を手に入れている)

 落ちる人型を避ける。避けながら手袋を擦る。

 霊子は何と言ったか。オカルトに対抗する手段を、錬太郎は単純に殴り付ける事だと判断したと、そんな風な事だったと記憶している。

 それは惜しいが、間違っている。錬太郎はそう判断した。

「その判断だ。重要なのはそこだ。俺は、普段の俺じゃあ考えられない事を、今の時点ですら考え続けている。お前が空に浮かんでるのを見た瞬間から、一般人とは違う……もっと、鋭い思考が出来ているんだ」

 オカルトに襲われた時、オカルトに対して、ただ殴り付けて勝つと判断したのではない。もっと強い自分になればと、あの時の錬太郎は望んだのだ。

 望み、革手袋を付けて、今の錬太郎が発生した。肉体も強くなったが、頭の中だって、上等になってオカルトと戦う。そんな錬太郎が両の足で立っていた。

 普段では思い付けない事を考えられる、もっと大胆で、もっと賢い自分。

 そんな自分なら、燃えながら落ち続ける様な異常存在に対処できる。そんな風にして、今に辿り着く。

(で、今の俺はどうだ? この化け物を……何とかできるもんかね?)

 問い掛けるのは自分に対して。オカルトに関しては素人同然である以上、オカルトに関わる事で手に入れているこの力だって、自分はまったく理解していない。

 だが、それでも、ある種の正解は存在していた。

(オカルトは……オカルトだ。夢から醒めるみたいに、何時かは晴れる。それを促進してやれば……!)

 落ちて来る人型を避けながら、錬太郎は走った。

 十分な速度。トップアスリートですら超えているのでは無いかと思える速さで、錬太郎は団地を走る。

 やはり人とはすれ違わない。この場所は、今やオカルトと錬太郎だけの独擅場となっていた。

(もっとも、俺だって他人から見れば、ものすごい速度で走るおかしな男子高校生みたいなオカルト何だろうが……)

 つまり、この状況は錬太郎にとっても幸運な事だろう。周囲に超人的な男として見られるという魅力より、奇異な存在として恐れられる事への嫌悪感が上回るのだから、そうならない事には感謝したい。

 無事に、すべてを解決できたらの話であるが。

(できる。できるさ。考えろよ、俺。あいつはどういう噂のオカルトだ?)

 燃えながら、落ちて来る人型。

 元の噂は、焼身自殺をしたが、その苦しみに寄って屋上を落ちたと言うものだったり、人を呪いながら屋上から人に向かって落ちたものであったりと言うもの。

(つまり……屋上から落ちてくるってオカルトだ。どう拡大解釈したところで、屋上に落ちるなんて事は出来ないだろ?)

 団地へと入り、階段を昇る。目指すは団地の屋上だった。屋上から落ちるオカルトが唯一落ちる事が出来ない場所だと判断した。

「お前みたいなのを相手にするなら、理屈より、こういう屁理屈の方が効くんじゃないのか? ええ?」

 息切れもせずに階段を昇り続ける。この調子になら、すぐに屋上へ辿り着けるだろう。

 辿り着いた結果、状況がどう変化するのかについては予想できない。そもそも、オカルトを予見しようなんて出来るはずもない。

 世の中の、世界のルールだって無視するからこそのオカルトだ。オカルトってそういうものだろう。

 だからこそ、今がどうしようも無ければ、どんな形であろうとも変化させる事が大切だと考える。

(お前が……こうやって変化を阻止しようとして来るのなら、猶更だな!)

 階段の踊り場で、またも人型が落下してきた。天井があろうと無かろうと、それが出来る事を錬太郎は既に知っている。だから驚かない。

 驚くべきは、その破壊力だ。

「マジかよ」

 ひたすらに大きな音が響いた。本当に、錬太郎以外に聞いている者はいないのかと疑いたくなる程の音量。

 それは音では無く、目の前の光景としてもそこにあった。

「ここまで出来るもんなのか……オカルトってのは」

 上の階へと繋がるはずの階段が、見事に砕け散っていた。

 大きく開いた穴は、階下を広く見下ろせる程の大きさと深さを持っている。当たり前だが、落下した人型の炎がやった事だ。

(まともにぶつかったらヤバいなんてのは、とっくに理解してるが―――

 進む道を潰された。それだけでも驚愕だと言うのに、次の瞬間には、後方で爆音が鳴る。少し離れた場所の階段に、またしても大穴が開いていた。

 周囲には、実際に爆発でもあったかの様に、残り火が燻る。

(行く道も……逃げ道を潰して来ただと?)

 錬太郎は既に、捕らえられた様なものだった。今、自分が立っている場所から動けそうも無い。

 これでは屋上へ向かうどころか、次の相手が打って来る手を、避ける事すら出来ないだろう。

「と、お前は考えているわけだ」

 行き場の無くなった階段の途上で、錬太郎は空を見上げた。

 空など見えぬ団地の天井。それでもその奥には、小さな人型の炎が少しずつ大きくなっている。

(随分ゆっくり落ちて来るな? それとも単に遠いのか? 舌なめずりでもしているつもりか)

 なら、それはこちらだって同様だ。

 天井を見上げたのは、何も落ちて来るオカルトを見たかったわけじゃあない。こういう場所には必ずあるはずの物を確認したのだ。

「落ちて来る前に言っといてやろうか? お前が落ちて来る丁度隣くらいに、スプリンクラーがある」

 その言葉に、オカルトが驚愕したか、何も感じなかったかは判断できない。相手は落ちてきている以上、そのまま真っ直ぐ落ちるしかできないのだから。

 このオカルトはそういう存在だ。羽ばたいているのでは無い。落ち続ける存在がこのオカルトであり、落ちている途中で、それを止める事など出来ない。

 だからそれを受け止めるのは錬太郎の役目だ。

(いや……)

 接近したその瞬間に、その体に蹴りを入れた。丁度、スプリンクラーの真下へ来る様にである。

 燻る火に、オカルトの体そのもの。それだけで、恐らく熱量としては十分のはずだ。スプリンクラーはそれらの炎と煙を探知し、溜めている水を吐き出し始める。

「―――!」

 瞬間、オカルトの叫びが聞こえた様な気がした。

 実際に、何かの音があるわけでは無いのだが、それでも、聞いた気がしたのだ。

 錬太郎はオカルトを退治するために、これを狙っていた。屋上が安全圏であり、そこへ逃げている様に見せかけて、これを狙っていた。

(と言うのは嘘だ)

 本気で、屋上へは逃げていた。ただ、もう一つばかり案を用意していたに過ぎない。

「お前は燃えながら落ちるってオカルトだよな。燃えて落ちるって言う特異さがオカルトとして噂されてる。だから……どちらかを消してやれば、お前の存在も台無しになるんじゃないかって、そう考えていたんだよ」

 団地を見た時、思い浮かんだのだ。

 中にはきっと火を消すためのスプリンクラーくらいあるだろう。燃えているオカルト相手には、その炎を消す装置という存在そのものが、天敵なんじゃあないかと。

「どれだけ常識外れの行動だろうと、屋内に入った時点でお前の負けってわけだ。こういう場所って、人間のための場所だろ? なあ?」

 火が、オカルトの体を燃やしていた火が、普通の火ではありえないくらいに早く消火されていく。

 その内側からは、焦げ付いた死体か何かが出て来るのではと身構えるものの、炎はその中にあるはずの影ごと小さくなって行く。

(オカルトとしての価値が無くなる以上……存在そのものが綺麗さっぱり無くなるって事か?)

 火が消えていくのと同時進行で、周囲の破壊跡も消えていく。大穴の開いた階段など、最初から無かったかの様に元通りで、心なしか、団地の中に人の気配も感じ始める。

 生活音と言えば良いのか、これが聞こえている以上、ここは異質な世界では無く、日常の延長線上にある―――

「最後まで油断はしない」

 突如、人型だった炎が、正真正銘の火柱となって錬太郎を襲ってくる。そんな光景のすぐ後に、炎が誰かの腕に薙ぎ払われた。

 まるで炎で出来た幕を退かす様だ。そうして、幕が退けられた向こうから、それは姿を現す。

 何者でも無い。霊子だった。

「……思ったより早いな、霊子姉さん」

「何が早いな、よ。心配して飛んで来てやったんでしょうが」

 拍子抜けした様な、それでいて今にも怒り出しそうな顔を浮かべている霊子。

 その心中を察せない程、錬太郎は鈍感では無い。

「いや最初は、霊子姉さんに相談を、ともチラっとは思ったんだぜ? ただちょっと……あ、飛んで来たって言ったけど、霊子姉さんの場合は、オカルトを前にして飛んだりできるのか?」

「この力なんて、オカルトの近くにいなきゃ使えない力なんだから、普段から飛べるわけないでしょうが。比喩表現よ比喩表現。私のはあんたと同じ、身体の力が強くなる感じで、血は争えないって言うか……そうじゃないでしょうがっ!」

 途中から、誤魔化せそうかなと思ったのであるが、すぐに軌道修正してきた。

 こうなるとしつこい女である事を、錬太郎は良く知っている。

「今、こうやってオカルトが終わってみれば、とんでもない選択をしたと思うよ。あー、俺、何てことしたんだ」

 冷静になる……と言うのも違う。冷静さで言えば、先ほどまでの方が余程冷静で、余程大胆であった。

 今はそれらが消え去り、至極一般的な思考をしている。

「オカルトに直接ぶつかってみようなんて思ったんじゃないでしょうね」

「結果はそうだったけど、過程が違うと言うか……その時は、こうするのがベストだと思っちまったんだって。自分で勝たなきゃ、後に響くとか、そういう感じで」

「……それ、本当に自分で考えたの?」

「多分。いや、オカルトの時の力が出たりするあれ……なんだと思ってるんだけどな」

 普段、危機に陥れば、頭の閃きが増すと言った特殊能力なんて錬太郎は持ってはいない。

 そうである以上、オカルトに巻き込まれた時に、それに対処するために生まれたものの一つであると錬太郎は考えている。

「確かに……巻き込まれた側が、直接何とかするのが適切の場合はあるけど……それはあくまで経験者が……けど、それも含めての力だとしたら……」

 錬太郎に話し掛けるのでは無く、何かに悩んでいる風の霊子。恐らくは錬太郎についてだろうから、他人事ではあるまい。

 しかし……。

「あー、霊子姉さん? 一応、これで燃える人型のオカルトは終わったって事で良いのか? さっきまで、ずーっとつきまとわれてたんだが」

「だから、そういう話なら私にまず相談しときなさいって。って、ああ、そうね。私達の方の力が無くなったって事は、とりあえず解決したって事だし……一旦、ここを移動しましょうか?」

 オカルトが解決した以上、既にここは普通の団地だった。

 夜と言えども生活音と、人が団地内を移動している音だってどこからか聞こえて来る。

 この団地にだって、当たり前に住人が存在しているのだ。先ほどまでとは違う。

 そういう中で住人が錬太郎達を見れば、不審者だと思われかねないはずだ。

「ああ、霊子姉さんのお怒りにしても、後で聞ける機会はいくらでもあるしな」

 そう。オカルトは解決したのだから、その事で悩み、追い詰められる事は無いのだ。

 この後に待っているのは、何時も通りの日常である。そうであるのならば、彼女の怒りくらい、受け止める余裕くらいはあるはずだろう。




「ちょっと待て。それはその……初耳だったな」

「だから、最初に相談しろって言ったじゃないの」

 昨夜、燃える人型のオカルトを解消した錬太郎。

 今は再びの部室だ。相変わらず日が落ちそうな時間帯で、三藤先輩も一緒に、霊子の話を聞いていた。

「オカルトに……付きまとわれる人って……ま、また、頻繁に……オカルトに遭遇しちゃう事が……多いんだよね」

 苦笑いを浮かべている三藤先輩であるが、苦々しさがあっても笑い事ではない。

「あれですか、霊感がある……的な?」

「じ、実際は……不運?」

 スピリチュアルな方向への話題転換すらさせてくれない。つまり、先日のオカルトとて、錬太郎の運命みたいな部分で決まっており、逃げ道なんて無いと言う事だ。

「くそっ、何に当たれば良いのかすら分かんなくなるな。お祓いとか有効か?」

「オカルトにとりつかれた後ならその可能性もあるけど、寄って来る事をどうにかって、自分の人生やり直すくらいしなきゃ無理じゃないかしら」

「相談したって意味ねえじゃねえか!」

 部室内で地団駄を踏むも、他の二人は、交通量の多い場所に投げ出された蛙を見る様な目線を向けて来るのみ。つまり、可哀想な奴だと言った目だ。

 そんなくそったれた同情をされたって、出来てしまった奇縁はどうしようも無い。

「あー、ほら、これから、幾らかオカルトに巻き込まれた場合の対処方法とか、もっと詳しく教えてあげるから。今後、オカルトに関わった時の参考にしときなさいな」

「そもそも関わりたく無かったんだけどなぁ……」

 頭を掻きながら、部室の中を見渡す。

 何時も通りの部室。先日、オカルトに壊されたはずの部室。そんな痕跡がまったく存在しない、元通りの部室。

 どこかの団地にしたところで、同じ様に、オカルトに壊されて、今は何事も無くそこにあるのだろう。

(オカルトなんて、こうしてみれば、嘘っぱちの幻覚なんじゃねえかって思えるんだが)

 幻覚を見ている側としては、真実がどうであれ、厄介この上無い事態だった。

 今後、自分はどうすれば良いだろうか。それすらも分からない。未知なる物への好奇心なんて、今後の面倒くささを思えば放り捨てたくなると言うものだ。

「じゃ、じゃあ……まず、最初の助言を……してあげる……けど」

「何ですか先輩。出来れば、この世界からオカルトを無くせる感じの助言をお願いしたいところですね」

「え、えっとね……諦める事が肝心……かな?」

 どうにも最初の助言とやらは、この世界への愚痴みたいな類であったらしい。

「ま、仕方ないちゃあ仕方ないわよ。オカルトって言うのは、言ってみれば世の中の現象なんだもの。日が沈む事に文句を言ったって、どうしようも無いの」

(だからせめて、暗い部屋に電灯を点ける事で気分を紛らわせようってか?)

 そういう類の助言が、次にはあるのかもしれない。

 錬太郎は実現性の高そうな予想に舌打ちしながら、部室の窓にも目を向ける。

 窓の外は薄暗く、どうやら日が落ちたらしかった。

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